周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺関係論文一覧 その2

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

2010.2 大山眞一 中世武士の生死観5 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10 日本大学 論文 63 天下を治める天皇家という公が源平武者の大義名分kとするならば、公の忠義を全うするためなら肉親の命さえ奪うという、武士の存在の根幹に関わる血脈の問題ですら、いとも簡単に排除されるのである。個の命と引き換えに、誉れ高き個の名を残すことが、家の名、ひいては武門の名を高らしめることになるのである。家の名誉のためなら個の命など惜しくないのである。敵前逃亡をして命を永らえ武士としての汚名を着せられるくらいなら、潔く戦場に己の命を散らして家の名誉を保つことが個としての武士にとって名誉なことであったのは言うまでもない(『保元物語』『平治物語』では、為義、為朝、義朝、頼朝などは戦に敗れると捲土重来を期して逃亡している。たやすく命を捨てぬ武士の一面もある)。これが武士の言う「命な惜しみそ、名を惜しめ」という信条である。それは、宇野七郎親治が平清盛の次男、安芸判官基盛と宇治橋で対峙した時に、「命直し味噌、名を惜しめ」といって攻撃をしかけたことに端的にあらわれている。  
2010.2 大山眞一 中世武士の生死観5 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10 日本大学 論文 64 佐伯真一は、名乗りの現実的な機能は、功名争いと関連があると指摘する。『平家物語」で熊谷直実親子が先陣を争い、いち早く名乗りをあげた例を挙げて、この場合の名乗りを、功名を確認する手段であるとみなし、巧妙争いが合戦の重要な要素となった時代に、名乗りに付加された側面ではないかと述べている。続いて、佐伯は、功名の宣言や確認、敵の威圧、戦意の高揚など、現実的直実的な種々の機能を担うようになったことにも触れている。
もしそうであるならば、戦闘の前に武家の一門の名をずらずらと列挙する必要はないはずである。武士の個にとって武門の名が最も尊重すべき対象となってくるのである。その名を汚すことは最も恥ずべきこととされたのである。畢竟するに、「命な惜しみそ、名を惜しめ」という武士の信条の背景には、中世の公(朝廷)→武家(武門)→個(武士)の社会構造的連鎖が生み出す「忠義と恥」のヒエラルキーが厳然と存在していたと考えることができる。
 
2010.2 大山眞一 中世武士の生死観5 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10 日本大学 論文 65 むしろ、一部の例外を除いて恐怖心と功名心との相克の狭間で日夜煩悶していたことが推測できる。しかも生死の分かれ目である戦場場面においては、恐怖の絶頂を迎えたはずである。
もちろん、戦闘に勝利し命永らえ、その名を高めることが最も望ましいことであったが、最悪の場合も往々にして考えられる。それは戦場での死である。その最悪の場合に彼らに問われたのは、その「死にざま」の質であった。死を恐れぬ雄々しい「死にざま」こそが武士に求められたのである。本来、勝利を求められた武士が武運つたなく敗れた場合、華々しい「死にざま」を飾って戦場に散ることが、彼らの戦いに敗れた汚名を相殺するメカニズムであったことも考えられる。華々しい「死にざま」こそが「武士の習い」であるという観念は、死を恐れぬ勇猛な武士像の固定化、もしくは理想化に他ならない。だから、個としての武士は、その武士像の「死にざま」の倫理を「武者の習い」である「命な惜しみそ、名を惜しめ」というスローガンに具象化したのではないだろうか。しかしながら、『保元物語』の中世武士の「死にざま」の諸相を検証してみると、彼らの「死にざま」の理想と実際は少なからず剥離していた事実は否定できないものと思われる。
悪源太と呼ばれる義平でさえ、武運つたなく敗れると、惨めな「死にざま」である斬首でさえ厭わないのである。義平には恥の意識さえ窺えない。「死にざま」に関しては、個人的な生死観の差があり、討死する武士もいれば、自決する武士もいる。果ては逃亡指定の命を永らえるものもいるが、大将級の義平の場合には華々しい、名誉ある「死にざま」を期待したいところである。しかし、義平に限らず『保元物語』、「平治物語』の武士たちは、自決(切腹)という手段をとらず、捕らえられて斬首で命を落とす場合が多い。これは後の『太平記』と比べて、切腹という「死にざま」が少ないことから、この時代にあっては未だ切腹が武士の「死にざま」として定着していなかったものと思われる。両軍記物語では、むしろ、武士の周辺に切腹の「死にざま」が確認できる。では、切腹が「主」たる武士ではなく、「従」たる武士の周辺の人々に受容された理由はなんであろうか。武士団の主従関係において、「従」の殉死という概念が、「主」よりも先に、切腹という「死にざま」と結びついた可能性が強いように思われる。
 
2010.2 大山眞一 中世武士の生死観5 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10 日本大学 論文 69 先述したように、武士団の主従関係において、「主」の死後、「従」の殉死の概念が切腹という「死にざま」に結びついた可能性には、切腹という「死にざま」によって、「従」が「主」に二心ない忠誠心や愛情を示す必要があったものと思われる。  
2010.2 大山眞一 中世武士の生死観6 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要10 日本大学 論文 212 この世を穢土と思い、浄土を希う浄土思想が過激な思想に変容していることである。それは、滝口入道が維盛の自死行為(入水)を積極的に幇助してるところである。仏教の教えでは自殺を強く戒めているにも拘わらず、僧籍にあるものが現代の殺人ほう助罪に該当する行為に及んでいるのは一種の破壊行為であろう。  
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 45 自己の本性と対立する外部の諸原因によって凌駕されるのでなければ、何人も自己の利益を欲求すること、すなわち自己の有を保持することを放棄しない。繰り返すが、自己の本性の必然性に従って、食料を拒絶したり、自分自身を殺したりすることを何人もなさない、それは外部の諸原因によって強制されるからこそのことである(『エチカ』)。この定義からすれば、自殺は「自己の本性と対立する外部の諸原因によって強制されること」である。スピノザにおいて人間の本性とは欲望であり、それは「各々の事物が、自己としてある限り、自己であり続けようとする努力(コーナートゥス)」のことである。スピノザに従えば、自殺は外部の諸原因によって引き起こされることであって、一見他殺のように見える。だが、自殺という限り「自分を殺すこと」を意味しており、そうした行いの主体が自己であることは明らかである。 人は生まれながらに、死を望まない。新生児が自殺することはない。
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 46 スピノザは人間精神のうちに自由意志を、すなわち絶対的な意思を認めない。カントは、「生からの逃避である自殺は、自己の人格を快適な状態の維持という目的のための単なる手段と見なすこと」であるので、いわゆる定言命法の目的の方式に則り、自殺を禁止する。スピノザ形而上学の概念(実体ー属性ー様態)。実体とは、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことと理解する。属性は、実体を構成している本質的な性質のことである。様態は、「実態の諸々の情態、他のものにおいてあり、またさらに他のものを通して考えられるもの」であり、「実体なしにはありえず、また考えられないもの」。 人間は生命だ(実体)。人間は動物だ(属性)。人間は社会的生き物だ(様態)。ということか?
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 47 様態として存在している個物は、様態だから、存在に対して、自己原因を持たない。それゆえ、個物である人間のうちには、自己のみを基盤とする自由意志などないことが自明となる。自らの意思のみをもって、死を決するといった常識的な思考は、即座に棄却される。 様態である個物に、存在の自己原因や自由意志などない。
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 48 ある人間が自殺に至るという事態は、「隠れた外部の諸原因」から致死レヴェルの影響を蒙ることでその想像力が混乱に陥り、またその本質である「自己としてある限り、自己であり続けようとするコーナートゥス」が蝕まれる結果だ。そして、当の自殺志願者は、自ら死に至らしめるこうした外部の原因については無知である。それゆえに、これらは「隠れた原因」であると言われる。個物でしかない人間が持つ有限な知性には、「隠れた外部の諸原因」のすべてを理解することなど不可能。そこで、自殺に関して問題とされるべきことは、人間を自殺へと駆り立てる外部の原因のすべてを「隠れ」から理性の明るみの下に引き摺り出し、分析することではなく、それらの織り成す様相を人間の内面的な感情生活に影響を及ぼすものとして認識する点に置かれる。 明確に意識できていないということ。原因はこれだと思っている以外にもある。それが見えない。見えたやつは死なない。
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 49 無際限に交差する個物相互の依存関係のうちにこそ、「神即自然」は「内在する原因」として存在しているのである。  
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 52 自殺は、死が生より優越しているという判断に基づく行いであり、それを行うものの精神のうちには何某かの救済に関する想像がある。この場合の自殺は予想される困難を回避するための手段であって、それを行うものの精神のうちにもやはり、消極的ではあるにせよ、眼前に迫る危機から逃れたい、救われたいとする想像がある。ある者をして自殺に臨ませる感情はそのものしか感受しえないものだとしても、自殺の真の原因は当の本人にも目撃する他者にも「隠れている」。  
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 53 様態ではなく実体として主語的な方向に捉えられた自己は、個物の存在要件たる無際限の相互依存関係から事故によって任意に抽出されたものであり、〈自ー他〉の構造のうちに捉えられたものである。そこでの必然性は各々の自己と対立し、その思いを挫き、生を抑圧するものであり、自由と等式で結ばれるものではなく、偶然と差別へと強制する否定の力である。 なぜ様態である個物の人間が、自己を主語的に捉え、自由意志を持っていると思うのか?限界のある知性では、物事を捉えきることができない、自己さえ捉えきることができないのに、自己を主語的に捉えられると思っているのか?知性に限界があるから、主語的にしか捉えられない。捉えがちになる?分人主義の思想とリンク。
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 54 実体の様態たる個物は、「他のものにおいてあり、またさらに他のものを通して考えられるもの」であり、よって自主独立する自己などない、ということがスピノザの主張。  
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 55 生のパースペクティブは、〈自己が生きることに対し何らかの意味を願う〉から〈生きることが自己に対し何を願っているかを知ること〉へと認識を転換させるものである。自己の根底にあって、自己を支えている「他のもの」に関する正しい認識だけが、自殺への誘惑に抗う力となりうる。「形相的本質」は、実体を構成している本質的な性質である属性をそのものたらしめるものであり、「自己原因」たる実体の本質が含む「存在すること」そのもののことだと言える。  
2010 富積厚文 スピノザ思想と自殺の問題 宗教哲学研究 宗教哲学 論文 56 個物が自己を個物として限定することが他のものとの遭遇である。様態の論理に従い、自己の根底に他のものとのつながりを認識することで、我々は自己が自己であることの根拠を、すなわち生そのものを初めて理解することができる。前者は主語的な方向性に捉えられた他的な自己であり、後者は述語的な方向に理解される対自的な自己だと言える。 神を自然に置き換えて、宗教関係の定言を読んでみると、胡散臭さや人の意図が見える。逆にすんなり通れば、それは真理かもしれない。
2011.2 大山眞一 中世武士の生死観5 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要11 日本大学 論文 101 続いて、日本浄土教の変遷においては、摂関体制期以前の日本の浄土教が個人のための浄土教というよりは、死者のための追善供養的な性格が顕著であった事実を検証した。次に、平安貴族と浄土教では、律令体制の崩壊、摂関体制の確立を契機とし、死者に対する追善供養的な浄土教が、「生者(自己)のための信仰」という個人的な浄土教に変容した可能性について論じた。  
2011.3 橋本雅之 日本人のこころを読み直す① 皇学館大学日本学論叢1 皇学館大学 論文 129 フロイトユングの神話解釈は異なるが、両者は、古代人の神話と現代人の夢との間に共通する無意識的な物語が存在していることを発見。オルフェルス神話は第三者に対する社会的な約束で、破ることは社会的な契約違反。イザナキ・イザナミ神話は、二者間の約束の破棄。イザナキの罪悪感と見られたことを恥としたイザナミ  
2011.3 橋本雅之 日本人のこころを読み直す② 皇学館大学日本学論叢2 皇学館大学 論文 205 イザナキには、見るなの禁を破った自分自身に心理的な「罪悪感」が発生し、その罪悪感が物質的な「ケガレ」として扱われ、それが「みそぎ」によって処理される心理的プロセスを指摘している。 北山修・橋本雅之『日本人の原罪』(講談社現代新書、2009)を読むべき。
2011.3 橋本雅之 日本人のこころを読み直す② 皇学館大学日本学論叢2 皇学館大学 論文 206 清明・穢れ・罪・恥の概念図化。 当たっているのか?
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 12 日本の自殺率は、アメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍  
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 13 年間自殺者は減ったという認識ではなく、今年もまた3万人の自殺者が増えたという認識  
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 15 自死は、死を強要されている人  
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 20 自殺に対する誤解や偏見。自殺が知られると、いじめに遭う、結婚できなくなる、配偶者が責められる、家族が後追いする。  
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 22 日本に共有できる幸福神話が無くなった。個人がそれぞれ生きていける神話の創出が必要  
2012.3 清水康之 自死問題を考える① 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録2 曹洞宗総合研究センター web 41 苦悩の中から導き出した宗教的な叡智や言葉を、その時代時代に還元していく。 仏教に頼らないのは、仏教に信用がないから。過去にはあったのか?
2012.6 ショーペン・ハウエル 第二部 自殺について 自殺について 角川ソフィア文庫 著作 201 生きているのが恐ろしくなり、その気持ちがかねがね死を恐れていた気持ちを打ち負かすようになった瞬間に、人はたちまちにしてその生命を絶つということが、一般に認められているようだ。ところが、死の恐怖の持つ抵抗力は明らかに強大であり、死の恐怖は、いわば、生よりの出口の前に頑張って立ちふさがる門番のようなものである。もし、生命の終わりがある純粋に消極的なものであり、いいかえると、それで生存が、突然、停止するものなら、それこそ、人は誰しも自分の生に終わりを与えてしまうだろうし、おそらく生きているものは一人もないことになるであろう。だが、その際に、ある消極的なものがある。すなわち肉体の壊滅が起こるのだ。これが、人を恐れさせ、たじろがせる。なんといっても、肉体こそは、まさしく生きようとする意志の顕現なのだから。  
2012.6 ショーペン・ハウエル 第二部 自殺について 自殺について 角川ソフィア文庫 著作 202 わたしたちが肉体的な苦痛をひどく激しく持続的に受けている時には、あらゆるほかの心配事に対しては、ほとんど無関心になり、その場合、私たちの身体の回復することだけが、もっぱら気にかかるものである。ちょうど、それと同様に、激しい精神的な苦痛は、わたしたちを肉体的な苦痛に対して、無感覚にするばかりでなく、これを軽蔑させるようになる。たとえ、肉体的な苦痛のほうが、いくぶん強かったとしても、このことはかえって、私たちにとって都合のよい(精神的苦痛の)気晴らしにもなれば、精神的苦悩の休止をもたらすものともなってくれる。たしかに、この精神的な苦悩こそ自殺を容易ならしめるものなのである。というのは、自殺に結びついている肉体的な苦痛は、それ以上に大きい精神的な苦悩によってせめさいなまれている人の目から見ると、そのあらゆる重要性を失い、何でもないことになってしまっているのだから。 身体は、生きようとする意志そのもの。その破壊を恐れる。
肉体的苦痛と精神的苦悩を分けているが、分類が難しいこともあるのではないか。拷問によって肉体的苦痛が頂点に達して自殺する場合、肉体的苦痛が問題になっているのか、それとも精神的苦痛が問題になっているのか?やっぱり心が折れるのが先で、自殺するか?
2012.7 大山眞一 武門源氏の思想と信仰 日本大学大学院総合社会情報研究科紀要13 日本大学 論文 78 すると、彼らは、下線部のように、「心は将軍に受けた恩のためにあり、義のためには命さえ軽いものだ。今は将軍のために死んでも恨みに思うことはない」といった。
以上、7例を挙げて源氏の棟梁と臣下の忠義について考察したが、武門の忠義思想を表す「忠義→服従→死」という図式は朝廷への忠義が大前提となる。そして、朝廷の勅命を受けた武門の棟梁は家臣に対して同質の忠義を求めた。したがって「忠義→服従→死」の図式はそのまま家臣から武門の棟梁への忠義の図式となったのである。言い換えるならば、絶対的な朝威は、「朝廷→武門の棟梁→臣下」という図式で上意下達され、臣下の忠義は「臣下→武門の棟梁→朝廷」という図式でかい上達されるのである。このような朝威忠義の伝達統制は、武門の棟梁の媒介によってはじめて成り立つものである。
 
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 74 ギデンズによる自殺の社会学への個人の導入の2側面。一つ目は、社会を個人に内在化された社会規範と見なすというパーソンズ的側面。個人化された社会性が何らかの圧力を与えるということは説明できても、同一の社会状態で個人Aが自殺をして、個人Bが自殺をしないというこの自殺発生条件の説明にはならない。この場合、外在する社会性を導入することはできない。議論は出発点に戻るから。社会から独立したその他の要因(個人的?)を導入することもできない。なぜなら目指すは自殺の社会理論だから。 個人主義的社会性を実現しつづけるのは難しい。あくまで自我理想は個人的なものであり、自我理想を実現することが社会規範であるから、人は自我理想を実現しつづけなければならない。その自我理想は、自己以外に価値を保証するものはない。だから、自我理想は実現しつづけなければならない。近代社会は、このような状況に陥っている。が、過去の社会規範の押し付けに戻ること、そしてその押し付けに堪えられるのか。
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 75 ギデンズの分類。個人化された社会的要因と社会化された個人的要因の相互作用。 どこまでを個人の問題とし、どこからを社会の問題とするのか。社会的要因は知らず知らずに個人化され、個人的要因と考えられたものは社会的要因であったりする。両者とも社会的要因のように見えるが、それを個人的な要因として自死に至る人間もいれば、自死に至らない人間もいる。自死要因が社会問題であるとも言え、社会問題でないとも言える。しかし、人は生まれながらに自死という方法論を知っているとは思えない。後天的である。ゆえに、社会的であると言ってよいのではないか。
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 76 近代西欧社会では、経済活動に典型的に現れているように、個人は何らかの明確な内容を伴った目標を達成するのではなく、常に何かを達成し続けなければならない状態にさらされている。個人は道徳的正当性も限界付けもない目標に常に適応しなければならないという緊張と不安のなかで、精神的満足を得ることが難しい。デュルケムがアノミー的と形容した近代西欧社会に特有のこのような個人は、常に失敗や挫折の不安にさらされている。そのような個人は、達成すれば満足感をもたらすはずの社会的目標(自我理想)との関係が不安定であるためにそこから満足を得ることができないだけでなく、社会的目標を達成する能力を証明するよう自我から常に要求される。自我理想からの要求は更なる目標達成を個人に課すが、その目標には具体的内容が伴わないために達成することが困難である。それゆえ個人は挫折し、自分が自我理想に見合うことができないという劣等性と無価値性が引き起こす感情(恥)に脅かされながら、自分の能力を証明し続けなければならない。ギデンズは、このような悪循環を精神的孤立(アノミー)と結びついた凋落的ラセン運動と呼ぶ。 資本主義経済のことか?
社会的目標(自我理想)は道徳的な正当性や限界性を欠いているため、満足感を得られない。
ここでの恥は対自照的反応に近いか?
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 79 デュルケム。人は社会から切り離されるとき自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、同じく自殺をはかるものである。  
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 84 ティコピアの人々のカヌー航海は、冒険と自殺のに側面がある、遠洋航海用の大型カヌーに乗ることが、冒険と自殺の解釈を混乱させる手立てかもしれない。行為が自殺となるのは、当事者が主観的に抱く明確な死の意図によってではなく、その人物の心理を超えた社会的プロセスによってである。 補陀落渡海や入水は、本当に宗教的意味合いだけか?自殺論として分析する必要がある。
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 85 ファース。自殺は、たとえ自己破壊へと至る計算された行為の固執と狭く定義されたとしても、選択肢の欠如に対する単なる応答ではなく、複雑な社会的理由から、その他の諸選択肢に対してある一つの選択肢を選択することである。ある人物の自殺は社会的行為であり、その人物自身と社会の他の正員双方の社会的行為という文脈においてのみ、理解されなければならない。 自殺に対する反応分析が、自殺論の課題。
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 86 人類学における自殺研究は、自殺を個人の社会に対する積極的働きかけとして概念化している。 ①自殺要因の研究。なぜ自殺するのかという社会的問題の追究。②自殺影響の研究。社会にどのような影響を与えるのかという社会的問題の追究。
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 88 ファース。首吊り自殺の場合、大量の排泄物を垂れ流すことがある。それに対して笑われないようにするため、1日そこら絶食する。これは明白な論理を持っている。もしも身体を破壊する理由の一部が、社会的人格性を無傷のままに保つことであるならば、崩壊させるような失望や恥からそれを保護することによって、その人物は死によって評判に傷がつくことを望まない。ティコピアにおける自殺は、ある種の威厳に値すると考えられている。  
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 89 デュルケム。「実在する力」としての社会は、「言葉のうえだけの実在ではない」。もしも、社会が言語のうえだけの実在であるならば、個人の外部にありながら同時に内部から働きかけるという相矛盾する二つの要件など必要なかったであろうし、社会が消滅しても個人は無傷のままであろう。しかし、社会の力の実在性は、単に個人の外部に存在するだけではなく同時に個人の内部から働きかけるという「一種独特のもの」であり、「社会的事実は客観的である、というこの基本的な命題で示される客観性とは、この意味での実在性である。社会が個人を拘束するためには、社会が個人を一方的に支配するだけでは十分ではなく、その支配を個人が自発的に引き受けることが必要である。 社会はだれかの手で作り上げたものでありながら、皆のものである感覚を持つと同時に、誰のものでもなくなる感覚。
絶対無に近いか?
社会とはいったい何か?相対化するためには、個人とは何かもとう必要がある。前近代の個人をどう定義づけるか?社会への依存度という度合いで区別するか?そこに線を引く基準が選定できない。根本的に視角を変える必要があるか?
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 90 デュルケム以降の自殺の社会学的研究は、デュルケムが「実在する力」とした自殺の要因の社会性に一定の修正を施すことで発展。この修正とは、個人の外部にありながら同時に個人に内部からはたらきかけるという自己矛盾的な二つの要件によって定義される社会的拘束を、「外的拘束」へと置き換えることであり、これによって自殺の社会的要因は、「個人にとっての」外的な社会的要因と同一視された。 これによって、自殺要因はすべて社会的要因とされることになったが、これでは、同じ要因で自殺しない人間の説明ができなくなる。もう一度、個人の問題へと帰着してしまう。
社会も個人も要因も、絶対矛盾的自己同一か?
2012 杉尾浩規 自殺の人類学に向けて 年報人類学研究2 南山大学 web 91 集団本意的自殺という自殺類型は、デュルケムが「個人・社会」という枠組み内部では捉え切れないもとのして自殺に取り組んだことを示す理論的証拠。デュルケムはそのような枠組みには回収できない個人を、近代西欧社会的な個人とは異なるという意味合いで、「未開」社会の個人という表現を用いて論じたのではないか。そして、集団本位的自殺で想定されているデュルケムの個人観は、人間の有様が近代西欧社会に顕著な個人主義的人間観には限定されないとするフランス民族学や人類学の人格研究と関連すると思われる。 個人が集団の意志通りに自殺する場合を想定している。そのとき、個人は集団と一体化している、「自我」が無くなっている、「自我」と「社会」が一致していると気づかない、客観化できない状態は想定しうる。例えば、洗脳状態はどうか。
集団本意自殺は前近代に当てはまるかも。武士の集団自害など。社会が内在化しなかった個は想定できるのか?結局、個人をどう捉えるかを決めないと、社会学的分析は成立しないことになる。
2013.3 武田慶之 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑴   教学伝導研究センター web 24 本当は生きていたいが、命を絶たざるを得なかった  
2013.3 武田慶之 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑴   教学伝導研究センター web 28 客観的立場から自死を決めつけてしまうことは、遺族の心を苦しめる  
2013.3 竹本了悟 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑶   教学伝導研究センター web 27、30 自死の要因は、一つではないく、要因の関連性と連鎖の仕方に注意  
2013.3 竹本了悟 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑷   教学伝導研究センター web 32 自死は社会的に隠蔽されてきた死  
2013.3 野呂靖 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑸   教学伝導研究センター web 25 分析視角。プリベンション(自殺予防)、インターベンション(自殺防止)、ポストベンション(遺族サポート)  
2013.3 野呂靖 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑹   教学伝導研究センター web 75 自死は偏見にさらされ、タブー視されている。  
2013.3 野呂靖 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑹   教学伝導研究センター web 76 釈尊時代、インド社会も自死を断罪する風潮があったが、釈尊は死について評価や拒絶をせず、死を悼む  
2013.3 藤丸智雄 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑺   教学伝導研究センター web 40 自死は20〜45歳男性、15〜35歳の女性において、死因の第1位  
2013.3 藤丸智雄 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑻   教学伝導研究センター web 48 自死という社会問題に関与することに対する慎重論の意見として、「僧侶の本分を忘れている」  
2013.3 藤丸智雄 本願寺自死問題実態調査」の分析結果⑻   教学伝導研究センター web 50 社会は自死だけでなく、「死」そのものを遠ざけている  
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 22 自殺未遂者は自殺者の約10倍で、毎年30万人、1日千人が自殺を図っている  
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 28 自死遺族の生きづらさは、内面的なこと(悲しみ・後悔)、他者との関係(親族関係・近所付き合い)、人々の意識・社会的制度(経済状況など) 遺族自身が自死偏見者でありながら、突然自身が遺族になるため、その偏見を他人も同じように持って、自分を見ていると思う
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 35 自殺は自分を殺す悪のイメージ、自死は自ら死を選ばざるを得なかったというイメージ。事故死・病死など 自死・自殺の定義。会社に殺されたから、自殺と考える人もいる
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 48 親より先に死ぬのは親不孝だから、自殺も親不孝で悪いこと。遺族を傷つけることにならないか。 デリケートな問題。自死への対応の是非から知恵を学ぶべき。遺族サポートは自死容認?自殺防止は自死否認?矛盾はないか。結局、この矛盾で苦しんでないか。
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 60 自死を肯定はしないが、自死を選ばざるを得なかった点は否定できない。 解決は時間しかないのか?そもそもこの矛盾を解決できるのか?
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 65 京都自死・自殺相談センターの取り組み。電話相談で自死を止めれば成功、遂行すれば失敗ではない。自死防止センターではないから。正否に拘ると袋小路にはまる。 自死を選択しないことを目指すだけなく、結論があるわけでもなく、何か別のものがあるのではないか?
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 66 亡くなったことは悲しいが、自死に対して辛いとか悔やむ気持ちはない。 死の事実と要因を区分けして納得する。
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 68 正解・不正解ではなく、乗り越えていくのでもなく、怒りや苦しみとともに生きる。  
2013.3 野々山尚志 自死問題を考える② 曹洞宗総合研究センター公開講演会 講演録3 曹洞宗総合研究センター web 70 電話相談をやっていなかったら、もっと増えていたかもしれない。乗り越えるというより、ともに生きる。  
2013.11 山折哲雄 日本人の心の底に流れる「無常観」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 68 いつも人間は死の危険にさらされているからこそ生きることの重大さが自覚される。「共に生きる」は教えるが、「共に死ぬ」は教えない。死のさまざまな形を教えるべき。すべての人間は死んでいくときにはひとりだが、すべての人間がひとりで死ぬ運命のなかに投げ出されているから、「共に死ぬ」ことになる。  
2013.11 山折哲雄 日本人の心の底に流れる「無常観」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 76 困難な問題を時間をかけて突き詰めていくのが、哲学であり、宗教。哲学や宗教は、2千年、3千年の歴史。社会科学はせいぜい2百年か、3百年。哲学・宗教のいずれも「人間、この未知なるもの」という人間認識に立っていた。  
2013.11 山折哲雄 文学に描かれた「死」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 143 大人は子供のときの記憶を忘れている。子供は大人より誇り高く、繊細。ゆえに、自暴自棄になる気持ちが強い。科学は万能ではない。人生には、科学的な思考からこぼれおちるものがいくらでもある。  
2013.11 山折哲雄 子どもたちを苦しめる「平等」と「個性」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 146 豊かで便利な環境のなかで、若い世代が生きづらさを抱え、生きる不安におびえている。戦後の「平等」に対する幻想が崩れはじめているためではないか。平等主義が逆に比較地獄に陥らせる結果になった。 コンプレックスは他者との比較。人間が社会的な動物であるが故。
2013.11 山折哲雄 子どもたちを苦しめる「平等」と「個性」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 149 自然災害の場合、なぜ自分の家だけが被害に遭ったのか?という苦しみが起こる。不平等ではないか?  
2013.11 山折哲雄 子どもたちを苦しめる「平等」と「個性」 わたしが死について語るなら ポプラ社 著作 181 「個性」を「個」、「ひとり」と捉え直す。一人であるからこそ深みがある。群れている人間にはわからないものがある。人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。社会は平等ではない。個性的であることを目指すのではなく、「ひとり」で立つことを志す。にっちもさっちもいかないときには諦める。  
2013 杉尾浩規 自殺と集団本位主義 年報人類学研究3 南山大学 web 143 他の論者が集団本位的自殺の中心に随意的タイプを置いたのとは異なり、デュルケムは義務的タイプを中心に置く。随意的タイプは、表向き自殺が複数ある選択肢の一つとして、義務的タイプは唯一の選択肢として個人に示されるだけ。両タイプの違いは個人に対する社会的圧力の強度の違いであり、随意的タイプ=義務的タイプ+「自殺しない」という選択肢。 切腹問題。義務的自殺と殺人・死刑とはどう違うのか?ギリギリで自ら命を絶つからか。
2013 杉尾浩規 自殺と集団本位主義 年報人類学研究3 南山大学 web 144 デュルケムは、社会的反応(裁定)は行為自体から引き起こされるのではなく、殺人という行為は道徳的に悪である感情を動機とするがゆえに非難され処罰されるのではなく、「その行為を禁じる基準に一致しなかったということ」に由来する。つまり、殺人という行為が引き起こす社会的反応(裁定)はそれ自体が別の社会性に対する反応である。この別の社会性を、デュルケムは「既存の基準」と呼び、道徳の義務的特徴に関連付ける。我々は単にある行為を基準が禁じているというだけの理由でこの禁じられた行為を行わないようにしている。これが道徳的基準の強制的性格と呼ばれるものである。 既存の基準から外れると悪、一致すると善。ここに強制が生まれる。
2013 杉尾浩規 自殺と集団本位主義 年報人類学研究3 南山大学 web 145 デュルケムが集団本位的自殺を善(道徳的感情)ではなく、義務(道徳的命令)に基づかせたことが意味するのは、集団本位的自殺を引き起こす集団本位主義という道徳が、内容を取り除かれ、形式として捉えられた、ということである。この操作によって、集団本位的自殺の本質は、「命令する社会とそれを道徳的義務として遂行する個人」という枠組みに求められることになる。  
2013 杉尾浩規 自殺と集団本位主義 年報人類学研究3 南山大学 web 146 デュルケムは、社会がどれほど称賛しようとも(善)、あるいは強く命令しようとも(義務)、それらは個人を行動へと駆り立てる必然的力にならないと述べる。しかし、他方において、その力があるのは唯一善のみであるとも述べる。後者の善は、義務を遂行することそれ自体が引き起こす一種独特な善とされる。
デュルケムは、道徳的義務の中に一種独特の歓喜の源泉(善)として想定された社会と、選択というステップを踏むことなく、義務遂行に伴うあらゆる困難にもかかわらず、この善に向かうものとして想定された個人との関係を導入している。ここでは、称賛や命令という社会性が個人を行動へと駆り立てる原動力にならないのとは対照的に、個人は一種独特の社会性によって(向かって)行動へと駆り立てられる。道徳的感情にも道徳的命令にもなかったこの力を、ヂデュルケムは道徳的権威と呼ぶ。個人が道徳に従うことが意味するのは、彼/彼女が内部から湧き上がる道徳的感情に動機づけられることでも、外部の道徳的命令の圧力に屈することでもなく、道徳的権威を認めていることである。
一般的な善と、行動へと駆り立てる必然的力としての善は違う。
2014.3 山本博文 ハラキリ略史 切腹 光文社知恵の森文庫 著作 58 幕府から治水工事を命じられた薩摩藩は、工事の遅延・出費増大によって、責任者が次々と切腹。最後に命じられた平田靭負も工事完了後切腹。なぜ切腹したのか。普請を成就させた成功者への妬みから、出費増大の責任を問われる可能性があった。また、犠牲になった部下たちや残されたその家族への道義的責任、自分の前途にお思いを巡らせた結果、切腹以外の道はなかったのではないか。このようなどうしようもない絶望を解決する手段だった。 切腹は処刑とは異なり、命じられた人間に主体性を残す。武士は殺される、つまり受身を嫌う。軍記物で「す・さす・しむ」を受身の意味で使うことと通じる。
2014.3 山本博文 ハラキリ略史 切腹 光文社知恵の森文庫 著作 63 治水工事で旗本高木新兵衛の家臣である内藤十左衛門が切腹。十左衛門は工事の不出来を庄屋与次兵衛に命じたが、与次兵衛は横着者で指示に従わなかった。そのまま普請が完了してしまい、目付が不備を指摘した。それが主人の新兵衛に伝わるのを恐れ切腹。主人の謝罪意識というより、信頼して任せた主人の期待を裏切った責任意識によるか。さらに、責任意識というよりも、不備を指摘されたことで潰れた自らの面子を回復するための切腹か。切腹したところで手落ちが解消されるわけではないが、腹を割いてでも自分の手落ちではないことを示そうとした。 切腹で面子は回復するか?
不備を改良するという発想がない。なぜか?
2014.3 山本博文 罪と罰切腹 切腹 光文社知恵の森文庫 著作 111 戦国時代までの武士は、切腹を命じられたとしても素直には従わなかった。逃亡して他の主君に仕えることもできたし、逃亡できない時は抵抗もした。 それでも切腹するものはいる。なぜ切腹したのか?
2014.3 山本博文 おわりに 切腹 光文社知恵の森文庫 著作 237 切腹を分析することは、江戸時代の社会の特質を究明することにつながる。結論は「武士の身分的矜持」と、それを支える「主君の絶対性」。一見すると相反するように見えるこの二つの要素が、密接につながっていたがゆえに、大量の切腹しも生じたのである。 自死には、歴史的特質がある。
2015.2 蜂屋邦夫・湯浅邦弘 老子×孫子 100分de名著   書籍 83 孫子には、逃げることについての「恥」の意識はないのです。 逃げることに対して、いつから恥の意識が生まれたのか。
2015 杉尾浩規 アトキンソンの「自殺の社会プロセスモデル」再考 年報人類学研究5 南山大学 web 16 検死官による自殺の認定プロセスは、死の意図性の有無を事後的推論に基づいて決定するプロセスであり、ここでは客観的証拠(事実)に基づく決定であることが要求される。アトキンソンは、自殺認定のプロセスでは、死の意図性の事後的推論の枠組みとして、特定の客観的事実が自殺の「手がかり」としてパターン化されている点に注目する。この手がかりは「遺書と脅迫」、「方法」、「状況」、「生活史」、という四つのタイプから構成される。これらの事実が自殺の手がかりであることは自明な想定として内に含む。(中略)検死官が属する社会全体の中で自明とされている自殺に関する常識的知識である。 中世人の自殺の定義は何か?単なる変死かもしれない。意図があったかどうかは、状況証拠でしかわからないが、それでも自死と認定したのはなぜか?わかるのは、自殺と認定した社会常識。
2015 杉尾浩規 アトキンソンの「自殺の社会プロセスモデル」再考 年報人類学研究5 南山大学 web 18 自殺学者によって引き合いに出されるすべてのあるいはほとんどの「原因」は、実際には、自殺の「記述そのものに含まれているのである。それは地元新聞のコラムの見出されるような平凡な「事実に基づく」報告においてすら、報告されている自殺についての理論的解釈や可能な生命が充満しているほどである。 自殺の原因を追究する際、答えが先にありきになっている。そのこと自体も検討する必要がある。また、なぜ自殺と言わず、切腹・入水など、方法で自殺を説明するのか?
2016 杉尾浩規 資料としての自殺 人類学研究所 研究論集3 南山大学 web 154 フィジー警察は、自殺の原因は観察者の推測と未遂者の後日談をもとに記録される。 自殺認定は、結局観察者の推測による。未遂者の後日談が影響を与えることもある。これが自殺の認定プロセスを決定づける。
2016 杉尾浩規 資料としての自殺 人類学研究所 研究論集3 南山大学 web 158 ダグラスによれば、「復讐」、「救済の求め」、「同情」、「逃避」、「後悔」、「罪滅ぼし」、「自己処罰」、「真剣さ」などが西欧社会における自殺の社会的意味となる。
ダグラスは、パターン化された自殺の社会的意味が、自殺者による自殺行為の主体的意味の構築に影響を及ぼす可能性を指摘する。
要するに、ダグラスの解釈的アプローチを伝統的な実証主義的アプローチから区別する特徴は、自殺者によって自殺行為に付与された自殺者自身の主体的意味を、それが社会的意味として構築される現実世界の中で理解することになる。そして、この目的を達成するために、公式統計作成者の主体的意味が付与されている公式統計の資料としての利用は拒否される。同じ理由から、学術研究者の主体的意味が付与されている抽象的理論に依拠した公式統計の説明も拒否されることになる。
中世の記録史料も、すでに何らかのバイアスがかかっている。記主の判断を規定している社会的規範が、自死の判断に影響を及ぼしている。
ただこのバイアスは、どんな科学分野にも言える。
ダグラスの自殺要因分類は妥当だろうが、いろいろあるという理由で本当によいのか?それぞれの要因に共通する何かがあるのか、それともそれらの奥底にまだ見えない本質が隠されているのか?