周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─8 〜喧嘩と自殺〜

  応永二十年(一四一三)二月十四日条     (『満済准后日記』上─13)

 

 十四日。〈甲子。」風雨。〉法楽連歌。戌末刻武衛禅門宿所ニ於テ若党喧嘩。一方

  当座死去ナカミネ名字。一方ウソウ名字。於門前自害云々。

 

 「書き下し文」

 十四日、〈甲子、風雨、〉法楽連歌、戌の末刻武衛禅門の宿所に於いて若党喧嘩す、一方当座死去す、ナカミネ名字、一方ウソウ名字、門前に於いて自害すと云々、

 

 「解釈」

 十四日、甲子、風雨。法楽連歌があった。戌の下刻に武衛禅門斯波義教(義重)の邸宅で若党が喧嘩した。一方の人物はその場で死んだ。名をナカミネという。もう一方はウソウという名で、門前で自害したそうだ。

 

 

*非常にシンプルな記事であるうえに、関連史料もないので、事件の詳細はわかりません。ただ気になるのは、喧嘩相手を殺害した若党(ウソウ)は、なぜ自害したのか、という点です。殺人を犯した罪の意識に苛まれて、自ら命を絶ったとも考えられそうですが、おそらくそのような殊勝な理由ではなかったのでしょう。

 中世びとは、喧嘩となった両者の損害を均等にしようとする「衡平感覚」と「相殺主義」という思想をもっていました(清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ、2006、116〜125頁)。今回の事件の場合、喧嘩の当事者はともに斯波義教の若党なので、身分は同等です。一方の「ナカミネ」が殺害されたからには、もう一方の「ウソウ」はいずれ死刑に処されることになったでしょう。そうでなければ、殺害された「ナカミネ」側の鬱憤は晴れないはずです。したがって、「ウソウ」は死刑の予期という原因動機によって自害したと考えられます。

 では、死刑と自害では、いったい何が違うのでしょうか。前掲清水著書によると(25、160・161頁)、喧嘩の当事者に処罰として「切腹」を課すようになったのは室町時代が最初であり、当時において切腹は、勇気や矜持を示すことのできる栄誉ある死に方だったそうです。また、喧嘩の当事者に対して、斬首などではなく、切腹という栄誉ある死に方が与えられた場合、それは相当に温情ある措置だと考えられたそうです。とすると、温情措置としての切腹は、まれにしか認められなかったということになります。常々認められるのであれば、それは温情ではなく、通常措置になってしまいますから。

 今回の場合、斯波義教の若党どうしの喧嘩ですから、義教が必ずしも自らの被官に対して温情を示すとは限りません。むしろ「ウソウ」は不名誉な死刑を予期したからこそ、先手を打って栄誉ある自害を選択したのではないでしょうか。つまり、若党「ウソウ」は不名誉な死刑から逃れ、栄誉ある死を手に入れるという目的動機によって自害したと考えられます。