周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

池の水ぜんぶ抜く大作戦!?

【史料1】

  康正三年(1457)七月二十二日・八月四日条

                (『大乗院寺社雑事記』1─195・204頁)

    廿二日

 一社頭神人共高山ノ池ヲカユ、為祈雨也、然間高山ノ上計ニ大雨下テ、山計ノ外

  無其儀、希事也、(後略)

 

    四日

   (中略)

 一龍花院方於天満拜殿大般若読之、同龍池ヲサラユ、為祈雨也、(後略)

 

【史料2】

  康正三年(1457)八月         (『経覚私要鈔』3─229頁)

     祈雨条々

   (前略)

 一神人高山龍池カユル、是モ両度、(後略)

 

【史料3】

  康正三年(1457)八月十四日条     (『経覚私要鈔』3─236頁)

  十四日、

  今朝モ如形雨下了、(中略)

 一禅定院池水無之間、三ケ日以大掃除人夫土ヲ取云々、

 

 

 「書き下し文」

【史料1】

    二十二日

 一つ、社頭の神人ども高山の池を替ゆ、祈雨の為なり、然る間高山の上ばかりに大雨下りて、山ばかりの外其の儀無し、希なる事なり、(後略)

    四日

   (中略)

 一つ、龍花院方天満拝殿に於いて大般若之を読む、同龍池を浚ゆ、祈雨の為なり、

 

【史料2】

     祈雨条々

   (前略)

 一つ、神人高山の龍池を替ゆる、是れも両度、(後略)

 

【史料3】

    十四日、

  今朝も形のごとく雨下り了んぬ、(中略)

 一つ、禅定院の池の水無きの間、三ケ日大掃除人夫を以て土を取ると云々、

 

 

 「解釈」

【史料1】

 (七月)二十二日

 一つ、社頭の神人たちが高山の池の水を替えた。祈雨のためである。そうしているうちに、高山の上だけに大雨が降って、山以外の場所では雨は降らなかった。珍しいことである。(後略)

 (八月)四日

 一つ、龍花院方の天満社拝殿で大般若経を読んだ。同じく龍池の底を浚った。祈雨のためである。

 

【史料2】

     祈雨条々

   (前略)

 一つ、神人が高山の龍池の水を替えた。これで二度目である。(後略)

 

【史料3】

    十四日、

  今朝もいつものように雨が降った。(中略)

 一つ、禅定院の池の水がなくなったので、三日間、大掃除の人夫を使って、池の土を取ったという。

 

 

 「注釈」

「高山・龍池」

 ─鳴雷神社(なるいかずちじんじゃ)のことか。現奈良市春日野町。春日山中、佐保川能登川の水源にあたる香山(こうぜん)に鎮座。「延喜式神名帳の「鳴雷神社大、月次新嘗」に比定されており、祭神は天水分神。高山社(こうぜん)・高山竜王社(こうぜんりゅうおう)・竜王社とも称し、「大和志」には髪生宮(かみなりのみや)と記すが、髪生宮は当社西北高峰(髪生山)に鎮座する神野神社(こうの)のこと。

 鳴雷神は雨をもたらす神として古代農民に広く祀られ、貞観元年(859)に官社となった(三代実録)。「延喜式」では、四時祭りの二月祭条に「鳴雷神一座十一月准此、坐大和国添上郡、右差中臣一人共祭」、掃部寮神祇官諸祭料の条に「狭席五十八枚、鳴雷神春秋祭料十二枚」とみえ、春日祭と期を同じくして祀られる農業神で、さらに宮中主水司坐神とされるなど、宮中の水を供給する神としても格式のある神であった。

 現在、春日大社末社の一つで、小祠一宇が残るのみで式内大社の面影はない。付近には中世以降請雨の霊場として信仰を集めた竜池(閼伽井)があり、高山・上水屋の水船や、当社上方にあったといわれる香山堂などとともに春日水神信仰の中心であったようである。「大乗院雑事記」「多聞院日記」にも香山信仰の厚かったことが記され、春日山周辺の村々では、近年まで雨乞のための「香山さん参り」が盛んであったといわれる。

 なお竜池からは「相当此年炎干過法之間、為国土豊穣、於断食七箇日参籠高山社、仍結日降法雨、然間為果宿願、於春日社壇、奉転読法花妙典一千部、成現当二世悉地仍注結縁衆交名、奉納塔婆内而已、正安三年辛丑九月日勧進沙門西念」と刻した石塔婆が発見されている。この辺りは、中世、興福寺東金堂衆の行場となったところでもあり、高山社の下に長さ2.18メートル、幅0.72メートルの石造水船がある。その両端に繰形把手を刻出し、側面には「東金堂施入高山水船也、正和四年乙卯五月日置之、石工等三座」の陰刻銘がある。また当社北方の花山には「西金堂長尾水船 文和二年癸巳三月日置之」銘の水船がある(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「龍花院」

 ─竜華樹院、竜華院のことか。「南都七大寺礼記」に「本堂尺迦阿弥陀薬師在諸経律論摺形木、件院者法務権大僧正頼信之建立(中略)又在頼信之墓号円塔」とある。当初、一乗院の東(現文化会館の南側)にあったが、「寺務相承記」に竜華院が春日大鳥居の南方、菩提院の東にあったことが見える。正暦年中(990─995)菩提山に移したが、残っていた堂は正中年中(1324─26)に焼失した。のち勧修坊(荒池の南にあった)の南隣に再興され、大乗院領となり、いわゆる三箇院家を形成した。明治の中頃、さらに南円堂の北側に移した(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「禅定院」(「大乗院跡」『奈良県の地名』平凡社

 ─大乗院跡。奈良公園内の荒池の南、鬼園山の上に建つ奈良ホテル南側下方、高畑町にある。三箇院の一。寛治元年(1087)権別当隆禅が先考の恩に報いるために創建(菅家本「諸寺縁起集」)。第三代院主に関白藤原師実の子尋範が入り、以後一乗院と並んで両門跡となり、院家の首位に立った。

 当初、一乗院の東隣(現文化会館の南側)の竜華樹院(竜華院)跡にあったが、治承四年(1180)の兵火後、元興寺別院の禅定院(現在地)に移された。興福寺寺務職の門跡で、御所とも呼ばれた。禅定院・竜華樹院とともに統合され、三箇院家を形成した。宝徳三年(1451)尋尊が門跡のとき、土一揆による元興寺焼討に罹災したが、その復興には善阿弥の手になる庭園を含め大いに整えられたようである(大乗院雑事記)。

 寺領は右の三箇院を合わせて大和国内の荘園八十余ヶ所、国外では三十四ヶ所に及んだ。また末寺も長谷寺以下数十ヶ所を数える。「大乗院雑事記」をはじめ多くの大乗院文書が残されている。

 

 (「元興寺」『奈良県の地名』平凡社) 

 ─平安・鎌倉時代にはしだいに寺勢が衰え、伽藍も縮小されていたものと思われるが、「大乗院雑事記」長禄三年(1459)九月三十日条によれば、興福寺大乗院院主の尋範は元興寺禅定院(禅院寺の後身)院主も兼ね、承安四年(1174)に没しているので、この頃すでに元興寺興福寺支配下に入っていた。治承四年(1180)平重衡の南都焼討によって大乗院が焼亡したので大乗院主は禅定院に住するようになり、以後禅定院が興福寺大乗院となった。また「大乗院日記目録」養和元年(1181)一月二十九日条には「於禅定院修十二大会、擬寺内」とあり、禅定院は興福寺の寺内に擬せられている。

 

 

*「室町時代版 池の水ぜんぶ抜く大作戦」。「テレ東版」は「池の水を抜いてキレイにしたい! 迷惑外来生物を駆除したい! 巨大岩石を撤去したい!」といった目的によって、池の水を抜いているようですが、室町時代の奈良では、雨乞いのために池の掃除を行なっていました。おそらく、「池泉を掃除・浚渫することによって、龍神の影向を期待し、その功徳によって雨を祈」ったのだと考えられます(佐々木令信「神泉苑の祈雨霊場化について」『大谷学報』51─2、1971、105・106頁、https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2482&item_no=1&page_id=13&block_id=28)。池に対する接し方1つとっても、中世と現代では大違いです。

 ところで、池に生息していたであろう生物はどのように処理したのでしょうか。食べたのでしょうか、単に殺処分したのでしょうか、それともどこかに逃したのでしょうか。何も書いてないということは、それほど気にしていなかった(執着していなかった)ということなのでしょう。少なくとも、「池の水を全部抜いたら、生態系を破壊してしまうではないか!」といった、エコロジカルな?、エコファシズム的な?視点からの批判は起きてないようです。