周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書59 その6(終)

    五九 安芸国沼田庄楽音寺縁起絵巻写 その6

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載しました。本文が長いので、6つのパーツに分けて紹介していきます。

 この縁起の研究には、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』 (広島県立歴史博物館、1996)、下向井龍彦「『楽音寺縁起』と藤原純友の乱」(『芸備地方史研究』206、1997・3、https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00029844)があります。

 

    ツテ                      

 倫実取純友頸上仙洞、忽及叡覧即有御感倫実

           スル                 

 被勧賞、任左馬允之上賜安芸国沼田七郷、倫実為

  ンカ   カ ノ              タマフ   ノ ヲ  

 果遂釜嶋宿願故、令立一堂於当寺置髪像於其中

        シム        ロノ    

 一寸二分像少故令丈六像大、所彼中本尊是也、

                          

 所謂薬師如来丈六像一躰日光月光二菩薩像多聞持国等八天像

       

 金剛力士二天像也、

     (絵6)               (朱印)

             狩野右京藤原安信筆  ⬜︎

      ◯原本ハ、寛文年中藩主浅野光晟ニ召シ上ゲラル、コノ写ハソノ代リトシ

       テ下付サレシモノ

 

 「書き下し文」

 倫実純友の頸を取つて仙洞に献上せしむ、忽ちに叡覧に及び即ち御感有りて倫実に勧賞を行なはる、左馬允に任ずるの上安芸国沼田七郷を賜る、倫実釜島の宿願を果たし遂げんが為の故、一堂を当寺に建立せしめ髪の像を其の中に安置し擬ふ、一寸二分の像小さき故に丈六の像を大に造らしむ、彼の中に籠め奉る所の本尊是れなり、所謂薬師如来丈六の像一体、日光・月光二菩薩の像、多聞・持国等八天の像、金剛力士二天の像なり、

 

 「解釈」

 藤原倫実は藤原純友の首を取って、朱雀帝に献上した。すぐに帝はご覧になり感心なさって、倫実に褒賞をお与えになった。倫実は左馬允に任じられたうえに、安芸国沼田七郷をいただいた。倫実は釜島の宿願を成し遂げるためという理由で、一つのお堂をこの楽音寺に建立させ、髪の中に籠めた薬師如来像をその中に安置しようとした。だが、一寸二分の像は小さかったので、一丈六尺の大きな像を造らせた。その像の中に納め申し上げたのが本尊である。いわゆる薬師如来の丈六像一体、日光・学校二菩薩の像、多聞天持国天など八天像、金剛力士二天の像である。

 

 「注釈」

「狩野安信」

 ─没年:貞享2.9.4(1685.10.1)生年:慶長18.12.1(1614.1.10)江戸前期の画家。通称右京進,号永真。狩野孝信の3男として京都に生まれ,宗家の貞信が早世したため,養子となり宗家を継ぐ。寛永年間(1624~44)江戸中橋に屋敷を拝領し,幕府御用絵師となり,中橋狩野家を開いた。江戸城や禁裏などの襖絵制作に参加。寛文2(1662)年法眼となる。兄探幽の画法を踏襲するが,技量は若干劣る。著書『画道要訣』(1680)では「学画」の奨励など狩野家の絵画制作に対する考えを示し,後代に影響を与えた。代表作は大徳寺玉林院の障壁画。「添状留帳」(東京芸大蔵)は鑑定控。<参考文献>田島志一編『東洋美術大観』5巻(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/狩野安信-15815)。