六〇 安芸国沼田庄楽音寺略縁起写 その1
*『広島県史』の読点の打ち方を変更したところがあります。
安芸国沼田庄楽音寺縁起
歓喜山楽音寺奉二 朱雀帝詔一志度司〈藤原」倫実〉所レ建之精舎也、扇二毘首羯磨
〔絵〕 (平)(藤原)(云脱)
風一稽二文会之一所レ造之霊像也、尋二其濫觴一、承平天慶之際有二将門純友者一、
驕誇凌二王莽一奢侈欺二董卓一猛威儔二呂布一相与企二非望一、将門龍二元東国一純友
〔鯨〕
鯢二呑西海一、万邦之貢献為二抑留一而、三條九陌遏絶二粮食一、 天子下レ詔覔二
逆徒征伐之将師一募二凶賊奮撃之士卒一、於レ是公卿会議曰、藤倫実近謫二居芸州一、
其武似二漢家高祖一而、勇類二本 朝田村一、宜レ令二赦レ罪補一レ功也、各奏二聞
之一其議適二 叡慮一、郎徴倫実令レ討二純友一、
つづく
「書き下し文」
安芸国沼田庄楽音寺縁起
歓喜山楽音寺は、朱雀帝の詔を奉り志度司〈藤原倫実〉の建つる所の精舎なり、毘首羯磨の風を扇ぎて、文絵を稽え造る所の霊像なり、其の濫觴を尋ぬるに、承平・天慶の際将門・純友と云ふ者有り、驕誇王莽を凌ぎ、奢侈董卓を欺き、猛威呂布に儔び相与に非望を企つ、将門東国を龍元し、純友西海を鯨呑す、万邦の貢献を抑留せんとして、三條九陌を遏り粮食を絶つ、天子詔を下し逆徒征伐の将師を覔め、凶賊奮撃の士卒を募る、是に於いて公卿会議に曰く、「藤倫実近く芸州に謫居す、其の武きこと漢朝の高祖に似て、勇ましきこと本朝の田村に類す、宜しく罪を赦し功を補はしむべきなり」と、各々之を奏聞するに、其の議叡慮に適ひ、郎徴倫実をして純友を討たしめ給ふ、
つづく
「解釈」
安芸国沼田庄楽音寺縁起
歓喜山楽音寺は、朱雀天皇の詔勅をお受け申し上げて、四度使藤原倫実が建てた寺院である。仏師たちの気風を煽り、飾りや模様に趣向を凝らして造った霊像である。当寺の始まりを尋ねてみると、承平・天慶のときに平将門と藤原純友という者がいた。奢りたかぶる姿は王莽をしのぎ、身分不相応な暮らしぶりは董卓と張り合うほどであり、勇猛な性格は呂布に並び、双方ともに身分不相応な望みを企んだ。将門は東国を危険を冒して統治し、純友は西国を一飲みに侵略した。あらゆる国々の租税を抑留しようとして東西の交通路を遮り、都への食糧の補給を絶った。朱雀帝は詔勅を下して逆徒征伐の将軍を探し求め、力を奮って凶賊を攻撃する兵卒を募った。そこで、公卿会議で言われたことには、「藤原倫実という人物が、最近安芸国に配流された。その猛々しいことは漢朝の高祖に似ており、その勇ましいことは日本の坂上田村麻呂と同類である。ぜひとも彼の罪を赦して、手柄で(その罪を)償わせるべきである」と。公卿たちはそれぞれこのように申し上げたところ、その意見が帝のお考えにぴったり合い、徴事郎藤原倫実に純友を討伐させなさった。
つづく
「注釈」
「志度司」─未詳。「四度使(しどのつかい)」の当て字か。
「王莽」
─ 前45─後23 新の皇帝。在位8─23。字は巨君。元城県(河南省)の人。前漢の外戚として台頭、幼少の平帝を擁立して劉歆らを重用しつつ讖緯思想で人心をつかんだ。5年に平帝を毒殺して仮皇帝、8年には正式に皇帝となり「新」王朝を創始。即位後、大土地所有・商工業の抑制、貨幣改革などに着手するが、周を理想とした非現実的な政治は国内を混乱におとしいれ、さらに対外政策の失敗で赤眉の乱など各地に反乱が相次ぐなか、反乱軍に殺され、新はわずか15年で滅んだ(『角川世界史辞典』)。
「董卓」
─ ?─192 後漢末の群雄の一人。字は仲穎。臨洮(甘粛省)の人。粗暴で任侠の風あり。桓帝末以来、軍功を重ねて実力を蓄える。霊帝の崩御後、宦官誅滅のため何進らに召されるが、入朝後は少帝を廃して献帝を立てた。その後袁紹らが挙兵したので長安へ遷都。その暴逆さはいっそう激しく、宰相王允らに誅殺された(『角川世界史辞典』)。
「欺」
─漢字のとおりに「欺く・騙す」の意味で解釈すると、意味が分からなくなるので、上述のように意訳しておきました。
「龍元」
─未詳。「竜頷」のことか。「鯨呑」との対句で、「危険を冒して統治・支配する」といった意味を表すと考えられます。
「郎徴」─未詳。「徴事郎」のことか。