周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

高橋祥友著書

 高橋祥友「自殺未遂の実態」

(『自殺未遂─「死にたい」と「生きたい」の心理学』講談社、2004、79〜83頁)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P79 死への恐怖感が低くなる

 前項とも関連しているのだが、得てして、誰かが自殺を図ったが、幸い助かった場合、周囲の人々はもうそれですべての危機が過ぎ去ったと思い込みがちである。たしかにそうあってほしい。そして、関わりのある人たちのこのような希望的観測を理解できないわけではない。

 しかし、危機的状況に置かれた際に自殺を図ろうといった反応に及ぶことが、その人の行動パターンに深く組み込まれてしまっている可能性について十分に注意を払っておかなければならない。

   (中略)

 自らの身体を傷つけるという行為は、自殺を考えているだけの段階からかなりの部分を踏み出して、実際に命を落とすことに近い段階に迫りつつあると考えなければならない。

 自分の身体を傷つけるという行為には強い恐怖感が伴う。そして、実際には未遂行為にまで及んでしまったということは、死に対する恐怖の閾値が相当低くなってしまったということでもある。そのような行為に及んでいない人に比べて、はるかに自殺に対する恐怖感や抵抗感が低くなってしまっていると考えられるのだ。

 自殺というと、すぐに武士の切腹のようなものを思い浮かべるようだが、覚悟の自殺のようなものはほんの一握りであり、そう易々とひと思いに自分の命を絶てるものではない。たとえば、手首を切って自殺を図る人でも、しばしばためらい傷を認める。たった一度で、致命的な傷を自ら負うことは非常に難しいのだ。

 最近、首都圏の某鉄道で自殺が相次いでいることをマスメディアが大々的に報じている。マスメディアで大きく取り上げることが、自殺の危険の高い人の関心をその鉄道に向けてしまい、同様の場を用いるという傾向があるのだが、鉄道の側にももう少し配慮がほしいと私は考えている。

 というのも、以前に比べて、ホームにいる駅員の数が圧倒的に少ない。自殺を考えているが、すぐに電車に飛び込んでいるとは私には到底考えられない。ためらい傷のように、なんども飛びこもうとしては躊躇し、幾度もそうしようと試みた末に身を投げていると考えるほうが自然である。そこで、電車が何度もホームから出ているのに、その間、電車に乗り込まずにホームを徘徊している人を見つけたら、まず一声かけるだけでも、鉄道自殺はかなりの数が減るのではないかと思う。

 話は少し逸れてしまったが、自殺未遂に及ぶまでにはかなり高いハードルがある。強い恐怖感や抵抗感を乗り越えた末に、自分を傷つける行為に及んでいる。ひとたびそのハードルが低くなってしまうと、その人に組み込まれた反応パターンになってしまっている可能性が高いと考えるべきなのだ。

 周囲の人々の多くが考えるように、自殺未遂が一回だけ終わって、立ち直ることができればベストである。しかし、現実の問題として、一度でも自殺未遂に及んだ人というのは、将来も危機的な状況に置かれた際に、再び同じような行動を繰り返して、そのときは取り返しのつかない結果になってしまう可能性が高いことを忘れずに、それに対応しなければならない。

 

P81  酒との関係

 前項で、自らの身体に傷をつけることに対しては強い恐怖感や抵抗感が伴うと指摘した。何の覚悟もなく、易々と自殺してしまう人などひとりもいない。

 その恐怖感や抵抗感を和らげる手段として、しばしばアルコールが用いられている。

 薬物乱用の問題が最近、大きく取り上げられている。WHOの警鐘を鳴らしているように、覚醒剤や麻薬以上にアルコールは世界で最も幅広く乱用されている薬物であり、その問題は深刻である。

 アルコール依存症の診断が下される人は日本だけでも最低二〇〇万人はいると推定されている。予備軍となるとその数倍は存在するだろう。

 さて、自殺とアルコールの関連であるが、アルコール依存症うつ病とともに重要な自殺の危険因子とされている。さらに、うつ病アルコール依存症の両方の診断にあてはまるような状態では、自殺の危険はより一層高まってしまうことは当然である。

 ただし、アルコール依存症の診断までには該当しない人であっても、死への恐怖感を減らすために、自殺企図の際に、しばしばアルコールが使われている。

 精神科医をしていると、飲酒さえしていなかったならば、死への衝動を行動化することはなかっただろうと思われる事例にしばしば出会う。酩酊することによって、自己の行動をコントロールする力を失った状態に追いこんで、自殺を図る人はけっして少なくない。

 これはアルコールのもたらす危険を十分に認識していないことからも生じていると考えられる。覚醒剤や麻薬は違法であるが、飲酒は成人になれば我が国では認められている。それだけに、覚醒剤や麻薬以上に、乱用され、社会に深く、広く浸透している薬物なのだ。

 これまでの経験から、飲酒をすると一時的に気分も晴れるし、よく眠れるようになると、多くの人が信じている。最近どうも気分がすぐれないなどと感じたときに、精神科を受診しようなどとは考えずに、まずアルコールに手が伸びてしまいがちである。しかし、これは広く信じられている誤解である。

 飲酒によって、睡眠の質は悪化するし、中枢神経の働きを抑える作用もある。アルコールには依存性もあり、うつ病の症状も確実に悪化してしまう。そして、何よりも自己の行動をコントロールする力を奪ってしまうという点が恐ろしい。

 自殺で亡くなった人のいかに多くが、最後の行動に及ぶ直前に酩酊状態にあったかという事実を確認するためには、著名人が自殺した際の死亡記事を読んでみるとよいだろう。あえて名前を挙げることはしないが、政治家、映画監督、歌手の名前などが何人もすぐに思い浮かぶ。

 アルコール依存症は、身体、精神、対人関係といったさまざまな面に問題をきたす。アルコール依存症の診断に該当する人は、病死、事故死、自殺のために、平均寿命は健康な人に比べて三〇年も短くなってしまう。

 ただし、アルコール依存症には該当しないまでも、これまでにしばしば大酒してきた人や、最近になって飲酒量が増えているような人に自殺の危険が迫る可能性についても十分に注意しておかなければならない。

 

P83 自殺の危険が高くなっている人の心理

 いよいよ自殺にまで追いこまれている人の心理とはどのようなものなのだろうか。うつ病にかかって自殺によって命を失ってしまう人もいれば、どれほどうつが重症であっても、けっして自分を傷つける行動に出ない人がいる。また、うつ病以外にも、統合失調症、薬物乱用、アルコール依存症、パーソナリティ障害などさまざまなこころの病が自殺に関連してくる。しかし、どのような病気であれ、自殺の危険の高い人には次のような共通の心理がある。

 

①絶望的なまでの孤立感

 この孤立感は最近になって、たとえばうつ病を発病して、その影響のために生じた場合もあるだろう。また、幼い頃から永年にわたって、この種の強烈な孤立感を抱き続けてきた場合も少なくない。

 実際には家族もいるし、友人や知人も大勢いる。しかし、その中で激しい絶望感を伴う深い孤独を感じ続けてきたのだ。現実には、周りから多くの救いの手を差し伸べられていたとしても、この世の中では自分はひとりきりであり、誰も助けてくれるはずはないという、深い孤独を感じ、それにいよいよ耐えられなくなっている。

 

②無価値感

 「私は生きるに値しない」「生きていることすら許されない」「私などいないほうが皆が幸せだ」「自分の居場所がどこにもない」といった感情も、うつ病をはじめとするこころの病のために、最近になって生じている場合もあれば、幼少期から長年にわたって強い絆のある人からのメッセージとして抱き続けている場合がある。

 人生の早期に、絶対的な自己肯定感を育むことは、その後の人生でこころのバランスを保つうえでとても大切なことである。しかし、これがうまくいかなったために、自分は生きることが許されないといった否定的なメッセージを幼い頃から受けてしまっている、不運な人も現実にいるのだ。

 「生きるだけの意味がない」「生きていることさえ許されない」「生きる意味をまったく失った」という絶望感に圧倒されてしまっている。そして、本人も無意識的に周囲の人々をあえて刺激し、挑発することによって、自分を見捨てるように振る舞うことさえ稀ではない。

 

③極度の怒り

 自殺の危険の高い人は、絶望感とともに強烈な怒りを覚えている。これは強い絆を持った人に向けられている場合もあれば、また、他者に対するそのような怒りを感じている自分を意識することで、かえって自分自身を責める結果になっている場合もある。窮状をもたらした他者や社会に対して強い怒りを感じていたのが、なんらかのきっかけで、それが事故に向けられると、急激に自殺の危険が高まりかねない。他者に対する強烈な怒りはしばしば自分自身に対して向けられた怒りでもあるのだ。

 

④窮状が永遠に続くという確信

 周囲の人々には、さまざまな解決策が思い浮かぶ。しかし、本人は、今、自分が置かれている絶望的な状況に対して何の解決策もないし、どんなに努力をしたところで、それは報われず、この窮状が永遠に続いていくと確信している。他者から与えられた助言や解決策は、苦境から脱するには何の役にも立たないとして、拒絶されてしまう。

 

心理的視野狭窄

 自殺の危険が迫っている人の思考をトンネルの中にいる状態にたとえた精神療法家がいる。トンネルの中にいて周囲は真っ暗である。遠くから一条の光が差し込んでいて、それがこの闇から出る唯一の方法というのだ。そしてそれが自殺であって、他に解決策はまったく見当たらないという独特の心理的視野狭窄の状態に陥っている。

 

⑥諦め

 自殺の危険の高い人は、同時にさまざまな感情に圧倒されているのだが、次第に、ありとあらゆる必死の戦いを試みた後に独特の諦めが生じてくる。穏やかな諦めというよりは、嵐の前の静けさのような不気味な感じを伴う諦めと言ってもよいだろう。

 「すっかり疲れ果てた」「もう何も残されていない」「どうでもいい」「何が起きてもかまわない」といった感覚である。この段階に至ると、怒りも、抑うつや不安も、孤独さえも薄れていく。もはや戦いは終わり、それに敗北したという感覚である。まるで、武器を捨てて、壕を出て、弾丸の飛び交う中に無防備で出て行くような感じさえ伴う。

 このような諦めに圧倒されてしまうと、周囲からはこれまでの不安・焦燥感が薄れて、かえって穏やかになったととらえられかねない。あまり敏感でない人の目には、落ち着きを取り戻したかのようにさえ映るかもしれない。

 

⑦全能の幻想

 どんなに環境や能力に恵まれた人であっても、自分の置かれた状況を直ちに変化させることなど不可能である。変化をもたらすには時間も努力も周囲からの助けも必要である。しかし、自殺の危険の高い人というのは、ある時点を超えると、唯一、今の自分の力でも直ちに変えられるものがあると思い始める。

 そして、「自殺だけは今すぐに自分の力だけでも可能だ」「自殺は今できる唯一残された行為だ」といった全能の幻想を抱くようになっていく。この幻想は、絶望感、孤独感、無価値感、怒り、諦めといったさまざまな苦痛を伴う感情に圧倒され続けてきた人たちにとって、甘い囁きとなって迫ってくる。このような全能の幻想を周囲の人が感じるとき、自殺の危険はもはや直前にまで迫っている。ただちに何らかの対策を取る必要が出てくる。

 

 自殺を引き起こしかねない問題がなんであれ、自殺の危機が直前にまで迫った人がこのような複雑な感情に圧倒されていることを周囲の人々が理解しておかなければならないのだ。

 

P88 どのような性格の人に危機が迫るのか

 それぞれの人がそれぞれに生きてきたように、性格も人によってさまざまであり、類型化することは難しい。そして、どのような性格の人であっても、短期間にあまりに多くの問題を抱えてしまったために、急激に自殺の危険が高まることがあっても不思議はない。

 さまざまな性格の人に自殺の危険が高まる可能性があるのだが、とはいえ、その中でも、とくに次のような性格の人はその危険が高いと言えるだろう。

 

①未熟、依存的

 未熟で依存的な性格で、自らの能力の範囲で葛藤に対処できない人である。とくにこれまで支えられてきた人から見捨てられるような体験を契機として、急激に抑うつや自己破壊傾向を呈することも多い。現実に見捨てられるという状況ばかりでなく、本人自身が「見捨てられるのではないか」と強い不安を抱いていることが、自殺行動に及ぶきっかけになることさえある。

 支えられてきた人とは、家族、知人、同僚や、医療関係者の場合もある。そして、依存的でありながら、周囲に対して不満を持ちやすく、あるいは他人の怒りを故意に引き出すような傾向のある依存・敵対型の人はとくに自殺の危険が高い。

 周囲の人々はその人を助けようと懸命に努力しているにもかかわらず、どのような援助をしてもらっても、それが十分であるとは感じられずに、むしろ相手に対して不満や攻撃を爆発させるタイプである。

 

  →結局、自己中で、周囲の状況を客観的に認知できない人ということか?

 

②衝動的

 前述した性格とも関連するのだが、衝動的で、攻撃性を処理できないタイプがこれに当たる。これまでにも問題を生ずる場面で、衝動的な行為に及んだことがある人については、その行為の内容や意味に関して確実な情報を得ておかなければならない。

 自殺は何のきっかけも、前触れもなく、突然起きるというよりは、それ以前に自分の安全や健康を守れない状態がしばしば起きている。

 飲酒したうえで、一歩間違えれば、大事故を起こしそうになったり、喧嘩に巻き込まれたりしたことはないか。些細なことをきっかけとして、重要なつながりのあった人との関係を突然切ってしまったことなどがこれまでになかったかどうかを検討しておく必要がある。

 

③完全主義的傾向

 自らの価値観を本人あまりにも極端に低くしかとらえられず、それを克服しようとして、病的なまでの完全主義的傾向を示すタイプに、自殺の危険が高まることがある。

 両極端の思考法にとらわれていると言ってもよい。すべての事柄に対して「白か黒か」「一〇〇点か零点か」といったとらえ方をしてしまい、中間の灰色の部分が受け入れられない。

 あいまいさに耐える能力というのは、こころの健康を示す重要な指標なのだが、このような人はどのような事柄に対しても、「今すぐ」「白黒をつけたい」と考えがちである。

 すぐには答えが出ないので、しばらく事の成り行きを静観しよう、時間が問題を解決してくれるかもしれない、といった考え方をする余裕がない。問題を抱えたときに、それを変えることができるかまず考えてみよう。変えられるものであれば、変える努力をする。変えられないものならば、とりあえずそれを受け入れてみるのだ。ところが、あまりにも完全主義的な人というのは、直ちに変えられないものを変えようとして、しばしばこころのバランスを崩していまっている。

 ほんのわずかな失敗も取り返しのつかない大失敗ととらえ、それが不吉な未来を暗示する呪いのように感じてしまう。必死になって、本来の能力以上の努力を重ねているうちはともかく、それが報われないと、自己の存在の意味をすべて失ってしまいかねない。「一〇〇点を取れなければ、合格点を取っても零点と同じだ」といった、二者択一的な思考法にとらわれている。

 一見、成績優秀で、スポーツ万能などといった学生が自殺を図ると、周囲の人々はなぜそのような行為に出たのか、まったく理解できないなどと考えることがある。しかし、このようなタイプの人はしばしば完全主義的な性格で、優秀な成績を取り続けることが、辛うじて家族の愛情や周囲からの賞賛を確保して、自分の存在意義を保つ唯一の手段になっているようなところがある。周囲からは優秀と見られているのだが、本人は自己不全感が強く、「完全ではない自分」「けっして優秀ではない自分」の化けの皮がいつかかならず剥がされてしまうのではないかと、強い不安に脅えている。

 

  →「時間が問題を解決してくれる」などという考え方は、無責任・負け組・無能な人間の発想だと教えられてきた。改めて考えてみると、別に無責任・負け組・無能だと思われてもよかったのだが…。

 今の若者は、どのような価値観を教え込まれているのだろうか? SNS上における、政治、とりわけコロナ対策への批判などを見ていると、あまり変わってないような気もする。我慢できない人間は依然として多いままか? すべての問題を後回しにするのはよくないが、だからといってすべての問題が、今すぐ解決できるわけでもない。やはり、精神的なバランス感覚は保っておく必要がありそうだ。

 

④孤立、抑うつ

 抑うつ的で、あまり目立たず、引きこもりがちな人の自殺の危険が高いことについては、異論はないだろう。他の人々とのつながりがもともと希薄で、周囲からは本人の抱えている問題がとくに認識されていない人の中に自殺に走る危険の高い人がいる。このような人が自殺を図ったりすると、そもそも、その人が抱えていた問題などあったのか、まったく気づいていなかったなどといった意見が周囲の人々から聞かれる。

 

⑤反社会的

 暴行、窃盗、不純異性交遊、暴走族や暴力団への加入といった非行が問題となっている青少年の中に、抑うつ症状や自己破壊傾向が隠されているタイプの人がいる。このようなタイプの自殺の危険の高い人に関しては、欧米では従来から強い関心が払われていたが、日本ではほとんど問題視されてこなかった。

 こういったタイプの人は問題児扱いこそされていても、抑うつ傾向などについては、周囲の人々はまるで考えてみたこともない。同じような悩みを抱えた人たちとの間に絆を保っているうちは、自己破壊的行動という形で問題が噴き出すことはないかもしれない。しかし、属していた集団からその人が追放されたり、そもそも集団自体が解体の危機に襲われているという場面に直面したりすると、元来の自己破壊傾向が急激に問題となりかねない。とくに思春期で反社会的行為を呈する人には、背景にある抑うつ傾向に注意を払うべきである。

 反社会的行為が自己破壊傾向と密接に関係することは、成人期以後でも同じように認められる。時に自らの死を故意に招くような犯罪行為が世間の注目を集めるようなことがあるのもその好例といえるだろう。たとえば、あえて凶悪な犯罪に及んで、警察官に殺害されることを当初から意図しているような人がいるが、これは無意識的な自殺行動とさえ解釈できるかもしれない。

 

 ここまで挙げた性格のひとつひとつを取り上げれば、このような性格の人はどこにでもいると反論されるかもしれない。しかし、重要な点は、このような性格傾向と並行して、他の問題点もとらえていくことであるのだ。たとえば、その人がこれまでにどのような生き方をしてきたのか、どのような問題を周囲の人々との間で抱えやすかったのかという点も重要である。さらに、性格や対人関係の問題とともに、生き方を難しくしてしまうようなこころの病気はないかといった点についても考えていかなければならない。

 

  →筆者のいうように、結局、これらの性格は誰でももっている。ただ、その傾向・度合いが強すぎるのではないか。こういう言い方をすると、数値で示せない以上、科学的ではないと言われるのだろうが…。

 たとえば、「未熟、依存的」と「完全主義的傾向」は正反対のような性格でありながら、どちらも自殺しやすい性格だという。つまり、どのような性格にせよ、特定の性格に振り切れてしまったら、自殺しやすくなるのではないか。どちらともつかない、あるいは、場合によってはどちらか一方の性格になるけど、すぐにもう一方の性格にもなりうるような、バランスを保った性格であることが、自殺遂行から最も距離のとれた性格なのかもしれない。自分はどちらか一方の性格であるという思い込み、執着心のようなものが、ここでも問題であるかのように思われる。一昔前の受験戦争やディベート・論理力推奨教育、「あいまいな日本人批判」、イエスかノーかで議論を進める欧米型思考慣習への過度な憧れなどが「ガン」だったのかもしれない。近年、自殺者が減少傾向にあるのは、こうした(近代的)価値観が常に正しいわけではないことに気づき、それを無駄に礼讃する傾向がなくなりつつあるからか。

 

P93 「いじめ」「リストラ」だけが原因ではない

 自殺が問題になると、最近では、青少年の場合は「いじめ」が、中高年の場合は「不況」や「リストラ」が大きく取り上げられる。

 たしかに、こういった問題は深刻であり、社会全体が正面から取り組まなければならないことに異論はない。

 しかし、これだけが唯一の原因であると考えると、自殺の全体像を見失ってしまうと私は考えている。自殺にまで追い詰められてしまう人の心理を十分に理解できないばかりか、予防のための適切な手を打つこともできなくなってしまうだろう。

 実際には、自殺はたったひとつの原因で起きるというよりは、複雑な過程の結果として起きると考えるべきだ。自殺に至るまでには多くの問題が重なっている状態がほとんどかならずといってよいほどある。この準備状態こそが重要であり、直接の契機は、ほんと些細なことかもしれない。

 しばしば、自殺や自殺未遂が起きると、その直前の出来事だけに関心が向けられてしまう。そして、「どうして、あの人はこれくらいのことで自殺を図ったのか?」と周囲の人々は途方に暮れる。

 しかし、重要なのは長年にわたって問題が徐々に積み重なってきた準備状態そのものなのだ。たしかに、それまではほとんど大きな問題がなく、短期間にあまりにも衝撃的なことが起きたために、自殺の危険が迫るといった人がないわけではない。

 ところが、ほとんどの場合、いくつもの問題が長年にわたって積み重なってきたことこそが重要な役割を果たしていることを理解してほしい。

 英語には「the last straw」という言葉がある。直訳すれば、「最後の一本の藁」となるだろう。ラクダの背中にあまりにも多くの荷物を載せている。それでもラクダはなんとか耐えてきた。しかし、ある限度を超えてしまうと、たとえ最後に載せた一本の藁でも、ラクダの背骨を折ってしまうことになるというのを、この言葉は意味している。最後のごくわずかな負荷、忍耐の限界を越えさせるものという意味で使われる。

 「準備状態」と「直接の契機」の関係も、同じように例えることができるだろう。知らず知らずのうちに、多くの荷物を背負いこんでしまっている。これが準備状態なのだ。そして、いよいよ限界ぎりぎりまできてしまっているときに、最後の一本の藁を載せてしまい、ラクダの背骨を折ってしまった。これが直接の契機と言いかえてもよい。

 準備状態について理解していない人にとっては、直接の契機などは、「たかが『藁一本』で、どうして、自殺を図ったりするのだろうか?」「それくらいの問題を抱えている人など、世の中にはいくらもいるではないか?」と考えてしまいがちである。

 図1には、自殺に関連するさまざまな原因を挙げてみた。「いじめ」や「リストラ」といった問題もたしかに重要な問題である。しかし、いじめやリストラにあった人のすべてが自殺しようとするわけではない。

 他にもさまざまな原因がからんでくることを考えなければならない。たとえば、多くの場合、自殺の直前には何らかのこころの病の診断にあてはまる状態になっている。さらに、前項で取り上げたように、問題を抱えたときに解決の幅の狭い性格傾向などもかかわってくる。生物学的に、元来、衝動性のコントロールが悪いといった傾向も、自殺が行動化される際に大きな役割を果たす。そして、自分にとって重要な絆を持った人が、自殺で亡くなっているといった経験も、本人の自殺の危険を高める結果をもたらすことになりかねない。

 このように自殺の危険とは多くの原因から生じる複雑な現象なのであって、たったひとつの原因ですべてを説明するのは非常に難しいし、場合によっては事態を誤って把握してしまいかねないということを、まず強調しておきたい。

 これまでにそれほど大きな問題も認められずに、順風満帆の人生を送ってきた人が、中年になって、ある問題を抱えて、うつ病になってしまった。その結果、自殺さえ思うようになったとする。こういった例では、まず、うつ病の治療に専念することになる。従来の薬と比べて副作用も少なくて、効果的な抗うつ薬も今では手に入る。ごく大雑把に言って、うつ病は一〇人に一人は人生のある時期にかかる。けっして稀な病気ではない。最近では、うつ病を「こころの風邪」などとも呼ぶくらいである。怖いのはうつ病になってしまったことではなく、うつ病であるのに気づかず、適切な対応をしないことなのだ。

 さて、すべての人がこのような形で対応できればよいのだが、さらにもう一歩踏み込んでいかなければならない人がいる。それについては次章で触れることにしよう。