応永二十五年(1418)三月八日条(『図書寮叢刊 看聞日記』1─199)
八日、霽、(中略)
(中院)
抑三条坊門大納言通守卿去月十日令二自害一、以二小刀一喉吭かき切云々、春日祭
上卿事被レ仰、難二治故障一之由申、猶現見被レ仰、窮困過法難レ叶之由再三申、
所詮窮困身、朝廷拝趨不レ可レ叶、只欲二自害一之由常持言也、十日有二酒宴一、
其後於二持仏堂一自害云々、併狂気歟、近日天下口遊云々、不思儀事也、
「書き下し文」
抑も三条坊門大納言通守卿去月十日自害せしむ、小刀を以て喉吭を掻き切ると云々、春日祭上卿の事を仰せらるるに、故障難治の由を申す、猶ほ現見を仰せらるるに、窮困過法叶ひ難きの由再三申す、所詮窮困の身、朝廷に拝趨叶ふべからず、ただ自害せんと欲するの由常に持言するなり、十日酒宴有り、其の後持仏堂に於いて自害すと云々、併しながら狂気か、近日天下の口遊と云々、不思儀の事なり、
「解釈」
さて、三条坊門の大納言中院通守卿が先月二月十日に自害した。小刀で喉笛を掻き切ったという。称光天皇は春日祭の上卿に通守卿をお命じになったが、通守卿は「抱えている差し障りを片付けることができていない」と申した。さらに、称光天皇は「姿を見せるように」とご命令になったが、通守卿は「貧困の厳しさによって参上することはできない」と再三申した。「結局、貧困の身では朝廷に参上することはできない。ただ自害したい」といつも言い続けていたのである。二月十日に酒宴があった。その後、持仏堂で自害したそうだ。結局のところ、狂気だったのだろう。この件は、近ごろ世間の噂になっているという。思いもよらないことである。
「注釈」
今回の史料ですが、すでに二人の研究者によって分析されているので、まずはそれを紹介していきます。
松薗斉「中世後期の日記の特色について」
(『日本研究』44、2011・10、409頁、https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=487&item_no=1&page_id=41&block_id=63)
史料2〈今回の史料〉は、現任の大納言であった中院通守が、春日祭の上卿を命じられながら、経済的に困難であると再三辞退したものの、なお勤めるように強請されたので、進退窮まって自害してしまったというものである。酒の勢いにまかせて、という感があり、他にも事情があったのかもしれないが、中院家のような上級貴族でも公事を勤めることができない状況に追い詰められていた者がいたことは確かであろう。
井原今朝男「中世の僧綱は輿に乗らねばならなかった」
(『史実 中世仏教』第2巻、興山舎、2013、37〜38頁)
こうした〈朝廷の勅使の〉行列は「装束目録」が事前に定められ、衣服の色や文様、身につける装飾品まで決められていた。春日祭や賀茂祭など祭使の華麗さは想像できよう。
したがって、室町時代になって公家が経済力を喪失すると、とりわけ三位以上で、清華家・大臣家と呼ばれる格式のある上級貴族の家では、前駈の殿上人と諸大夫、五位の侍から牛童・車副や駕輿丁・輿副や童にいたるまで自力で準備することができなくなる。このため一門の貴族から互いに融通しあったり、摂関家などから装束を借用したりと、苦労した。
たとえば、応永二十五年(一四一八)年、春日祭の上卿(責任者の公家のこと)に任命された三条坊門大納言通守は困窮のあまり上卿の役を負担することができないと再三、朝廷に辞退を申し出た。しかし、称光天皇は厳格に執行するように命じた。このため、通守は「所詮、困窮の身で朝廷に拝趨すること叶うべからず、自害を欲す」と口にして、持仏堂で自害してしまった(『看聞日記』応永二十五年三月八日条)。身分社会の中では、貴族の体面を維持できない場合には、自害や遁世して公家身分を放棄しなければならなかったのである。
井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」
(『室町廷臣社会論』塙書房、2014、178頁)
摂家・清華家・大臣家は、政権運営では、勅問の輩として位置づけられ、関白執奏や宮執奏などで国政意志決定の審議過程に参加することはできた。彼らは家格が高位高官ではあったから、朝衣狩衣衆といわれ、装束の準備・維持にも出費が嵩んだ。拝賀や室町殿参賀などの外出では、公卿の扈従や殿上人の前駈、諸大夫や布衣侍の地下前駈、衛府・雑色人・牛飼など確保しなければならなかった。つまり、摂家・清華家・大臣家の上位家格の公家層が、より身分的・経済的に「困窮」に陥ることが多かったといわなければならない。洞院家熙は自らが清華家で「番々の輩の如く成り下がる」ことはできないと述べ、子息公数は出家して家領や家文書を売却し、家の断絶を主体的に選択したことが指摘されている。
大臣家の中院家でも同様の事例がみえる。応永二五年(一四一八)三条坊門権大納言通守は、春日祭上卿を仰せつけられたが、「窮困過法難レ叶之由再三申」して辞退した。しかし、後小松院はなお「厳密」に仰せつけた。「所詮、困窮の身、朝廷拝趨叶うべからず、只自害を欲す之由常に持言也」として、二月一〇日持仏堂において小刀で喉元をかき切り自害し、「天下口遊云々」と騒がれた(『看聞日記』応永二五年三月八日条)。経済的逼迫の度合いは絶対的なものではない。摂家・清華家・大臣家など高い身分ほど、格式にともなう「困窮」の度合いが強いから、「困窮の身」の自覚意識が大きかったといわなければならない。
*〈 〉内は筆者の注記。
以上のように、この史料は詳細に分析されているので、取り立てて何かを付け加えることはないのですが、ひとまず自殺の概要をまとめてから、いつものように自殺の動機に迫っていこうと思います。
今回の史料で自殺を遂げたのは、大納言中院通守でした。この時期、通守は経済的に困窮しており、それを理由に朝廷から命じられた上卿の役目を固辞していました。彼は日ごろから、貧困のために出仕できないことを気に病み、自殺したいと漏らしていたようです。そんな折のこと、二月十日に酒宴が開かれました。通守は酒宴の後に持仏堂に向かい、小刀で喉笛を掻き切って自殺してしまったのです。
では、中院通守はどのような動機(原因・目的)によって、自殺を遂げたのでしょうか。史料に明示されているように、自殺の原因動機の一つは、「経済的困窮」であったとみなしてよいでしょう。通守自身が日ごろから貧困の身を嘆き、自殺したいと漏らしていたのですから、この点は問題ないと考えられます(注1)。管見のかぎりですが、今回の記事が経済苦を原因に自殺した最古の史料ではないかと思われます(注2)。
次に、通守は何を目的に自殺を遂げたのかを考えてみましょう。ここで参考になるのが、前述の井原氏の「身分社会の中では、貴族の体面を維持できない場合には、自害や遁世して公家身分を放棄しなければならなかったのである」(『史実 中世仏教』第2巻)という指摘です。おそらく、貧困のために満足な奉公ができない状態が続くというのは、通守にとって耐えがたい恥辱だったのでしょう。こうした恥辱からの逃避が、自殺の目的動機の一つだったと考えられます。
しかし、体面を維持できないという心理的な原因だけで、本当に自殺にまで至るのか、という疑問が残ります。これについても、井原氏の研究が示唆を与えてくれます。「室町戦国期は、天皇の勅勘(出仕停止処分)や室町殿の突鼻(勘当処分)にあって所領没収や出仕停止のみならず、家名断絶や廃絶する公家や武家が多数現れた」(「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」『室町廷臣社会論』塙書房、2014年、271頁)。この指摘を踏まえると、中院通守は上卿任命の拒否・出仕不能によって、所領没収や家名断絶に処されることを恐れたのではないか、と考えられます。つまり、恥を晒すだけでなく、公家の身分やそれに付随した経済的特権を失って、苦しみながら生きながらえるぐらいなら、いっそ自ら命を絶ったほうがましだと考えたのではないでしょうか。
ところで、井原氏も指摘しているように、困窮に陥って奉公が叶わなくなった場合、必ずしも自殺するとは限らず、遁世することもあったようです。いやむしろ、中院通守のように、自殺をしてしまうほうが珍しかったのではないでしょうか。この時期の古記録を見ていると、貧困に喘ぐ公家の記事は枚挙に遑がありません。その多くは、困窮しているだけで、自殺を決行するどころか、遁世することさえもしていないのです(注3)。
実は、この史料から遡ること約200年前、寛喜三年(1231)にも、中院通守の状況とよく似た事件が起きました。この事件については、平雅行氏がすでに検討されているので、必要な箇所を引用しておきます。
平雅行「日本中世における在俗出家について」
(『大阪大学大学院文学研究科紀要』55、2015・3、21頁、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/55449/)
近衛少将藤原教信は舅である大納言源雅親の吹挙で昇進し、寛喜三年(一二三一)賀茂祭の近衛使に指名された。しかし、近衛使をつとめるには相当な費用負担が必要であるため、その経費を捻出できないということで辞退した。ところが後堀河天皇は辞退を認めず、再三譴責して教信の勤仕を求めた。一方、教信の方もあくまでそれを拒絶し「対捍之様、非二普通之儀一」と評されている。近衛使の辞任が予想を超えた大問題に発展したのである。結局、教信はこの後、「渡世之計」を失って高野山で出家しているが、これも挫折・失意・諦念による出家と考えてよい(『民経記』(大日本古記録)寛喜三年(1231)三月五日条・十三日条(東京大学史料編纂所「古記録フルテキストデータベース」、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/1602/0271?m=all&s=0271、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/06/1602/0284?m=all&s=0271&n=20)、『明月記』天福元年(1233)八月二十四日条(国会図書館デジタルコレクション『明月記』第3、コマ番号194、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991255)。
藤原教信(藤原道隆の孫・藤原輔平の子)の境遇は、中院通守とよく似ています。ですが、教信は出家し、通守は自殺してしまいました。今後、事例を蒐集してみなければはっきりしたことは言えませんが、経済苦を原因に自殺するという事例は、室町時代から始まったのかもしれません。
ところで、この教信と通守の違いはどこにあったのでしょうか。史料からはこれ以上のことは読み取れないのですが、ここでも井原氏の研究が示唆を与えてくれます。
井原今朝男「中世の僧綱は輿に乗らねばならなかった」
(『史実 中世仏教』第2巻、興山舎、2013、36頁)
中世の僧侶は、大半は武士や貴族の出身者が多かった。法然は武士漆間時国の子息であり、親鸞も公家日野有範の子息である。出家して世俗との関係を断ったとはいえ、寺院での生活を支える費用や雑事をこなす要員は、実家や檀越からの寄進や援助に頼った。このように、中世の学僧は、身の回りの世話をする下﨟僧や所従・下人などの従者を祖父以来の相伝として所有していた。こうしたことから、僧侶社会の日常生活は、武家や貴族の生活規範がそのまま通用する世界でもあったのである。
この井原氏の指摘を踏まえると、次のことが推測できます。つまり、藤原教信には経済的・人的資産があり、出家後の生活がある程度保証されていたために出家した。一方の中院通守にはそうした資産がない、あるいは勅勘によって家名断絶・所領没収され、出家しても生活レベルが一挙に落ちることが予期されたために、自殺を遂げた。
中院通守が自殺した時期は、歴代天皇のなかでもとりわけその凶暴性をあらわにした後小松・称光天皇親子の御代でした(注4)。彼らの御代には処罰例が多かったそうですが、こうした特殊な政治状況に身を置いていたからこそ、通守は自殺を決意したのではないでしょうか。
最後に、今回の事件をまとめておきます。中院通守の自殺の原因動機は、経済苦による奉公不能だったと考えられます。彼はそのような状況に陥ってしまったことで拭いがたい恥辱を味わったと考えられます。また、所領没収や家名断絶に処され、苦しみながら生き続けなければならないという窮状が永遠に続いていくと思い込み、それを恐怖したのではないでしょうか(注5)。自殺の目的動機は、こうした恥辱や恐怖から逃避だったと考えられます。
ところで、令和元年(2019)における厚生労働省の調査によると、「経済・生活問題」を原因とした自殺の割合は全体の約17%で、1位の「健康問題」(約49%)に大きく差をつけられているものの、第2位の原因となっています(厚生労働省自殺対策推進室・警察庁生活安全局生活安全企画課『令和元年中における自殺の状況』2020・3、https://www.mhlw.go.jp/content/R1kakutei-01.pdf)。このように経済苦は、現代では主要な自殺原因とみなせるのですが、中世ではまだまだ珍しい原因だったと考えられます。つまり、「経済苦は超歴史的・普遍的な自殺原因ではない」、言い換えると、「経済苦は歴史・社会的に形成された特殊な自殺原因だ」ということになりそうです。もしこの推論が正しければ、経済苦で自殺することは当たり前ではなくなるわけですから、経済苦で自殺しなくてもよい、もっと言えば、自殺するほどの「苦」だと思わなくてよい、ということになります。ところが人間は、「苦」や「問題」という言葉の前に、「経済」「生活」「健康」「勤務」「男女」「学校」「家庭」のような修飾表現を付けて、何でも自殺の原因にしてしまえるのです。となると、現在では想像もできないことを苦痛に思い、それを原因に自殺を決行する人が、今後現れるかもしれません(注6)。
このように見てくると、自殺の原因をいくら新しく提起し分類したところで、何の解決にもならないことがわかります。自殺の原因を「経済・生活問題」「健康問題」「男女問題」「勤務問題」「学校問題」「家庭問題」といったカテゴリーに分類して、わかったような気になるのではなく、そうした「苦」から逃避するために、どうして人間は「自殺」という手段を用いてしまうのか、という点を明らかにすることが喫緊の課題だと考えられます。苦からの逃避の仕方はいくらでもあります。にもかかわらず、なぜ「自殺」を選んでしまうのでしょうか。「苦からの逃避」と「自殺」の結び付け方にも、きっと歴史的・社会的な特徴があるでしょうから、現代と近代、そして前近代では、異なる通念や価値観によって両者は結び付けられていたはずです。
自殺は、当事者が望んだように見えて、それだけではない。知らぬ間に、社会通念として刷り込まれ、そうするものだと思い込まされている可能性があるのです。「苦痛や絶望、恥辱から逃れるためには、自殺するしかない」という自殺念慮は、私的な意志であるように見えて、社会通念そのものでもあることに気づかなければならないのではないでしょうか。
(注1)
松薗氏も指摘しているように、「酒の勢い」やその他の事情が、自殺の遂行に影響を与えた可能性もあります。その他の事情については関連史料がないため付け加えることはないのですが、酒と自殺の関係については高橋祥友氏の研究が参考になります。
さて、自殺とアルコールの関連であるが、アルコール依存症はうつ病とともに重要な自殺の危険因子とされている。さらに、うつ病とアルコール依存症の両方の診断にあてはまるような状態では、自殺の危険はより一層高まってしまうことは当然である。
ただし、アルコール依存症の診断までには該当しない人であっても、死への恐怖感を減らすために、自殺企図の際に、しばしばアルコールが使われている。
精神科医をしていると、飲酒さえしていなかったならば、死への衝動を行動化することはなかっただろうと思われる事例にしばしば出会う。酩酊することによって、自己の行動をコントロールする力を失った状態に追いこんで、自殺を図る人はけっして少なくない(「自殺未遂の実態」『自殺未遂─「死にたい」と「生きたい」の心理学』講談社、2004、81・82頁)。
この研究を踏まえると、中院通守は飲酒によって自制心を失い、自殺を遂げてしまったと推測できそうです。当たり前のことなのでしょうが、中世びとも飲酒をきっかけにして、自身の感情や行動をコントロールできなくなり、自殺に至ることがあるようです。
もう一つ注目しておきたいのが、自殺した場所です。通守の邸内には持仏堂が存在したようですが、彼はそこで自殺を遂げています。どのような仏を祀っていたのかはわかりませんが、仏前で自殺することで、来世での救いを求めたのかもしれません(自殺の中世史2─13・14、3─3など参照)。
(注2)
今のところ私は、鎌倉時代以前と室町時代には隔絶があり、室町以降に経済苦を原因とした自殺が増えていくと予想しています。おそらく、貨幣経済が人間の心の隅々にまで根を張り、貨幣なしでは生きていけなという思い込みがはっきりと姿を現した時期が、室町時代だったのではないかと考えています。このような推測の是非はさておき、両時代の違いは何に由来するのか、どのような社会背景や価値観が経済苦による自殺を引き起こすのか。また、現代よりも明らかに貧しい暮らしをしていたであろう中世以前の人々は、どうして経済苦を原因に自殺しないのか。このような疑問が後から後から湧いてくるのですが、いずれも今後の課題としておきます。
(注3)
このブログの「一軒家から借家への転落」で紹介した四条隆富、「ハーレム内の憂鬱3」で紹介した田向長資など参照。ただし、井原氏の研究によると、一部の貴族の生活は比較的安泰だったようです。幕府や禁裏から給付金を得るため、自領荘園に下向して年貢などを徴収するため、公務をさぼる名目として「困窮」を訴えることもあったそうです(「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町廷臣社会論』255頁)。
(注4)
桜井英治「神慮による政治」(『室町時代の精神』日本の歴史12、講談社、2001、93頁)。なお、後小松上皇や称光天皇の凶暴性については、その個人的な気質として語られてきたのですが、井原氏によると、むしろ天皇家の家父長制的権力の凶暴性を物語るものだとされています(「室町戦国期における天皇権力の二面性」『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012)。
(注5)
前掲高橋著書85・86頁には、自殺の危険性が高くなっている人の心理の特徴として、「窮状が永遠に続くという確信」を持っていることが挙げられています。
(注6)
例えば、「あまりにも美しすぎるこの世界を見続けることが苦痛で自殺した…」など。信じられないが、論理的にはあり得る原因だと思われます。これまで紹介してきた記事の中にも、現代人の感覚からすると、信じられない原因によって自殺を遂げた記事はいくつもありました。「そんな理由で自殺をするのか…」と。そうすると、かりに中世びとが現代人の自殺原因を知れば、「そんな理由で自殺するのか…」と思うでしょうし、未来人が現代人の自殺原因を知れば、同じように「そんな理由で自殺するのか…」と思うでしょう。こうした想定をするだけでも、自殺の原因・目的は超歴史的・普遍的なものではない、つまり歴史・社会的に形成されたものであることが推論できます。