六〇 安芸国沼田庄楽音寺略縁起写 その3
*『広島県史』の読点の打ち方を変更したところがあります。
天子下問曰賊徒之為レ似レ何也、対曰殆非二人倫一如二鬼神一已、帝曰夫如二鬼神一
則以二仏力一可レ闘也、卿再征補二前敗之咎一、倫実弥感二医王之霊験一、嚮逃上洛
時有二神人一告言鏖レ賊之術当レ用二火攻一也、於レ是倫実由二其謀一趣二澱河
曲江一、点二閲大小之船舫一、催二和泉河内之兵卒一、駈二摂津播磨之役夫一、芟二
荻薄一、於二昆陽野印南野一積二載之一、数千艘以追二賊城一、乗二烈風一、発二火于
船中之草一、火船突レ城、赤炎充レ寨黒煙包レ城、陸地之官軍競進鋭気殺出、並レ蹄
(矢)
列レ鑣、鐘鼓震レ地、来二失鏃一雨下、凶徒無レ所レ遁悉亡滅、倫実便取二純友首一
速献上、其捷 帝感、其功賞補二任左馬允一、賜二芸州沼田七郷一、倫実遂果二
宿願一、故作二一堂一安二丈六薬師仏一、以二髫中一寸二分之小像一籠二其像内一、
是所謂本尊者也、
(1585)
天正十三年乙酉四月日 周仁施二入之一、
おわり
「書き下し文」
天子下問して曰く、「賊徒之何に似たるや」と、対へて曰く「殆ど人倫に非ずして鬼神のごとくなるのみ」と、帝曰く「夫れ鬼神のごとくんば、則ち仏力を以て闘ふべきなり、卿再征し前敗の咎を補へ」と、倫実いよいよ医王の霊験を感ず、嚮に逃げ上洛せし時、神人有りて告げて言く「賊を鏖にするの術、当に火攻めを用ゐるべきなり」と、是に於いて倫実其の謀に由り淀川の曲江に赴き、大小の船舫を点閲し、和泉・河内の兵卒を催し、摂津・播磨の役夫を駈り、荻・薄を芟り、昆陽野・印南野に於いて之を積載す、数千艘以て賊の城を追ひ、烈風に乗り、火を船中の草に発す、火船城を突き、赤炎寨に充ち黒煙城を包む、陸地の官軍競ひ進み鋭気を殺出し、蹄を並べ鑣を列ね、鐘鼓地を震はせ、矢鏃の来たること雨下るがごとし、凶徒遁るる所無く悉く亡滅す、倫実便ち純友の首を取り速やかに献上す、其の捷に帝感じ、其の功賞として左馬允に補任し、芸州沼田七郷を賜ふ、倫実遂に宿願を果たす、故に一堂を作り丈六の薬師仏を安んじ、髫中の一寸二分の小像を以て其の像内に籠む、是れ所謂本尊たる者なり、
おわり
「解釈」
朱雀帝が質問しておっしゃるには、「賊軍はどのようなものに似ているか」と。藤原倫実が答えて言うには、「ほとんど人間ではなく、まるで鬼神のようです」と。帝がおっしゃるには、「そもそも藤原純友軍が鬼神のようであるならば、御仏の超人的な力を用いて戦うのがよいのである。そなたは再び純友のもとに赴き、以前の敗戦の咎を補え」と。倫実はますます薬師如来の霊験を感じ(ることがあっ)た。以前に釜島から逃げて上洛したとき、神のような存在がいて、倫実に告げて言うには、「賊軍を皆殺しにする方法は、火攻めの戦法を用いるのがよいのである」と。そこで倫実はその計略によって、淀川の曲がりくねった入江に向かい、停泊している大小の船を点検し、和泉国と河内国で兵卒を催促し、摂津国と播磨国でも人夫を催促して、荻や薄を刈り取って、昆陽野・印南野でこれを船に積み込んだ。そして数千の船が賊軍の城を追い求め、激しい風に乗って進み、船の中の草に火を付けた。火船は城に突き当たり、真っ赤な炎が砦に満ちあふれ、黒煙が城を包んだ。陸地の官軍は競って進軍し、激しい闘志を強く現しながら、騎馬兵が列をなして立ち並んでいる。鐘や太鼓の音が大地を震わせ、雨が降るかのように矢が飛んできた。凶徒は逃れる場所がなく、ことごとく滅亡した。倫実はすぐに純友の首を取り、速やかに朱雀帝に献上した。帝はその戦勝に感心し、論功行賞として倫実を左馬允に補任し、安芸国沼田七郷をお与えになった。倫実はついに宿願を果たした。だから、一つの御堂を作り、一丈六尺薬師如来像を安置し、髻中に籠めていた一寸二分の小さな薬師如来像をその像内に籠めた。これが世間で言われているところの本尊である。
おわり