周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─11 〜親子不和の責任と自殺〜

  応永二十五年(1418)六月十五日条『東院毎日雑々記』

      (『大日本史料』第7編32冊、235頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0732/0235?m=all&s=0235

 

 十五日、〈甲午〉、(中略)高畠布袋五郎入道切腹死云々、与子息不快故云々、珍事不便々々、不孝責為之、(下略)

 

 「書き下し文」

 十五日、甲午、(中略)高畠布袋五郎入道腹を切り死すと云々、子息と不快の故と云々、珍事不便々々、不孝の責之を為す、

 

 「解釈」

 高畠布袋五郎入道が腹を切り死んだという。子息との不和が原因だそうだ。思いもよらない出来事で、気の毒なことだなあ。息子を義絶した責任をとってこのように自殺した。

 

 「注釈」

「東院毎日雑々記」

 ─東院光暁の日記。

  →「光暁」─ 1363-1433 室町時代の僧。貞治(じょうじ)2=正平(しょうへい)18年生まれ。広橋仲光(なかみつ)の養子。法相(ほっそう)宗。応永6年維摩会(ゆいまえ)の講師(こうじ)をつとめ,10年から興福寺東院・修南院の住持をかねる。21年別当となるが,22年辞し,永享2年再任され,円暁とあらためた。文珠僧正とよばれた。永享5年7月4/14日死去。71歳(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/光暁-1073854)。

 

「高畠布袋五郎入道」

 ─未詳。高畠郷を拠点とする衆徒か。以下、「高畠村」についての説明を引用しておきます(『奈良県の地名』平凡社)。現奈良市高畑町。春日山西南麓に所在。慶長郷帳には「高畑村」と有、村高七二二・七一石。このうち一九・〇九石は春日社禰宜屋敷、七〇三・六二石は興福寺領。元和郷帳では興福寺領のうち四・六四石が「辻将監并正法院屋敷共」となっている。

 「経覚私要鈔」長禄三年(1459)三月十五日条に「六方令蜂起高畠辺破却云々」とみえ、「大乗院雑事記」寛正六年(1465)六月十五日条によれば、通称北天満町の天満神社拝殿の中門上葺に際して高畠郷・白毫寺郷に至るまで棟別・人別銭を徴収している。同書文明十二年(1480)六月十九日条の「七郷」(興福寺寺門郷)のうち新薬師郷に下高畠・上高畠があり、興福寺寺務の支配下にあった。もとは新薬師寺門前郷として発達したと考えられるが、春日社家郷のうちとも考えられる。

 

 

室町時代にも親子の不和(家庭問題)を理由にして自殺することがあったようです。最後の「不孝責為之」という部分の解釈がいまいち判然としませんが、高畠布袋五郎入道は息子を義絶した「責」任をとって自殺した、と解釈できそうです。いったい誰に対して責任をとったのでしょうか。義絶した息子に対してでしょうか、迷惑?をかけた一族や関係者に対してでしょうか…。これ以上の詳しい事情も、高畠布袋五郎入道自身の本当の動機もわかりませんが、当時の奈良では、「親子不和を原因動機として、子を義絶した責任をとるために自殺する」という社会通念が形成されていたと考えられます。

 「責任を取って自殺する」。日本人には聞き慣れた表現ですが、管見の限り、この記事が「引責という目的」と「自殺という手段」を結びつけた最古の一次史料になります。室町時代以前に「責任を取って自殺する」という感覚がなかったとは断言できませんが、自殺を見聞した第三者が、自殺遂行の合理的な目的として「引責」を想定し、明確に意識に上らせたのは、この時期だったのかもしれません。