周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

下園壮太著書

  下園壮太『人はどうして死にたがるのか』(文芸社、2003年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

1 感情のプログラム

P20

 私たちの体には、この原始人の生活にうまく適応するための仕組みが備わっています。99.5人を上手にサポートしてきた優れもの、それが〝感情のプログラム〟なのです。そしてこの〝感情のプログラム〟は、このほんのわずかの〝現代〟という異常な時間に対応するためには、まだ書き換えられてはいないのです。

 では、そのプログラムとはどのようなものでしょうか。

 まず、〝驚きのプログラム〟について説明しましょう。

 

(1)驚きのプログラム

 今、原始人が薄暗い山道を一人で歩いているとします。突然、暗闇なかからウーという唸り声と共に大きな影が現れました。熊です。

 このときの原始人に起こる反応が〝感情のプログラム〟によるものなのです。(中略)

目→ランラン

血→血管縮む、顔面蒼白、ドロドロ

心臓→バクバク、ドキドキ

消化管→喉カラカラ、胃が痛い

筋肉→硬直

手→汗

頭→真っ白

 

 そのとき頭はどうでしょう。「ああ、この熊は俺の3倍の力はありそうだが、横への動きは弱いようだ。逃げるべきだろうか、それとも戦うべきだろうか…」と悩んでいるようでは、その間に熊にやられてしまいます。そこで、このような緊急時には何も考えられなくなるのです。考えている暇はないのです。それよりも動物的な一瞬の判断で、戦うか逃げるかを選択し、行動に移す方が、生きていける確率が高いのです。

 さらに、このプログラムは〝身体〟を準備するだけではなく、その状況に最も適した行動を自然にとるような〝気持ち〟も準備します。攻撃の行動のときには〝怒り〟、退避行動のためには〝恐怖〟という気持ちです。このように身体と気持ちを一つのセットとして準備するのが感情のプログラムなのです。

 

 →刺激に反応してすぐに行動できるよう自動化されているため、意識に上らない。それを事後的に説明しようとして左脳の解釈装置が働き、因果関係にまとめあげる。

 

P22

 みなさんが、結婚式のスピーチを頼まれたとします。(中略)このスピーチのときの反応は、まさに〝驚きのプログラム〟です。原始人のためにはうまく働いていたこの感情のプログラムも、どうやら現代人にはそれほど有効ではないようです。

 何が原因なのでしょ。

 二つの問題があるように思います。一つはプログラムの〝発動と終了のきっかけ〟の問題であり、もう一つは〝発動の程度〟の問題です。

 そもそもこの感情のプログラムは、原始人が私の危険を避けるために発動されるものでした。死の危険を前に、全身を一つの目標、つまり〝生きること〟に向けて活動できるように準備したのです。まさに死を避け、生きるために必要な反応でした。

 ところが現代人の場合、この反応が、生死とは関係のないきっかけでも発動してしまうのです。熊に対処するのは原始人にとって命がけですが、われわれが結婚式のスピーチで失敗しても、命を取られることはありません。にもかかわらず、〝命懸けの反応〟がスタートしてしまうのです。

 この発動のきっかけは非常に個人的なものです。その人の人生経験のなかで、その人なりに危機だと感じる出来事によって発動してしまうのです。まことに主観的なものなのです。それが「自分はこのことで、死にそうなほど悩むのに、あの人は同じことがあってもなんとも感じてないようだ」という状態が生じる理由です。

 

 →スピーチに馴れ、それが危険でないことがわかれば、感情のプログラムは発動しない。

 

P24

 これは、プログラムが終了するときにも問題になります。原始人にとっての発動のきっかけは〝熊〟でした。熊との対応は、戦うか逃げるかにより一区切りがつき、プログラムは終了されます。

 ところが現代人の場合は、例えばそれが仕事であり、会社の人間関係であり、金銭問題であっても、何か行動したからといって即座に解決するという性質のものではありません。熊との対決は今日限りのことですが、あなたの苦手の上司は、今日もいる、明日もいる、明後日もいる…。しかも上司を殴ってやっつければよい、というわけでもありません。

 その結果、いったん発動したプログラムは、簡単に終了することなく長期間持続してしまうのです。

 するとどうなるでしょう。血液や心臓の状態は、〝高血圧〟の状態を持続し、血管を傷めます。現代人の死因で最も多いのは、ガン(悪性新生物)による病死です。2番目目に多いのは、この血管の病気です。心臓の大きな血管が詰まったり破れたりすることによる、心筋梗塞心不全などによる病死です。そして3番目に多いのが、なんと自殺です(表─2、働き盛りの20歳から50歳では2位)。

 最近は、ガンとストレスの関係も指摘されてきています。自殺とストレスの関係も言うまでもありません。つまり、現代人の健康トラブルのほとんどに、この感情のプログラムの問題が関わっているのです。

 

 →現代人は自分を生かすために働いているように見えて、そこで被ったストレスによって病気となり、それを治療するために働いているようにしか見えない。

 

P25

 さてここまで、〝感情のプログラム〟は、われわれ人間にとって、

 

①生き延びるための効果的な反応のセットとして備わってきた、ありがたいものであること

②しかしながら現代の(原始人から見たら)異常に発達した文明社会のなかでは、逆に、うまく生きていくことの妨げになったり、健康を害するものになったりすること

 

を確認してきました。

 プラグラム自体は意味のあるものでも、そのタイミングや程度が適切でないために、必要以上の反応をしてしまう、つまり誤作動している。現代人にとっての〝感情のプログラム〟の問題は、私にはそう思えるのです。

 

P27  (3)怒りのプログラム

 怒りのプログラムのメッセージは、二つあります。一つは「攻撃されたら反撃せよ」です。熊に攻撃されたとき、仲間がやられたときなど怒りを感じて相手に反撃します。(中略)

 もう一つのメッセージは「自分のテリトリー、地位を侵すものを撃退せよ」というメッセージです。テリトリーというのは自分の支配領域であり、縄張りのことです。

 自分の支配地域を確保するということは、食糧の確保につながるわけで、原始人が生きていくためにきわめて重要だったのです。

 また、人は群れで生活することを選択しました。その結果一つの大きい群れの縄張りの中で獲物や作物を分けることになります。

 その際もし、全員に十分な食糧が得られないとしたらどうでしょう(原始時代はこれが状態だったと思われます)。そのとき食べられる、つまり生きられるのは、グループでの地位が高い(力関係の強い)者です。また、よりよい異性と性交する機会もグループにおける地位が左右します。

 そこで、地位争い、グループのなかでの権力争いが熾烈になります。

 

 →互恵モジュール・階層モジュールによる反応と同じか。

 

P29

 怒りのプログラムの発動条件は、自分や仲間が攻撃されることと、地位やテリトリーへの侵害の危険があることです。

 現在では、権力を奪われた、資産を奪われた、自由を奪われた、人としての尊厳やプライドを傷つけられた、土地を奪われた、愛する人を傷つけられた、などの条件で発動します。これらは、裁判などで熾烈に争われる内容です。

 さて、怒りのプログラムがいったん作動すると、戦いに適した状態が準備されます。

 まず攻撃のための身体の準備が始まります。これは〝驚きのプログラム〟とほぼ同じ反応です。さらに気持ちの準備として、「自分は強い」「自分は正しい」という思考が頭を支配します。(「自分は最強・(自分は)正義・(自分は)正しい」思考)。

 そう思わせなければ、命を失うことになる戦いに向き合えないからです。客観的人は劣勢の勝負でも、怒りがあれば立ち向かいます。「窮鼠猫を嚙む」の諺通りのことが起こります。

 すべの感情には〝快〟と〝不快〟があります。快はその刺激に近づくための感覚です。食糧や異性、適度な温度に対して快が付与されています。逆に不快はその刺激を避けるように与えられています。(中略)

 ところが怒りは少々複雑です。怒りを与える対象は不快なものに違いありません。そこから逃げるだけなら不快だけでよかったのですが、怒りが想定するのは攻撃です。攻撃のためには近づかなければなりません。自分の力を見せつけるためにも接近する必要があります。そのために、快が混ざっているのです。威嚇する部分、攻撃する部分、つまり力を発散する部分は快感なのです。これが現代人によって、怒りのコントロールを最も難しくしている原因の一つになっています。

 原始人にとっての怒りは、まさに命懸けの状況で発生していました。そこで負ければ、死の危険があったのです。しかし現代のわれわれが怒りを持つとき、そこには死の危険などまったくない場合がほとんどです。

 子どもが親の言うことを聞かなくなったとき、怒りを感じます。部下が上司に不遜な態度をとったとき、怒りを感じます。電車が遅れたとき、怒りを感じます。レストランでのサービスが悪かったとき、怒りを感じます。すべて、自分が尊重されるべきであるという地位を侵される状況です。

 しかしこれらの状況は、〝死〟には直接結びつきそうにもありません。怒りの過剰発動なのです。宗教は怒ることを戒めてきました。文明社会において、怒りが正当なプログラムの意味を持つことが少なくなったからです。怒りの行動は、相手の怒りを触発し事態を悪化させます(いわゆる〝逆ギレ〟による反撃)。また、怒りを長く持ち続ける(恨み)と、その過剰な身体反応(高血圧など)により自分自身の寿命を縮めることが指摘されています。

 現代人が怒りのプログラムをうまくコントロールできないでいるのは、怒りのプログラムの持つ〝快〟刺激と「自分は最強・正しい・正義」思考のせいです。後で冷静に考えると、あの状態で彼にあんなことを言ってもうまく伝わらなかっただろうな…とか、言い過ぎだったな…と反省することはよくあるのですが、そのときは「今、ガツンと言ってやらなければ、彼のためにならない、社会のためにならないではないか」と考えてしまっているのです。この〝快〟があるために、怒りのプログラムは、後で紹介する〝絶望のプログラム〟に直接的に発展しやすい性質を持っています。

 話は変わりますが、怒りは縄張りの感覚に結びついていますので、場所や空間に敏感です。(中略)

 また最近の若い女性が電車のなかで化粧を直したり、若者が通路に直接座り込んだり、携帯電話で私的な内容を声高に話していたり、恋人同士が人前でいちゃつくのを見ていると腹が立ちます。

 これもこの縄張り感覚の影響です。ここは公共の場所であり、お前の縄張りではない。お前の私的な行為はお前の縄張りでやれ。あなたの怒りのプログラムはそう叫んでいます。

 

 →怒りがリスクを受け入れやすい理由。(マックス・ヘイザーマン)

 刺激に接近するためには快が必要で、回避するには不快が必要。

 格闘技が成立するには、力を発散する快感が必要。

 

 

P32 (4)不安のプログラム

 不安になったら皆さんはどうなるでしょう。

 そのことが頭から離れない。夜も眠れない。自分でもおかしいくらい悪い方にばかり考えてしまう。おろおろして落ち着けない…。(中略)

 生き残った(つまりわれわれの先祖となった)のはどういう原始人かというと、熊のことをずっと覚えていられたグループなのです。

 われわれが不安なとき、「忘れられない」というのは、実は当然なのです。忘れられないのではなくて、忘れないためのプログラムが働いているのです(忘れさせない思考)。

 不安のプログラムの発動条件は、生命の危険の存在です。外的な危険や脅威がある場合、自分の対応能力が低下している場合、あるいは守ってくれる仲間から孤立している場合などです。

 不安のプログラムには、忘れさせない思考の他にも、次のような思考の特性があります。最悪のケースを想像、連想するという特性、(最悪連鎖思考)です。

 

P34

 原始人には、その行動の一つひとつに命がかかっていたから、そこまで深刻に最悪のケースを考える必要があったのです。ところが現代人には、客観的に〝死〟が関係ないところでも、この不安のプログラムが発動してしまうのです。

 不安なときに眠れないのも当たり前です。眠れないのではなく、眠らないようなプログラムなのです。眠ってしまうと近くにいる外的から襲われる、それが不安のプログラムの指令なのです(眠るな指令)。

 

 →自分自身の社会的な存在価値の喪失を、擬似的な「死」と見なして自殺をすることはないか。

 

P35

 また、不安があると、さらに悪いことがありはしないかという視点で世間を見てしまいますので、どんどん悪い条件が目に入ります。例えば「自分は、愛されていないかもしれない」という不安を感じたときは、いつもの何気ない家族の会話や、普通だったら笑い飛ばしてしまう出来事でも「やはり、自分は愛されていないのだ」というサインとして受け取ってしまいます。その結果、さらに不安を強めてしまうとともに、その他の感情のプログラムを誤作動させてしまうのです(びくびく色眼鏡視点)。

 さらに、不安のプログラムが強くなると、新しいことができなくなるという傾向が現れます。

 たとえ頭でこうすればいいと分かっていても、それに移行することが難しくなります。それは、不安のプログラムが、「今、生きるか死ぬかのぎりぎりの状態だ。この方法は苦しいけれど、とりあえず生きていける。それを捨てて新しい方法に変えるのは、危険だ」と判断するからです。もちろんここでいう新しいこととは、プログラムが考えるような大それた〝生き方の変化〟ではなく、単に何かを断るとか、仕事を休むとか、仕事の方法を工夫するなどの些細なことです。それでも不安のプログラムが強く働いているときは、新しいことに伴う危険性ばかりを最悪連鎖で想像して怖くなってしまい、その些細な変化が受け入れられなくなるのです。それはまるでこれまでの方法にしがみついているようにも見えます(しがみつき傾向)。

 

P36 (5)悲しみのプログラム

 悲しみのプログラムもあります。原始人と熊の例に戻りましょう。原始人が自分の家族や仲間と、例の山の近くでウサギを追っていたとき

不運にもクマと出くわし、妻と仲間の数名が死んでしまいました。その原始人も怪我をしました。

 さてこのような状態でその原始人はどのような行動をとれば、生き延びるチャンスが高まるのでしょう。

 人は一人では熊に対抗できません。(中略)

 そこで、悲しみのプログラムは原始人に気配を消し、行動を起こさせないような仕組みを作りました。

 まず、食欲や性欲を減退させました。食欲があると、食べ物を求めに外に出てしまいます。傷ついた体で、仲間のサポートがないまま外に出るのは非常に危険です。性欲もそうです。異性を求めて外に出ないように、性欲がなくなるのです(食べたくない・楽しくない・欲しくない状態)。

 また、あまり運動していないにもかかわらず、強い疲労感があります(染み付いた疲労感)。元気いっぱいだと動きたくなるからです。

 さらに頭も働かなくなります。簡単なことが理解できず、単純なことも選択できません(理解できない、決めきらない状態)。さくさく頭が働くと、あっという間に結論ができてしまい行動したくなるからです。

 

P37

 悲しみのプログラムの発動条件は、DNAを残す可能性の減少です。愛する配偶者や子供の死は、直接にそのことを示します。失恋も、生殖の可能性を少なくします。

 自分の能力や魅力のなさを自覚することは、性行為の相手から選ばれる可能性が少なくなることになるので、やはりDNAが残せなくなる可能性に結びつき、悲しくなるのです。

 また、自分が生きてこそDNAを残せるので、〝個の保存〟の欲求を脅かす状態にも、悲しさが付属します。

 たとえば、守ってくれる親から見離されること、親を失うこと、親が離婚することなどです。自分自身の健康を損なうことや、老いることも悲しみの対象です。

 感情のプログラムはさまざまな変化をワンセットで発動させてしまいます。悲しみのプログラムが、何らかのきっかけでいったん発動すると、実際にはそうでなくても、次のような考え方や感じ方をするようになる。

 

 →後追い自殺などは、悲しみのプログラムが発動してしまったから。そこにさまざまな理由や背景などの物語を創出して、事後的に合理的な説明をしてしまう。この説明が通念となって人々に伝播し、自殺行動を引き起こすのか。

 脳は怠け者。少ない仕事量で済ませたい。だから直観モジュールは手軽で素早いし、じっくり考えている時間のない問題のときには、これが発動してしまう。

 

 自分は愛されていない。自分は孤独だ、誰も守ってくれない(「自分は孤独だ」思考)

 自分は、弱く、生きていけない。何をやっても失敗する(「自分は弱い」思考)

 人の役に立てない自分は、誰からも必要とされていない(「自分は必要ではない」思考)

 

などです。

 いずれにしても、私たちの悲しみに対する反応は、現代の環境においては〝過剰発動〟であり、むしろ社会からわれわれを遠ざけてしまっている場合が多いのです。

 

P39 2 うつとは、驚き、怒り、不安、悲しみがいっせい発動した状態

 さて、ここまでの説明で気がついている読者もいるかもしれません。そうです。あなたの、あるいはあなたの愛する人の〝うつ状態〟とは、これまで説明した驚き、怒り、不安、悲しみのプログラムが全て発動している状態なのです。

 

P40

 この〝感情のプログラムのいっせい発動〟が、本人にとって、自分が「悲しいのか、イライラしているのかわからない」「自分の気持ちがわからない」状態を作り出しているのです。通常。怒りは行動を活性化し悲しみは抑制します。もちろん一つの出来事、たとえば意にそぐわない人事異動によって、二つの感情を持つことはあっても、必ずどちらかのベースになる感情がありますし、通常一定の間はひつつの感情を感じているもので、次の感情に移るにはある程度のきっかけと時間が必要です。

 ところが、うつ状態では、これらの感情が同時進行しているようです。家族に囲まれて幸せなのに、急にわけもなく不安に襲われる。ご飯を出されただけなのに、急に怒鳴っている自分に気がつく。テレビを見ていて、たいして悲しくもないシーンなのになぜかぼろぼろ涙がこぼれている…。

 感情のきっかけや流れがなく、まさに自分の気持ちがわからないという感じです。

 これは、複数の感情のプログラムがいっせいに発動している状態で、通常は感じることのない感覚でしょう。それが本人をよけいに不安にします。

 

3 感情のプログラムをいっせい発動させた精神疲労の蓄積

(1)疲労が蓄積するという意味

P42

 人は何らかのきっかけで消耗しきった状態に陥ると、そうとう長い期間休まなければエネルギーが戻らなくなってしまうのです。

 さてこの疲れきった状態、これは原始人にとってどういう意味を持つのでしょう。

 原始人が、ある行動によって疲れきってしまったとします。これはとても危険な状態です。相当の長い間、活動力は低下したままです。いつもなら追い回している猪でも、今は自分の方がやられてしまうかもしれません、もちろん熊に遭ったらひとたまりもありません。ですから、不安のプログラムを最大限に働かせて、警戒する必要があります。しばらくは身を隠していた方が安全ですから、悲しみのプログラムも必要です。

 同じ部族なかで、たとえば雄同士が勢力争いをしていたとしましょう。相手が弱っているときは勢力拡大のチャンスですから、ライバルが雌や食糧や縄張りを求めてちょっかいを出してきます。それを未然に防ぐには、接近するすべての者を威嚇する必要があります。そうです。怒りのプログラムも必要になるのです。

 原始人にとって疲労しきるという事態は、外敵に対して自分の対抗力が弱くなってしまったことを意味します。大きな怪我や病気をした時と同じように、しばらくは自分の命が脅かされる、とても危険な状態が続くのです。そこで感情のプログラムを総動員して自分の身を守ろうとしているのです。

 

P44

驚きのプログラム→原因の特定できない心身の不調

 しかし、疲労を自覚していないあなたは、身体のどこかに異常があるのだ、あるいは、体力が落ちている性だと考えてしまっているのです。

 

不安のプログラム→わけのわからない不安

 このときの不安は、なぜかわからないけどなんとなく不安だという感じです。そして、人はその不安の原因を〝わけの分からない〟まま放っておけないので、自分なりに何らかの原因を探し出します。傍から見れば、原因を自分で作り出すという感じにも見えます。

 たとえば、結婚相手もいないのに、結婚についてうまくいくだろうかと思い悩む人もいますし、パソコンができない自分は、社会から取り残されるかもしれないと不安に陥る人もいます。(中略)

 わけの分からない不安は、あなたにその原因を探し求めることを常に要求し続けます。また、自分で思いついた原因については、最悪のシミュレーションを継続させます。それは常に頭をフル回転させていることと同じです。すでに疲れ果てた自分を、またせきたてて活動させているのです。

 

 →左脳の解釈装置がここでも働く。

 

P45

怒りのプログラム→わけの分からないイライラ

 疲労しきると、いつもなら怒らないことでも怒りが爆発してしまいす。日ごろは穏やかな人なら、自分が爆発してしまったことに対して自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。この場合も、理由があって爆発するのではなく、イライラの感情が先にあるのです。(中略)

 わけの分からないイライラを人にぶつけてしまうと、相手を傷つける恐れがあります。そこでできるだけそれを抑えようと努力をします。怒りを抑えるには非常に大きなエネルギーが必要です。それがまた疲労を加速させます。

 とくに、本来は〝優しい人〟ほど、こんな不当な怒りを持つ自分を責め、怒りを自分自身に向けてしまいます。

 

悲しみのプログラム→わけもなく流れてしまう涙

 

悲しみのプログラム→わけの分からない疲労

 疲労しているのですから、疲労感があって当たり前です。ところが、不思議なことにうつ状態の人は、あまり自分が疲労しているという自覚がありません。強い不調を感じていたり、「疲れやすくなってきた」という実感はあっても、自分が疲れきってしまっているとは思わないのです。

 うつ状態の対処は、あとで述べるように〝休息〟が原則です。ここであなたには「自分は疲れきっているんだ。だから休息しなければいけないんだ。逆に休みさえすれば元に戻るんだ」ということをきちんと理解しておいてほしいのです。

 そこで、なぜあなたが疲労を自覚できないでいるのかについてもう少し詳しくお話しします。

 

 →自分は疲れきってしまっていると思えたからよかった。

 

P47 (3)疲労の主体は精神疲労

 人の体の中で最もエネルギーを使うのは頭だと言われていますが、このように感情のプログラムが働くとき、活発かつ持続的に頭脳が活動するからでしょう。

 さらにそれは頭の中だけにとどまりません。感情のプログラムが活動し始めると、驚きのプログラムで見たように体の中でいろんな動きが生じます。不安シミュレーションの〝悲惨な結末の映像〟はそれが浮かぶだけで、体中の組織がその状態に対応するための準備を開始します。血管は縮み、心臓は活動を高め、首のあたりの筋肉も緊張するでしょう。

 ただじっとしている(ように見える)人でも、その人の頭の中を恐怖や怒り、悲しみなどが占めていると、体の中では感情の強さに応じた活動をしているのです。当然、多くのエネルギーを使います。

 

P50

 たとえば、昇任や、家を建てたこと、結婚、出産などはおめでたい、うれしいことです。また、転勤や子どもが独立すること、定年を迎えることなどはめでたくはなくとも、一般的にそれほどストレスだとは思われていません。ところが、これらの条件でも精神的疲労が蓄積し、結果的にうつ状態になり「死にたい」と思うほど苦しむ人も多いのです。

 つまり、自分の周囲の環境が変われば(たとえ周囲から見て良いことであろうと悪いことであろうと)、その変化に対応する必要が生じ、それが精神的疲労を生むのです。

 さらに、歳をとると肉体的にも疲れやすくなるのと同じように、精神的にも疲労しやすくなります。自殺の危険性は年齢とともに増加するのです。若いころにはいろんな苦労を乗り越えてきた人でも、歳をとると同様な苦労が乗り越えられなくなるのです。

 

P51 4 苦しみのプログラムの誤作動が対処を遅らせる

 実はここに、人がピンチのときに発動するもう一つのプログラム〝苦しみのプログラム〟の誤作動が関係しているのです。

 

P52

 人は複数の欲求を同時に持ちます。食べたいと思いながら、水を飲みたいとも思い、同時に異性を求めたい気持ちがあったり、敵を攻撃したい衝動を持ちます。(中略)

 そのプログラムは、複数の欲求がある場合、切迫性と生命への危険性の尺度から優先順位をつけ、〝一つの欲求だけ〟を拡大して見せる働き(クローズアップ機能)を持ちました。一つの欲求の苦しさだけを大きくして、その他の欲求の未充足を示す苦しさはそれほど強く感じないようにしたのです。

 この働きにより、原始人は一つのことに集中して行動することができるようになりました。

 つまり、〝苦しみのプログラム〟の目的は、複数の欲求に優先順位をつけ、限られた能力を集中して発揮させることなのです。

 その結果、問題を一つずつ片付けていくことができます。運良く一つの欲求が満たされたとき、次の欲求がまたクローズアップされます。

 

P54

 さて、ではどのような仕組みで、並列の欲求を優先順位をつけて一列に並び替えるのでしょうか。

 まず、その欲求の不足が、生命や生殖にどれだけ切迫性があるかということが第一です。しかし性質の違う要求を比べるものも容易ではありません。内容は違うが、どちらもかなり切迫しているということもあるでしょう。そこで、苦しみのプログラムは、そんなときにも迷わず優先順位をつけられるように、過去の経験をプログラムに組み込むようにしたのです。つまり、過去の経験をもとに、大雑把に、パターンとして処理してしまう方法です。

 過去の経験とは、個人として生きてきた経験と種の経験のことです。

 ある原始人は、干ばつが続くなかで成長してきました。彼にとって〝水に関わる欲求〟は、他の欲求より重要です。水を重視せずに他の欲求を満たしたばかりに、死ぬかもしれない状態に陥ったこともあります。その結果、彼の苦しみのプログラムは、水を最優先する〝癖〟(パターン)を持ったのです。(中略)

 さらに、先ほどの干ばつがその後、数世代続いた場合、水を重視するプログラムはその部族の種に引き継がれるべき情報となるので、DNAレベルの学習に進化していくのです。これが、遺伝的な経験、種の経験です。

 

 このような苦しみのプログラムは、過去のデータに基づき複数の欲求に優先順位をつけ、行動を容易にするきわめて重要なプログラムです。私は、苦しみのプログラムこそ、人の〝心〟の中心だと考えているほどである。

 ところが、この苦しみのプログラムも、他の感情のプログラムと同じように誤作動します。というのも、苦しみのプログラムも危機対処用のプログラムなので、物事をあるパターンに区分し、素早く対処するという、強力で早いけれど、大雑把という特徴を持つからです。

 

(2)苦しみのプログラムが〝疲労の苦しさ〟を薄めてしまうことがある

P57

 日ごろ、健康で仕事熱心で通っている人が、自分の疲労感や不安などの精神状態にほとんど気づかず、身体面の症状だけが出ている仮面うつ病と呼ばれる状態があります。これも、その人の苦しみのプログラムが〝疲労感〟や〝不安など精神症状の苦しさ〟を薄めてしまっているのです。

 

 →別の苦しみを優先してしまって、疲労の苦しみを優先順位が低いものとみなしてしまっている。

 

 〝苦しみのプログラム〟が疲労感について低い優先順位を与えている人は、過去の経験からこのような思い込みを持っています。

 ・自分はこれぐらいのことでは疲れない

 ・男は、これぐらいのことで音を上げてはいけない

 ・他の人も頑張っているのに、こんなことで弱音を吐けない

 ・以前、同じような苦しい時期があったが、乗り切った

 ・やりがいのある仕事をやっているので疲れない

 ・任務だから、やらなければならない

 ・苦しいけれど、疲れているわけじゃない。気を遣っているだけだ

 ・歳をとれば考え方を変えることができ、精神的に疲れることはない

 

 しかし、どのように考えたとしても、頭脳と体が活動し疲労物質が発生していること自体には変わりがありません。逆にいうと疲れなければならないのです。ところが苦しみのプログラムがこれまでの経験に基づく〝思い込み〟に惑わされ、疲労に低い優先順位を与えたままになり、疲労を感じさせるタイミングを逃してしまうのです。

 

(3)苦しみのプログラムが苦しみの原因を誤解させる

P59

 複数の欲求があるとき、優先順位の低い欲求の苦しさをコントロールすることにより、一つの欲求がクローズアップされます。しかし、それだけですぐに行動に移れるかというとそうではありません。

 今は、苦しみに順番がついた段階に過ぎません。具体的な行動にいたるには、さらにその苦しみの原因を特定しなければなりません。

 たとえば、〝食糧がない状態〟でも、周辺の木の実がないのか、全体的に不作なのか、獲物が逃げていったのか、借りがうまくいかず取れないだけなのか、人数が増えてこれまでの量では足りないのか…さまざまな原因が考えられ、それによって対策(行動)も変わります。

 しかし、今はかなり危険な状態です。悠長なことを言っていられません。考えてばかりはいられないのです。そこでいくつかの原因が考えられても、とりあえず行動に移すために、そのうちの〝原因(行動の目標)を一つに特定する〟プログラムが発達しました。考えるより1つに決めて行動せよというわけです。その方が生きていける確率が高かったのです。(中略)

 精神疲労に話を戻します。精神疲労からの疲労感は、気が付きにくいという特性がありましたが、ここで説明した〝原因を一つに特定したがる傾向(原因決め付け硬直思考)〟が、問題をさらに複雑にします。

 精神疲労の〝わけの分からない苦しさ〟を持った人は、盛んにその原因を探します。そして自分なりにある程度納得できる出来事を「これが自分の不調の原因だ」と決め付けるのです。(中略)

 

P61

 その結果、そう納得してしまうか、あるいは夫にあたったり、サプリメントや健康ドリンク剤を飲んだり、慣れない運動をしたり、人間ドックに行ったり、パチンコをしたりします。しかしあまり効果はありません。それどころかなかには、支えてくれる夫との関係を崩したり、ギャンブルにのめり込んだり、運動によって疲労が悪化したりして、さらに苦境に陥ってしまうことさえあります。原因を決めつけた結果、結局、根本の〝精神疲労〟には何の対処もなされません。本来は精神疲労がその原因であるにもかかわらず、他のものをその原因としてしまう。その結果、努力は空回りしエネルギーを浪費してしまう。このミスリードが、苦しみのプログラムの誤作動なのです。

 

 →これがモジュールによる自動化で、余裕ができたときに、合理的な原因を創出する。

 

(4)苦しみのプログラムがうつ状態の人を孤立させてしまう

P64

 周囲から見ると、本人は強い思い込みを持っている、あるいは視野がとても狭くなっているように感じます。

 これらのやり取りが繰り返されると、本人は「誰もわかってくれない」とさらに強い孤独感に苛まれます。そのうち、だんだん相談もしなくなり、物理的にも孤立していきます。

 実は、本人が頑なに周囲のアドバイスを受け入れられないのは、重要な理由があるのです。

 それは周囲の人がアドバイスすることが、結果的に本人の〝生きていく自信〟を否定する接し方になってしまっているからです。

 

(5)自分いじめの傾向(頑張れの励ましが苦しい)

P65

 この、〝原因決めつけ硬直思考〟は、それはそれで苦しみから脱出するためとりあえずの攻撃目標を決めるためには、有効な手段でしょう。ところが、傍から見るとその攻撃目標は明らかに誤っており、誤爆してしまうことも多いのです。

 とくに、情報が不足するとき、その攻撃目標が自分に向くことがあります。これが自分いじめの傾向です。つまり、自分が悪いからこの苦しみがある、この苦しみは自分のせいだ、と考えてしまうのです。

 なぜ、人はそのような(自分いじめ思考)に陥りやすいのでしょうか。

 それは、人が〝自分のせいにする〟ことで、もっと怖い〝世界の終わり〟を避けようとするからなのです。

 自分のせいにすると、この大きな変化、とてつもない惨劇を、自分が次に「気をつければ…」「しっかりしていれば…」「いい子でいれば…」避けられると思えるからです。

 自分のせいにすると、この大きな変化、とてつもない惨劇を、自分が次に「気をつければ…」「しっかりしていれば…」「いい子でいれば…」避けられると思えるからです。そう考えないと、これからまったく予測のつかない世界のなかで、振り回されながら生きていくことになります。

 

 →情報不足のときには誤った解釈をする(ガザニガ)。

 自分の努力ではどうにもならないことが多すぎるのに、自分の力で何とかなると思い込んでいるところに問題がある。結局これは、自由意志をもつ近代個人主義、自己責任論という虚構が大きな影響を与えているということになる。

 

P66

 この現象は、虐待を受けている子供が、「自分が良い子でないから、怒られるのだ」と考えたり、両親が喧嘩をしたり、離婚をしようとするとき、「良い子にするから。ごめんなさい。」と謝る子どもの心理によく表れています。子供にとって、両親の不仲、離婚、その結果、見捨てられる不安は、まさに予想もしなかった悲劇であり、どうしてそうなるのかがとても理解できません。その結果、自分のせいにしてしまうのです。

 また、突然恋人に振られた人が、「自分に魅力がないせいだ、自分が悪い女(男)だったからだ」と考えたり、レイプされた女性が、「自分が注意しなかったのがいけなかったのだ」と考えがちなのもこのメカニズムよるものです。

 精神疲労が蓄積した人は、〝原因決めつけ硬直思考〟により、自分のせいでこの苦しみがある、自分が弱いからだ、自分がだらしないからだ、自分に能力がないからだ、という偏った思考に陥りやすのです。

 この〝自分いじめの傾向〟は、あとでお話しする絶望のプログラムの誤作動に大きな関連を持っています。

 

P67 5 精神疲労を引き起こす病気や怪我もある

 これまで、苦しみのプログラムの誤作動で疲労が蓄積していることに気づかずに自体を悪化させ、ついに精神疲労が危険な状態に達し、最終的な安全装置である感情のプログラムのいっせい発動にいたるという流れを説明してきました。

 

P68 6 うつ状態のまとめ

 これまで、われわれがひどく落ち込む、一般にはうつ病と呼ばれている状態は、感情のプログラムがいっせいに発動してしまうという状態であることを説明してきました。感情のプログラムをいっせいに発動させたのは、疲労です。危険な状態に落ちっている疲労感に気づかせないようにしているのは苦しみのプログラムです。

 これらは、本来はあなたを守ろうとする機能です。ただ、そのタイミングや程度が現代のわれわれにそぐわなかったため、あなたにとって不都合が生じています。誤作動しているだけなのです。

 

 まず、何らかの理由で日々の生活のなかでの精神疲労が蓄積してきます。するといろんな不調を感じます。初めはどこそこの痛み、めまい、耳鳴り、吐き気、イライラ、不眠、疲労感などに悩まされます。

 

 この状態に対し苦しみのプログラムが、「とくに疲れるようなことはしていない」「自分より大変な人がいる…」「体調が悪いだけ」という認知に騙され、苦しみをコントロールしてしまいます。苦しくても、「これぐらいは、乗り切らないと(成長しない)」とか、「みんなも黙って乗り切っている。」「自分だけ甘えるわけにはいかない」などと考えてしまいます。

 

 精神疲労に何の対処もなされないまま、その状態が継続すると、疲労はさらに悪化し危険な状態に達します。その危険な状態の人を守るために、感情のプログラムがいっせいに発動します。

 

 まず驚きのプログラムが体を戦闘態勢に移行させます。本来短期的に最大限の力を発揮する態勢なので、長引くと体中に不調が現れます。

 不安のプログラムは、将来の危険を避けるために、最悪の事態をどんどん連想していきます。悪い方悪い方ばかりを考えてしまいます(最悪連鎖思考)。また、不安な思いがつのり眠れません。

 疲労しきった状態では身を隠した方がいいため、悲しみのプログラムも発動します。その結果、自分は弱い、自分は孤独だという感じが強くなり、むやみに涙が出たり、物悲しさが続きます。気力も興味もなくなります。

 一方、敵につけ込まれるのを防止するために警戒態勢が強くなり、少しのことでも怒りやすくなります。怒りのプログラムです。

 

 これらの感情のプログラムは、通常は何かの出来事により引き起こされる、つまり原因が明らかなのですが、このように精神疲労からプログラムが発動された場合、なにが悲しみや不安、怒りの原因なのかが明確になりません。しかし、苦しみのプログラムの(原因決めつけ硬直思考)は、何らかの原因を見つけ出し納得しようとします。

 

 それがたとえば、「仕事がうまくいかない。このままでは大きなミスをしてしまう」「自分は性格が暗いから皆から疎まれている」などという思い込みに発展します。他人にそれを話しても誰も納得してくれません。自分でも少しは変だと理性では感じていても、感情レベルでそう思ってしまうのです。誰に話しても理解してもらえないとき、もともと存在していた孤独感がいっそう募り、自分だけが、「おかしい」「弱い」「もうだめだ」と発展していきます(自分いじめ思考)。これらが次に紹介する〝死にたくなる気持ち〟に移行する前段階となるのです。

 

 →結局、どのプログラムも、短期的かつ単純な反応で対処できる原始人用に調節されたもので、長期的かつ複雑な状況にある現代人には合わない。本来、人間を守るための感情のプログラムが、その一斉発動という状況が長く続くことによって、副作用が強く出過ぎてしまう。

 

 

P72 死にたくなる気持ち

 さて、いよいよ、人が死にたいと思う気持ちについて考えてみたいと思います。

 うつ状態とは、死にたい気持ちが生じる準備状態のようなものです。うつ状態で、さらにエネルギーを消耗すると、いよいよ感情のプログラムの最終プログラムともいえる、〝生をあきらめるプログラム〟と〝絶望のプログラム〟が誤作動をはじめます。

 

1 あきらめと絶望のルート

(1)生きていく自信の低下

 生きていく自信とは、このままのやり方(生き方)で、しばらくは死なない、なんとか危険を乗り越えられるという見通しのことです。生きていく自信は、自分の能力、周囲の援助、環境や敵の状況の三つの変化の見通しから成り立っています。この要素がそれぞれ変化し、このままでは自分の命を守れないと感じるとき、生きていく自信が失われます。

 

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 現代人の生きていく自信をもっとも低下させる要素は、〝自分自身のコントロール感〟です。自分自身の体や心が、自分の意志どおりに動くことは、危険な状態を乗り越えるための最低必要条件ですが、それが障害を受けたとき、生きていく自信が大きく揺らぎます。

 まず、精神疲労が蓄積し、〝わけの分からない苦しさ〟が続くとき、その原因がなかなか特定できません。これが原因だと思って何か対処しても、なかなか改善しません。

 わけの分からない不安、怒り、悲しさは、自分自身でコントロールできない感情です。さらに疲労感や身体の不調もコントロールできません。この苦しい状態を乗り切るために工夫したことは、すべて空振りで、周囲の助けも効果ありません。この状態が続くと生きていく自信が徐々に侵食されてしまうのです。

 さて、この事態が進んでいるとき、周囲が心配してさまざまなアドバイスをするでしょう。「もっと、自分から皆に飛び込んでいったら」「そんなにつらいなら、もっと仕事を同僚に振ってみたら」「そんな理解のない夫なら、離婚しちゃえばいいのよ」

 本人にとって、このようなアドバイスはかなり苦しく響きます。

 周囲のアドバイスは、それがもっともであればあるほど、「これまでの方法を否定された自分」「その方法を実行できない自分」という文脈で捉えられます。それはまるで「その生き方ではダメ」と指摘されているようなものですから、すでに朽ち果ててしまいそうな〝生きていく自信〟をさらに低下させてしまうのです。

 

 生きていく自信が急激に低下すると、心理的パニックになり無統制ながら非常に活発な活動をします。ところが現代人のように、生きていく自信がゆっくりと侵食される場合は、無統制な活動ではなく、むしろ対処することをあきらめるプログラムが発動してしまいます。

 そのようにして発動したあきらめのプログラムは、〝生〟をあきらめる誤作動を起こすことがあるのです。

 

P78 (3)あきらめのプログラム

 ところで、なぜ人はあきらめるのでしょうか。

 人は限られたエネルギーで、食糧を得、生殖活動をし、また、それらを得るための争いをする必要がありました。生き延びるためには、エネルギーの無駄遣いは許されないのです。見込みのない活動には見切りをつけ、次の行動に移るためのプログラムが必要だったのです。それが、あきらめのプログラムなのです。

 あきらめのプログラムが発動するには、ある仕事に対するうまくいかない感じ、自分の力が及ばない感じ(無力感)が必要です。

 それを察知すると、プログラム目的を達成するため、その人に、その仕事を続けさせないような工夫をします。

 まず、もうその仕事をやっても無駄だ、意味がないと感じます(無意味感)。さらに、どうせこのまま続けてもうまくいかないと思います(悲観的未来予測)。同時に強い疲労感を感じるようになります。その結果、人は、今までやっていたことに対する意欲を失い、新しい仕事(やり方)を探すようになるのです。

 このプログラムのおかげで、人は、自分の生存に必要な行動のバリエーションを広げられましたし、変化する状況にも対応できるようになりました。

 

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 ところが、精神疲労が蓄積した場合は少し複雑です。

 もともと疲労が極限に達しているので、あきらめのプログラムは発動しやすくなっているはずです。ところが、同時に不安のプログラムが強く発動しています。苦しいので〝生きていく自信〟をなんとか保ちたいという心の動きも強くなります。

 その結果、些細なことを変更すること、中断すること、つまりあきらめることがとても不安で、しかもそれが自分の生き方がダメだと言われるようで、なかなか受け入れられません(不安の〝しがみつき傾向〟)。

 疲労すればするほど、今の生き方から離れられなくなる、つまり諦めきれなくなるのです。その結果、たとえば苦しい仕事や人間関係を続けてしまうこととなり、事態は最悪に発展します。

 

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 それら(心身的な不調の蓄積)の結果、本人を取り巻くトラブル(な感じ)が大きくなり、さらに精神的に疲労してしまいます。ストレスの自己生産状態です。

 そして、このように疲労が蓄積していくと、ある時期に、不安のプログラムをはじめとする感情のプログラムが最大限に発動するようになります。疲労の蓄積状態が、生命の危機と認識され、体中に非常事態が宣言されるのです。

 このとき、不安の発作に自分が乗っ取られるかもしれないと感じたり、あるいは、体調の悪さが気分の悪さとなって、じわじわとあなたを苦しめたりするようになります。

 また、最大限に発動された不安のプログラムは、強い〝しがみつき〟をもたらします。

 仕事はつらいけれど、それをやめたときは、さらに怖いことが待っていると感じてしまうのです。その結果、今の仕事を辞めることさえできなくなります。

 さらにその状態が続くと、疲弊しきって、エネルギーがなくなり、自分をコントロールすることさえできなくなった自分を、この〝苦しみ〟に対してとても無力な存在と感じるようになります。生きていく自信が次第に低下していきます。この無力感は、それまでつもりに積もった精神疲労とあいまって、ついにあきらめのプログラムを発動させます。

 そのときのあきらめる対象は、〝生きること〟です。

 

P82 (5)あきらめから、「終わりにしたい」への発展

 このあきらめが自ら死を選ぶという積極的行動に結びつくのは、さらに疲労が蓄積し、その精神的、身体的苦痛から逃れるための一つの手段として、死が脳裏に浮かぶときです。

 この場合、自ら命を絶つという気持ちが生じるには、その前にかなりの苦しい時期があります。

 まず、「この苦しさが、永遠に続く」という思い込みを持つようになります。対抗できない苦しさに対し、楽になりたい、もうやめたいと思います。生きる意味がない、生きていてもしようがない、消えてなくなりたいと表現する人もいます。そのうちに、なんらかの事故で死んでしまえたらなあと考えるようになります。

 

 →モジュール(脳による自動処理)で説明できていたが、「死にたい」の項目に展開した瞬間、言葉による意味づけ(後付け)で説明するようになっている。このままだと、自殺は結局、自由意志による行為だということになってしまう。下園説も、結局は自由意志の呪縛から逃れられてないことにならないか。「死にたい」は自動処理ではない。「逃げたい」という自動処理を、解釈装置が後付けて言語化しただけではないか。それを何度も言葉として思い起こし、自己暗示にかけることが問題ではないか。

 希死念慮から自殺念慮へ発展する。

 死が脳裏に浮かぶときが一番問題なのだから、あきらめのプログラムの発動と「死」がなぜ結びつくのかを説明すれば、自殺を止められるかもしれない。

 

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 その次に、楽に死ねる方法を考えるようになります。

 そうこうしているうちに、そのような怖いことを考えている自分に自信がなくなり、不安がいっそう高まり、精神疲労が極限に達します。これは〝生きていく自信〟を失う状態で、人にとってもっとも苦しい状態です。(中略)するとその極限的な苦しさに耐えきれず、「終わりにしたい」と思うようになってしまうのです。

 

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 この状態の人は、毎日毎日を〝生きる意味〟を感じられずに過ごしています。苦しさに、わずかに残っている理性だけで耐えています。でも、それがいつまで持つか、自分でも自信がありません。目標になっていたことが終わったときに、それまでなんとかもっていた糸がぶっつり切れてしまこともあります。

 心配していたご子息の高校入学が決まったその日に、なくなってしまったお父さんもいるのです。

 

 →結局、最後の最後は「意味」の有無が、自殺を決定づけることになる。ここに人文系が自殺を研究する意義が残されている。

 

(6)絶望のプログラム

 〝あきらめのプログラム〟の誤作動により人が生きることを諦めて死を選ぶ場合は、それでも死に向かう積極的な気持ちが大きいわけではありません。追い詰められ、追いやられ、押し切られてしまうという感じです。

 一方、自殺で亡くなった方をよく観察すると、もっとも積極的に死に向かって行動を起こしてしまった人もいます。

 これは、絶望のプログラムの誤作動によるものです。

 

 絶望のプログラム、これも原始人にとって重要なプログラムだったのです。

 絶望することが、どうして人に必要だったのでしょう。

 その答えを知るためには、私たちが絶望するとどうなるのかを考えてみましょう。

 

 意欲の減退、希望の消失、孤独感、生きがいの消失、自分の無価値観、自分の足手まとい感。

 

 →これらは絶望によって自動的に生じてくる感覚だが、「生きがいの消失」や「自分の無価値観」、「自分の足手まとい感」はかなり社会化された感覚だから、その他の感覚とはちょっと違う。人生に意味を求めたり、人間を価値で評価したりするような社会常識は、人間が創造した虚構なわけだから、必ず否定できるはず。

 

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 そのうちに、どうすれば楽に死ねるのかな…と死ぬことばかり考えている自分に気がつくようになっていくのです(自殺願望)。

 食事は喉を通りません。夜も眠れません。ため息ばかりが出ます(さまざまな体の不調)。

 そして、いつまでもいつまでもこのくらい日々が続くような気がするのです。

 

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 さて、話を絶望のプログラムに戻しましょう。ここで問題になるのは、どうして人は、二つの重要な欲求の一つ〝個の保存〟の欲求、つまり生きるという意欲を失うことがあるかということです。

 答えは人が持つもう一つの欲求〝種の保存〟の欲求にあります。

 

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 このことを考えると、〝種の保存〟は本質的に〝個の保存〟の欲求に勝る力を持つといえます。

 種の保存のために個の保存の欲求(生きる)を断念するのは、いくつかの場合があるでしょう。外敵から襲われる自分の子供や同胞を守ろうとするとき、食糧が少なくて自分自身が身を引くとき、そして自分が死の間際にあり、かつ自分を助けようとする仲間が全滅する危険を避けるときなどが考えられます。

 

P90 (7)絶望のプログラムが発動する条件

 こう考えると、絶望のプログラムは、〝自体に対する自分の弱さ(対抗手段のなさ)〟と、〝自分の命で仲間が救える状態〟が発動のきっかけになるようです。

 

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 人は未来に対して目標や希望を持てると、力(意欲)が湧くようにできています。逆に、希望が持てないときは力が湧きません。これは、無駄なことにエネルギーを使わず、達成可能な仕事にエネルギーを注ぎ込むように工夫されたプログラムなのです(あきらめのプログラム)。

 絶望のプログラムは、個人では事態に対処できなくなっており、かつその個人が死ぬことで種を助けることができる状態で、その人に、力を出させないように、未来に対して希望や目標を感じられないようにするのです。

 また、自分が悪く、自分さえいなければいいと考えたり、自分が他人に迷惑をかけていると感じたりするようになります。これもプログラムそのものが自分がいなければ他のメンバーが助かる(種が生き延びる)というメッセージを持っていますから、プログラム目的に沿った自然な考えです。現代人でも、死にたいという気持ちが明確になる前に、離婚したい気持ちや仕事を辞めたい気持ちが出てくることがあります。これは、自分が他の人に迷惑をかけているという負担感を少しでも減らしたいという思いから生ずる気持ちです。

 

 →追い込まれて自殺する人と、積極的に自殺を望む人では、自殺直前の所作が異なるということ。

 

 そしてそのうち、自分が死ぬという通常ならとても恐ろしい考えが、このプログラムが働いているときは、むしろ快と感じられてくるのです。

 それは〝ヒロイズム〟の感覚です。平たく言えば「皆のために自分がヒーローとして犠牲になる。自分が死んで皆を助ける」という気持ちです。種の保存に関係する感情のプログラムにはこのヒロイズムが付き物です。こういう〝快〟の感情があるからこそ、自ら命を絶てるのです。

 

(8)絶望のプログラムも誤作動する

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 つまり現代の自殺は、必ずしも客観的に見て、自ら命を落とすことでしか種を守れないという状況で発生しているのではないのです。むしろ、種を守るどころか、本人が自殺することで、家族や周囲の仲間が、かえって苦しい思いをすることになっているのが現状です。

 

 たとえば、借金を苦にして、死にたいという考えが浮かんでくるCさんの場合です。

 「自分が死んで、保険金で払えばなんとかなる」とか「自分は、家族に何にもしてやれなかった。こんなダメな親父が生きているより、自分が消えたほうが家族は喜ぶ」、「同僚も足手まといがいなくなって、ほっとするだろう、会社も助かるはずだ」「自分ひとりが迷惑をかけている。ここで自分が死んだら、皆も少しは悲しむかもしれないが、すぐに忘れて結果的には皆が幸せになれるんだ」と考えてしまいます。

 しかし、現実は違うのです。

 

 →名誉の自害・切腹というように、自殺をポジティブに評価していた中世とは真逆の状況。これまで自分は、自殺した当事者のことばかり考えてきたが、関係者のことや、自殺者の関係者に対する思いにまでは考えが至っていなかった。この点を考えながら、もう一度史料を分析してみる必要がある。

 

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 つまり絶望のプログラムは、人にとって、種を守りDNAを残すためのありがたいプログラムだったのですが、現代の日本人にとっては、〝同胞を助けることができる状態で発動〟しているのではなく、結果的に逆に〝同胞を苦しめる状態で発動〟してしまっているところに問題が生じているわけです。

 言い換えれば、現代日本の環境に限っていえば、〝必要のない場面で発動してしまう〟、つまりこれまで紹介したプログラムの誤作動のうちでも最大の誤作動であると言えるでしょう。

 

P96 2 さまざまな「死にたい」気持ち

(1)生のあきらめから、絶望への発展

 お分かりように、絶望のプログラムの二つの発動条件のうち一つは、〝生をあきらめるプログラム〟です。つまり、先に説明した生をあきらめるプログラムが発動している人は、もう一つの「自分の命で仲間を救える」という条件が満たされると、容易に絶望のプログラムを発動させてしまうのです。

 

P97 (2)怒りからあきらめ、絶望への発展

 怒りは、攻撃するためのプログラムです。もともと、命をかけて敵と戦える状態を作るので、「死をもいとわない」というプログラム効果をもっています。つまり、怒りが嵩じると、自分が死んでも敵をやっつけたいと思うのです。すでに、そこには、自らの命を守る〝個の保存〟の欲求がはずれた、とても危うい状態が準備されてしまっているのです。

 また、怒りは、自分を許せないという気持ちの源でもあります。怒りの対象が明確でない場合、長く続く苦しさなかで何も変わらない状況を前にして、怒りが自分自身のふがいなさに向いてきます(自分いじめの傾向)。

 自殺を、自分に対する攻撃性の表現だとする説明は以前からありますが、実際、他人に対する攻撃行為の後に自殺する人も多いのです。

 この、怒りの「自分が許せない」という思考は、絶望の「自分がいると迷惑がかかる」に直接発展する危険な思考です。

 すでに怒りによって、「死をもいとわない」状態になっているとき(怒りが長びく場合、それを抑えるための精神疲労→生をあきらめるプログラムで「死んでも仕方がない」状態も加わる)、この「周囲に迷惑がかかる」という思考が、絶望のプログラムの発動条件を容易に満たしてしまいます。

 さらにこれとは別に、怒りのプログラムの「自分が正しい」という思考が、絶望のプログラムの「自分が死んで皆を救う」へ発展しやすいということも注意が必要です。

 親会社の理不尽な取引に抗議して、親会社のビルの前で自殺した人もいます。この場合、自分の死によって、家族や社員を救うという考えが頭を締めていました。

 それには、その人の死生観のようなものを大きく影響してきます。

 元気なときはそうでもないのですが、怒りのプログラムが強く発動しているときは、「正しいことをするためには死をもいとわない」という意識が頭を支配します。そのようなときには、以前触れて感銘を受けた、死をテーマにした小説や映画、尊敬する人物の生きざま、死にざまなどが、「死ぬことが正しい」という思考を進めてしまうのです。

 

 →感情のまま、プログラムのままに動いている人間は原始人と同じで、現代社会にふさわしい行動を取れないから苦しんだり不幸になったり、道を踏み外したりしてしまう。結局、脳のプログラムがそうなっている以上、後天的に現代社会のルールや価値観を取り入れて、どのように上手に生きていくかを合理的に考えていけたものが、安定した生活を得ることができるということになる。そういう意味で教育は大切。

 怒りのプログラムのもと、「正しいことをするためには死をもいとわない」という意識が頭を支配しているというが、それはどのように形成されたのか。「命をかけて敵と戦う」ことは、「個や種を守る正しい行動」という理屈で結び付けられたのか。この意識は、死を賭して戦う武士の発想と同じものではないか。

 帰属集団(種)が攻撃されている→怒りのプログラム発動→個を守るより種を守る。ここまではプログラムの自動処理で理解できそう。

 やはり、情報として記憶された死生観や因果関係が、プログラムとともに発動されてしまうことが問題だと言える。自殺を止めるには、自殺とその動機を結びつける社会通念が、いかに相対的なものであるかを、何度も教え込む必要がありそう。やはり自殺の歴史的研究は必要。

 「城を枕に討ち死に」というヒロイズムと、「城を枕に切腹」といういさぎよさ。これがどのような肯定的な価値とともに世間に広まり、次の自殺を生んできたことか…。

 

P100 悲しみから絶望への発展

 先に紹介した、子供の死、配偶者の死、失恋などの悲しみのプログラムの発動条件が、それだけで自殺に結びつく可能性があるのは、われわれもよく知っているところです。

 悲しみのプログラムは、単に生をあきらめるプログラムに発展しやすいばかりではありません。もっと直接的に〝絶望のプログラム〟につながりやすいのです。

 悲しみのプログラムは、自分は仲間から助けてもらえない、助けてもらう価値がない、それは、自分に能力がなく、仲間のために貢献できないから、という感じを持たせますが、この思考が容易に「自分がいると迷惑がかかる」という考えに発展し、絶望のプログラムを誤作動させてしまうのです。

 この場合も、悲しみと生をあきらめる主体の時期は、(守ってもらえる価値のない自分には)居場所がない、自分は必要とされていない、生きていてもしようがないと感じられますが、絶望が加味されると、自分がいると皆が迷惑をする、自分などいないほうがいいという、もっと積極的に死に向かう感じに発展するのです。

 

 →離婚した。妻から価値がないと評価された。離婚するような息子は世間的にみっともないと親が思っている。男は家庭をもって初めて一人前になれる。ということは、家庭を維持できない男など、いい歳こいて半人前で、社会的に価値はない。よって、生きていても意味がない。

 以上のような論理的思考を、いま湧き上がっている絶望感を説明するために、左脳の解釈装置が後付けで作り上げ、それを幾度となく自動的に思い起こさせる。これが自殺の本当の要因ではないか。

 であるならば、上記の論理的思考が、合理的に見えるだけの単なる虚構であることを自認し、ネガティブな要因と死を結びつける因果関係が、相対的な価値しかもたないことを自身に教え込まなければならない。これができれば、自殺を止められるかもしれない。

 「自分がいると迷惑がかかる」という感覚を生み出す絶望のプログラムが、自殺念慮を生み出す。絶望のプログラムが発動する前で止まっていれば、希死念慮で止まれる。