周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

意志と行為 ─自殺史料の分析に意味はあるか?─

 私は以前、「自殺の中世史17〜21」という記事で、自殺史料の分析視角・課題・展望をまとめたことがあります。ところが、関連文献を読んでいくうちに、いくつか考え直さなければならないことに気づいたので、ここでいったんまとめておこうと思います。

 前置きはそこそこに、まずは次のようなありがちな言説を検証してみましょう。

 

 「1億円の借金を背負ってしまった…。自分にはどうあがいても返せない。債権者からの譴責が毎日続く。私にはどうしようもない。考えれば考えるほど苦しくなる。この苦しみから逃れるには死ぬしかない…。もう死のう…。」

 

 自殺念慮を抱いた人々は、自身を追い込んだ「原因」(借金による苦痛)を的確に見極め、自殺の「目的」(苦痛からの逃避)を明確に意識し、強固な決意をもって自殺するのだ、と私は考えてきました。ところが、自殺を決行するときには、上記のような意識や思考をはっきりと認識していないらしいのです。そればかりか、そもそも人間は「自由意志」などもち合わせておらず、意志によって行動が引き起こされることもないのです。人間の脳は、自身の行動や判断を生み出した原因がわからないにもかかわらず、それを説明するために、後から合理的な理由を捏造するそうです。

 

 脳科学認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される(小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫、2020年、5頁)。

 

 日常的な判断・行為はたいてい無意識に生ずる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったのかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する「原因」と、行動や判断に対して本人が想起する「理由」との間には、大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い(前掲小坂井著書、44頁)。

 

 そうは言っても何らかの合理的理由があって行為・判断を主体的に選び取る印象を我々は禁じ得ない。急に催す吐き気のような形で行為や判断の原因は感知されない。なぜか。(中略)被験者はその「理由」を誠実に「分析」して答えたのである。自らがとった行動の原因がわからないにもかかわらず、もっともらしい理由が無意識に捏造される(前掲小坂井著書、45頁)。

 

 そうすると、自殺という行為は何によって引き起こされるのでしょうか。死のうとする意志が行為を誘発せず、自己や他者が自殺の原因とみなしたものが、自己や他者が無意識に捏造した理由であるのならば、上記のような言説は、いったい誰が語った言葉になるのでしょうか。おそらく、①自殺既遂者の遺書、②自殺未遂者の後日談、③関係者の証言等によって、あのような言説は創作されたということになるのでしょう。しかし、前述の小坂井説に従えば、①自殺既遂者の遺書に書かれた「理由」と本当の自殺の「原因」が一致しているとは限らなくなりますし、②自殺未遂者の後日談も、他者から尋ねられて(あるいは自問自答して)合理的な「理由」を創作しただけで、これも本当の自殺の「原因」と一致しているとは限らなくなります。また、③関係者の証言等に至っては、他者による推論にすぎないわけですから、これまた本当の自殺の「原因」と一致するとは限りません。そもそも、自殺者本人は死を迎える瞬間に、本当の「原因」とは異なる合理的な「理由」を捏造しながら亡くなっている可能性もあるのです。

 

 行為・判断が形成される過程は、本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他ない。「理由」がもっともらしく感じられるのは、常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。だが、人間は理性的動物ではなく、合理化する動物なのである(前掲小坂井著書、46頁)。

 

 そうであるならば、自殺を引き起こす本当の原因を明らかにすることは、永久に不可能ということになります。これまでの記事で私は、自殺の動機を原因と目的に分類し、それらを明らかにしようとしてきました。ですが、それは結局のところ、現代に生きる私が、私の人生経験や学び得た知識に照らし合わせて、史料に記載された他者の自殺を分析し、合理的だと判断した捏造した理由や目的をを書き並べてきたにすぎないことになります。つまり、自殺者の個人的な本当の「原因」ではなく、私を含めた現代日本人が妥当だとみなす自殺の「理由」を説明しただけだったのではないでしょうか。

 では、自殺研究に解明できるのは、いったいどういうものなのでしょう。おそらく、解明できるのは自殺に至るプロセスだかけもしれません。「Why」には答えられないが、「How」には答えられるということになるのでしょうか。実際、「How」型の問いに答えようとしているのが心理学や精神医学になります。

 

 どうして、人は死にたくなるのでしょう。

 〝死にたがる心〟はどこからやってくるのでしょうか。人は本当に〝死にたがって〟いるのでしょうか(下園壮太『人はどうして死にたがるのか』文芸社、2003年、2頁)。

 

 下園氏の著書は、こうした疑問に対して誠実に答えた労作であり、自身のカウンセリング経験を踏まえて、死にたい気持ちが生じる過程を事細かに説明されています。氏によると、「死にたい気持ち」やその準備段階にある「うつ状態」は、本来人間を危機から救ってくれる「感情のプログラム」の誤作動によって生ずるそうです。

 では、感情のプログラムとはどのようなものなのでしょうか。これは生命の非常事態対処プログラムのことで、危機的な状況で生き残るために必要な身体反応を準備するだけでなく、その状況に最も適した行動を自然にとるような気持ちも準備します(前掲下園著書、18〜22頁)。こうした説明は、前述の「意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される」という小坂井氏の指摘を踏まえれば、とても理解しやすくなります。どうやら意志や意識は、「感情のプログラム」によって自動的に発生してしまうようです。そのため、自分では本当の原因がわからず、後から合理的な理由を捏造して納得しようとするのでしょう。

 下園氏の研究によって、死にたい気持ちが生じる過程や自殺に至る過程は明確になったのですが、それでもいくつか疑問は残ります。氏によると、人間は苦境に陥り精神的に疲労しきると、自身の感情や精神的・身体的苦痛をコントロールすることができないという無力感に襲われ、生きていく自信を低下させます。そのとき、人は生きることをあきらめるそうです。そして、このあきらめが自ら死を選ぶという積極的行動に結びつくのは、さらに疲労が蓄積し、その精神的・身体的苦痛から逃れるための一つの手段として、死が脳裏に浮かぶときなのです(前掲下園著書、82頁)。

 では、なぜ逃避と死が結びつくのでしょうか。死にたい気持ちは「生のあきらめ」だけでなく、「怒り」から生じることもあります。

 

 怒りは、攻撃するためのプログラムです。もともと、命をかけて敵と戦える状態を作るので、「死をもいとわない」というプログラム効果をもっています。つまり、怒りが嵩じると、自分が死んでも敵をやっつけたいと思うのです。すでに、そこには、自らの命を守る〝個の保存〟の欲求がはずれた、とても危うい状態が準備されてしまっているのです。(中略)

 元気なときはそうでもないのですが、怒りのプログラムが強く発動しているときは、「正しいことをするためには死をもいとわない」という意識が頭を支配します。そのようなときには、以前触れて感銘を受けた、死をテーマにした小説や映画、尊敬する人物の生きざま、死にざまなどが、「死ぬことが正しい」という思考を進めてしまうのです(前掲下園著書、97〜99頁)。

 

 この指摘を踏まえると、自殺行動は、「感情のプログラムの誤作動」だけではなく、感情の生起とセットで思い起こされる「死生観」の影響も受けることがわかります。下園氏の著書で紹介されているように、自殺に至るプロセスは多様であり、さまざまな感情の誤作動が複雑に絡み合っています。氏の分析方法やモデルを史料分析に適用すれば、今まで以上に史料の理解が深まるかもしれません。しかし、史料を素材として、自殺者の個人的な原因や目的を析出しても、結局のところ実証レベルの低い推論にならざるを得ません。(当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない…。)なぜなら、ほとんどの自殺史料は伝聞史料であり、前近代では自殺者の遺書がほぼ残っていないからです。そもそも、自殺者本人が死を迎える瞬間に、本当の理由とは異なる合理的な理由を捏造しながら亡くなっている可能性があるわけですから、個々の自殺の原因を推論することにほとんど意味がないのです。

 では、自殺を歴史的に研究する意義などないのでしょうか。やるべきことはただ1つ。自殺者に影響を与えたであろう社会通念の研究ではないでしょうか。

 

 自分の感情・意見・行動を理解したり説明する際、我々は実際に生ずる心理過程の記憶に頼るのではない。ではどのようにして人間は自分の心を理解するのか。我々は常識と呼ばれる知識を持ち、社会・文化に流布する世界観を分かち合う。人は一般にどのような原因で行為するのかという因果律も、この知識に含まれる。(中略)すなわち自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それが常識になじまなければ、他のもっともらしい「理由」が常識の中から選ばれる。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影に他ならない(前掲小坂井著書、45頁)。

 

 この指摘によると、私たちが自殺の「理由」だとして挙げたものは、自殺者を死へと誘った本当の「原因」であるとは限らず、自殺に関する情報を伝聞し分析した第三者の社会通念(常識・思考パターン・因果律・死生観など)を並べているにすぎないことになります。ただし、下園氏が指摘しているように、その社会通念が「死ぬことが正しい」という思考を進めてしまうわけですから、それがいったいどのようなものであり、どのように形成され、人間にどのような影響を与えたのかを明らかにする役目は残されているように思います。

 したがって今後は、自殺者の「個人的な動機」を明らかにするという目的ではなく、自殺者を死へと誘った「社会通念」をあぶり出すという目的のもと、分析を進めていこうと思います。これまでの記事では、どちらの視角から論じているのかが曖昧になっていたので、改めなければならない点が多々あるでしょう。よって、そちらについても随時書き直していく予定です。

 自殺の歴史的研究には、心理学や精神医学のように、直接的に自殺を止める力はないかもしれません。ですが、自殺の動機がどのように作り上げられ、先人たちにどのように理解され、どのように常識として伝えられてきたか、そして、それらのいくつかはどうして消えてなくなったのか…。このような生成・変化・消滅過程を提示することができれば、自殺の動機が相対的なものにすぎないことだけは証明できるでしょう。人間に自由意志がないのなら、それでもよいです。しかし、自殺という出来事を引き越してしまう原因が絶対的なものではないことが理解でき、知識として記憶されれば、感情のプログラムの誤作動を止め、ひいては自殺を止める役割を少しは果たしてくれるのではないかと考えています。現代人としての常識を極力捨てて史料に沈潜し、前近代の社会通念に依拠しながら、各時代の自殺の動機を明らかにしていこうと思います。

 

 *今後も、新たな関連文献を読むことで、分析視角や意義が変わるようであれば、ためらうことなくこれまでの記事を削除したり書き換えたりしようと思います。