【史料1】
応永二十七年(1420)八月二十二日条
(『増補史料大成 康富記』1─113)
廿二日戊午 晴、
(中略)
後聞、今日於八幡御山櫻本坊、土岐宮内少輔ト同右馬頭ト及喧嘩、宮内少輔既
自害、右馬頭被疵云々、室町殿御参籠中之間、以外上下騒動云々、
「書き下し文」
後に聞く、今日八幡の御山桜本坊に於いて、土岐宮内少輔と同右馬頭と喧嘩に及ぶ、宮内少輔既に自害し、右馬頭傷を被ると云々、室町殿御参籠中の間、以ての外上下騒動すと云々、
「解釈」
後日聞いた。今日、石清水八幡宮の桜本坊で、土岐宮内少輔と土岐右馬頭とが喧嘩した。宮内少輔はすでに自害し、右馬頭は傷を被ったという。室町殿足利義持がご参籠中だったので、身分の高い人も低い人も大騒ぎしたそうだ。
【史料2】
同年八月二十四日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』2─78)
廿四日、朝雨降、晡晴、(中略)
去廿二日土岐一族両人口論突合、薬師堂警固之間、急両人引出於途中死去云々、
騒動武家人々馳参、為一家事之上、両方堕命之間、当座之儀無為云々、
「書き下し文」
二十四日、朝雨降り、晡晴る、(中略)
去んぬる二十二日土岐一族両人口論し突き合ふ、薬師堂を警固するの間、急ぎ両人を引き出すも、途中に於いて死去すと云々、騒動により武家の人々馳せ参る、一家の事たるの上、両方命を堕すの間、当座の儀無為と云々、
「解釈」
二十四日、朝雨が降って、夕方には晴れた。(中略)
さて室町殿が石清水八幡宮にお籠もりしている最中、去る二十二日に土岐一族の二人が口論となり、刀で突き合ったそうだ。土岐は薬師堂を警護していたので、急いでこの二人を境内から引き出したが、その途中で死去したそうだ。 この騒動で、京都にいる武家の面々も石清水八幡宮に馳せ参じたという。土岐一家の内輪もめである上に、両人とも命を落としているので、当座の処分としては何もなされなかったようだ。
*解釈は、薗部寿樹「『看聞日記』現代語訳(一四)」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』54、2018・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=390&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用し、これを参考に書き下し文を作りました。
「注釈」
「桜本坊」
─石清水八幡宮の塔頭。幕府と関係の深い塔頭で、将軍が参籠中に近習たちが控え室として利用したものか、あるいは土岐家と関係の深い寺院か。
「土岐宮内少輔」─未詳。
「土岐右馬頭」
─土岐之康か。『大日本史料』第七編之二十所収の系図(3〜14頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0720/0011?m=all&s=0011)参照。
*応永二十七年(1420)八月二十二日のこと。石清水八幡宮に参籠した将軍足利義持に、近習として付き従っていたと考えられる土岐宮内少輔と同右馬頭が口論になり、刃傷事件を引き起こしてしまいました。一方の土岐宮内少輔は自害して果て、もう一方の右馬頭は当初、傷を負っていただけでしたが、二十四日には亡くなっていたようです(史料2)。史料1と史料2では、情報を伝え聞いた日時や伝達ルートの違いによるのでしょう、いくぶん内容が異なりますが、以上が史料から判明する事件の概要です。
さて、今回のような喧嘩に由来する自殺事件は、すでに「自殺の中世史3─8 〜喧嘩と自殺 Part1〜」で検討しているのですが、その状況とやや異なるのが喧嘩相手の状況です。史料1の情報を信じるなら、宮内少輔が自殺した時点で、喧嘩相手の右馬頭はまだ死んでいません。一方、「自殺の中世史3─8」の場合、自殺した「ウソウ」という人物の喧嘩相手「ナカミネ」は、その場で死んでいたのです。ここで詳細に説明することは避けますが、「ウソウ」は「ナカミネ」を殺害したからこそ自殺した、と私は考えました。では、なぜ今回の宮内少輔は、喧嘩相手の右馬頭を殺してもいないのに、自殺してしまったのでしょうか。
理由の1つとして、宮内少輔は右馬頭を殺したと思い込んでいた可能性があります。実際、2日後には亡くなっているのですから、傷は相当深かったと考えられます。この推測が妥当であるなら、宮内少輔が自殺した動機は、「自殺の中世史3─8」と同じであったと考えられます。すなわち、喧嘩相手(右馬頭)を殺害したことによって、自身(宮内少輔)が死刑に処されることが予期されたのではないでしょうか。このままでは不名誉な死を受け入れるだけになるので、勇気や矜持を示すことのできる自害を決行したと考えられます。
もう1つの理由として考えられるのが、事件を起こした時と場所の問題です。この8月22日というのは、勅祭である石清水八幡宮放生会(8月15日)のすぐ後であり、しかも将軍足利義持が参籠中でもありました。二木謙一氏の研究によると、義持は石清水八幡宮に強い信仰心を抱いていたようで、放生会の上卿を3度も務めただけでなく、19度も大々的な参詣を行なっています(「石清水放生会と室町幕府」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、1985年、150・151・156頁)。
このように、石清水八幡宮放生会のような盛儀の後、将軍自らが強い信仰心をもって参籠している最中に刃傷沙汰を起こしたわけですから、宮内少輔も重い処罰を受けることを、ある程度想定していたのではないでしょうか。
どちらかが正しいのかを証明することはできませんが、いずれにせよ宮内少輔は、死刑という不名誉な死を避け、名誉の死を手に入れる目的で、自害を決行したものと考えられます。