周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

手段と目的の逆転

 『正法眼蔵随聞記』二ノ十三

     (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、354頁)

 

 示に云はく、人は思い切つて、命をも捨て、身肉・手足をも斬る事は、なかなかせらるるなり。しかれば、世間の事を思ひ、名利・執心のためにも、かくの如く思ふなり。ただ、依り来る時に触れ、物に随つて、心器を調ふる事難きなり。

 学者、命を捨つると思うて、しばらく推し静めて、云ふべき事をも、修すべき事をも、道理に順ずるか、順ぜざるかと案じて、道理に順ぜば、云ひもし、行じもすべきなり。

 

 「解釈」

 垂示として言われた。人は、思いきって、自分の命までも捨て、わが身の肉や手・足をも切ることは、かえって、やればできないことではないのである。だから、世間のことを考え、名利(名誉・利益)や執心(執着心)のためにも、このように、わが身を犠牲にしようと思うのである。ただ、身に迫ってくる時期に応じ、事物に従って、心の状態を調整することが難しいのだ。

 修行者は、わが命を投げ出す心持になって、しばらく心をおし静めて、言わなくてはならぬこと、実践すべきことも、それが仏道の道理に合うか、合わないかをよく考えて、道理に合うなら、言いもし、実践をもなすべきである。

 

 

 「注釈」

*名誉や利益、執着心のために、人間は自分の体や命を犠牲にする。これは鎌倉時代から変わらないようです。でも名誉や利益などは、人間が社会の中で生を全うしやすくするための方便であって、それを実現するために命を絶ってしまっては、本末転倒のような気がします。「死ぬ気で勝ち取れ!」「命懸けで挑め!」と言いながら、死んでしまっては何もなりません。自分自身の脳みそが、妙なバイアス(社会通念)に囚われていないか心配です。