周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─13 〜殉死未遂〜

  応永二十九年(1422)閏十月二十三日条

        (『図書寮叢刊 看聞日記』2─237)

 

 廿三日、晴、

  (中略)

         (忠嗣)

  抑聞、此間近衛前関白最愛妻室他界、不堪悲歎太閤欲切腹、人々刀奪取留之、

  其後被切本鳥、不能取留、則被出家云々、頗狂気歟、雖悲歎如此儀、摂家未聞

  其例、不可説也、

 

 「書き下し文」

  そもそも聞く、此の間近衛前関白最愛の妻室他界す、悲嘆に堪えず太閤切腹せんと欲するも、人々刀を奪ひ取り之を留む、其の後本鳥を切らる、取り留むる能はず、則ち出家せらると云々、頗る狂気か、悲歎すと雖も、此くのごとき儀、摂家未だ其の例を聞かず、不可説なり、

 

 「解釈」

 さて、聞くところによると、近頃前関白近衛忠嗣の最愛の妻が他界した。忠嗣は悲嘆に耐えられず切腹しようとしたが、人々が刀を奪い取り切腹を制止した。その後、忠嗣は本鳥をお切りになった。人々はそれを制止することはできなかった。忠嗣はそのままご出家になったという。ひどく気が狂っていたのだろうか。悲嘆していたとしても、このような事件は、摂家ではその例を聞いたことはない。けしからんことである。

 

 「注釈」

「近衞忠嗣」

 ─没年:享徳3.6.30(1454.7.25)生年:永徳3/弘和3(1383)南北朝時代末の公家。父は近衛兼嗣。母は家女房。康応1/元中6(1389)年元服ののち良嗣と称し,応永15(1408)年忠嗣と改める。明徳1/元中7(1390)年従三位となり,左大臣を経て,応永15年関白・氏長者。同29年閏10月10日出家するが,その原因は月の初めに「最愛」の妻が他界したことにあった。忠嗣は悲しみのあまり取り乱し,切腹に及ぶ。周囲は驚いて刀を奪い取り,切腹を制止するが,その後すぐ忠嗣は髻を切った。伏見宮貞成,三宝満済はそれぞれの日記『看聞日記』『満済准后日記』にこの事件を記し,すこぶる狂気か,摂関家では前代未聞の例である,と結んでいる(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/近衛忠嗣-1075414)。

 

 

*「小宰相身投」(『平家物語』巻第九)のように、亡くなった夫の後追って自殺する妻の事例は有名ですが、亡くなった妻の後追って自殺しようとする夫の事例は初めて聞きました。しかも、文学作品ではなく、古記録に記載されているとは…。

 今回の記事は、前関白近衛忠嗣が愛妻の死による悲嘆に耐えきれず、切腹未遂事件を起こしたというものでした。いわゆる殉死です。忠嗣は周囲の人々によって切腹を止められたのですが、その後本鳥を切り、出家してしまいました。

 記主貞成親王はこの事件に対して、「頗る狂気か」と推測しています。おそらく、「愛妻を亡くした悲しみによって、忠嗣は気が狂い、切腹未遂事件を起こしてしまった」と判断したのでしょう(1)。貞成が伝聞情報から思い描いた自殺の因果関係は、このようなものだったと考えられます。

 つづいて貞成は、「悲歎すと雖も、此くのごとき儀、摂家未だ其の例を聞かず、不可説なり」という感想を記しています。愛妻を亡くした悲しみ自体には共感しているのですが、今回のような自殺未遂事件は、「摂関家ではその先例を聞いたことがない。けしからんことである」と非難していることにも気づきます。妻の死没を契機に夫が出家する事例は少数ながら存在するのですが、切腹未遂事件まで起こすという事例はなかったのかもしれません(2)

 中世における殉死の少なさについては、すでに平雅行氏の研究があるので、詳細はそちらに譲るとして、ここでは概略を述べておきます(3)平氏の研究によると、中世では、「六道輪廻の世界で再び邂逅することはほぼ不可能だとの観念」(仏教的六道観)と、「同じ浄土、同じ蓮の台に座を分けるように二人一緒に生まれ変わりたいとの願望」(一蓮托生の観念)が共存・相克しており、前者が殉死の制約要因になっていた、と主張されています。また、浄土往生は希有なことと考えられていたため、一蓮托生の願いがあったとしても、中世びとにとっては実現性の不確かな願望にすぎなかったそうです。したがって、殉死では一蓮托生の想いを叶えることができない以上、死者の菩提を弔い、みずからの往生を祈る方が、一蓮托生を実現するより確かな道となり、しかも夫や主人の死を契機に出家してその菩提を弔うという、より穏やかな殉じ方も流布していたため、日本中世では殉死が少なかったそうです。

 近衛忠嗣切腹を止められ、最終的には出家したのですが、そもそも妻の死を起因とした出家自体が数少ない行為であるうえに、その前に自殺未遂まで起こしているのですから、ずいぶんと珍しい事例だと言えます。「一蓮托生の観念」が殉死願望を煽った可能性はかなり高いと思いますが、それは忠嗣本人に聞いてみないとわかりませんし、切腹行動に出た瞬間の思考は、当の本人にも理解できていないはずです。

 ところで、一つ気になるのが、貞成による「不可説」という評価です。いったい、どのようなところが「不可説」だったのでしょうか。この史料の場合、「不可説」をより厳密に解釈すれば、「言葉にできないほど、基準から外れた、あるまじき行為・異常な行為・まともでない行為」のような意味になると考えられます(4)。そうすると、貞成は「妻の死を理由に殉死することは道理に反している」という社会通念をもっていたことになります。今回のような切腹未遂事件が稀有な事例であることは、平氏の研究からも明らかなので、中世では、貞成の記した社会通念のほうがより一般的だったと言えそうです。

 中世びとは、「小宰相身投」(『平家物語』巻第九)のようなエピソードに耳を傾け、時には涙を流したのかもしれません。しかし、配偶者に先立たれるという似通ったの境遇にありながら、夫が自殺に踏み切った場合には、痛烈に非難されたようです。このギャップは文学作品と現実の違いに起因するものなのでしょうか、それとも、女と男の違いとして理解するべきなのでしょうか。その判断については今後の課題にしておきます。

 

 【補注】

(1)この史料からでは、近衛忠嗣自身の脳裏に浮かんだ自殺の理由や心情はわかりません。下園壮太うつ状態とはなにか」(『人はどうして死にたがるのか』文芸社、2003、37〜38頁)によると、配偶者や子どもの死が悲しいのは、自身のDNAを残す可能性(生殖の可能性)が減少するからなのですが、彼の脳にこのような理由が浮かぶことはなかったでしょう。彼の脳は、当時の社会通念に照らして合理的だと判断できる理由や心情を、創作・捏造していたものと考えられます(小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫筑摩書房、2020年)、マイケル・S・ガザニガ『人間とは何か 脳が明かす「人間らしさの起源」』上・下(ちくま学芸文庫筑摩書房、2018年)。

 

(2)平雅行「日本中世の在俗出家について」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第55巻、2015.3、11・12頁、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/55444/?lang=0&mode=0&opkey=R160752837653576&idx=1&chk_schema=3000&cate_schema=3000&cflg=1&codeno=journal)。少々ひねくれた読み方かもしれませんが、「摂家ではその例を聞いたことはない」の「摂家」を強く意識すれば、「摂家」以外では、少ないながらも夫の殉死(後追い自殺)事例があったと読めるかもしれません。今のところ確証はありませんが…。

 

(3)前掲注(2)論文。以下、重要な箇所を引用しておきます。

 

 中世は主従制が展開した時代であるが、その反面、殉死が少ない。もちろん、戦場で主従が一緒に戦死したり、共に切腹したりすることは珍しいことではない。ただ殉死を、病没した主人に殉じて自死することに限定すれば、戦国末・江戸初期にかなり多くみえるが、中世の殉死はほとんど確認できない。(中略)

 その理由として、仏教的六道観の影響があったと考えられる。殉死をめぐって、中世では二つの仏教観が共存・相克していた。一つは、 仏教的六道観である。(中略)

 ところが他方では、浄土で同じ蓮で半座を分けることを願う考えも出てくる。(中略)

 このように中世では、六道輪廻の世界で再び邂逅することはほぼ不可能だとの観念と、同じ浄土、同じ蓮の台に座を分けるように二人一緒に生まれ変わりたいとの願望が共存・相克していた。考えてみれば、寺檀制によって往生成仏を祈る体制が整備された江戸時代では人々の往生成仏は普通のこととなり、一蓮托生の観念が広く流布してそれが心中を支える思想的背景となる。ところが、中世では基本的に往生は希有なことと考えられていた。一蓮托生の願いがあったとしても、浄土往生そのものが稀である以上、半座の願いは実現性の不確かな願望でしかなかった。そういう中にあっては、殉死では一蓮托生の想いを叶えることができない。むしろ死者の菩提を弔い、みずからの往生を祈る方が、一蓮托生を実現する、より確かな道であった。しかも中世では、夫や主人の死を契機に出家してその菩提を弔うという、より穏やかな殉じ方が流布していた。死者への思慕の念は、出家という穏やかな自己犠牲によって満足させられたのである。日本中世で殉死が少ない理由は、このように考えられる。逆にいえば、十六世紀に在俗出家の風習が衰え、主人の死を契機とする出家が減少していったこと、および戦乱が終焉したことが、近世初頭に殉死を盛行させる原因となった。

 

(4)「不可説」は多義語であり、意味も漠然としているので、少しばかり厳密化しておこうと思います。まずは、『日本国語大辞典』(小学館)から「不可説」の意味を拾い出してみましょう。

 

①仏語。ことばでは説き尽くせないこと。仏徳などについていう。

②転じて、一般にことばで説明できないこと。また、そのさま。

③特に、ことばで言えないほどひどいこと。まったくけしからぬこと。また、そのさま。

④規準から大きくはずれていること。

 

 文脈から考えれば、③・④が適切に思われますが、もっともふさわしいのは③ではないでしょうか。ただし、「ひどい」=「むごい。過酷である。残酷である」・「一般に、程度がはなはだしい。過度である。極端である。特に、好ましくない物事についていう」(『日本国語大辞典』)では文脈に合わなくなるので、「ひどいこと」よりも「けしからぬこと」がよりふさわしい意味になると考えられます。

 では、「けしからぬこと」とはどういう意味なのでしょうか。これも『日本国語大辞典』から意味を拾い出してみると、以下のようになります。

 

①特になんということもない。ろくでもない。たいしたこともない。

②不都合である。非難すべきさまである。あるまじきことである。いけない。

③異常である。思いもよらない。とんでもない。

④あやしげである。まともでない。

⑤一通りではない。並たいていでない。

⑥たいそう。並はずれて多い。

 

 以上の意味の中から、忠嗣切腹未遂事件の文脈に合うものを探せば、②・③・④あたりの意味がふさわしくみえてきます。よってこの史料では、「不可説」を「言葉にできないほど、基準から外れた、あるまじき行為・異常な行為・まともでない行為」と解釈しておきます。