周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─14 〜刑罰としての切腹と代理自害 史料編〜

【史料1】

  応永三十一年(1424)三月十四日条

         (『図書寮叢刊 看聞日記』3─24)

 

 十四日、晴、

  (中略)

          (満元)               〔招〕

  抑後聞、今日前管領細河、屋形有喧嘩事、為節養赤松一党詔請有大飲、而安東

                  (義雅)

  ゝゝ〈公方近習、〉酔臥之処、赤松左馬助安東差殺了、令逐電云々、仍安東

         

  傍輩等赤松寄、雖然自公方被制、左馬助可切腹之由被仰、然而已逐電之

  間先無為云々、

 

 「書き下し文」

 抑も後に聞く、今日前管領細川、屋形にて喧嘩の事有り、節養のため赤松一党を招請し大飲有り、而して安東某〈公方近習〉酔臥するの処、赤松左馬助安東を差し殺し了んぬ、逐電せしむと云々、仍て安東の傍輩ら赤松へ押し寄せんと欲す、然りと雖も公方より制せられ、左馬助に切腹すべきの由仰せらる、然れども已に逐電の間先ず無為と云々、

 

 「解釈」

 さて、後で聞いた。今日前管領細川満元の屋形で喧嘩があった。正月の祝宴のために赤松の一党を招待して大いに酒を飲んだ。そして、室町殿足利義持の近習であった安東某が酔っ払って寝ていたところ、赤松左馬助義雅が安東を刺し殺してしまった。義雅は逃亡したという。そこで、安東の同僚たちは赤松のもとに攻め寄せようとした。しかし足利義持から制止され、義雅に切腹せよとご命令になった。しかし、すでに逃亡していたので、とりあえずは何事もなかったそうだ。

 

 「注釈」

「節養」

 ─せつやしない。『日本国語大辞典』によると、「年始に妻の方に、夫などを招いて祝宴を催すこと」と説明されていますが、今回の場合、細川満元は伯父赤松義則(満元母の兄)一党を招いて祝宴を催しているので、「親しい縁者を招いた正月の祝宴」程度の広い意味であったと考えられます。

 

細川満元

 ─ 1378-1426 室町時代の武将。永和4=天授4年生まれ。細川頼元(よりもと)の子。応永4年父の死により摂津,丹波などの守護をつぐ。また19年から28年まで管領(かんれい)に在任し,将軍足利義持(よしもち)をたすけて室町幕府の安定化につとめた。応永33年10月16日死去。49歳。通称は五郎(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/細川満元-133266)。

 

 

【史料2】

  同日条(『満済准后日記』上、続群書類従・補遺一、P259)

 

 十四日。降雨。於右京大夫亭。赤松左馬助安藤ヲ殺害。左馬助逐電云々。以外

  猥雑云々。左馬助ニ可切腹由。雖被立御使逐電云々。

 

 「書き下し文」

 十四日、降雨、右京大夫亭に於いて、赤松左馬助安藤を殺害す、左馬助逐電すと云々、以ての外猥雑と云々、左馬助に切腹すべきの由、御使ひを立てらると雖も逐電すと云々、

 

 「解釈」

 十四日、雨が降った。右京大夫細川満元亭で赤松左馬助義雅が安東某を殺害した。義雅は逃亡したそうだ。とんでもない無法な行為であるという。義雅に切腹せよとのお使いを派遣したけれども、逃亡していたそうだ。

 

 

【史料3】

  応永三十一年(1424)五月二十七日条『常楽記』

    (『群書類従・第二十九輯・雑部』、『奈良地域関連資料画像データベース

     阪本龍門文庫所蔵電子画像集』

   https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y05/html/213/l/p070.html

 

    卅一年 〈庚辰〉

    (中略)

                              (義則)

  安藤ヽヽ 被殺害 於右京大夫入道亭酒宴席、」敵人赤松入道息、自

             其庭逐電云々、

  裏壁ヽヽ 切腹  主人逐電了、代官ニ被切腹、而親入道可切之由、」

                 (ママ)

           父子論之、親兄切之、其子又可切之由堅申也、仍」

           二人不然之間、親ヲハ留也、諸人泣哀淚云々、」

           此子未弱冠、腹切様又大強之者也、諸人」哀

           之云々、安藤近習者也、仍小番衆已下堅」申鬱陶

           仍令切腹云々、

 

*この史料の返り点・説明注などは、清水克行「室町殿の紛争解決法」(『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004、90頁)を参考にしました。

 

 「書き下し文」

  安藤ヽヽ 殺害せらる 右京大夫入道亭の酒宴の席に於いて、敵人赤松入道の息、其の庭より逐電すと云々、

  裏壁ヽヽ 切腹 主人逐電し了んぬ、代官に切腹せらる、而るに親入道切るべきの由、父子之を論ず、親兄之を切り、其の子も又切るべきの由堅く申すなり、仍て二人然るべからざるの間、親をば留むるなり、諸人哀淚に泣くと云々、此の子未だ弱冠に及ばざるに、腹切の様も又大強の者なり、諸人之を哀惜すと云々、安藤近習の者なり、仍て小番衆已下堅く鬱陶を申す、仍て切腹せしむと云々、

 

 「解釈」

  安藤某は右京大夫入道細川満元邸の酒席で殺害された。敵人赤松入道義則の子息義雅はその場から逃亡した。

  裏壁(浦上)某は切腹した。 主人赤松義雅は逃亡した。その代官として切腹なさることになった。しかし親である裏壁(浦上)入道は自身が切腹するべきだと主張し、父子で論争になった。その子もまた自分が切腹すると、頑固に申し上げたのである。よって、両人ともに切腹するのはよくないので、親入道の切腹を留めたのである。多くの人々は悲しみの涙にくれたという。この子はまだ二十歳にもなっていなかったが、切腹の様子はたいそう勇敢なものであった。多くの人々はこの子の死を悲しみ惜しんだそうだ。安藤は室町殿の近習であった。そのため、安藤の同輩らは強く鬱憤の思いを申し上げた。よって切腹したという。

 

 

【史料4】

  応永二十六年(1419)五月二十七日条『常楽記』

    (『群書類従・第二十九輯・雑部』、『奈良地域関連資料画像データベース

     阪本龍門文庫所蔵電子画像集』

      http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/213/l/p068.html

 

  応永廿六年〈己亥〉

   (中略)

 十一月二日 山上堂衆播磨坊快深盗人張本露顕之間、」被召取之、今夜所司已下

        二人被討、庭」引出之処、乞請而自害云々、同庭下法師」福善

        切頚、此法師白状了、余党堂衆美濃房柏原庄代官下向中之間、

        自其逐電了、

 

 「書き下し文」

 十一月二日 山上堂衆播磨坊快深盗人張本露顕するの間、之を召し取らる、今夜所司已下二人討たれ、庭に引き出だすの処、乞ひ請けて自害すと云々、同じ庭に下法師福善の頚を切る、此の法師白状し了んぬ、余党堂衆美濃房柏原庄代官にて下向中の間、其れより逐電し了んぬ、

 

 「解釈」

 十一月二日 上醍醐寺の堂衆、播磨坊快深は盗人の首領であることが露顕したので、召し取られた。今夜当寺の所司以下二人がお召し取りになり、快深を庭に引き出したところ、頼み込んで自害したという。同じ庭で下法師福善の首を切った。この法師は白状した。残党である堂衆の美濃房は近江柏原庄の代官として下向中だったので、そこから逐電した。

 

 「注釈」

「柏原庄」

 ─近江坂田郡の荘園。現在の滋賀県坂田郡山東町柏原付近(2005年より米原市柏原)。醍醐寺領(『日本荘園史大辞典』吉川弘文館)。