周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─5 〜自殺とパーソナリティ?〜

  応永三年(1396)十一月二十五日『荒暦』

       (『大日本史料』第7編2冊、583・584頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0702/0583?m=all&s=0583&n=20

 

                                  (山科)

 十一月五日、己未、晴、去夜鴨社炎上之由有巷説、然而猶不分明之間、遣惟教朝臣、於社務辺、委細可相尋之由仰含了、入夜帰来云、河合社神殿、去夜亥刻焼失、中門廻廊等全分無恙、神殿許払地焼了、先去一日相嘗祭了、社司等退散之後、及卯刻、〈二ツ」暁也、〉彼社鳥居忽焉焼失、両方柱倒了、更不知火起、各成奇異之思之処、夜前重此災出来、当社神殿守、号小預男〈名字」不分明、〉一人有之、平生酔狂、時々又有物狂気、去月末比発言云、近日可行向清浄地之由、有相伴人、必可至其所云々、然而聞之者、敢不及信用、自然過了、爰件男、去夜参神殿、供御燈退出、暫而自宝殿内火出之間、走入雖打消、力不及之間、此男於神殿上、抜太刀腹了、仍雑人等驚騒、未死之間、至河原引出、不経幾程死去、切腹時、自雖引出膓、更以無血気、是非直也事、神火之條無疑之由、社司等称之云々、抑神体不奉取出、只神体歟之由推量物纔見出間、築小壇、如形奉遷居許也、凡近代神殿破壊、雨露相侵、言語道断事也、仍霊神成怒歟、可恐、件火余焔更不及他所、近辺小社以下皆以無為云々、希代事也、但披社解之後、可知実否也、此社鎮座以後未逢此災云々、天永三年十廿九、河合社中門并廻廊焼失、然而宝殿免余

                              (三)

焔云々、此外、天暦五年十月廿六日、鴨社幣殿焼亡、嘉承元四月十二丑時、賀茂別雷社焼亡、元永二十一月一日戌刻、鴨御祖社焼亡、保延四二月廿三、下社神館屋神宮社頭、西塔焼亡、弘安十六月六日、鴨社廻廊焼亡〈○各條」参看、〉件例等可為准據歟、

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しています。

 

 「書き下し文」

 十一月五日、己未、晴る、去んぬる夜鴨社炎上するの由巷説有り、然れども猶ほ不分明なるの間、惟教朝臣を遣はし、社務辺りに於いて、委細相尋ぬべきの由仰せ含め了んぬ、夜に入り帰来して云はく、河合社神殿去んぬる夜亥の刻に焼失す、中門・廻廊等全分恙無く、神殿ばかり地を払ひ焼け了んぬ、先づ去んぬる一日相嘗祭了り、社司ら退散するの後、卯の刻に及び、〈二ツ暁なり、〉彼の社の鳥居忽焉と焼失し、両方の柱倒れ了んぬ、更に不知火起こり、各々奇異の思ひを成すのところ、夜前重ねて此の災出来す、当社神殿守、小預と号す男〈名字不分明、〉一人之有り、平生酔狂なり、時々また物狂の気有り、去月末ごろ発言して云はく、「近日清浄の地に行き向かふべきの由、相伴人有り、必ず其所に至るべし」と云々、然れども之を聞く者、敢へて信用するに及ばず、自然と過ぎ了んぬ、爰に件の男、去んぬる夜神殿に参り、御灯を供へ退出す、暫くして宝殿内より火出づるの間、走り入り打ち消すと雖も、力及ばざるの間、此の男神殿の上に於いて、太刀を抜き切腹し了んぬ、仍て雑人ら驚き騒ぎ、未だ死せざるの間、河原に引き出すに至りて、幾ほども経ず死去す、切腹するの時、自ら腸を引き出すと雖も、更に以て血の気無し、是れ直也事に非ず、神火の條疑ひ無きの由、社司ら之を称すと云々、抑も神体取り出だし奉らず、ただ神体かの由推し量る物纔に見出すの間、小壇を築き、形のごとく遷居し奉るばかりなり、凡そ近代神殿破壊し、雨露相浸る、言語道断の事なり、仍て霊神怒りを成すか、恐るべし、件の火余焔更に他所に及ばず、近辺の小社以下皆以て無為なりと云々、希代の事なり、但し社の解を披くの後、実否を知るべきなり、此の社鎮座以後未だ此の災に逢はずと云々、天永三年十廿九、河合社中門并びに廻廊焼失す、然れども宝殿余焔を免ると云々、此の外、天暦五年十月廿六日、鴨社幣殿焼亡す、嘉承元四月十三丑の時、賀茂別雷社焼亡す、元永二十一月一日戌の刻、鴨御祖社焼亡す、保延四二月廿三、下社神館屋・神宮社頭、西塔焼亡す、弘安十六月五日、鴨社廻廊焼亡す、件の例等に准據するべきか、

 

 「解釈」

 十一月五日、己未、晴れ。昨夜鴨社が炎上したという噂があった。しかし依然としてはっきりしないので、山科惟教を遣わし、社務あたりの人々に、詳しく尋ねよと言って聞かせなさった。山科惟教が夜になって帰ってきて言うには、河合社の神殿が昨夜亥の刻に焼失した。中門や廻廊などすべて無事で、神殿だけがすっかり焼けてしまった。まず去る一日に相嘗祭が終わり、社司らが退散したのち、卯の刻〈二つ時、夜明け方〉になり、河合社の鳥居が突然焼失し、両方の柱が倒れてしまった。さらに不審火が起こり、各々が不思議だと思っていたところ、昨夜再びこの火災が起きた。鴨社の神殿守に小預と名乗る男〈名前ははっきりしない〉が一人いた。普段から酒に酔って乱暴な振る舞いをする人であった。また時折、常軌を逸した行動をとる傾向もあった。その男が先月末ごろに言い出したことには、「近いうちに清浄の地に向かうつもりで、連れ立つ者がおり、必ずそこに行き着くはずだ」という。しかし、これを聞いた者は、けっして信用せず、自然と時が過ぎ去ってしまった。さて、この男は昨夜神殿に参り、御灯を供えて退出した。しばらくして宝殿(=神殿か)の中から出火したので、走り入り火を消そうとしたが、力が足りなかったので、この男は神殿の上で太刀を抜いて切腹した。そのため雑人らが驚き騒ぎ、まだ死んでないうちに河原に引き出し、しばらくしてから死んだ。切腹したときに自ら腸を引き出したが、まったく血色はなかった。これはただごとではない。神異による不思議な火であることは疑いない、と社司らが公然と言っていたそうだ。さて、御神体は取り出し申し上げておらず、ただ御神体だろうと推量される物がわずかに見つかったので、小さな壇を築いて、形式どおりに遷居し申し上げただけである。そもそも、近頃神殿は壊れ、雨露が染み入っていた。とんでもないことである。そのため、御祭神がお怒りになったのだろう。恐るべきことである。この火事の火先が他所に及ぶことはなく、近辺の小社などはみな無事だという。たいそう珍しいことである。ただし、以上のことは鴨社からの上申書を披見したのちに、真実か否かがわかるはずである。この河合社は鎮座以後このような火災に遭ったことはないという。天永三年(1112)十月二十九日に、河合社中門ならびに廻廊が焼失した。しかし、宝殿は延焼を免れたそうだ。この他に、天暦五年(951)十月二十六日に、鴨社幣殿が焼失した。嘉承元年(1106)四月十三日丑の刻に、賀茂別雷社が焼失した。元永二(1119)十一月一日戌の刻に、鴨御祖社が焼失した。保延四年(1138)二月二十三日に、下社の神館屋や神宮社頭、西塔が焼失した。弘安十年(1287)六月五日に、鴨社の廻廊が焼失した。今回の火災は、これらの例に准據するべきだろう。

 

 「注釈」

「荒暦」

 ─『成恩寺関白記』とも。関白一条経嗣の日記。1381-1407(永徳1-応永14)の日記の一部が写本で残る。欠失部分が多いが、基本資料の乏しい室町期の朝廷政治を知るうえで貴重(『角川新版日本史辞典』)。

 

 

*この史料については、山本幸司「穢の伝染と空間」(『穢と大祓 増補版』解放出版社、2009年、56頁)で簡潔にまとめられているので、そのまま引用しておきます。

 

 例えば、応永三(一三九六)年十一月四日、賀茂河合社が炎上した時のこと、神殿守の一人に日頃から酔狂で時々物狂いの気のある者がいた。その男が当日の夜、神殿に参って御燈を供えて退出してから、しばらくして宝殿の内から火が出たので、男は走り入って火を消そうとしたが力が及ばなかった。するとこの男は神殿の上で太刀を抜いて腹を切ってしまった。そこで雑人たちが驚き騒いで、まだ死なないうちに河原に引き出して、その後いくらも経たずに死んだが、腹を切ったときに自分で腸を引き出したけれども、まったく血の気がなかった。これはただ事ではなく、この火事が神火だったことは疑いないと社司たちが称しているという記事が、『荒暦』に載っている。ここで見られるように、神殿を穢としないために、人が死ぬ前に神殿から運び出すといった行為は当然のことだった。

 

 事件全体の概要については、これ以上説明を加えることもないので、いつものように、切腹に関する描写に絞り込んで検討してみようと思います。

 さて、事件を調査してきた山科惟教は、関白である記主一条経嗣に対して、次のように報告しています。「この男(神殿守の小預)は昨夜神殿に参り、御灯を供えて退出した。しばらくして宝殿の中から出火したので、走り入り火を消そうとしたが、力が足りなかったので、この男は神殿の上で、太刀を抜いて切腹した」と。つまり、惟教は「火を消せなかった」という理由によって小預は切腹した、と理解していたようです。では、なぜ「火を消せなかった」という理由で切腹したのでしょうか。

 現代人の常識をもって小預の心理を推測すれば、消火失敗の責任をとって切腹したなどと説明できそうです。すなわち、自殺の原因動機は消火失敗で、目的動機は自己処罰だったとすれば、ずいぶんと整合性のとれた説明になるような気がします。しかし、いくら整合性があっても、本当のところは死んだ小預に聞いてもわからないのかもしれません(前出記事「意志と行為」参照)。

 ちなみに、この河合社火災事件ですが、鴨社の社司たちの間では、小預の放火でも失火でもなく、「神火」(=人為をこえた怪しく不思議な火『日本国語大辞典』)だと判断されており、火事が発生した理由は「神殿の荒廃を放置したことによる神の怒り」と推測されていました。つまり、小預には火事を引き起こした責任はなく、「消火失敗」の責任だけがあった、ということになります。消火失敗の責任をとって切腹するなど、随分と生真面目な性格なのかと思えば、実はそうでもないようなのです。

 小預のパーソナリティに関する情報は、火災・切腹事件の前の部分に記されていました。とりわけ気になるのが、「普段から酒に酔って乱暴な振る舞いをする人であった。また時折、常軌を逸した行動をとる傾向もあった」という箇所です。この描写を踏まえると、次のようなストーリーが浮かんできます。「小預は本殿の消火に失敗したために切腹したのだが、それは常軌を逸した行動をとる、彼の性格によるものだ」。つまり、「消火失敗程度で切腹するなど、正気の沙汰ではない」というのが、山科惟教の報告から見えてくる当時の通念だったと考えられます。現代でも、自殺の理由を個人の性格のせいにしたがる言説は後を絶ちません。理解できない他者の言動を、その人のパーソナリティのせいにするのは、今も昔も変わらないようです。

 

 ところで、今回の記事もそうなのですが、自殺事件にはよく「狂気」「物狂」「狂乱」などという言葉がセットで現れます。その一方で、当たり前のことですが、これらの言葉がセットで現れない事件もあります。つまり、「狂気」=「常軌を逸した心」ではない、「常軌どおりの心」で自殺したとみなされた事件も存在することになります。何が常軌を逸した自殺であり、何が常軌どおりの自殺なのか。「狂」という言葉から窺える「中世の常軌」を分析することが、当時の自殺観や死生観を理解するためには、とても大切なことかもしれません。

 

 

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