六 宥與書状
(端裏)
「一宮田付テ院主宥与」
就二田坂村牛王導師免之儀一、預二御状一候、彼免田之儀、従二往古一、依レ無二
為
竹原分其紛一、公役等事南方准據ニ仕候之処、可レ有二御進退一候由承候、驚入候、
縦
雖三○為二南方之内一、於レ可レ有二御存知一者、彼免田ニ不レ可レ限候歟、能々
御分別肝要候、
(別筆) (義) 依為
「天文七年沼田竹原儀絶之時、沼田より手入候へ共、南方之内○歴然、押領なく候、後代ニ為二
御心得一如レ此候、」
「書き下し文」
(端裏)
「一宮田に付けて院主宥与」
田坂村牛王導師免の儀に就き、御状を預かり候ふ、彼の免田の儀、往古より、竹原分其の紛れ無きにより、公役等の事南方に准據せんが為に仕り候ふの処、御進退有るべく候ふ由承り候ひ、驚き入り候ふ、縦ひ南方の内たりと雖も、御存知有るべきに於いては、彼の免田に限るべからず候ふか、よくよく御分別肝要に候ふ、
「天文七年沼田・竹原義絶の時、沼田より手入れ候へども、南方の内歴然たるにより、押領無く候ふ、後代に御心得の為此くのごとく候ふ、」
「解釈」
田坂村の牛王導師免田の件について、あなた様(沼田小早川正平か)の書状を受け取りました。この免田は、昔から竹原小早川家の所領であることは紛れもないので、公役等のことは南方の取り決めに准據しようとしておりましたが、あなた様がご領有になるにちがいないという話をお聞きし、驚きました。たとえこの免田が南方の内であったとしても、あなた様がご領有になるということについては、この免田だけではなく、他の土地も支配なさるつもりなのでしょう。よくよく道理をわきまえなさることが大切です。
天文七年(一五三八)沼田小早川氏が竹原小早川氏(興景か)と絶縁したとき、沼田小早川氏がこの免田に手をつけてきましたが、南方(竹原小早川氏)の領内であることははっきりしていたので、沼田小早川氏の押領はありませんでした。後代の用心のため、このように記しておきます。
「注釈」
「田坂村」─未詳。
「牛王導師免」
─修正会結願作法の費用を捻出する免田(『楽音寺文書』52号の記事参照)。
「義絶」
─沼田小早川氏と竹原小早川氏の絶縁を指す。『三原市史』(第1巻・通史編1、417頁)によると、天文八年(1539)に沼田小早川氏は大内方から尼子方へ転じたそうです。竹原小早川氏は大内方のままだったので、これを理由に絶縁したのでしょう。ただし、この文書では絶縁年を天文七年(1538)と記載しています。年号の書き間違えなのか、小早川氏内部での実質的な絶縁がすでに天文七年時点で起きていたのかは、よくわかりません。