周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

恥の心理学 その1

M・ルイス『恥の心理学』(ミネルヴァ書房、1997年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。 

 

第2章 情動生活

情動(emotion)は感情(feeling)か

 

P15

 まず、emotion、affect、feelingという言葉から始めよう。これらの語は混同して用いられることが多いため、区別しておかなければならない。Emotionとaffectは定義しやすい。他の研究者と同じように、私も、emotionとaffectの大きな違いは特殊的であるか全体的であるかだと考えている。私はaffectという語によって、本質的には認知的でないあらゆる状態を意味している。したがって、空腹や疲労、痛みといった身体感覚はaffectである。しかしあるaffectに限って、それをemotionと呼ぶ。ここには、喜びや悲しみ、恐れ、嫌悪、興味、怒りなどの、私がこれから一次的情動と呼ぶ単純な日常の情動と、共感や同情、羨望、罪悪感、恥、誇り、後悔などのより複雑な情動が含まれる。後に見るように、一時的情動とより複雑な情動とを区別することはできる。なぜならより複雑な情動には内省が必要だからだ。

 

P20

 子どもは、社会化の過程において、自分がある状況で示したある情動行動に対し、大人から特定の言語的ラベルを与えられたり、ある特定の反応をされたりする。私は別の著書『子どもの情動と気分( Children’s Emotions and Moods)』で述べた。情動状態に対する親の反応や、情動状態に関する親の行動の結果、子どもは自分の情動状態について考えるようになるはずである。実際親は子どもに、子ども自身の内的状態とは一致していない覚知をもつように教えているかもしれない。子どもの頃のジョンが、喪失という状況である種の行動を示したことがあったかもしれない。そのときに、両親はその行動は悲しいということではなく、疲れているということを意味しているのだと彼に教えた。つまり、過去の経験が、ある情動についての自己覚知を形づくりうるかもしれないのである。それは、実際の情動状態とは似つかないような覚知を生み出すことすらあるだろう。この種の学習によって、精神病理的と名付けられた個人差を説明できるだろう。また、おそらく情動経験の家族間や集団間、文化間の差異をも説明できるだろう。

 まとめると、「感情」とはある情動状態が存在していることと、その情動状態を覚知していることとの両方を意味する。この二つは同じだと考えられてしまうことがあまりにも多い。あらゆる情動は経験可能である。

 

 →学習の影響によって、自身の情動認知が不正確なものとなり、本当に抱いている感情と、言語的に覚知できた感情が異なる可能性が出てくる。こういう事情も、自殺者が自殺するときに、自分の心情や動機などを正確に捉えられない理由であり、自殺者が思い描いた動機や、覚知した情動が、捏造と言われる理由だろう。

 

P23

 私は、自己の役割との関連で情動を分類できるのではないかと思う。恐れや楽しみ、嫌悪、驚き、怒り、悲しみ、関心を引き起こすのに、内省もしくは自己言及は必要ではない。したがって、これらの情動を一つのセットとみなすことにしよう。嫉妬や羨望、共感、困惑、恥、誇り、罪悪感を引き起こすには、内省もしくは自己言及が必要である。これらの情動がもう一つのセットを構成する。情動を自己というものを使うか否かという基準にしたがって単純に分類すれば、二つのグループができあがる。また、出現時期という仮説と関連させると、自己言及的な情動は、非自己言及的な情動よりも発達上遅くに出現することにも注目してほしい。

 個体発生的な差は、系統発生的な差によっても支持される。私は次のように考えている。すなわち、あらゆる動物は内省を必要としない情動をもっている。しかし、二つめの情動セットをもつことができるのは、内省という特徴をもつヒト(そしておそらくチンパンジーも)だけである。ただし、この考えには賛成しない研究者もいる。この方法を用いれば、内省という一つの次元によって、個体発生的にも系統発生的にも情動を分類できることになる。これがヒューリスティックな価値をもっている一方で、数ある可能なアプローチのほんの一つにすぎないということは認める。しかし、私はこの方法をとろうと思う。私が考えるに、一次的情動と二次的情動の違いは、二次的情動には自己言及が関与しているという点だ。そこで、以降は二次的情動を自己意識的情動(self-conscious emotion)とよぼう。恥は、自己意識的情動の一つである。

 情動生活には、三つの主要な側面がある。情動状態、情動表出、情動経験である。これからそのそれぞれについて、特に恥に関連させながら論じていくことにしよう。情動状態についてはすでに論じたとおりである。情動表出は、社会的あるいは公的な場での行為と関係がある。情動経験は内省や自己との関係がある。

 

P24 情動の表出

 情動表出は、内的状態が外的にあらわれたものである。

 

 

P33 情動経験

 したがって、情動を経験するためには、先に議論した情動状態と情動表出という二つの刺激セットに対して、二つのレベルで注意を向けなければならない。第一のレベル、これを主観的レベルと呼ぶこととするが、このレベルでは身体が身体自身に注意を向ける。あらゆる機械がそうであるように、機械全体が作動するためには、さまざまな部位が他の部位を監視、探知する必要がある。われわれの身体は血中の二酸化炭素濃度を探知し、濃度が過剰に高かったり低かったりするときには、その状態を知らせ、修正する一連の複雑な反応を生じさせる。あらゆる複雑な有機体は、自身の機能に注意を向け、自身を制御するのである。この第一のレベルの経験を、主観的経験と呼ぶことにしよう。

 

 →意識レベルではなく、無意識に身体が自動処理している状態のこと。

 

 しかしながら、ここでこれらから注目するのは、私が客観的経験と呼ぶ第二のレベルの経験である。客観的経験においては、われわれは意識的に自分自身について考えている。多くの理由から、われわれはいつも客観的レベルの経験をしているとは限らない。競合する刺激がわれわれの注意を自分自身から引き離すことはよくある。先に記したように、グロリアは自分の車をとめようとしたとき、自分の内的状態には注意を向けていなかった。私は彼女がおそれという状態にはなかったのだと言おうとしているのではない。タイヤが破裂して、車にコントロールがきかなくなった瞬間から、彼女はおそれという状態にあった。しかし、無事に車をとめ、自分自身の身体から発せられている刺激に注意を向けることができたときには初めて、彼女は本当に恐れを経験できたのである。

 情動を経験するためには、人間は選択された刺激セットに注意を向けなければならない。たとえある特定の情動にあったとしても、それに注意を向けなければ客観的経験は生じないだろう。客観的には経験されていない情動状態や表出が存在するという事実と、これらの情動状態が情動表出は客観的に経験されていなくても、われわれの知覚や思考、他者との相互作用に影響を与え、われわれをある行為へと動機づける、という事実とを結びつけることはけっして難しいことではない。たとえば、歯医者で患者が痛い治療を受けるとしよう。しかし、もしイヤホンで大きな音楽を聴いて気を紛らわせれば、痛みを経験しないかもしれない。患者には痛いという状態が確かに存在しているのだけれども、しれが主観的に経験されていないだけなのである。

 

 →実際に自傷行為や自殺行為を行なっているときには、その行為自体に集中しているから、そのときの情動には気づけないし、ましてや自殺の動機などが脳裏に浮かんでいたとしても、それを意識することはできていない。これが、自殺しているときに、本当は何を考えているかがわからない理由ということになるか。

 

P34

 さて、ある状態にあってもそれを経験していない、という問題に戻ることにしよう。これはよく無意識的動機とされているものではないかと思う。

 

 私の患者が車を修理屋に持っていき、午後2時に車を返してもらえると言われた。2時に彼が着くと、修理はまだできていないと告げられた。彼は、そのとき自分が怒っている、あるいは怒っているように見えていたことに気づいていなかったという。しかし、修理工は彼の表情を怒りと解釈し、厳しい、怒りの言葉で彼に応えたので、彼は驚いた。そこで私の患者は、彼が機械工の怒りと知覚したものに対して腹をたて、こう言った。「一体何に対して怒っているんだ? 私の車ができていないというのに!」

 

 私はこの患者に、彼自身の自分の怒りという情動状態に気づいていなかったにもかかわらず、彼の経験されていない怒りが、対人的やり取りにどのような結果をもたらすことになったのかを示すことができた。

 情動経験は、状態と表出についての解釈や評価の結果として生じるものであり、したがって認知過程に依存している。解釈、評価するための認知能力と、特定の社会化の産物である解釈や評価を決定する規則とに触れないで、解釈や評価について語ることはできない。問題となっている認知過程は複雑であり、これには知覚や記憶、精緻化が含まれる。自律神経の活動の変化といった事象は、知覚され、過去の経験と比較され、それから命名される必要がある。社会化はその命名に強い影響を及ぼす。たとえば、親が子の情動経験をどう解釈するかによって、親は子どもが情動を経験することを助けることもありうるし、妨げることもありうるのだ。

 

 私たちはある2歳の女の子を実験室で観察した。初めは母親と一緒にいるところを、次に父親と一緒にいるところを観察した。母親と遊んでいる途中で女の子は座り込み、とても静かになり、玩具で遊ぶのをやめてしまった。そこで母親は子どもに「どうしたの? 悲しいの?」と尋ね、自分の膝に座りに来るように言い、それから子どもを撫で、抱きしめた。この母親の反応は、子どもの情動状態について母親が行なった解釈と明らかに関連していた。その後、父親と遊んだときにも、彼女はそのような行動を示した。父親は「疲れたのかい?」と尋ね、立ち上がって、ある玩具でもっと元気よく遊ぶよう、子どもを励ました。

 

 さまざまな家族やさまざまな文化が、感情いついて異なった解釈を行なうと仮定するのはもっともなことだろう。ある家族や文化では特定のテーマをめぐって内的情動状態についての説明が与えられるが、ある家族や文化では与えられない。私の親友は、自分の幼い子どもの行動の特徴を述べるときにめったに情動語を用いない。彼らから見れば、子どもはお腹が空いている、疲れている、刺激過剰であるというような感じで、悲しい、嬉しい、興奮している、怒っている、といったことはめったにないのである。

 

 →結局、歴史学にできるのは、社会化の産物である解釈や評価の分析になるのか。自殺行為に影響を及ぼす解釈や評価と、それらがどのように形成され威力を発揮しているのかを明らかにすることが目的と言えそう。

 

P35 恥における自己の役割

 あらゆる情動経験には客観的自己覚知が必要であることは明らかだ。今まで見てきたように、ある情動状態にあっても、その状態を経験していないことがある。たとえそれが一時的情動状態であれ、自己意識的情動状態であってもだ。

 自己意識的情動状態は、一次的情動状態とは異なる。定義によれば、自己意識的情動状態は内省によって生じる。一次的情動では、その状態を産出するためにも、それを経験するためにも自己が必要とされる。たとえば、騒音のために私が恐れという状態に置かれたとしよう。しかしこの状態を経験するためには、客観的自己覚知が必要である。さらに、恥という状態に置かれるためには、自分の行為を何らかの基準、すなわち自分自身の基準あるいは他者の基準に照らし合わせなければならない。行為を基準に照らし合わせたときの私の失敗が恥の状態を引き起こすが、そこには私の客観的自己覚知が必要なのである。いったん恥の状態に置かれたからといって、恥を経験するとは限らない。経験するか否かは、自分自身の状態に焦点化するか否かによるのである。繰り返すが、経験するためには客観的自己覚知が必要なのだ。他の研究者は、恥という状態は客観的自己覚知を必要としない、もっと自動的な方法で生じうると指摘してきたが。

 

 →「行為の生起」→「基準との照合」→「恥状態の生起」→「客観的自己覚知による恥の認知」→A「恥と自殺の結びつけ」→「自殺念慮の生起」→B→「自殺遂行」。歴史的・文化的に形成されたAの思考を明らかにするのが歴史学。Bは心理学の役割か。

 

P36

 ズボンの中に大便をしてしまった、30ヶ月の子どもの例を考えてみよう。この事象は必然的に恥という状態を生じさせるのだろう。すなわち、大便をすることと恥との間には何らかの関連があると推測できる。あるいは、恥は、そのアクシデントあるいはそれに対する親の反応について子どもが考えたことの結果だと考えることもできる。私は明らかに後者の説明を好む。なぜなら、恥を引き起こす事象の多くは、自動的過程では容易に説明できないと思うからだ。もう一つ例を考えてみよう。今度は大人の例だ。ある男が、読書家であると主張している友人に、アップダイクの最新本を呼んだかどうか尋ねる。読書家の友人はアップダイクの本を読んでいなかったが、教養がある、という自分の評判を維持するために、読んだと答える。言い換えれば、自分に知識がないということによって自分が恥じないために嘘をつくのだ。ここで恥の状態を生じさせた事象とは、何らかの自動的過程ではなく、男が考えたことと関係があることは明らかだ。

 

 →この「考えたこと」というのが曲者。自由意志のもと考えたのではなく、恥をかきたくないという思考が自動的過程で生じてきていることがすでに問題。

 

 議論の混乱の原因は、恥の正規家庭の性質にあるのではない。ある事象は、他の事象よりも特定の思考を引き出しやすいがために、恥という状態を容易に引き起こす可能性がある。このことが混乱の原因である。上記の排泄のアクシデントは、知識のずれに比べると、他者からの非難を引き出しやすい。恥の誘発事象の典型性に関して何かを述べる場合、それは次のような仮定に基づいていなければならない。すなわち、ある事象は他の事象よりも恥を生じさせる思考を導きやすいがために恥の状態を生み出しやすい、という過程である。しかしたいていの議論では、これらの要因がやや混同されてしまっている。

 この混乱は、ダーウィン自身の議論に示されている。ダーウィンは、紅潮は人の特定の身体部位に注意が向けられることで、何らかの自動的な方法によって引き起こされると考えていた。たとえば、顔に注意を向けられると顔に紅潮が生じる。しかし彼は、自分が他者の目にどのように映るかによっても紅潮は引き起こされると考えていた。彼の言葉で言うと、「他者が自分のことを考えている、ということについて考えることが、紅潮を生じさせる」のだ。

 

P39

 イザードは恥を現象学的に、「自己意識的自己覚知、あるいは自己注意が高まった状態、すなわち意識が自己に関することで埋められており、自分が無力あるいは不十分だと考えている、自己の何らかの側面を覚知している状態」と定義している。

 

P42

 しかしながら、ダーウィン以降、研究者たちは、隠れたい、あるいは消えてしまいたいという願望が、恥の非常に重要な現象学的特徴であると指摘してきた。その願望が、恥の経験の非常に大きな構成要素なのである。恥の記述における二つめの特徴は、強烈な苦痛、不快、怒りである。実際、これらが恥と、困惑やはにかみを区別する。三つめの特徴は、自分は全くだめで、能力がなく、価値がない、という感じである。これは、自己が自己について下した全体的記述である。そして、四つめの特徴は、主体と客体の混乱である。恥が生じているとき、われわれは恥の主体であると同時に、恥の客体にもなる。行為することや行為を続けることが困難となるようなある束縛に自己システムがとらわれてしまうのである。自己が完全に自己だけに焦点を向けてしまうと、恥によって進行中の活動が妨げられ、混乱が生じる。すなわち、はっきりと考えたり、話したり、振る舞うことができなくなってしまう。

 この四つめの現象学的特徴によって、恥と罪悪感を区別することができる。上記のとおり、恥とは、自己と客体の環が完全に閉じてしまうことである。しかし、罪悪感では、自己が主体であるが客体は自己の外にある。自己の焦点は妨害を引き起こした行動、すなわちある基準を十分に満たせなかったことと、その過失に苦しんでいる人に向けられる。多くの人が罪悪感の同義語として憂慮あるいは後悔といった語を用いてきたが、これは自己そのものへの焦点化ではなく、自己の外側にあるものへの焦点化を示している。

 

P43

 罪悪感および恥の機能とは、内在的なあるいは外在的な基準や規範を破るような行為を妨げることである。意識にのぼるような内的命令は、「やめろ。お前が今していることは規則や基準を破るものだ」という。そしてこの命令が、その行為を抑制するために働く。恥と罪悪感の違いは、この妨害の性質にある。罪悪感においては、この命令は本質的には「やめろ、お前が今していることは基準や規則に違反している。自分のしたことに注意をむけ、行動を変えよ」というものである。罪悪感は、われわれに自分の行動が何らかの規則や基準を破っていることを警告し、その行動を変えさせるように仕組まれている。罪悪感の機能は警告を与えること、あるいは不安を引き起こすことである。さらに罪悪感は、問題となっている不適切な行動を修復するような、かわりの行動をとるように仕向ける。

 恥の命令はこれよりもさらに厳しい。すなわち、「やめろ、お前はだめだ」というものである。重要なことは、これが自己に関する命令であり、行為に関する命令ではないということだ。つまり、恥は、人間という機械を行為に向けてリセットするのではなく、機械そのものを止めてしまうのである。機械そのものが故障してしまうためいかなる行為も不可能になってしまう。主体と客体とが同一されているので、恥による妨害はより強力である。違反に機械そのものが関わっているということは、機能的にはあらゆる行動が止まってしまうことを意味する。したがって、恥の機能とは、違反を生じさせる可能性のある行動を回避するよう、知らせることである。恥に伴う深いは、人を基準や規則に確実に従わせるように働く。恥は、罪悪感以上に行動や思考、感情を変容させる可能性がある一方で、たいへん不快なため、回避されることがある。恥の回避が生じると、恥の状態は行動の変化を生じさせる上で有効ではなくなるであろう。メッセージがあまりに強烈だとそれは無視されるという証拠もある。

 恥に関する考えを概観することで、恥には、ある現象学的経験と結びついた、特定の行動が伴うことがわかるようになった。これらの行動は、2種類の事象によって引き起こされる。すなわち、性器の露出のような、身体に関連した特定の事象と、自己についての思考に関連した事象である。今までこうした二つの種類があることは認識されてきたが、両者は分離されてこなかった。それは、恥の認知的側面についての注意深い分析がなされてこなかったせいでもある。客観的自己覚知(object self-awareness)と、基準(standards)についての考えを取り入れることがなければ、恥についてのわれわれの理解は不十分なままである。次章では、私が客観的自己覚知によって何を意味し、この認知能力がどのようにして発達するのかを述べることにしよう。自己という概念を抜きにしては、自己意識的情動をよりよく理解することはできないのである。

 

 

第3章 自己とその発達

P51

 私はデュヴァルとウィックランドにしたがって、「客観的自己覚知(objective self-awareness)」という用語を、自己や、自己が知っていることや、どんなプランや願望を自分がもっているか、に注意を向ける有機体の行為という意味で使う。一方、「主観的自己覚知(subjective self-awareness)」という用語を、われわれが注意を向けないかあるいは向けられない性質をもった、世界について知る過程やシステムという意味で使う。

 客観的覚知は、意識の方向性の点で主観的覚知と対立する。注意がわれわれの内に向かっている場合には、われわれは自分自身に注目する。このとき、われわれは自分自身の意識の対象である。これが客観的自己覚知である。注意がわれわれからそれている場合には、われわれは、外的対象へ向けられた意識の主体である。このとき、われわれは主観的自己覚知をしている。どちらの場合も、われわれは覚知している。後者の場合、われわれは外部にある事象を覚知している。つまりわれわれは外的事象を意識しているのだ。このためにわれわれは、プランを作り出したり、変えたり、行為を修正することができる。われわれは、学習したり、創造したり、新しい出来事の記憶や構造を保持することができる。つまり、外的事象への反応が、内的な構造、状態、刺激を生み出すのである。そしてこれらに注意が向けられると、それが今度は自己に向けられる客観的自己覚知あるいは意識を生むのだ。意識はすべての有機体にある性質だと考えていいと思う。また、他の研究者とは異なった用法であるが、本書では客観的自己覚知という用語を人間がもつ意識の一つの特徴を表すものとして使うことにする。

 

P52

 人間独自の能力は、知識についての知識をもつことである。個体発生的にも系統発生的にも、これはユニークな意識のモードである。同じことが自己システムの知識にもいえる。つまり、自己システムは知識をもち、世界で機能することができ、しかも内省する能力ももっているのである。恥(そして、困惑、罪悪感、誇り)の独自性は、内政することのできる自己との関係にあるのである。

 このモードの認識は重要である。モードという言葉は、にとが互いに異なるけれども関連している過程によって同じ課題を達成できることを意味している。(中略)人類学者は文化が違えば同じ行動でも違う意味をもつことを認めている。しかし、彼らは、しばしば違う人がする同じ行動が、ある文化の中では同じ意味をもつと、誤って信じている。人類学者とは違って臨床家は、同じ行動がまったく異なる、時には競合すらするメカニズムによって生じるかもしれないと認めている。発達研究では、同じ行動がしばしば異なる過程によって生じたり、異なる過程に埋め込まれているために、この等価性の問題が注目されているのである。

 

P64 表象的知識

 この年齢(生後8から15ヶ月)の子どもは何を知っているのだろうか。子どもはある行為がある結果を導くことを知っているし、自分が他者に関わるとはどういうことかも、また失敗するのはどういうときかもわかっている。つまり、子どもは、自分自身の行為、他者の行為、弁別能力についての精緻な表象知識や、相互交渉に関する知識をもっているのである。子どもは社会的相互交渉において、①自分が出来事の中心にいるとわかっていること(時空上での自己と呼ぶ)、②自分を他者と区別していること(自己─他者と呼ぶ)、②自分を他者と区別していること(自己─他者と呼ぶ)、③永続するパターンをもっていること(永続性と呼ぶ)、④ある相互交渉で、自分のどの行為が他者の行為と合致するのかを知っていること、を示す。しかし、この自己の知識は表象的である。それは主観的なのだ。幼児は“主我(I)”はもっているが、まだ“客我(me)”はもっていない。客観的自己は抽象的知識をもつ時にのみ、生まれるのである。

 

  抽象的知識

 およそ生後2年目の後半ぐらいから、子どもは抽象能力を発達させる。表象はもはや現実に限らない。子どもは表象の表象を作ることができる。抽象化は、子どもが物と人の両方をカテゴリー化することを可能にし、また未来と過去の出来事の両方を考えられるようにする。さらに食い違う出来事を一緒にしたり調和させることもできるようにするのである。

 子どもはかなり長い期間覚えておけるようになる。より重要なことは、記憶システムそれ自体が抽象的になることである。抽象的知識は言語の創造を可能にして、それによってさらに抽象化が発達する。表象期には、子どもは出来事の表象や記憶をもっていた。今や、子どもは記憶に関する記憶をもっている。つまり、自分が憶えていると憶えることができるのだ。この能力のおかげで、多くの能力が社会感情的領域と認知領域の両方で生じる。認知領域では、真の因果性の理解によって、子どもは目的─手段関係を認識するようになる。したがって、現実的な次元だけではなく抽象的な次元によっても分類することができる能力と、客観的意図と私が呼ぶものをもつようになる。

 

P70

 本章を要約してみよう。生後2年目の後半までに、子どもは精緻な自己システムを発達させる。このシステムでは重要な変化が生涯にわたって起こるが、その基本的特徴はこの時期にできあがる。自己システムは三つの自己の知識のモードからなる。最後に現れるモードが客観的自己覚知である。三つのモードをすべて大人(や2歳以降の子ども)が使うが、恥、罪悪感、誇りといった情動と関連するのは、客観的自己覚知モードである。

 

 

第4章 自己についての思考と恥

P77 認知的帰属理論

 図4―1 自己意識的情動のモデル

 

P78 認知的帰属理論

  基準、規則、目標

 このモデルの第一の特徴は、われわれの行動を支配する基準、規則、目標を扱う点である。われわれは、われわれ自身や他者にとって何が受け入れられるのかについての信念を、行為、思考、感情の基準に即してもっている。この基準、規則、目標あるいは信念の集合は、人が特定の文化の中での文化化を通して獲得する情報から派生するものである。基準(簡略化のために、この用語を基準、規則、目標の略称として使う)は社会が異なれば違うし、同じ社会の中でも集団ごとに違うものであり、時代によっても、年齢などによっても異なるものである。われわれの文化の基準は多様で複雑であるが、われわれはそれぞれ少なくともそのいくらかを知っている。さらに、われわれ一人ひとりは、独自の基準をもっている。ある集団のメンバーになるには、その集団の基準を学ぶ必要がある。こうした基準を持たない集団というものは考えられないし、基準を守らせるために罰を与えない集団というものも考えつかない。基準はさまざまな過程を通して獲得される。基準は、つねに思考、行為、感情を含む人間の行動と関係がある。基準は文化によってあらかじめ決められている。この文化とは、家族集団から、他の社会集団(仲間、職場集団など)、文化全般までを指す。

 あることを考えるだけでも、基準に違反することがある。たとえばカンニングすることを考えている学生は、自分が基準に違反することを考えているとわかっているかもしれない。そこで、たとえ親しいものにであっても自分の思いつきを明かすことに躊躇するだろう。不適当なあるいはタブーとされる思考の例を他に挙げれば、隣人の配偶者を姦淫することを考えること、誰かを殺そうと考えること、あるいは混雑する八百屋でリンゴを万引きしようとすること、などがある。われわれの考え方や考えの中身は、基準によって修正されるのだ。

 基準はわれわれの感情も修正する。ある感情は適切であり、他の感情は不適切なのである。それぞれの状況で感じることを期待されている感情があることを、われわれは知っている。葬式で笑ったり、喜びや幸福感を表したり、人が亡くなったことを喜ぶのは集団の基準に合致しないことを、われわれは知っている。恥の研究に関していえば、恥を喚起する多くの情動がある。ここで本能的衝動の分析を利用できるだろう。この分析では、子どもが母親あるいは父親に対して抱く(性的で性愛的である)感情が、受け入れ難い感情を作り出し、そこでその感情を抑圧したり、あるいは代わりに不安、罪悪感、あるいは恥を作り出すとされる。

 習慣とされている行為やそれと関連する基準は、発達のごく初期から適用される。この時期に社会は注意深く慎重に教えて行動を制御する。たとえば、私自身は、なぜ女性は泣くのに男性は泣かないのかという問題に関心をもってきた。男性がほとんどの状況で泣くことを奨励されていないのに対して、女性には泣くことが許されているか、奨励されているという、泣くことやなきの制御の基準がつくられているのである。

 1歳までに子どもは、文化の基準を反映する適切な行為のパターンを学習しはじめるようになると考えてよいだろう。生後2年目に、子どもは適切な感情や思考の方法を学習し、何がその文化の中で適切であり適切ではないのかを考えることを学習するようになると思われる。基準は同じ文化のメンバーであっても、時代や地位によって異なる。しかしどちらにしても生まれていくらも経ないうちに、基準は子供に伝達されはじめるのである。この基準の獲得過程は、発達初期だけでは十分完成しない。なぜならばどの文化においても基準は年齢によって変化するからである。つまり基準の獲得過程に終わりはないのである。

 

 →感情の表出も文化の基準によってトレーニングされていることになるわけだから、ここでも人間に自由意志などないことがわかる。無意識に基準に縛られ、その下にある状況に反応しているだけになる。この事実に気づいていないことが本当に恐ろしい。自殺の原因を個性の問題にしてしまうのは、相当に問題がある。教育と偶然の状況によって、自殺念慮を抱き、実行してしまうのだ。このことを知ることが、教育・基準と偶然に縛られた不自由な人間を解放する。つまり、自殺念慮から解放する唯一の方法は、人間が基準と偶然に縛られていることを知ることではないか。

 

P79

 行為、思考、感情を基準に照らし合わせて評価することは、自己意識的情動に対する刺激となって働く、第2の認知的評価過程である。この過程には二つの主要な側面がある。一つは評価の内的および外的側面に関するものである。情動を喚起させる過程を記述する私のモデルにとって、非評価や外的評価に対立する内的評価は不可欠である。明らかに、人の特徴的な評価反応には多様性がある。さらに、刺激が内的に引き起こされる状況もさまざまである。評価過程の二つ目の側面は、個人がある特定の基準から見て、どのように成功かあるいは失敗かを決定するのかに関連がある。

 行為、思考あるいは感情の基準による評価は、現在進行中の行動の重要な特徴である。目標達成を志向しているにもかかわらず評価的要素のないシステムを、私は考えることができない。ある物を取ろうと手を伸ばして、それがそこにないことに気づいたら、人は手や腕の運動を調整するが、それと同じように自分自身で目標を設定したら、目標を達成したか失敗したかで自分の行為を評価するのである。バーヴィンは、目標設定が重要な人間の活動の一つだと、最近指摘している。

 人々は内的欲求からだけではなく、外的環境から集めた情報からも基準、規則、目標を作り出す。スキナーや彼の強化パラダイムは、外的環境を強調した。スキナーによれば人々の行動は最も単純な行動ですら、親や、仲間、その他の外的圧力によって形成され、修正される。彼のモデルは、周囲から与えられる報酬あるいは罰によって有機体が行為をするように強制されるのである。

 目標設定は多様な水準で起こりうる。最も単純な目標設定は、生理的な安定をもたらしたり、安定化するような生理過程に見られる。温度調整機能などに代表される生物学的機能のホメオスタシスは、目標設定の視点から捉えることができる。つまり、身体の目標は、適切な体温を保つために新陳代謝過程を調整することだと言えるだろう。

 

P80

 子どもは発達のごく初期から目標を自分で設定することができる。私たちの研究や、ヘックハウゼンあるいはスティペックの研究は、生後3年目までに子どもはすでに自分自身の基準、規則、目標を設定して、それに失敗したときには不快感を表すことを明らかにしていると思われる。(中略)

 

 これらの結果は、生後3年目までに、子どもは自分の基準に違反すると、取り乱すことを示している。私のモデルにとってこれらの観察が重要なのは、われわれの行動を自分自身の基準で評価することは、基準それ自体の性質とは独立した、自然な過程であるということだ。

 基準の中には、価値の高低がある。私にとって上手に運転するという目標は、学生を助けたり問題を解決するという目標よりも価値が低い。この二つの基準による私の行動の評価はまったく異なる情動を生み出すにちがいない。自己の定義にとってより重要な基準に違反すると、恥を感じる可能性が高い。基準のどれがより中心的か周辺的かは、当人はもとより家族や、さまざまな中間集団、より大きな文化によって規定される。さらに、新しい基準が加わっていくにつれて、それまでにあった基準の、自己にとって中心的であるか否かという相対的地位は変化することになる。こうして基準とこれらの重要度は生涯を通して変化するのである。

 

 →自殺念慮が生起する場合も、ある行動や状況が自身の中心的な基準に違反して恥の情動が起きている、ということ。しかも、この反応自体は自然な過程であるから、制御も難しいのではないか。

 

P82 内的非難 対 外的非難

 内的評価(自分の責任)と外的評価(他の責任)は、どちらも状況的に決定されるし、個人の特性の影響も受ける。しかしどんなことが起きても自分を責める人がいる。たとえば、次のような場合である。

 

  金儲けが何よりも大事という友達がいる。実際、彼はアメリカ社会で特に40歳以上の男性に典型的な「一家の大黒柱症候群」である。一家を支えることが、彼の主な目標なのだ。彼はお金を多く儲けられないと、その失敗を全部自分の責任だと思う。たとえ、うまくいかなかったのは、統制不可能な出来事や状況のためだったとしても、「私のせいだ。ウォール・ストリート・ジャーナルを読むべきだったんだ」と彼は言うだろう。

 

P83

 失敗で他人を責め、成功で自分を褒める人は、自己愛障害ではないかと私は考えている。

 

P85 成功あるいは失敗

  自己への帰属

 私は自己が自己全体の方向に向かい、全体的自己の評価をするときに恥が生じると考えたい。一方罪悪感は、自分だけの行為であろうと他者に影響する自己の行為であろうと、自己の行為に自分から注目するときに生じる。次の例を考えてみよう。

 

  私の患者ロバートが言った、「夕べ彼女が嫌だと言ったのに、私はデートを強要しました。私は後で恐ろしくなりました。ああ、どうして私は彼女に無理強いをしてしまったのだろう? 私のどこが悪いんでしょう? 私は憂鬱です。今朝ベットから起き上がる気になりませんでした。ジョンが呼びに来るまで、床に伏せっていました」。 (→こっちが恥の事例)

 

 ロバートとは対照的に別の患者のテッドは、恋人との攻撃的なやり取りについて報告した。

 

  「夕べ、バーバラ(彼の恋人)の家を訪ねました。彼女はテープ・レコーダーの音量を小さくしようとしなかったんです。そこで彼女を押しのけて、テープ・レコーダーをテーブルから落としたら、壊れてしまいました。バーバラは泣き出しました。私は逆上しました。私は自分の怒りのことしか考えられなかったんです。彼女に自分が悪かった、もうしないようにすると言いました。彼女のテープ・レコーダーを壊してしまったので、修理している間、私のテープ・レコーダーを彼女に貸しました」。 (→こっちが罪悪感の事例)

 

 二人とも自分自身が道徳的に不適切なことだと思うことをした。最初ロバートは彼自身と不適当であったという感情とに焦点化している。そして彼自身の罪深さについて全体的な感情を示した。反対に、テッドは、彼自身がしたことに注目していて、再びそのようなことをしないように、そして壊れたテープ・レコダーを修理することで彼の悪い行ないを正そうと努めている。ロバートが特定の行為にも、彼が性行為を強要した女性にも注目していないことに気をつけてほしい。彼は全体的自己以外のどんな特徴にも関心がないか、焦点化することができないし、相手の女性にも焦点化できないのである。

 パーソナリティー理論は、自尊心や自己評価の重要な特徴に注目している。セリグマンは、彼が学習された無力感と読んだ現象について説明している。ベックの抑うつの研究も、自己帰属の個人差に注目している。全体的(global)と特殊的(specific)は、自己評価をする個人の傾向を特徴づけるための用語である。全体的とは、全体的な自己に注目する個人の傾向を意味する。あらゆる特定の行動違反に対して、ある人たちは、ある時、自己の全体性に焦点化する傾向がある。このタイプの人は「私がこれをしたのだから、私は悪い(あるいは良い)」というような評価的な言い方をする。ジャノフ−バルマンは、特性論的自罰と行動的自罰の区別をしたが、その区別はこれと関連している。

 このように考えると、恥の現象学的経験ととてもよく一致することがわかるだろう。恥をかく状況では、焦点化の対象は、客体および主体としての自己である。自己による自己の評価が全体的であるために、自己は自己に巻き込まれてしまう。逃げ道はない。個人の行動に焦点化するのではなく、自己全体に対してされるのである。全体的帰属をする人は、自分自身に焦点化し、自分の行為にはしない。自己の内部に焦点化すると、人はどうすることもできなくなり、隠れたり姿をくらますことになる。

 

 →現世から姿をくらますのが自殺ということか。罪悪感よりも恥の方が逃げ道がないために、自殺に至りやすいのかもしれない。

 

 一方、特殊的帰属とは、ある状況やある時に、ある人が自己の特殊な行為に焦点化する傾向があることを指す。つまり、自己評価が全体的ではなく、特殊的なのである。何が良いことか悪いことをしたのは、全体的な自己ではない。特殊的な行動が検証されたり判断されるのである。このような場合には、人は「私は悪いことをした。そのことを二度と繰り返してはならない」というような評価的な言い方をするだろう。ここでその人が焦点化しているのでは、物や人との相互作用する自己の行動や、他者に自己の行動が与える影響である。

 

P88 モデルを理解する

 以上のように、①基準、規則、目標、②これらの基準にしたがった成功あるいは失敗の評価、③自己への帰属という三つの活動がそろうと、ようやく全ての自己意識的情動状態を観察できるようになる。大事なことは、このモデルは正と負の自己意識的情動を対照的に扱うということである。この対称性のために、恥と罪悪感についてだけ考えるのではなく、この軸に対極にある、思い上がりと誇りについても考えてみたい。これらの認知─評価課程の議論を通して、特定の出来事が特有の感情を喚起する性質をもっていることを示そう。しかしながら、情動状態を喚起するのは、有機体そのものの認知─評価課程である。自己意識的情動を直接喚起するのは、認知的なものである。

 私はこのモデルで四つの情動状態を区別する。恥は、人が基準に対して失敗したと評価し、それで自己の全体的評価をするときに起こることに注意してほしい。罪悪感も失敗の結果だが、この場合には自己の行為に焦点化している。同様のことが成功の結果でも起こる。成功が評価されて、個人が全体的帰属をするとき、思い上がり(自信満々)が結果として生じる。一方、成功が評価されて、個人が特殊的帰属をする時には、誇りが生じる。私は思い上がりを恥と対になる現象と捉えている。誇り─恥の軸については、これら二つの情動状態の類似性を指摘する他の論者がすでに述べている。

 

P89 恥

 恥は複雑な認知活動の産物である。すなわち、基準、規則、目標に照らした個人の行為の評価と、自己の全体的評価の産物である。恥じている個人の現象学的経験は、隠れたい、消えてしまいたい、あるいは死にたいという願望をもつという経験である。恥は非常に否定的で厳しい状態で、そのために遂行中の行動ができなくなったり、思考が混乱したり、話すことができなくなったりする。恥に伴って起きる生理的行為は、身が縮むことである。これは、自己あるいは他者の目の前から消えてなくなるようにとでもいうのであろうか。恥の情動状態は、とても強く、自己システムに強い破壊的効果をもたらすので、恥の状態に直面した個人は、そこから解放されようとする。しかし、恥は自己に対する全体的な攻撃なので、この情動を追い払うことはとても難しい。恥を経験したとき、この状態を帳消しにしようと、人は特別の行為をする。この行為については7章と8章で述べる。

 恥は特別の状況で生まれるのではなく、個人の状況の解釈によって生まれることに、注意してほしい。もっと重要なのは、恥は必ずしも状況の公的あるいは私的な性質と関係がないということだ。多くの人は、恥は公的な失敗だと考えるが、これは必要条件ではない。全体的自己に帰属される失敗は、公的でも私的でもありうるのである。私的な恥の例について考えてみよう。

 

  ジャネットは最近終えたばかりの研究を発表した。それはとても好評で、聴衆は彼女が研究内容をわかりやすく発表したと思った。彼女は、「みんなとても褒めてくれ、話を終えると数人の人が来て、『とてもよかった』と言ってくれました」と報告した。しかし、彼女はまた、「自分が話したかった研究を全て報告できなかった」ために、失敗と感じたり、恥ずかしくなったと報告した。この程度はできたはずだという彼女の内的基準に達していなかったため、彼女は恥ずかしくなった。その基準は聴衆の評価とは別だった。

 

 →この基準の違いが理解できないために、他者の自殺も理解しにくい。

 

 恥は公的な場合に起きることが多い。しかし、私的な場合に起きることもある。われわれが「こんなことをしてしまって、恥ずかしい」と独り言を言うときには、私的な出来事について考えているのだ。恥は道徳的な行為についても起こりうる。人はある道徳的な基準、規則、目標を破ったときに、恥を経験することがある。最近、友人が自分の恥について話してくれた。それは彼女がとても大事だと思っている募金に、あまりお金を出さなかったことについてであった。どうして罪悪感ではなく恥を感じたのかと尋ねると、彼女は「分別がなかったから」と答えた。この言葉で、彼女が全体的自己に帰属させているのだと、私は解釈した。

 

 →「分別がなかったから」という発言は、自分の行為や他者を対象としないので、全体的自己に帰属させていることがわかる、ということ。この見方はテクスト解釈に役立つ。

 

P90 罪悪感

 罪悪感あるいは後悔の情動状態は、人が自分の行為を失敗だと評価し、かつその失敗を導いた自己の特定の特徴、あるいは自己の行為に焦点化するときに生じる。恥のように全体的自己に焦点化するのとは違って、罪悪感では、人は失敗を修復する可能性のある自己の行為や行動に焦点化する。現象学的視点からすれば、個人は失敗によって傷つくが、この傷つけられた感情は失敗の原因か、あるいは傷つけられた対象に向かう。認知的帰属過程は、自己の全体制ではなく自己の行為に焦点化するので、生じる感情は恥ほど強度に否定的ではなく、この混乱や行為の喪失を起こさない。実際に、罪悪感の情動はいつも修正行為と関係する。これは、何かしら人ができることであるが、必ずしも実際にするとは限らない。失敗の修正やその再発を防ぐためには、二つの可能な修正の道がある。恥の場合には、体を丸めて、隠れたり見えなくなろうとするのを見かけるが、罪悪感の場合は、個人が行動を修正しようと体を働かすのを見ることになる。恥と罪悪感に伴う姿勢の違いは顕著であり、この二つの情動を区別したり、個人差を測定するのに役立つ。赤面も、恥と罪悪感を区別する測度になることを指摘したいが、赤面には個人差があるために、赤面は正確な指標とはなりえない。

 罪悪感では特殊的な行為を焦点化するので、罪悪感を感じる人は、修正行為によってこの情動状態から逃げ出すことができる。この修正行為は他者にも自己にも向けられる。恥のように主体や客体としての自己がごちゃまぜになるのとは違って、罪悪感では自己は客体とは区別される。このように、罪悪感は比較的弱くて、消去がより簡単である。

 

 →恥と罪悪感の違い。基準に対する失敗の生起に対して、①その失敗が全体的自己(存在そのもの)に帰属すると恥になり、②自己の特定の特徴や行為、他者に焦点化すると罪悪感になる。

 

 罪悪感は、修正行為の容易さあるいは可能性の程度によって、さまざまな水準で現れる。ある場合には修正行為が容易ではない。しかし、どの場合でも修正行為は試みられる。思考、感情、あるいは行為のいずれかにおいて、修正行為が行なえない場合、罪悪感が恥に変化することがありうる。ここに、恥と罪悪感のもう一つの違いがある。われわれは自分たちの罪深い行為を恥じることはできるが、恥じていることについて罪悪感を感じることはできない。この現実は、この二つの情動経験における水準の違いと、方向性の違いを示している。罪悪感の情動は恥の負の強度がない。したがって、罪悪感は自己破壊的ではなく、特定の修正行為を動機づける、より役立つ情動と見ることができる。しかしそれは強い情動ではないので、変化や修正を動機づけるのは無理かもしれない。

 評価的過程やもたらされる行為についての恥と罪悪感の違いについて、以下の例が役に立つだろう。

 

  最近学術誌に投稿した同僚のことを考えてみよう。彼女は論文が不採択になったことを知った。二つのタイプの評価がありうる。まず、不採択は彼女の失敗ではなく、査読者の「愚かさ」によるもだと結論する。こうすれば失敗に対する評価はされないし、罪悪感も恥も生じない。二つ目の可能性は、論文が不採択になったのは自分の責任だと考えるものである。こうすると評価がなされることになる。もし彼女が不採択は全体的自己を反映するものだと評価するならば、つまり、自分は優れた研究者ではないというサインだと受け取るならば、彼女は恥を経験するだろう。恥を感じて、この研究者は論文をしまい込んで修正しようとしないかもしれないし、あるいは論文を破棄してしまうかもしれない。しかし、もしも不採択を特定の[問題に関する]批判によるものだと評価するならば、彼女は罪悪感をもつだろう。自分自身に[適切な分析をしなかった]と言い聞かせるかもしれない。後者の場合には、特殊的自己に焦点化することで、行為する道を残したことに注目してほしい。この場合、論文をしまったり放り出してしまうのではなく、彼女は論文に取りかかり、その問題を修正しようとするだろう。

 

P92 思い上がり

 思い上がりは誇張された誇りあるいは自信であり、その結果としてしばしば報いを受けるものと定義しうる。これは人に好かれず、避けられる自慢の類である。思い上がりは、全体的自己に焦点化した基準、規則、目標に従った成功の評価の結果である。この情動では、人は成功の原因として全体的自己に焦点化する。極端な場合、思い上がりは尊大さや自己愛と結びつく。この情動の全体的性質のために、それは束の間のものであることが多い。この状態を維持するためには、人は基準を変えたり、成功の原因を再評価しなければならない。恥と違って、思い上がりはきわめて肯定的で情緒的な報酬である。なぜならば当人は自分自身を「良いもの」と感じているからである。

 思い上がりを維持するのは難しい。それは特定の行為がこの感情が引き起こすわけではないからである。思い上がりは病みつきになるので、思い上がりになりがちな人は、この情動からほとんど満足を得られない。結果として、彼らはこの情動を繰り返すような状態を求め、それを作り出そうとする。これは、基準、規則、目標を変えたり、行為、思考、感情によって成功を作り出していたものを再評価することで得られる。

 思い上がりを感じる人は、他人から軽蔑される。実際、辞書に書いてあるとおりに言えば、思い上がりであることは、傲慢か、軽蔑的なのである。思い上がりな人は対人関係に問題を抱えている。というのは、思い上がりな人は、他人の願望、欲求、欲望を邪魔することがあるからだ。したがって、対人的な葛藤が生じることになる。さらに他人は思い上がりな人のやり方を恥ずかしいと思うかもしれない。思い上がりな人は、三つの問題に直面する。①思い上がりは短いものだが、嗜癖的である。②これは特定の行為と関係しないので、目標設定あるいは成功を構成するものの評価パターンを変える必要がある。③思い上がりは、その軽蔑や傲慢な性質のために、対人関係に干渉する。

 

 →特定の能力や行為が優れているだけなのに、それを自己全体が優れていると評価してしまう傾向にある人が、反対に、対概念である恥を感じやすくなるのではないか。「オレ様」思考になってる人間が自殺に傾きやすいのか。

 特定の能力や行為が優れているだけなのに、それを自己全体が優れていると勘違いするのだが、その思い上がりを維持するために、本当は優れてもいない他の能力や行為まで優れていると思い込むようになる可能性はないのか。

 

P93 誇り

 私が誇りと呼ぶ情動は、特定の行為についての成功したという評価の結果である。その現象学的経験は、行為や、思考、あるいはうまくやったという感情に対する喜びとして記述できる。この場合の喜びは、特殊的で、特定の行動と関連がある。誇りにおいては、罪悪感と同じように、自己と対象は分かれている。恥や思い上がりのように主体と客体は混在しておらず、誇りは有機体の行為に焦点化するし、有機体は、誇りをもたらす特定の行為に没頭する。研究者のなかには、この状態を達成動機づけと関係づける人もいる。私は、誇りと行為との関係は、ありそうだと思う。誇りの状態は特定の行為と結びついているために、人は誇りを作り出す手段を使うことができるのである。思い上がりと違って、誇りでは特定の焦点化をするために行為を可能にする。これは注目すべき点だ。残念なことに、誇りを思い上がりと、効力感や満足とのどちらをも意味するように使うことがあるため、誇りの研究はあまり注目されてこなかった。ドゥエックとレゲットは、人がもつ暗黙の理論によって誇りを研究した。私と同様に、二人は熟達に関する自己意識的情動を引き起こす刺激として、認知的帰属を考えている。

 

 →戦争で活躍する勇敢な武人という誇り。これが社会通念化していれば、その誇りを作り出すために、戦争でたくさんの敵兵を殺すことが手段となる。一方、敗戦が目に見えた場合、その誇りを維持するための方法として、逃亡や投降ではなく、自殺という勇敢な行為が思い浮かぶ、ということも考えられるか。

 

P94 困惑と恥じらい

 私は恥と罪悪感を現象学的視点と同時に行動的視点から区別できると論じてきた。しかし、他にも二つ、これらと混同しやすい情動がある。それは困惑と恥じらいである。

 イザードとタイソンは、恥じらいを、社会的状況おける内気、はにかみ、不安な感情、心理的不快感を覚える状態だと考えた。彼らは、恐れや興味の揺れ、あるいは接近と回避の間の揺れの結果、恥じらいは生まれると述べている。イザードとタイソンが、恥じらいを恐れと結びつけ、恥じらいを他者に対する個人の不快な反応を中心に組織化された非評価的情動だと主張していることに注意してほしい。「私はとても恥ずかしがり屋です。どうぞ授業で私を指名しないでください」と言った学生を、私は受け持ったことがある。こういう学生は、ただ見られることには懸念を示すのに、基準に照らしたときの自分の成績評価には、あまり関心を示さないことがわかった。つまり、彼らの不快感は、自分自身の基準、規則、目標による評価感情に基づくのではなく、ただ周りから見られることにあるのである。(中略)

 彼女の恥じらいは、彼女が他者を知らない状況で現れると思われる。この例は、バスが、恥じらいを新奇なあるいは目立つ経験をすることに生じる情動反応とみなしているのと一致する。バスから見れば、恥じらいや恐れは密接に関連しており、他者に対する恐れを表すものである。恥じらいは、恥あるいは罪悪感よりも早くから見られる。発達早期に生じることは、恥じらいが恥や罪悪感とは独立であることについての重要な手がかりとなる。(中略)

 最近、ケイガンらは、抑制と呼ばれる子どもの生理的反応があることを指摘している。この抑制的なあるいは恥ずかしがり屋の子どもは、引きこもったり、対人場面で楽しめなかったり、恐れを見せたりする。私自身が生後数ヶ月の乳児を観察したところでも、恥じらいは自己評価とは関係なく、気質的要因であることがわかった。恥じらいはたんに他の社会的対象と一緒にいることへの不快感から生じるのである。(中略)

 さらにこの二つのタイプの子ども(社会的な子ども:相互交渉を好む/非社会的な子ども:一人遊びを好む)の母親についても指摘しておこう。非社会的な子どもの母親は、相互交渉に子どもが加わるように繰り返し試みていた。非社会的な子どもの母親が子供と社会的相互交渉をしようとするのを見るのは、時には痛ましいものであった。したがって、この乳児の違いを母親の扱い方によっては説明できない。なぜならば、非社会的な子どもの母親のほとんどが、対人的相互交渉に熱心だったからである。(中略)

 恥じらいが恥や困惑とは異なっていることは明白だと思う。なぜならば恥じらいには、基準、規則、目標によって行為を評価するという要素がないからである。恥じらいはその起源において、心理的というより生物学的である可能性がある。

 

 ある場合、困惑は恥と密接な関係がある。恥と困惑の最も明確な違いは、強度のレベルである。恥が強く破壊的な情動に見えるのに対し、困惑は明らかにもっと弱くて、恥のように思考や言語を破壊することはない。(中略)

 そこで私は恥の強度、長さ、破壊的性質は、困惑のそれとは一致しないことを指摘しておこう。恥と困惑をさらに区別するために、困惑を2種類のタイプに分けることを提案する。これらを、自己意識的な困惑とおだやかな恥としての困惑と呼ぼう。

 前者のタイプでは、困惑は恥よりも恥じらいに近い。身を晒すような場面でも、人は困惑する。このタイプの困惑は、恥とは違って負の評価とは関係がない。おそらく一番ぴったりする例は、お世辞を言われたときだろう。聴衆の前に出た人は、紹介されるときの褒め言葉で困惑を経験するものである。私が聴衆に紹介されるときのことを考えてみよう。司会者が立って私を聴衆に紹介し、私の長所を褒めそやす。驚いたことに、不快感あるいは負の評価ではなく、この褒め言葉が困惑を引き起こす。(中略)褒めることがたやすく失敗の評価を導くことはないので、お世辞に対する困惑は、評価よりも自己を晒すことにより関係する可能性がある。言い換えれば、このタイプの困惑は、自己意識性と関係があるのである。これは公に姿を晒すこととよく関連づけられる。(中略)

 第2のタイプの困惑は、弱い恥としての困惑と呼ぶものである。こちらが負の自己評価と関係すると思われる。恥との強度の違いは、失敗した基準、規則、目標の性質によると思われる。ある種の基準は、他の基準とは異なり、自己の中核と密接に関係すると前に述べたのを思い起こしてほしい。ある場合には、車を運転するのに失敗することは、生徒を助けるのに失敗するよりも、自己の間悪にとって重要ではない。より重要ではなく、より中心的ではない基準、規則、目標の失敗は恥よりも困惑を生み出すと思われる。

 困惑が恥と同じではないのはもっともなことかもしれない。たしかに、現象学的立場からすれば、両者はまったく違う。だが、困惑と恥が、実際には関連していて、強度が違うだけという可能性もある。

 

 

第5章 恥の起源

P102

図5―1 恥の発達モデル

 

P107 恥の起源

 恥およびその他の自己意識的情動が出現するためには、客観的自己覚知に加えて、ある認知的能力が必要である。すなわち、子どもは、客観的自己覚知とともに、基準、規則、目標をもっている必要があり、これらに客観的自己各地が加わると、新しい種類の自己意識的情動、すなわち恥を含む、自己意識的評価的(evaluative)情動が生じるのである。

 基準や規則、目標はいつ出現するのだろうか。子どもは、自分の属する社会的ネットワークに入った瞬間から、主な養育者、家族、文化がもつ規範や価値、基準を課されることになる。ある行動はほめられ、ある行動は罰を受ける。子どもは、直接的にも間接的にも、生まれたときから基準や規則の受け手なのである。それでは、なぜ、基準、規則、目標を2歳児に現れるものとして特徴づけるのか。これらが2歳の時点にならいと示されないのは、子供がある規則を知らないためではなく、客観的自己覚知が現れない限り、子どもがこれらの規則を「自分のものとする(own)」ことがないためである。

 「自分のものとする」という言葉が意味するところを説明しよう。基準や規則は子どもの人生の初期に現れる。実際、これらが、親に対する子どもの関係を規定する材料を構成している。子どもが他者の基準にうまく合わせることができると、成功という結果が得られ、子どもは喜びを表す。子どもがこれに失敗すると、彼らは恐れや不安、苦痛を表す。子どもの反応は予期される他者からの報酬と罰によって決められているのである。これらの報酬や罰が子どもに課されているのだ。

 客観的自己覚知が出現すると、二つのことが起こる。第一に、晒された自己に関連した情動、すなわち困惑や共感、また羨望も出現する。第二に、客観的自己覚知によって他者の基準を取り入れることができるようになる。これが、私が、基準や規則、目標を「自分のものとする」ようになる、という言葉によって意味するものである。基準の獲得と取り入れは、二段階の過程を経る。まずはじめに、子どもは他者の基準を受動的に受け入れる。なぜなら、子どもの情動活動は、他者の設けた規則に従うか、従わないかによって決定されるからである。この後、子どもは実際にこれらの基準を取り入れ始める。この取り入れを決定している過程は、おそらく逆向観察(backward observation)に基づいているだろう。子どもは何が自分を楽しくさせたり悲しくさせたりするのかを観察し、そして自ら基準や規則、目標をつくる。この二番目の学習によって、基準や規則自体の客体化が可能になるのである。

 さて、子どもに報酬や罰を与えるのは他者だけではない。他者の基準を取り入れることによって、子どもは自分自身に報酬を与えたり罰を与えたりすることができるようになる。この能力、もしくは他者のもつ基準から自分自身がもつ基準へ切り替える能力は、客観的自己の出現の結果としてのみ生じる。「他者」とは異なる「私(me)」が出現するのだ。恥の場合には、私の違反を見るのは私の中にある他者の目である。自己の中にある他者は客観的自己覚知があって初めて生じ、客観的自己覚知の中にこの他者に取り入れられる。客観的自己覚知が生じるとき、養育者の基準や規則、目標は子ども自身のものになり、自己意識的評価的情動が出現する。これらの自己意識的評価情動は、より精緻な認知行動を必要とするため、困惑、共感、羨望などの自己意識的非評価的情動の後に出現する。この出現順序を支持する多くの文献がある。

 

 →自己意識的非評価的情動は、成功・失敗の評価がない情動で、どちらかというと、気質的要因によるもの。

 

 

第6章 恥の社会化:親から子へ

P117

 ホフマンの、柔軟性を欠いた罪悪感の反応と柔軟な罪悪感の反応についての分析は、基準の社会化と関連がある。柔軟性を欠いた反応は、規則そのものへの関心を反映している。すなわち、そこでは、規則を基準とし、その基準を破ったことに焦点化される。柔軟な反応は、人道的あるいは共感的反応と呼ばれることもあるが、これは違反そのものへの関心ではなく、違反のための他者に及んだ害への関心を反映している。(中略)

 恥の個人差は、基準、規則、目標の、さまざまに異なる社会化の仕方によってもたらされるだろう。私の患者が次のようなことを言っていた。かつて彼が化学の試験で97点をとったときに、父親は彼に「あと3点はどうしたんだ?」と尋ねた、と。「あと3点はどうしたんだ?」という親の質問には、子に対して高い基準が設けられ、要求されている状況が示されている。もちろん、基準という点から見ると要求の内容は重要だろう。高い基準をもった超自我が恥を導くと一般には信じられているが、それは高い基準の要求それ自体のためというよりも、基準に達しなかったときに与えられる罰のためだ、という方が当たっているだろう。子どもの高い基準を課す、二つの家庭について考えてみよう。一方の家庭では、子どもの失敗に対する親の反応は懲罰的であり、しかもそれはあざけりや嫌悪、刑罰に満ちている。子どもは、親の基準に達しないと、親から刑罰を受け、辱められる。恥を引き起こすのは、失敗ではなく、失敗に対する罰である。他方の家庭では、高い基準を子どもに課すのだが、あざけりや嫌悪、軽蔑を示すのではなく、どうやったらよりうまくできるかを子どもに説明する。この二つを比べてみよう。

 

 →上の事例のように、親が喜ばないという反応も、広義の罰に当たるということか。また、他者の好ましい反応を得つづけた、つまりほとんど失敗せずに人生を送ってきた人間は、恥辱の経験が少ないため、たった一度の失敗でひどく恥を感じてしまい、絶望する人間もいるのではないか。エリートにはそういう人間が多そう。

 

 基準、規則、目標は常に存在する。重要な点は、高い基準が課されることではなく、その基準を破ったことに対して他者からどのような反応を受けるかである。基準は社会化されるものであるが、基準の個人差は、その基準を破ったことに足して他人から示される反応と関係があるのではないか。

 基準の個人差は、恥を生じさせる状況の差につながるだろう。たとえば、ある家庭では他の家庭よりも学業に価値を置いている。こういう家庭では、学業上の優秀さに関して高い基準を持たない家庭に比べると、学業の失敗が子どもに恥を導くことになりやすい。同じように、運動やスポーツ、冒険をすることに価値を置く家庭では、こうした状況での失敗に対して恥を感じるように子どもを社会化するであろう。いっぽう、運動にあまり関心を払わない家庭の子どもがこの種の失敗を恥じることはあまりないだろう。

 

 →家庭という「界」ばかりではない。子どもにとっては、幼稚園・保育園、学校などの「界」における価値観が、大きな影響を与えるだろう。ブルデュー

 

 さまざまな異なる基準、規則、目標が、性差に貢献しているだろう。ある親は男子と女子とを異なるやり方で社会化する。たとえば、女子では一般に対人関係に関する基準が重視され、男子では物事への効力感や統制感に関する基準が重視される。このような基準の社会化の違いは、ある特定の行動をめぐって恥が生起するか否かの個人差につながるだろう。たとえば、対人的やり取りの中での攻撃行動は、攻撃をする者の性別によって異なるやり方で社会化されることが多い。女児が怒りを示すと、親は、直接的な懲罰や愛情の撤去などのいろいろな方法を用いて、子どもの攻撃行動を抑える。しかし男児が攻撃行動を示すと、親はそれを抑えるための努力はほとんど、あるいはまったくしない。それどころか、積極的に攻撃行動を励ますことすらあるかもしれない。

 学業も、さまざまな目標が社会化される領域である。学業は女性よりも男性で重視される目標である。現在でも、大学へ行く男性と女性の比率は同じなのに、大学院や職業学校へ進学する女性の比率は低い。基準の個人差については、さらに研究が必要である。明らかなのは、高い基準をもつ親の子は高い基準をもちやすいということだ。高い基準をもつ子どもは、望んでいる目標の達成に失敗すると不快を感じる。こうした失敗感が恥の個人差にまでつながるかどうかは他の諸要因によって決まるが、高い基準、それらの基準を達成できないこと、恥への傾向の三者の間には、重要なつながりがあると仮定できるだろう。

 

P118 内的帰属と外的帰属

 基準、規則、目標の設定は帰属体系の一つの側面であり、これは自己と関連があって、恥を導く。帰属体系の二つ目の側面は、自己に対して主体が下す評価と関係がある。この帰属には、自己の行為に焦点化した特殊的帰属と、全体的自己に焦点化した全体的帰属が含まれる。すでに述べたように、恥は人が内的評価を行うときに、すなわち、ある失敗に対する責任は自分にあるとみなすときにだけ生じる。しかし人は外的評価を行なうことも、つまり、失敗を他者や偶然に帰属することもできる。したがって、個人差の原因の一つは、人の内的帰属のしやすさの違いにある。たとえば、次の例を見てみよう。

 

  私の研究室の掃除をしている女性が、最近、少額ではあるがくじでお金を手に入れた。私が彼女の運のよさに対しお祝いを言ったところ、彼女はこう答えた。「それは運ではなかったんです。娘の誕生日の日付に賭ければ勝つことを知っていたんです」。この女性はいつも内的帰属をする傾向がある。彼女はくじでの成功を自分のしたことに帰属したのである。彼女にしてみれば、運は彼女の勝ちには何の役目も果たしていないのである。

 

 責任も内的に帰属されることがある。このことの最も良い、家族が重病を患っている人たちである。たとえば、

 

  私の学生の一人は、父親が心臓病を患っていることを自分のせいだと感じていた。学生は私にこう言った。「私が休暇の間フロリダに行かないで家に帰っていれば、父が心臓病になることを防ぐことができたのに」と。

 

 この学生は、自分がまったく統制力をもっていない事象に対して、自分がその原因だと考えるという、不合理な要求を自己に課している。他の人ならば父親の心臓発作を、肥満やたばこの吸いすぎ、運動不足、仕事でのストレス、老化、遺伝的傾向、単なる運の悪さ、あるいはその他の多くの外的原因に帰属したであろう。しかし、私の学生は内的帰属をする傾向があったので、父親の病気のことで自分自身を責めたのだ。これは、ホロコーストの生存者を混乱に追い込む過程と同じものである。生き残った人たちは、他の人々の死の原因は自分自身にあると思いがちであった。

 うつの親をもつ子どもに関する研究は、内的帰属の社会化と関係がある。病気の親をもつ年少の子どもは、責任を内在化しがちである。責任の内在化は、いくつかの方法から生じるだろう。これらの子どもは、非現実的ながら、親を助ける何らかの方法を見つけられるはずだと思っているかもしれない。しかし、親が子どもを助けることはできても、子どもが自分の親を助けられるはずはないのである。子どもは親を助けられないので、親の病気に対していくらかの責任を感じるのである。また、病気の親自身が、自分の病気は子どものせいだと子どもに思わせることもありうる。たとえば、次のような例である。

 

  私の患者で、母親が深刻な高血圧を患っている人がいた。母親はひどい頭痛に苦しみ、頭痛を抑えるために横になっていなかればならなかった。子どもが少しでも音を立てると、母親はよくこう言った、「静かにしなさい、あなたのせいで頭が痛くなるのよ」と。長い時間完全に静かにしているなど、子どもにはほとんど無理なことである。そのため彼は何度となく自分が母親の頭痛の原因であると言われてきた。その結果、彼は母親の頭痛のことで自分自身を責めるようになった。

 

 →因果関係の妥当性とは、両者の結びつきが事実であるかどうかが問題ではなく、両者の結びつきの相対的な強さによる、ということになる。つまり、人の判断によるのであって、絶対的に正しい事実があるわけではない。

 

 年少の子どもは、年長の子どもに比べると、責任をより内在化しやすいようである。たとえば、子どもがごく幼いうちの親の死は、恥につながりやすい。なぜなら年少の子どもの方が、親の死を自分のせいだと感じやすく、そのためにより恥の影響を受けやすいのである。このような帰属の社会化の個人差に対しては、ほとんど注意が向けられてこなかった。しかしながら、うつの親をもつ子どもは、親の病気の責任を内在化するようだ、ということは注目されてきた。

 責任を内在化するか外在かするかは、その人が失敗によって恥を生じるかどうかを決める上で重要であろう。責任を外的な資源に帰属することができれば、恥を感じることを避けられる。アレッサンドリと私は、達成課題に取り組んでいるときに親が子に対しどのようなことを言うかを観察した。ある親は子どもの成功や失敗を、子ども以外の要因に帰属しやすいことを私たちのデータは示している。ボールをネットの中に入れるという課題を行なったとき、一人の親は3歳の子どもの失敗に対してこう言った。「バスケットのリングが小さすぎる。リングにボールを入れるなんて無理だ」と。このような発言は、子どもに、自分の失敗は自分がしようとしていることとは関係なく、課題そのものの性質と関係がある、ということを教える。またある親は次のようなことを言った。「ボールをバスケットに入れるためにはもっと練習しないとだめだ」「やる気がないんだ。もっと一生懸命やればできる」と。このような親は、成功を手にするために子どもの注意を自分自身の努力に向けさせる。親の行動が、内的自己帰属や外的自己帰属に関する知識を子どもに与えるのである。

 内的帰属や外的帰属は、状況や個人の性格によっても決まる。ある人は、それが外的帰属、内的帰属のいずれであれ、一貫した帰属を行なう。またある人は課題によって内的帰属を行なったり、外的帰属を行なったりする。課題に応じた内的帰属から外的帰属への切り替え、あるいは外的帰属から内的帰属への切り替えは、典型的に見られる行動形態である。1つのタイプの帰属に固執する傾向は、しばしば精神病理と関連がある。さらに、外的帰属を行なうか内的帰属を行なうかは、その人が課題に成功するか失敗するかによっても異なる。帰属と課題の成否について、あらゆる可能な組み合わせが存在する。ある人は課題に成功したときには自分自身に帰属するが、失敗したときには他人(あるいは偶然)に帰属する傾向がある。その逆の場合も存在する。すなわち、ある人は課題での成功を他人に帰属するが、失敗は自分自身に帰属する。

 モリソンらが指摘したように、自己愛的人格タイプの人は、たとえば9時に当たった時のような、自分の名誉を主張する論理的根拠がまったくないときでも、成功を自分自身の努力に帰属する。同時に他方では、どんな失敗についても、自分に責任があるとは考えようとしない。後で述べるが、このような人格タイプの人は、失敗を自己全体に帰属しやすい。もしこのような人が自分の失敗を内的に帰属すると、恥を感じるだろう。したがって、彼らは何としてでも恥の感情を避けようとするのである。

 成功や失敗と関連させて、内的帰属や外的帰属の個人差を見てみると、あるおもしろい性差が浮かび上がる。女性は失敗を内的に帰属し、成功を外的に帰属しやすいが、男性は逆の帰属をしやすい。帰属スタイルの違いは課題の性質も関係があるのに、今までは親や教師の男女に対する行動の違いが、子どもの貴族スタイルに結びつけられてきた。女性は、学業上の成功だけでなく対人関係についても、失敗を内在化し、成功を外在化するというパターンを示しやすい。

 他にも性差に関するデータはたくさんある。(中略)親はこのように言うのだった。「それは(パズルの)ピースを箱の中に入れるうまい方法だ」「(輪に)ボールを入れるには、左足を前に出すのよ」。このような公的的な特殊的帰属は、3歳の女児に対してよりも男児に対して多く見られた。一方で、否定的な特殊的帰属は女児に対してより多く見られた。社会化の仕方にこのような違いが見られたことは、大人の間に一般に見られる性差だけでなく、学童期の子どもに見られる多くの性差もが、こうした男女に特有の社会化のパターンから生じることを示している。幼児についてもこれと似たような結果が報告されてきた。たとえばセリグマンとその共同研究者たちは、よくない出来事を内的に帰属する母親をもつ子どもは、親と同じような内的自己帰属パターンをもつことを報告している。

 このような帰属スタイルの個人差が、その人に自己評価的情動が生じやすいか否かを決める。失敗を自分自身に帰属しない人、成功を自分自身に帰属しない人には、恥や罪悪感、思い上がり、誇りといった自己評価的情動は生じにくい。内的帰属をする人だけが、自分自身の失敗の一結果として、恥を経験しやすいのである。

 

 →ジェンダーの問題は相当根深いことがわかる。最近の人間がジェンダーフリーと口走り分かったような気になって、ジェンダーに理解のない人を攻撃しているが、その攻撃している人たちも、いわば幼児段階から「男らしさ・女らしさ」が刷り込まれていることに気づいているのだろうか。どこまでジェンダーフリーな状態になれるかはわからないが、本当にフリーにしたいなら、親や社会の無意識を変革しなければならないことになる。ずいぶん時間がかかりそうだ(たぶん、いつまで経っても解決しないのだろう)。とすると、森喜朗は、完全に時代の生贄になったということか。残念ながら、いつの時代にもそういう人間が必要であって、たまたま森喜朗にそのお鉢が回ってきたということなのだろう。本当に、引きが強い男だ。日本にジェンダーフリーの思想を根付かせた反面教師的キーパーソンとして、後々、歴史的に重要な人物として評価されることになるのだろうか。

 

P122 特殊的帰属と全体的帰属

 私のモデルの、帰属に関する三つめの特徴は、自己志向性、すなわち全体的自己志向性と特殊的自己志向性は、内的帰属、外的帰属と交錯するので、4つのセルができあがる。全体的帰属対特殊的帰属という概念は、自己の性格対自己の行為、実体対増分、行為の結果への自己焦点化対学習への自己焦点化など、さまざまな言葉で呼ばれている一つの概念を表している。どう呼ぶにせよ、この概念は、全体自己への焦点化対自己の行為への焦点化として定義することができる。たとえば、

 

  ある学生が自分の抱えている問題を私に語った。彼女は、自分の成績のことが気にかかって、不安のあまり勉強ができないと言った。その科目に少しでも興味があるのかと尋ねると、彼女は、「この科目にとても興味はあるのだけれど、自分がどのくらい良い成績が取れるのかが気になって、集中できないのです」と答えた。

 

 これは学習そのものにではなく学習の出来に焦点化する人の例である。彼女は、何かの学習につながる課題としてではなく、自分の学習の出来や人としての自分の評価との関連からしか、専攻の勉強を見ることができなかったのだ。

 

 →自分もこれと同じだったから、跳ねなかったのか…。端から優秀なら、そんなことも考えず、純粋に研究を楽しめたのかもしれない。

 

 全体的自己帰属と特殊的自己帰属の獲得や、その個人差に関するデータは非常に役に立つと思われるが、この領域の研究は、ほとんどされてこなかった。大多数の研究では性差に注目しているので、この獲得過程の研究では、性差の研究から始める必要がある。失敗に対して全体的帰属を示す人が、必ずしも成功に対して全体的帰属を示す人であるとは限らない、ということを覚えておいてほしい。全体的帰属を人格的特徴の一つとして考えるときには、このことを考慮しておく必要がある。

 

 →自分は成功も失敗も全体的帰属を示す人間に近いか。

 

全体的帰属における生物学的要因

 全体的、特殊的という帰属スタイルは、もともと遺伝的なものであろう。ウィットキンはこの可能性を場依存性に関する研究のなかで検討した。場依存性は分析能力や知覚能力と関連がある。すなわち、文脈内に埋め込まれているある対象を知覚内に維持する能力である。このような分析能力を測定する標準検査では、1本の棒を床に対して垂直に保つ能力を測定する。傾いた額縁の中にその棒を置いて見せると、課題は難しくなる。ウィットキンによる一連の研究では、安定した個人差が認められた。彼は、この能力は生物学的な傾向であると主張した。H.B.ルイスは、全体的帰属、それも特に失敗についての帰属は、場依存性と関連があると主張した。この研究を除いては、全体的対特殊的という次元に沿った自己帰属の遺伝的個人差には、今まで注意が向けられてこなかった。しかし、帰属と気質との間には何らかの関連があるのだろう。

 ある人たちは、気難しい気質を持つとされてきた。この人たちは、いらいらしやすく、また非常に身体のことを気にする。わずかな痛みに対してでも不平を言い、内的な身体感覚に対処するのが困難であるように思われる。気難しい気質の人は自身の身体から発せられている刺激に焦点化するのである。気難しくない気質の人に比べ、多くの時間を自己への焦点化に費やすので、特殊帰属的ではなく全体的帰属をしやすいだろう。最近、私の研究室のディバイアスは、気難しい気質の子どもが、2歳児には困惑しやすい子どもであったことを示した。私はこの研究を進めて、気難しい気質をもった子どもたちは、3歳時には失敗に対してより恥を示しやすいことを明らかにした。気難しい気質のために、子どもは失敗に対して全体的帰属をしやすくなるのかもしれないが、気質的差異は主な要因ではないようである。

 

 →気難しい気質の人間は自己に焦点化しやすいため、全体的帰属をしやすく、失敗の原因も自分全体に帰属させようとする。これが恥を生み、自殺念慮を生起させるのだろう。こんな面倒な性格は父親によく似ている。生物的遺伝か、社会的遺伝か? それにしてもこんな性格で、よくここまで生きてこられたものだと思う。運が良かったのだろう。

 

P124 全体的帰属における社会化の諸要因

初期の外傷

 社会化の性質と表出された罪悪感(あるいは恥)の量との間には、中程度の相関があると報告されてきた。そしてより重要なのは、家庭の雰囲気が子どもの罪悪感の発達に対してかなりの影響をもっているらしい、ということである。自己帰属の影響を考えるうえで、特に重要な研究結果として、うつの母親は自分自身の問題に関して自分自身を責めやすく、また自分や子どもの失敗に対して全体的評価を下しやすい、という結果がある。さらに、うつの母親をもつ子どもは愛情を撤去されるという罰を受けやすく、親の問題について自分に責任があると感じやすい。子どもは母親のうつを自分のせいだと解釈する。したがって、うつの母親をもつ子どもは、うつでない母親をもつ子どもに比べ、親の気持ちが安定していて幸せかについて関心を示すのである。

 これらの証拠から、次のように一般化し結論づけることができる。すなわち、困難─これにはアルコール中毒や薬物依存、夫婦喧嘩なども含まれる─を抱えた親は、はじめのうちは共感に似た行動を子どもに起こさせやすい。なぜなら、子どもは親を助けようとするからだ。さらに、子どもは親を助けることに失敗する可能性が高いので、その失敗は全般的に子ども自身のせいにされやすいことになる。親が苦痛を背負っているという特徴をもった家庭環境のなかにいる子どもは、自分が問題の一因であるという全体的帰属をしやすい。こうした環境に置かれていると、その後の児童期から成人期にまでも、この全体的帰属が持ち越されることになるだろう。(中略)

 このように、失敗に対する全体的帰属を導くような初期の社会化の一つには、子どもの人生のなかで生じる否定的な出来事の強さが関連している。不幸なことに、これらの否定的な出来事どのようなものであるかについてはあい甘いにされたままである。私の分析では、これらの否定的出来事は強くかつ否定的であるという、二つの条件をもつものであることが示唆されている。

 

P126 おとなの全体的帰属の理由

 ドゥエックとレゲットは、教師が子どもに与える評価的フィードバックが、子どもの学習された無力感、あるいは達成志向性の直接的な原因であると考えている。そして、教師は女子を批判するときはたいていいつも、一般的能力がなくて勉強を理解していない(全体的帰属)と述べ、男子を批判するときには、特殊的で知力とは関係のない側面について述べることが多いことを見出した。(中略)つまり、男性は子どものときに特殊的的自己帰属を多く受け、そして、大人になったときにはその特殊的帰属をより多く使うのである。(中略)

 両親とも、男子よりも女子に対して否定的自己帰属をより多く用いていた。この結果は、女子は男子に比べ失敗を自分のせいにしやすく、成功を自分自身のせいだと主張しないことと関連しているだろう。これらの結果は、全体的帰属、特殊的帰属の性差のいくつかは子どもの社会化の経験の性質と関連がある、という私の考えを支持している。同時にこの証拠は、女子が男子に比べ失敗を全体的自己帰属しやすいことを示唆している。

 私の描いてきたモデルでは、恥の原因は基準、規則、目標についての評価と、全体的、特殊的帰属のなかに位置付けられている。評価と帰属の両方に個人差や性差が見出されたが、これは、恥の個人差がこの二つと関連のある社会化の違いからある程度生じていることを示している。親(そして教師)がどのように子どもを扱うかということと家庭内でのストレスの両方が、これらの帰属の個人差の原因なのである。

 

P128 嫌悪、軽蔑、屈辱、愛情の撤去が恥の生起に果たす役割

 モリソンが自己愛に関する本のなかで指摘しているように、コフート精神分析的治療による矯正(rectification)を、「繰り返し行われる変容的内化(これは応答的な自己対象としてのもっとも共感的な分析者に対する転移を通じてなされる)を通して、あるいは柔軟かつ現実的な野心、目標、理想の確立による補償構造の修正を通して行われる、自己の中核部分の欠損の修復である」とみなしている。恥との関連から見ると、この「補償」行為とは、①基準、規則、目標を変えること、②成功や失敗の帰属を変えること、③自己帰属を変えること、のいずれかであるとみなせる。たとえば、私には、①良い成績を取ることは重要ではないと判断すること、②Cという成績を取ることは失敗ではなく成功であると判断すること、③Cを取ることは、「私はばかである」(全体的自己評価)ことを示すのではなく、勉強が足りないこと(特殊的自己帰属)を示していると判断すること、が可能である。認知療法では、患者は自己帰属を変える手段としてこれらのうちのいずれかを用いるよう促されるのである。(中略)

 親、それも特に中流階級の親は、自分は子どもにとってよい社会化の担い手であると思っている。しかし、フロイト精神分析理論は、戦いとしての社会化モデルを呈示してきた。子どもを大人と同じ価値、目標、認知構造をもつ一人前の大人へと変えていくことが大人の仕事であり、そのため衝動や要求をたくさんもっている幼い子どもは、親と戦うことになる。親がこの戦いの中で用いる方法は、子どもに適しているように見えるが、実はそうではないかもしれない。実際、ミラーは、社会化の過程は屈辱と恥に満ちていると主張している。多くの子どもが、屈辱と恥の中で発達するのである。

 

P130 嫌悪、軽蔑、屈辱

 人々はからかいのもつ攻撃的な性質は認めているが、からかいが屈辱や恥の引き金であるとは思っていない。しかし、実際にはからかいの多くが、人に屈辱を感じさせたり人を辱めたりしているのだと私は主張したい。人に屈辱を与たり辱めたりすることは、日常生活のなかに見られる。

 私の観察によれば、もっとも苦痛な個人的経験の一つは、自分の行為や思考、感情に対して、他者から嫌悪を示されることである。嫌悪の表情が子どもを社会化するうえで広く用いられていることを知ると、たいていの人は驚くであろう。中流階級の人々は子どもに対して懲罰的ではないと考えてられている。では、中流階級の親は、子どもにしてほしいと思うことをどうやって彼らにさせているのだろうか。そこでは、説得や力の行使、体罰、愛情の撤去、屈辱など、さまざまなテクニックが用いられている。(中略)多くの研究者が、嫌悪、軽蔑、激怒の表情が似ていることを示唆してきた。(中略)そしてさらに重要なことは、親は、子を恥じ入らせるための手段として嫌悪の表情を用いていることにたいていは気がついていない、ということである。

 

P132

 恥は社会化において重要な役割を果たしていると考えざるを得ない。子どもに価値を内化することを教え、親がいないときでも基準、規則、目標を破ることがないよう、子どもを動機づけることが親の仕事である。子どもに基準、規則、目標を破らせないようにするする方法として、強い情動を生じさせるよりももっとよい方法はないのだろうか。恥の生起は、たとえそれがさほど強くない普通の程度の恥であったとしても、内化された価値を子に植え付けるのに理想的な方法の一つである。この問題については11章でまた取り上げることにしよう。文化差を考えるうえでこれは重要だからである。親や教師、そして友人も皆、大人にだけでなく、子どもに恥や恥辱を生じさせるためにも、嫌悪や軽蔑の表情を用いるということに注目しておいてほしい。

 

P133

 嫌悪や軽蔑はどのようにして他者に恥を生じさせるのか。この過程についても、帰属の枠組みを用いて理解することができる。嫌悪や軽蔑は、他者に対して、その人の行為に何らかの基準に照らして失敗があったことを示す。他者から嫌悪や軽蔑を受けると、われわれは全体的帰属を強いられる。他者から嫌悪や軽蔑の視線を受けているにもかかわらず、特殊的帰属をしている人を思い描くのは難しい。その視線は、「あなたは私を嫌な気持ちにさせた」と言っているからだ。先の例では、母親が子どもに向けた嫌悪や軽蔑の視線が、このようなメカニズムを通して子に恥を生じさせたのだろう。

 

P134

 たとえば、社会化に関する文献では、母親は、息子よりも娘に対して懲罰的であるが、いっぽうで息子に対してはより多くの体罰を与えることが指摘されている。母親の懲罰行動に関するデータは、母親が息子よりも娘に対してより嫌悪や軽蔑を用いていることを反映しているのではないかと思われる。もし母親が、息子よりも娘に対して懲罰的であるのに、娘に対してはあまり体罰を用いないとすれば、母親は娘に対して、より多くの恥を伴うような、体罰以外の形の罰を用いているはずである。

 

P135 愛情の撤去

 愛情の撤去は本質的に強烈なことであり、したがってそれをされた人は、なぜ自分が愛情を撤去されたかという理由に注意を向けることができなくなる。愛情の撤去は、その責任を内的に帰属させ、また、自己全体について触れていることになる、すなわち、「私はあなたのことを愛していない」と言っていることになるので、失敗を全体的帰属させることになる。愛情の撤去によって全体的帰属が生じ、それによって恥が生じるのである。

 愛情の撤去が対人関係の問題を引き起こすことは、対象関係論や愛着理論の中で論じられてきた。これらの理論が強調するのは、対人関係の失敗である。愛情の撤去が恥を生じさせ、さらに、恥がまずしい対人関係を導くと捉えることで、精神病理を理解できるのではないかと私は考えている。乳児は生理的に無力なので、他者からの世話を必要とすることは明らかである。そしてこの世話を通して、養育者は重要な他者となる。社会生物学的見地からは、他者から愛情や注意を撤去されることは、子どもに死、あるいは少なくとも深刻な結果をもたらすことになる。

 

P136

 この分析によって、私は、重要な他者が愛情を撤去することが子どもの発達に重要な役割を果たしていると確信するに至った。私は、情動の発達と自己の発達─特に、子どもの恥の感じやすさの個人差という観点から、愛情を撤去することの重要性を考えたい。私とより多くの伝統的対象関係理論家たちとを結びつけたのは、親子関係での失敗が恥の傾向を通して病理へと至るという私の信念である。このような分析を非常に幼い子どもを対象として直接的に検証するのは困難である。しかし、大人に関する私たちの研究は、対象者が学生でも患者でも夫婦の場合でも、愛情の撤去が人を辱めるものであることを明らかにしている。

 

P139 恥を引き起こす刺激の典型性

 私は、いくつかの理由から、愛情を撤去することを恥の典型事象に挙げた。一つは、子どもの時に誰かに愛されるということが適応的意味をもつため、二つ目は、他者から愛情を受けることが、大人として生殖上の成功を得るうえで適応的な意味をもつためである。帰属の観点から見れば、愛情には全体的自己が関与しており、したがってそれは全体的観念化を生じさせるはずである。このため、大人と同じく幼い子どもにとっても、他者から愛情を撤去されることは恥の典型事象の一つであると考えてよいと思われる。他者の何らかの欠点を責めたり、自分自身が統制できない環境のせいにしたりすることで、愛情を撤去されたことの原因を外在化することはできる。それでもなお愛情の撤去は、まず初めに失敗の内在化と全体的帰属を生じさせるだろう。これらの理由から、愛情の撤去は、恥の典型事象の候補の最たるものとして働き、恥を生じさせやすいと思われるのだ。