周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

恥の心理学 その2

M・ルイス『恥の心理学』(ミネルヴァ書房、1997年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P140 第7章 感情への反応

 恥とは小さな粒子のようなものである。残された痕跡、つまりそれがもたらした結果からしか、その所在がわからないことが多い。ネイサンソンは、恥についてこう語っている。「治療者が見ているものは、症状としての恥ではなく、症状の形成因としての恥である」。これが真実であることに疑いの余地はない。H.B.ルイスは、過去20年にわたってこのことを雄弁に語ってきた。彼女が述べていることや彼女の理論にはいくつか誤った点も認められるが、恥は他の激しい情動と同様に、抑圧されたり、否認されたり、処理されなかったりして症状を形成しうるという彼女の考えに、私は心から賛成する。(中略)恥の二側面とはすなわち、感じられる恥と、感じられない、あるいは回避される恥である。

 

P141 感じられる恥と回避される恥

 人の精神生活における恥を調べるにあたって、感じられる感情でもあり、かつ、認識されない、あるいは回避される事象でもある恥の役割から共通に生じる疑問に焦点を当てる必要がある。われわれの生活における恥の影響の多くは、認識されない恥のために生じている。実際、われわれの生活の中で生じる恥の大半は、認識されない、あるいは回避されると言った方が正しいかもしれない。しかしながら、生活の中の恥のある部分は感じられ、認識される。顕在化した(overt)恥と認識されない、あるいは回避される恥とでは、影響の与え方が異なる。われわれは認識された恥にどのように対処しているのだろうか。これには、後で論じる三つの可能性がある。すなわち、忘却、笑い、告白である。しかしながらここでは、否認と関連のある認識されない恥と、抑うつ、憤慨、自己愛、多重人格障害など、認識されない恥が引き起こすさまざまな結果に焦点を当てたい。

 認識されない、否認される、抑圧される、あるいは回避される恥は、二つの方法を通してわれわれの精神生活に有害な影響を及ぼす。一つは、自分の生活の中で何が生じているのかを理解していないという問題と関係がある。すなわち、認識されない恥は容易には説明できないような行動を引き起こし、その結果われわれをトラブルに巻き込むのである。二つめは、抑圧あるいは否認されたすべての強い情動に内在する問題と関係がある。精神の抑圧された側面は解消されず、暗喩的な意味で刺激物(irritation)として作用する。この考えはもともとフロイトの考えであった。抑圧が心的刺激になるという考えは、伝統的精神分析を引き継ぐH.B.ルイスの考えとも一致している。つまり、抑圧された事象が精神病理を引き起こすのである。

 私の考えでは、認識されないあるいは回避される恥に伴って生じる問題には、認識されない恥が刺激物であるために生じるものは少なく、それを説明として用いることができないために生じるものが多い。なぜなら人は、自分自身に対して、あるいは自分がやりとりをしている相手に対して、自分の行動を説明しようと試みるからだ。

 ルイスによれば、回避される恥に伴って、「恥の反応の感情的構成要素は、感情におけるたじろぎまたは動揺として、あるいは言葉にならない衝撃として表現され、その後に、他者の視点から見た自己についての観念化が生じる」。彼女の定義には、二つの特徴が含まれている点に注意してほしい。まず、恥が生じたことのしるしあるいは兆候がある。これをルイスは、「たじろぎ、動揺、あるいは言葉にならない衝撃」と呼んでいる。次に、何らかの理由のために、そしてそれはおそらく恥を認めることが特に難しいために、人は他者の視点から見た、自己についての観念化を行なう。このことによってルイスは、自己は1に自己から恥の感情的構成要素を取り除こうとし、次に恥という情動から自己を遠ざけるため(自己と恥の情動との間に距離を置くため)に観念化を用いる、ということを意味しているようである。

 

 →恥や自殺の分析が難しいのは、要因が複雑ということもあるかもしれないが、それ以上に要因が顕在化しない(認識されない)ことが問題なのではないか。説明できないことが、問題を引き起こしているということか。

 

 ルイスは回避される恥という概念をさまざまな方法で用いているが、私はそのうちのいくつかについてだけ触れておきたい。一つ例を挙げると、ある患者は自分のことを恥ずかしくはないが、罪深いと思っている。ここでは、罪悪感が恥を回避するために用いられている。罪悪感はそれほど強烈な情動ではないからだ。私は、ある状況下では恥は罪悪感に変えられる、というルイスの考えに賛成する。また、ある情動あるいはそのほかの情動のいずれを選ぶかによって、選ばれた方の情動が生じる可能性があるという考えにも賛成する。患者が恥を遠ざけ、罪悪感へと向かったということは単に、恥が変化した結果とりうる形の一つが罪悪感であるということを意味するにすぎない。しかし、罪悪感は恥が生じた後で生じるのである。これは、私のモデルによれば、恥を経験したくないと思う人が、全体的自己ではなく自分自身の行為に焦点化するというメカニズムによって、恥を否認していることを意味するだろう。言い換えれば、恥を経験したくない人は全体的帰属ではなく特殊的帰属を行なうのだ。罪悪感はそれだけでも存在しうるが、恥が回避されて罪悪感に変えられることがあると考えるのは理にかなっていると思う。ただし、二つの情動の強烈さの違いを反映して、その逆の変化、つまり罪悪感から恥への変化は生じないだろう。

 

 →漠然とした認知しきれていない情動を言語化したときに、その情動を感じられるということが言いたいのか。

 

P143

 人はさまざまな形の観念化を用いることでも、恥ずかしい経験に対処しようとする。これらの観念化によって、患者は、自己を他者の立場へと移行させ、恥を経験している存在から逃れられるのだ。この恥の回避の方法は、笑いや告白を通して現れることが多い。いずれの試みも、他者の役割を装うことによって、恥じている自己から逃れようとしたものである。恥からの回避という観念化は、9章で論じる自己愛や多重人格障害に関する私の分析の中心となっている。回避される恥に対するもう一つの反応は、自己の喪失である。しかし、これは精神異常や多重人格障害に見られるような自己の喪失ではなく、記憶の喪失の結果としての自己の喪失である。恥は記憶の喪失を引き起こすことがある。ルイスは回避される恥や自我理想、報復的な敵意についても述べている。

 

 →この話を聞くと、恥の回避を目的とした自殺はあり得なくなる。恥を原因としながらも、回避ではない目的によって、自殺をしたことになる。それは何か?

 

 ルイスは、少なくとも彼女のもともとの考えによれば、回避される恥を、恥という情動と自己との間に距離を置くための試みと捉えていた。われわれが彼女の分析に追うところは大きい。しかし、回避される恥という概念をさらに明確にし、分析する必要がある。ルイスが述べたように、「回避される恥に関する現象学、という考えは表現上矛盾している」。回避される恥という概念に内在する矛盾をルイスは認識していたが、この矛盾についてはさらに詳しく考えてみる必要がある。回避される恥について論じるにあたって、二つの基本的考えを認めなければならない。すなわち、思考と感情は抑圧されうるということ、その抑圧が刺激として働いて、病的症状として現れる精神的問題を引き起こすということである。そして、この症状が抑圧や転換(conversion)が生じたことを気づかせるのである。

 

 →病的症状が現れなければ、抑圧や転換の生起には気づけない。つまり、気づけていない(無意識で感じている)抑圧や転換は、いくらでもあるということ。

 

 恥は抑圧され他のものへ変化しうる。すなわち回避されうるという考えを受け入れるためには、恥は抑圧の結果、無意識のうちに転換されるという考えを認めなければならない。抑圧は有用な構成概念であるかもしれないが、回避される恥─私は認識されない、あるいは自分のものとされない恥と呼ぶ方を好むが─を抑圧以外の方法で説明することもできる。シェフは、認識されない恥には過剰な思考や話が伴うが、感情はほとんど伴わないと述べている。つまり、顕在化した恥にはこれとは逆のことが当てはまるとも彼は述べている。つまり、顕在化した恥には多くの感情が伴うが、思考はほとんど伴わない。シェフ自身は、回避される恥に感情が伴うか否かについては言葉を濁しているが、何らかの感情は伴うと考える方が理にかなっているだろう。シェフによれば、「分析されない、回避される恥は、一瞬の痛ましい感情としてあらわれ、その後には脅迫的な思考や話が非常に長く続く」。認識されない恥において問題となるのは、恥が生じたか否かではなく、恥が生じたことが認識されたか否かであるということは明らかだろう。臨床的観点からすれば、ほとんどの人が何らかの形で恥が外にあらわれることに同意するだろう。すなわち、たじろぎや動揺、衝撃が、恥が生じたことを示している。

 

P145

 われわれは、認識されない恥は客観的自己覚知によって引き起こされるが、焦点として選択されないがゆえに認識されていない、実在する情動である、ということをいまや理解できるだろう。この認識されない恥に伴って生じる問題は、転換とは関係がなく、人が恥という状態にあってもそれに客観的注意を払いたくないがために生じる問題と関係がある。この種の心的方略を用いることによって、次の三つの領域に問題が生じる。すなわち、①身体的行為、②他の状態についての思考、③対人的やりとり、である。

 

 →認識されない、自分のものとされない恥は、自分の脳が恥じている状態に焦点化していないだけ。

 

 まず、何らかの外的事象によって認識されない恥が生じると、身体に何らかの変化が生じる。すべての情動について、付随する身体的変化を特定できたわけではないが、恥についてはいくらかの成果が得られてきた。恥を経験している人は赤面し、身体的活動が変化し(身体をかがめたり視線をそらしたりする)、思考に困難を覚え、深いや心的痛みを感じるだろう。恥という情動状態を認識していないということは、これらの身体的特徴が生じなかったことを意味するのではない。実際、認識されない恥を抱いている人を観察すると、恥が消える前に、たじろぎや動揺に伴う身体的変化を観察することができる。

 さらに、内的帰属を引き起こした先行事象が存在する。これらの事象は認識されないかもしれないし、あるいは恥を認識しないようにするために、新たな意味を付与されるかもしれない。ここで問題となるのは、身体的状態が認識されていないと、それらを緩和するような行為をとれないということである。また、これらの身体的状態は、自分が今ある、あるいはそうなりたいと望んでいる新たな状態とは矛盾するかもしれない。このようにして、重要な身体的情報を無視して客観的覚知が行われると、異なる水準の自己の間で葛藤が生じることになる。

 恥が認識されない状態が続くと、人は他の情動状態に焦点化しようとするかもしれない。私はこれを情動的置き換え(substitution)と呼んでいる。情動的置き換えは、他の多くの情動にも非常によく見られる。先に、叔母の死を悲しんだジョンという患者について記した。彼は自分の悲しみにではなく、疲労に焦点化することを選んだ。情動的置き換えはさまざまな形をとりうる。ジョンの場合、自分の感情状態の全体にではなく、ある特徴にだけ焦点化することを選んだ。恥の場合にも、恥のある特徴にのみ焦点化することは可能である。たとえば、われわれは顔が赤くなった、という側面に焦点化することができるだろう。赤面は人前に晒されるような状況であればどこでも生じ、しかも必ずしも基準に照らしての評価がなくても生じるので、われわれは自分自身に対して「とても恥ずかしから赤面しているのだ」とは言わず、「とても照れているから赤面しているのだ」ということもできる。実際、われわれは恥を認めないために、「困惑」という言葉を用いることが多い。あるいは、恥の心的混乱という側面に焦点化して、「いったい何が起こっているのかよくわからない」というかもしれない。あるいは、恥に付随する不快な感情状態のある特徴にだけ焦点化することもできる。この感情は身体的健康に関連したものなのだと考えることで、われわれは感情を容易に「身体化」することができる。逆向条件付けとして知られるある種の過程においては、自身の不快な感情状態と、過去に生じた身体あるいは健康上の問題とが結びつけられることすらあるかもしれない。繰り返すと、われわれは状態全体のある一特徴にだけ焦点化することによって、恥を恥と認めることを回避するのである。問題となるのは、ここでその人が行なった説明が、実際に生じていることとは矛盾しているということだ。つまり、内的な葛藤が結果として生じるのである。

 置き換えのもう一つの形は、まったく新たな情動を認識してしまうことである。これは、その状況とはまったく関連のない形の情動をとることもありうるし、また、その状況に関連した形の情動をとることもある。前者の場合には、人は恥の状態にあるのだが、それを認識していない。代わりにその人は躁状態になり、強迫的に話はじめる。

 

 →説明と実際に起きていることが矛盾するなら、いったい何を信じればいいのか。それが身体行為などになるのかもしれないが、史料分析ではそれを使うことができない。どうするか?

 

  私にはすぐに恥じ入る同僚がいる。実際、彼は恥を感じやすい人である。彼はどんな批判も、失敗に対する全体的批判と受け取る。私はいつ彼が恥を感じているかをいつも指摘できる。なぜなら、恥に関連する事象が生じたすぐあと、彼は楽しげでない微笑み(これは彼のたじろぎである)を浮かべ、止まることのない会話を始めるのだ。この状態は、恥を認めることを邪魔しているように見えるという点だけを除くと、極度の幸福状態に似ている。なぜこの状態と彼の認識されない恥とが結びつくのかは私にはわからない。

 

P148

 認識されない恥と関連のある情動とは、誘発因および反応に、恥との関連が認められるような情動である。この条件を満たす二つの主な情動は、悲しみと怒りである。これについては後に詳述するので、ここでは簡単に要約するにとどめておこう。悲しみは、さまざまな理由から、認識されない恥と同時に生じる。恥の情動的トーンは不快であり、また、恥の対象は自己である。「気分がよくないこと」、すなわち、悲しくなることは、恥の状態とはさほどかけ離れていない情動への置き換えの一つである。さらに、悲しみを引き起こす帰属は、恥を引き起こす帰属と非常によく似ている。すなわち、全体的帰属と自己非難である。悲しみへの置き換えは自然な置き換えかもしれない。なぜなら恥は他者と一緒にいるときに生じる、あるいは、他者が原因で引き起こされるからである。あなたが感じている恥という情動を他者が引き起こしたということは、自然に悲しみにつながるだろう。なぜなら、あなたが知っている誰かが、あなたに害を与えたということになるからだ。この最後の例の場合、恥じ入っている人は、恥そのものではなく、嫌な社会的状況に置かれているということと恥の情動の誘発員の両方、あるいはそのどちらかに焦点化する。悲しみを感じることは、恥を感じるよりはましであろう。それゆえに、われわれは痛ましい恥を悲しみに置き換えようとするのだろう。

 怒りへの置き換えも、さまざまな原因から生じる。再度、現象学的観点化から述べると、われわれは恥を感じているとき、心的痛みも感じていることに気づいている。痛ましい状態にあるということはそれを引き起こした原因があるということを意味するが、怒りは痛みの原因を克服するのに適した情動の一つである。痛みの表情と怒りの表情にはいくつかの類似点があり、また身体的な痛みには怒りの表情がよく伴うと指摘されてきた。過去の学習が、何らかの身体的痛みあるいは社会的な痛みに対する怒りと連合しているのかもしれない。したがって、怒りは恥に対する情動反応のレパートリーの中でも高いところに位置づけられる。恥を怒りに置き換えることは、女性よりも男性に多く見られる。

 怒りを外に、すなわち恥の痛みをもたらした原因に向ける代わりに、「自分がしてしまった愚かなこと」について、自分自身に怒りを感じることがあるかもしれない。自分がしてしまった「愚かなこと」が最初に帰属される原因であり、したがってそれが恥の原因となる。原因に焦点化することによって、感情そのものを回避することができる。自分自身の行為に怒りを向けることで恥の感情を回避でき、同時に、再び恥を生じさせる可能性のある事象を修正できるのである。

 

 →怒りの感情によって、恥の原因を自身の行為に帰属させられなかった場合、つまり、全体的自己に帰属した場合はどうなるのか? 再び自分自身に怒りを向けるようになり、全体的自己に焦点化してしまうと、純粋に恥だけ感じているよりも、怒りを感じている方が、自己への暴力(自己処罰)に繋がりやすいのではないか?これが自傷行為や自殺行為へと展開していく理由ではないか。

 

 最後に、怒りを恥の代用とする三つ目の方法として、われわれは恥の原因の社会的側面に焦点化することがあるかもしれない。恥は人間関係の中で生じることが多い。したがって、恥じ入っている人は、恥という感情を認めたくないがために他の人に対して怒りを向け、この人を自己非難の身代わりに仕立てることがある。この種の怒りによってわれわれは非難を外に向け、それによって恥の経験における自分の関与を減らすことができる。このように怒りを用いることによって、自分の誤りが修正されるわけではない。ただ単に非難と自分自身とを切り離すことができるだけである。怒りを経験することは、悲しみと同様に、恥を経験することよりは快(あるいは不快ではない)のだ。

 

 →結局、恥を別の感情に代用できず、その原因を全体的自己に帰属させた場合に、自殺念慮を抱くような精神状態に至るということか。

 恥を別の感情に代用すれば、恥から逃れることができるのに、それをしない、あるいはできないのはなぜか? ひとつはしつけ・教育の影響で、もうひとつは恥じて、原因を全体的自己に帰属させたことで、何らかのメリット(成功体験)があったからではないか。例えば、恥じて全体的自己を責める言動をすることで、同情を得ることができるなど。

 

P149

 置き換えの使用には、それがどのような種類のものであろうと、実際に存在している情動状態を客観的に覚知していないという心的コストが伴う。すなわち、実際の情動状態を焦点化しないで、他の側面あるいは他の情動に注意を向けてしまっているために、われわれは自分自身の周辺や自分自身の中でどのような力が働いているのかを理解する機会を失っているのだ。実際の情動状態に焦点化しないことは、ある程度は適応的であるかもしれない。そのことによって、激しく痛ましい情動経験から心を保護することができるからだ。しかし、まったく有益であるとはいえない。情動状態は実際に存在し、たとえわれわれが注意を向けていなくとも、われわれの行動に影響を与えるのであるから。置き換えは自己欺瞞の一形態である。すなわち、痛みや不快を和らげはするけれども、少なくともすぐにはその状態を変化させることはないのだ。

 

P150

 認識されない恥には適応的意義がないことは、認識されない恥が社会的相互作用に及ぼす影響を考えると最もよく理解できる。情動に関する議論の中で私は、情動は個人内の状態であるのみではなく、社会的交渉や社会的関係の材料の一部として働く伝達記号であるということを指摘した。認識されない情動状態は、それがいかなる類のものであっても、必然的に社会的相互作用を妨害することになる。患者と自動車校の例を思い出してみてほしい。私の患者は怒っていたが、彼は自分の怒りを認識していなかった。先位指摘したとおり、ある情動状態はそれが客体化されていようがいまいが存在する。患者は、自分では認識していなかったけれども怒りの状態にあった。それゆえに彼はそのようにふるまっていた。彼の表情や身体、言語上の行動も含めてである。自動車工はこのメッセージを読んで、怒りで彼に応えた。患者は自分自身の怒りに気づいていなかったので、自分の行動が自動車工を怒りに駆り立てたことに驚いた。認識されていない行為や情動からは、葛藤と混乱が生じるのである。

 

 →当の本人が認識していようが認識していまいが、その情動は存在し、社会的交渉や社会的関係に影響を与える。つまり、その情動の存在を客観的に証明できさえすれば、その情動が自殺に影響を与えたことを証明できるのではないか。では、情動の存在をどう証明するか。言葉は嘘をつく可能性があるから、行動や表情、態度がその証明になるのか。これを史料から見つけ出すのは、かなり厳しい。何より、行動や表情、態度でさえ、歴史や文化の影響になるわけだから、その確定から入らなければならないのかもしれない。

 

 これは恥の場合にはもっとよく当てはまる。もっと、というのは、恥は非常に強烈な情動なので、恥の状態に関連した行動は際立った信号となりやすいからである。不幸にも、他者の恥の状態はわれわれの中にも恥を引き起こしうるので、メッセージの送り手も受け手も恥の状態に気づかないままでいることもあるかもしれない。不完全なメッセージの送信の第一の種類は、自分に恥が生じているのにそれが認識されていない場合である。その人が述べているあるいは認識している状態と行動とが一致していないため、他者は「混合した」メッセージ、すなわち顕在的な形の情動と潜在的な形の情動という、異なる情動が混合したものを受け取ることになる。このような混合メッセージは、対人関係上の問題を導きやすい。例としてある患者を取り上げよう。

 

 →混合メッセージを受け取り、理解できないからこそ、受け取った第三者は「狂気」のような説明しかできなかったのかもしれない。

 

  患者は父親が彼に向けた批判に恥じいっている。彼自身はその恥には気づいておらず、疲れを感じている。彼のガールフレンドは、父親と息子とのやりとりを見て、ボーイフレンドが気の毒だと感じた。そこで彼女は、「お父さんがあなたにあんなことを言うなんてひどい。お父さんは間違っていたわ。お父さんにあんなことを言う権利はなかったわ」と言った。しかし、彼はこう答えた。「一体何のことを言ってるんだ? 何てことないさ。ただ眠いだけだよ。」

 

 ガールフレンドはどうしていいかわからずにいる。彼を慰めようとしたのに、拒絶されたからだ。しかし、彼女は彼を気の毒に思い、助けたいと思っている。彼女には、彼が恥を認識していないことがわかっていない。彼は恥を感じることよりも疲れを感じることを選んでいる。彼女は彼が恥を感じているに違いないと感づいており、この恥という情動に彼が適切に対処できるように、彼に恥を認めさせようとしている。しかし、彼は恥を認めたくないので、彼女の慰めを避けているのだ。

 

 →この事例は、意識的に「疲れ」を選び取っているのではないか。つまり、潜在的(無意識)に恥が生じているのではなく、恥に気づいていながら、それが伝わらないように、自意識として捏造しているだけではないか。無意識的に選んでいるのか、意識的に選んでいるのかは、大きな違いではないか。

 

 不完全なメッセージの送信の第二の種類には、情動的置き換えが関係している。この種の状況で、恥じ入っている人は他の情動を表出する。前述のとおり、もっとも置き換えられやすい情動は悲しみと怒りである。恥のかわりに置き換えられた情動は、あらゆる種類のメッセージの混乱を引き起こす。たとえば、互いに辱めあっていることがわかっていなくて、怒りを感じている男性と、悲しみを感じて引きこもってしまった女性のカップルの例を思い出してほしい。この問題は大人的葛藤にも関連するので、きちんとした議論は8章と10章まで保留しておきたい。しかし、ここでは、個々人の情動生活に対処することが、対人関係の主要な課題であるとだけ言っておこう。恥という隠された情動があると、それが葛藤になるため、この課題はずっと難しくなるのである。

 

 →中院通守と後小松上皇のやりとりは、恥の応酬だったのかもしれない。上皇による上卿への再三にわたる任命と、それへの辞退は、拒絶による恥を消すために何度も厳命し、それに答えられない恥が全体的自己に帰属され、自殺したということか。

 

P151 恥を自分のものにする:どのようにして恥を取り去るか

 人は恥を経験したときに何をするだろうか。帰属によって恥が生じると、今度はこの感情に対処しなければならなくなる。恥は強烈で痛ましいので、人はこの感情を取り去らなければならないと強く感じる。同時に、恥の強烈さや痛みのために、そして、恥の破壊的性質のために、恥に対処することが非常に難しいことに気づく。恥に対処する最も簡単な方法は、「それを自分のものとし」、時間とともに消え去るのを待つことだ。それが可能である場合には、人は恥ずかしい状況から離れ、恥が自然と消えるのを待つことで対処している。あらゆる強烈な事象がそうであるように、恥もいつかは消え去り、その他の情動や認知が恥にとってかわる。永遠に続く情動なはない。しかし、恥を取り去る助けとなる方法は、この他にも少なくとも三つある。否認または忘却、笑い、告白である。

 

 →そして、自殺も恥を取り去る方法ということになるか。

 

P152 否認と忘却

 忘却の仕様とは、単に活動中の思考からあるものを消し去ることなのだが、これは自己と感情とを切り離す一つの方法である。しかし、忘れられている恥は認識された感情であるという点で、忘却は否認とは異なる。この点を説明するような話を学生が私にしてくれた。

 

  ゼミの教授が、この学生に、X教授の理論の概観を用意するように頼んだ。彼女はゼミでX教授の理論を紹介したが、そのゼミにX教授が参加していることに気づいた。発表の中で、彼女はX教授が独自の意見を述べていると報告した。そのとき、彼女はX教授が首を振って、彼女がX教授の考えを正確に把握してないことを指摘しているのに気づいた。彼女は、死んでしまいたい、隠れたい、消えてしまいたいと思ったと語った。発表は終えられたけれども、終わるとすぐに彼女は自分の持ち物をまとめ、言い訳をして、ゼミ室を離れた。

 

 彼女は、「私は悔しかった」と述べること、そして教室を離れX教授を避けることによって姿を消す、という二つの行為を通じて、自分の恥を率直に認めていた。2日経っても彼女はゼミに戻ることができなかった。まだその出来事を覚えていたからだ。彼女はその恥ずかしい経験を忘れることができなかった。もちろん、結果的には恥を忘れ、ゼミに戻ることはできたのだが。しかし、彼女の恥は、その講座のレポートを書き終えるまでは完全に消えなかった。忘却の使用は、明らかに恥の経験を消し去る一つの方法である。忘れることによって、われわれはいったん認識された恥の経験から距離を置き、離れることができるのだ。

 

 →この恥に終わりが見えなければ、自殺に至る可能性が高まるということか。

 

 否認は、恥の生起を予防するために働くことがある。否認は忘却と同じではない。たとえばある患者は、「私は規則を破っていない。だから自分自身を責める理由などないのだ」と言うかもしれない。人は、自分がある基準や目標をもっているということすらも否認できるだろう。「どうしてもそれが欲しかったわけではないんだ」というようなコメントは、思考からある目標あるいは基準を取り除くことで、恥につながる全体的帰属のサイクルを生じさせないようにするための試みであるかもしれない。基準が破られなければ、恥を心配する理由もないのだ。この種の避妊の多くは、「事後」の否認であるということ。すなわちそれは恥の経験が生じる前に行われる観念化ではなく、恥が生じた後に行われる観念化を反映したものだとわれわれは誰しも感じており、またそれは間違いないだろう。この観念化は、何も悪いことなど起こらなかったという否認を行うことによって、恥から自己を遠ざける試みを示している。一般に、否認は、はじめは恥を経験しないための手段としてではなく、恥を回避するための手段として用いられることが多いのではないかと私は思う。

 しかし、否認は恥の経験が生じた後に恥の感情を回避する手段として用いられるだけでなく、恥の経験に先立って恥の生起を予防するために作用することもあるのはおそらく事実だろう。この問題については、さらに多くの研究が必要である。恥の生起の指標として、たじろぎや動揺、衝撃を用いれば、恥を回避するための否認と、恥の生起を予防するためのひにんとを区別することができるだろう。このような恥の記録を正確にできれば、その否認が事後のものであるかそうでないかがわかるだろう。

 否認は他の方法にも現れる。たとえば、われわれは責任を内的に帰属しないために否認を用いることがある。責任の内的帰属を避けることができれば、次の例に示すように、恥は生じないだろう。

 

  私たちの縦断研究の一つに参加しているある青年は、以前には5分で完成できた簡単な課題を、なぜ完成できなかったのかを尋ねられたとき、こう答えた。「隣から聞こえてくる音がうるさくてできなかったんだ」と。たしかに何らかの工事が行われており、青年はその音に気が散ったのかもしれない。しかし、同じ状況におかれた多くの子どもたちはその課題を完成できたし、またできなかったとしても、成功しなかったことを外の騒音のせいにはしなかった。この青年は失敗を外的な事象に帰属したのである。彼の表情や身体的行為から判断して、彼が失敗の責任を自分自身に帰属しなかったことは、事後の否認の一つの形であるように私には思われた。

 

 →やはり、内的帰属にするか外的帰属にするかの判断は、たとえば、「言い訳をするのは男らしくない」のような躾・教育の影響、あるいは内的帰属(すべて自分のせいにすること)を潔いとみなす、日本社会の美德観・倫理観のようなものが影響を与えていないか。たとえば、ミスを犯した場合にも、外的帰属の言い訳をする人間は信用されず、内的帰属の言い訳をする人間は、逆に正直者と評価されてきた、あるいは責任が軽減されてきたのではないか。これが成功体験となり、内的帰属を優先する人間を生み出してきたのではないか。これがさらに自殺念慮へと展開したのではないか。つまり、全体的自己への内的帰属を美徳とする価値観を探すことが、自殺分析をするときには大切ではないか。

 

P154 笑い

 笑いも、認識された恥を軽減しうる、あるいは取り除きうるメカニズムの一つである。笑いの使用には、数多くの異なるメカニズムが含まれている。第一に、自分自身を笑うことは、自己と情動経験との間に距離を置く上で役立つ。笑いは非常に強力な刺激なので、笑いによって他の情動に焦点が移行し、恥から焦点をそらすことが可能になる。

 第二に、特に失敗をめぐる笑いが日常生活において生じるときには、笑いは失敗をおかした人に、自分のことを見ている他者の側に加わる機会を与える。このようにして、比喩的には、恥じている側から、他者とともに恥を見ている側へと自己が移行するのである。(中略)

 笑いの第三の特徴は、笑いのもつ社会的な意味にある。誰かの恥を経験することは恥ずかしいことだと先に述べた。敏感で共感的な傍観者は、女性が滑ったのを見て笑い、そしてまた人々の笑い声を聞いて、その女性の恥に気づき、逆に自分自身が恥ずかしくなる。伝染効果があるのだ。(中略)この恥のサイクルは、最初に恥を感じた人の笑いによって断つことができる。

 

P156 告白

 人が他者に自分の違反を告白する程度というのは、自分のことを見ている他者の側に自分が加わる程度にあたる。告白によって、自己は恥の原因である自己から他者へと移行することができる。このことによって、逆に、事故は主体ではなく、自己を対象として見る「告白の聞き手」になりうるのである。(中略)

 他者の立場への自己の移行こそが、まさに告白の間に生じていることなのである。過去の失敗を認めることによって、人は見られている側から見ている側へと移行できるのだ。

 

P158

 告白にはもう一つ別の役割もある。もし人が全体的自己について恥を感じているのであれば、何らかの方法でこの恥を認めることによって、全体的評価という観点からいくらかは解放される。

 

P163

 告白は新たな問題を生み出すこともあるが、少なくともほとんどの場合においては恥に対処するうえで否定的な方法ではないと私は思う。告白の聞き手という役割は、社会の中で選ばれた人に与えられた、非常に肯定的な役割である。このような役割が社会の中にないということは、多くの人にとって重大な意味をもつだろう。特に自己愛障害に苦しむ人にとってはそうであろう。恥に対する許しを与える社会構造が文化の中に存在しないがために恥が許されないとすれば、恥を経験することは非常に危険なこととなり、人々は恥の経験を回避するようになるだろう。このような限り、社会における告白の役割は重要である。実際、(宗教の衰退にともなって)告白の聞き手という役割がなくなると、自己愛障害は増加するだろう。

 

 →自殺者の増加には、自己責任論の喧伝(他への責任転嫁ができない)や、許しが誰からも与えられない殺伐とした社会(人間の孤独化)のせいではないか。結局、恥の原因を外在化でき、恥が許される社会であれば、恥を原因に自殺する人間はいなくなる。中世社会も現代社会も、外部に責任転嫁できず、許しの与えられない厳しい社会なのだろう。

 

 恥じている人は、忘却、笑い、告白など、さまざまな方法を用いて自分の感情を消し去ろうと試みる。恥は、あらゆる情動と同じく、一時的で、自然に消失するものであるので、これらの方法はこの消失の過程を促進するうえで有用な機能を果たす。あらゆる場合において、恥はまず自分のものとされ、それから軽減されるのである。

 

 →この理屈が妥当ならば、恥を原因に自殺する人間はいないことになる。なぜなら、恥は一時的で、自然に消失するものであるから。しかし、もしその恥が一時的という時間を超えて持続する場合は、どうなるのだろう。また、その持続する場合とは、どのような条件のもと、起きるのだろうか。それが、前述の責任転嫁できず許しもない価値観の蔓延、ということになるのだろうか。

 

 

P166 第8章 恥への慢性的反応:屈辱、抑うつ、激怒

 認められない恥の場合、人は恥を“所有する”ことを避けようとする。これは認められた恥の場合と同じ基本的な過程を通してなされる。すなわち、人は恥じる自己から自己を分離しようとするのだ。この過程を進めるために用いられる方法には、さまざまな形態の情動的置き換え(substitution)がある。(中略)恥の感情の情動的置き換えでよくわかっているのは、抑うつと激怒の二つである。7章では、抑うつと激怒ではなく、悲しみと怒りという言葉を用いたことに読者は気づいたかもしれない。この使い方には、重要な理由がある。すなわち、悲しみや怒りは情動の健常な形態であり、抑うつや激怒はその精神病理学的な形態なのである。

 

P168

 ここでは恥を特性(trait)として扱おうと思う。ある人々は他の人々よりもこの特性をもっているが、二つのまったく異なる理由のためにそうなることがわかっているためである。第一の場合、恥はその人たちのパーソナリティの一部である。彼らは成功や失敗に対して強固な評価的メカニズムをもっていたか、全体的評価を促すような屈辱的な子ども時代を過ごしたのである。第二の場合は、彼らの対人的相互交渉の性質と関係がある。この人たちは、他者の辱めに服従していたのである。最初の例では、個人の中に特性があり、第二の例では社会的関係の中に特性がある。

 

P169

 最近、モリソンは同じ指摘をしている。「抑うつが観察可能であり、その一方で恥がしばしば隠されるために、両者の関係は強調されてこなかった。そして恥の要素はよく探求されないまま放置されてきたのだ」。

 

 →つまり、自認しているかどうかは関係なく、恥は隠されることがあるわけだから、むしろ観察可能な抑うつ状態から、逆に恥を読み取る必要がある。史料に恥と記されていなくても、恥をかいている可能性は十分にあるということがここからわかる。

 

 恥をめぐる対人的問題を理解するためには、恥の経験は二者間の一方か両方に認識されない、あるいは二者を超えたより大きな単位で見た場合には、家族によって認められない、という基本的過程を考える必要がある。また、情動的置き換えは慢性的な恥の経験に関して最も生じやすい反応なので、恥─抑うつと恥─激怒という二つの軸は、より詳細に検討する必要がある。

 問題はまだ残されている。この置き換えはどのようにして生じるのだろうか。この問題は、注目されはじめたばかりだ。恥─抑うつ軸と恥─激怒軸に関連して、他の問題も生じている。つまり、これら二つの置き換えは、同じ過程によって生まれるのかという問いである。もし抑うつと激怒が関連しているのならば、その可能性はある。実際、その証拠もいくらか存在するのだ。

 フロイトは、『喪とメランコリー(Mourning and Melancholia)』の中で、抑うつが罪悪感の下での自己に対する敵意から生じると述べている。私は、恥の圧迫が同様の結果を生むと考える。抑うつがうちに向かう攻撃であると仮定すると、抑うつのあるいは怒りの置き換えが説明できる。それではこの敵意は、どのように働くのだろうか。恥が怒りを導くのである。認められない恥は、自己が傷つけられるために怒りを生じさせることがある。恥の嫌悪的な性質や恥と関連する活動の抑制のために、怒りは認められない恥のかわりにたやすく生じる。進行中の行動に対する抑制が欲求不満を起こすと、この欲求不満─怒りの結合が、恥の置き換え反応として生じやすいのである。怒りが認められない恥の置き換え反応である場合、その怒りは回帰的に働き、結果として怒りは自己に向かう怒りとなる。この過程は、怒りを生み出す認められない恥から始まって、抑うつを導く怒りまで続く。こうした過程が可能な一方で、置き換えや転換の複雑な集合は、この過程が拡大しないように働く。内に向けられた敵意として抑うつを捉える理論は、認められない恥の直後の結果として抑うつを考えることをわれわれに可能にしてくれるのだ。

 

P171 恥、抑うつ、対人生活

 したがって、ある状況の結果として、恥と抑うつの一方からその両者が生じるのである。したがって、抑うつは恥が変化したものではなく、恥に伴う情動であることは明らかだろう。私の意見では、ただ恥ではなく抑うつが当人に焦点化されるだけなのである。(中略)

 情動的置き換え反応あるいは特殊的な客観的自己焦点化が、悲しみあるいは恥への対処であることは述べた。同じことは、恥─抑うつの結合にも当てはまる。慢性的な恥の経験をしている人は、悲しみではなく抑うつを経験しているのは明らかである。この結合において、慢性的な恥を感じている人(恥傾向のある人、あるいは、恥の環境にいる人)は恥ではなく、なぜ抑うつに焦点化するのであろうか。答えるべき問題は、慢性的な恥を経験したときに、抑うつ以外の選択はあるか、ということである。私は、他の情動の置き換えは可能だと思う。たとえば激怒などである。さらに疑問は他の疑問を呼ぶ。慢性的な恥を経験していて、しかもその恥を認識している患者はいるだろうか。私の経験から言えば、境界例あるいは精神病の患者以外にこのような症例は見当たらない。こうした症例を文献でも見ることができなかった。この場合、恥が我慢できないほど強いために、防衛的な情動の置き換えをする代わりに、自己が統合されなくなるのだ。9章で多重人格障害について議論するが、そこで多重自己を検討する。この章では、慢性的に恥を経験しているか、恥を経験する傾向があって、情動的な反応に移行することのできない自己は、破壊される可能性があることを指摘すれば十分であろう。精神分裂病境界例のような感情障害に見られる自己の喪失が結果として起こる可能性が高い。この分析が正しいものであり、臨床研究がこの分析を支持するならば、抑うつ症状は攻撃に対する自己の完全性の防衛の試みとしておそらくうまく説明することができるだろう。

 

 →情動的置き換え反応によって、恥から抑うつに移行したことが、自殺の誘因になったということか。

 恥は強烈すぎるので、自己が破壊される、つまり自己システムの不統合をもたらす可能性がある。それを防ぐために、抑うつや激怒という情動に恥を置き換える。自己システムの破壊を防ぐための情動に激怒があるにもかかわらず、その激怒の対象が全体的自己に向くと、自殺という自己システム破壊へと至ってしまうということか。

 

P172

 個人が慢性的な恥を経験するのならば、この問題を扱うのに役立つ多くの選択肢が存在する。すでに、忘却、否定、笑い、告白の類を指摘した。しかし、これらの方法は、反復的な経験ではなく、一回限りの恥にとって役に立つのである。慢性的な恥を経験する場合には、上記のメカニズムは、あまりにも破壊的なので作動しないのだ。情動の置き換え反応症状は、人が自己システムの不統合を防ごうとして自分自身に対して示す可能性がある。

 われわれの文化では男性とは逆に女性が攻撃的な行為をすることは許されず、攻撃的であるようには実際に社会化されていないので、女性はその代わりに自己の不統合を防ぐ方法として、抑うつ症状を示す可能性がある。

 他の要因が関連する可能性もある。生得的な特性的要因のために、人はさまざまな情動的置き換え反応をするかもしれない。たとえば、抑うつ反応への傾向は人によって違うことが考えられる。実際恥を引き起こすような状況に置かれたとしても、情動的置き換え反応として激怒ではなく抑うつを用い人がいるだろう。

 また、自己システムが破壊の脅威に晒されているときには、社会で非常に嫌われる攻撃ではなく、抑うつが恥の情動的置き換え反応として用いられるのではないだろうか。これが本当なら、そこには重要な臨床的な示唆が隠れている。つまり、見せかけの抑うつ症状が規定にある恥を反映している可能性がある人は、注意深く扱う必要があるのだ。なぜならば、抑うつ症状を取り去ることでその人の恥が明らかになり、何の防衛もなく恥が精神分裂病のような重大な障害を促進することがあるかもしれないからである。

 

 →原因を解明すればよいという単純な問題ではない。慢性的な恥を明らかにするときには、他の対処法を用意しておかなければならない。

 

 このダイナミックスを明らかにすると思われる二つの状況に、最近私は関わった。

 

  最初の例は、私の学生の友人についてである。彼女は、私の研究室に着飾ってやってきた。彼女は自分がうつであるが、なぜそうなるのかはわからないと、訴えた。彼女の家族は支援的で、彼女は学校で勉強もできたし、友人との関係も良好であった。そして一年以上交際してきた上級生と最近異性関係を持つようになった。彼らの性生活は良好であったが、彼女はこの関係が恋人が卒業したら終わってしまうのではないかと、不安であった。

 彼女が恋人について語れば語るほど、彼が彼女の抑うつの原因だということがはっきりしてきた。彼女に言わせれば、彼女の恋人はとても賢いが、とても横柄だという。彼は彼女の頭の働きが鈍いのを軽蔑していて、「いつも(知的な面で)見下していた」。彼女は、彼の行動に怒りはしたが、彼がとても聡明なために、彼が正しいに違いないと信じたのである。さらに、「けんかをするのが怖い、自分の愚かさと過敏さがトラブルの原因ではないか」と彼女は感じていた。私は治療を受けることを勧めたが、彼女は拒否した。それは恋人がそんな考えはばかばかしく無駄なことだと考えたからである。

 

 私は彼女を治療しなかったが、この若い女性が抱える問題は、私たちがこれまで考えてきたタイプのものであると思う。彼女は恋人にいつも恥をかかされている。彼は彼女を軽蔑して、いつも“彼女を見下していた”。しかし、彼女は恋人との関係に価値を置いていたので、この関係をやめたくなかった。そのために、恥の環境の罠にハマってしまった。結果として彼女は抑うつ的になり、自己非難に陥った。恋人は、彼女の問題は彼女自身のせいだと信じていた。それを彼女が明らかに受け入れていることに、注意すべきである。彼女は恥をかかされて怒っているときでも、その関係を壊すことができない。そのことがさらに彼女に恥を経験させているのである。

 

  第二の例は、抑うつのために精神保健センターに行くことを勧められた、虐待を受けている妻に関するものである。この患者を診ていた同僚は、患者が夫に叩かれてうつになったと言った。そのセラピストの報告から、この女性は殴打され虐待を受けていることを恥じていると、私には思われた。患者の抑うつを引き起こしているのは、殴打されることではなくその恥であった。この可能性を探究するうちに、セラピストは、この女性は叩かれた原因は彼女にあると信じていたと報告した。この帰属が彼女の恥を作り出していたのだ。また、このセラピストは、この女性が殴打されること自体によって辱められているとも報告した。公衆の前で叩かれることで、彼女は屈辱感を味わい、他の人たちに彼女が身体的虐待を受けていると気づかれるのが恥ずかしいと、家の中に閉じこもった。この虐待に対する恥によって、彼女は孤立していったのだ。

 

 虐待を受けたこの女性に関する報告は、身体的虐待に関する他の臨床データと一致する。虐待を受けている人は、以下のようないくつかの理由のために恥を経験している。すなわち、①自分が虐待の原因であるという信念、②自分自身を良くないと思う感情、③虐待を暴かれることへの屈辱である。

 これらの研究は、抑うつと恥の安慶を指摘した他の研究とも一致する。抑うつが低い自尊心あるいは恥の感情と随伴することは、明らかである。対人関係は男性よりも女性にとって重要なので、対人関係が恥や抑うつの感情の強い源泉となっている可能性がある。女性は心理的にあるいは身体的に虐待を受けているときでさえ、対人関係の失敗や自分の虐待を自分のせいにする傾向がある。こうした観念化が、虐待の犠牲者の逃れられない罠を作り出しているのである。このように考えると、なぜ虐待の犠牲者が頻繁に抑うつを示すのかがわかる。

 

P174

 恥─激怒の問題を考えていくと、恥、抑うつ、激怒の軸が明らかになるだろう。しかしその前に、特殊な恥と抑うつの問題を検討したい。それは死による親の喪失である。(中略)

 

P175

 このケースは、帰属スタイルの重要な例を示していると思う。3番目の子どもは、彼が悪いわけではなく、したがって母親の死について自分には責任がないと結論づけたことを思い出したのである。この事実に注目してほしい。彼がした帰属は外的なものである。つまり、自己避難をしなかったのである。このために恥を導く評価過程は生じなかったのである。

 これら三つのケースがいずれも親を亡くしているのにもかかわらず、三者三様の結果であるのは、親の死、抑うつや、恥の関係について重要な点を教えてくれる。一般に人は、ことに幼い子どもは、親が死んだとき(おそらく親が病気やけがをしたときでも)、自分を非難する内的帰属をする傾向がある。そのうえ子どもは全体的帰属をする傾向があり、そのために恥を経験するのだ。子どもがこうした内的帰属をせず、「悪いのはぼくじゃなくて神様だ」と考えるか、あるいは他の外的原因に焦点化するならば、恥は生じないだろう。子どもが親の喪失による悲しみを経験しないというのではない。しかし、抑うつはおそらく生じないだろう。子どもが内的帰属をすれば、恥、抑うつ、あるいは激怒が結果として起きるのである。

 

P176

 以上の研究は抑うつと関係があるように、対象関係論(object relations theory)にも影響を与える。(中略)子どもが養育や大人の愛情を必要とし、さらに愛着を形成する生物学的傾向を備えているとすれば、愛着の対象を失った子どもは、抑うつになる可能性がある。愛情の対象の喪失は、愛情の対象を利用できないか、あるいはその死や病気、愛情の対象との離別、あるいは愛情の対象が子どもが必要とする愛情を与えることができないために、生じる。(中略)抑うつの直接の原因は愛情の対象の喪失だとまとめてしまうのではなく、私の愛情の対象の喪失が自尊心を失わせたり恥をもたらし、それが抑うつを導くのではないかと考えたい。(中略)

 

P177

 恥と抑うつの関係は複雑である。一方で、構造的に見るとこの関係は似ているという証拠もある。したがって、恥が自動的に抑うつを喚起するかもしれない。他方で、情動的置き換えが認められなない恥の結果として生じており、その置き換えの性質は社会化の規則に依存することも見てきた。この二つの家庭のどちらもがありうることなのである。言い換えれば、恥と抑うつの現象を説明するにはこの二つのどちらも必要なのだ。抑うつがいつも認められない恥によって喚起される(命題1)と考えてみよう。しかし、情動的置き換えは社会化の規則によって決定される(命題2)。後者の場合、女性には抑うつ反応が許されるが、男性は抑うつを激怒に置き換えることが奨励される。この問題に対しては、恥─激怒の軸を探究した後でよりよく答えられると思う。

 

 

  怒り、激怒、恥

 恥と怒りに対して、恥と激怒を区別する必要がある。恥と怒りが結合するのは、恥を生じさせる特定の出来事の結果だと思う。

 

  私の研究所の控室で4歳の子どもが、母親から叱られているのを目撃した。(中略)「ジョナサン、それをしちゃ駄目だと言ったでしょ。どうしていつもあなたは悪い子なの」と母親は言った。彼女は嫌悪をあらわにすると、軽蔑を込めて言った。ジョナサンは棚から離れなかったが、一瞬動きを止め、棚の上の二つのおもちゃを思い切り叩いた。私は、ジョナサンが恥を感じさせられ、怒りが生じるのを見た。この出来事は、欲求不満が怒りを生じさせる以上のものだと私は思った。母親の「どうしていつもあなたは悪い子なの」という言葉は、彼の失敗に対する全体的な評価であった。それで母親は嫌悪をあらわしたのだ。ジョナサンの行動や、ちょっと行動を止めたことや、特徴的なたじろぎは、恥の初期反応である。しかし、次に彼は恥のかわりに怒りを発したのだ。

 

 ここでの怒りは特定の出来事の結果であった。反対に激怒は慢性的な恥の反応である。

 恥─悲しみ/抑うつ軸を検討するときにすでに指摘したことだが、怒りと激怒も恥の情動的な置き換え反応である。このような置き換え反応の原因はさまざまである。恥と関連する苦痛から生じるものもあるし、その苦痛から生じる怒りと関連するものもあるだろう。愚かなことをしでかして自分自身に怒りを向ける人は、われわれの身近によくいるものだ。

 

  ある学生が私の研究室にやってくると、「課題をやってくるのを忘れてしまいました」と、困り果てて私に告げた。彼女は、「それをやっていないのを思い出したときは、本当に腹立たしくなりました」と言った。この言葉は、次のような行動で表されるのに似つかわしいだろう。「『このバカ!』と自分を蹴飛ばしてやりたいです」。

 

 この単純な例は、恥を怒ることによって、恥自体が消滅することを示している。人は、恥を経験すると(この場合、恥は認められなければならない)、自分のせいでひどい目にあったときに自分に対して怒るのと同じように、恥じている自分に対して怒る。しかし、たいていの怒りは、認められない恥の情動的置き換え反応であることが多い。恥じる代わりに怒るのは、自己が恥を経験しないようにするのを助けることになり、怒ることはそれなりの適応的な意義を持つと言えよう。その人の生きている文化が怒りを許容するときは、特にそうである。たとえばアメリカ文化では、恥を怒りに置き換えることは女性よりも男性にとって適応的である。

 

 →恥を怒りに置き換えることが適応的だというのが、社会化の規則事例ということになるか。

 

 怒りと激怒が他者に向けられることもある。また認められない恥から考えてみよう。この場合には置き換え反応としての怒りは、恥を引き起こした人に向けられるか、あるいは怒りや激怒を向ける相手が危険な場合には第三者に向かって表出される。(中略)

 

 この例(信号無視で警察官に止められ、文句を言えなかった夫は妻に怒りを向けた)は、怒り/激怒を自己以外の他者に向けることが、恥を避ける試みであることをよく表している。さらにこれは、ある意味で内的原因から外的原因へと責任を再解釈することで、恥をなかったことにする試みでもある。この種の行動は、しばしば恥傾向パーソナリティを示すものであり、自己愛障害とも一致する。

 

P180

 他人からいつも恥をかかされている人は、激怒を募らせる可能性がある。この激怒は、恥をかかせた他者に向かうか、あるいはさまざまな理由から別の人々に向けられる。後者の例としては、他者の権力が大きすぎる場合や、他者が身体的脅威をもっている場合、また恥をかかされた人が相手に強い正の情動を感じていて、そのために激怒が他の情動と相入れない場合などがある。さらに、恥をかかせる相手が当人にとって必要な人であるために、激怒をそらすこともあるだろう。

 激怒の置き換えあるいは激怒の抑圧の例は、日常生活、特に家庭で多く見られる。親から辱められた幼い子どもは、親に向かって怒りを表出することができない。そうすることで返って危険な目に遭うからだ。そこで子どもは、ペットの犬を怒鳴りつけたり、叩いたりする。また上司に恥をかかされた社員が、自分の怒りを善良な秘書にぶつけることもある。第1章に登場したプエルトリコ人の少年を思い出してみよう。彼は警官から恥をかかされて怒った。しかし彼は警官に怒りを向けることができなかった。そのためにゴミ箱を蹴ったのである。無生物に激怒を向けるのは、よくあることだ。自分を無力だと感じる人は特にそうである。

 

P181

 重要なのは、恥─激怒の結びつきが、激怒そのものが新たな恥の源泉となるという螺旋的な関係を作り出していることである。この恥─激怒─恥の螺旋は、さまざまな対人葛藤を理解するうえで重要である。

 恥をめぐる対人行動を検討する前に、怒りと激怒の違いを理解しておく必要がある。怒りは一時的情動であり、障害や欲求不満を克服するためにデザインされた反応である。怒りの反応は、欲求不満の源を克服するためにデザインされた、特定の神経筋肉的な顔面表出と身体活動で構成されている。欲求不満と怒りの関係は、以前から知られている。怒りは、障害に克とうとする日常的な試みの中で、人間を含む有機体にとって自然で一般的に見られるものである。怒りを意志になぞらえる人もいる。

 怒りとは対照的に激怒は強いものであり、障害への克服との関係は弱い。激怒は統制できない怒りである。激怒は、深刻で強い自己の傷と関連している。コフートの自己愛的激怒に関する議論は、とても有用である。やや繰り返すようでもあるが、小フートによれば、すべての激怒は自己愛的である。私は次のような区別が有効だと思う。すなわち、怒りはわれわれの行為に対する欲求不満反応であり、激怒は自己が傷つくことへの反応である。この区別は、怒りが障害を取り除くことを可能にする反応であるのに、激怒は恥に対する反応だということを示唆している。

 

P182

 この概念化は、最近レツィンガーによって提起された。恥─激怒螺旋に関する研究で、彼女は「恥─激怒反応 対 激怒反応」と呼ぶところの区別をしている。彼女は一方を「健常な怒り」、もう一方を「激怒/恥/怒り」と呼んでいるものの、私には怒りと激怒とを区別していると思われる。レツィンガーに従えば、健常な怒り(私はこれを怒りと呼ぶ)は、九つの点で激怒と異なる。①怒りは単なる身体反応であるが、激怒は過程で、螺旋的に恥から激怒へと変化しているのである。②怒りでは正当なことだと感じるが、激怒では人は無力さを感じる。③怒りにおいて傷は認められるが、激怒において傷は否定される。④怒りは意識的であるが、激怒は、恥の置き換え反応である場合、意識されない。⑤怒りは簡単に解決されるが、恥による激怒は、恥が怒りを引き起こし、それがまた恥を生起させるといった感情の罠を作り上げる。⑥怒りは置き換えられないが、激怒は置き換えられる。⑦怒りは実際の原因に焦点化されるが、激怒は一般化した反応である。⑧怒りは、個人的な現象であるが、激怒は社会的現象である。⑨怒りはほとんど負の結果をもたらさないが、激怒は多くの結果を生む。以上の違いが示しているように、怒りは制限的、焦点的な反応であるが、激怒はそうではない。そして怒りは特定の対象をもつが、激怒はその生起についても、それが向かう対象についても拡散する傾向がある。最後に、怒りは限定されて生起するので、解決する方法がある。一方、激怒は制限なく生起するだろう。

 

P183 対人関係の中の露な恥

児童虐待

  最近、デパートに行った時のことだ。そこで小さい子どもを連れた母親を目撃した。子どもは5歳ぐらいの男の子だった。母親は買い物をしたがっていたが、子どもは衣料品の下で這っていた。母親は子供にやめるように言ったが、男の子は遊びを続けた。彼女は男の子をつかんで引っ張った。その時、子どもは大声で泣き出した。母親は辺りを見回し、女性が見ていることを知った。彼女は子どもが大声で泣いていたので恥ずかしくなったように見えた。子供を静かにさせようと、母親は子どもを叩いた。これは男の子をもっと泣かせることになり、もっと周りの注意を集める結果となった。母親はさらに子どもを泣きやませるために叩いた。子どもはもっと泣くだけだった。彼女がさらに子どもを叩こうとした時、女性の店員がやってきて、飴を子どもに与えて宥めようと近づいてきた。

 

 ここで何が起きたのだろうか。これは恥─激怒の螺旋なのである。床を這うのをやめさせられたことで、公衆の面前で泣いた子どもの行動が、母親を恥ずかしくさせた。そして、母親の認識されていない恥が彼女を激怒させ、子どもをたたかせた。それが、今度はもっと恥を強め、さらに怒りを高めたのである。この進行あるいは螺旋の展開は、多くの形態の暴力の原因であるかもしれない。この母子の相互交渉は新聞紙上で見る児童虐待そのものではないが、このような例と深刻なケースとは同じ基底構造をもっていた。

 

P184

 レイドは虐待している親と虐待していない親の体罰の与え方の研究をし、1回ずつ体罰を与える長さが異なることを見出した。虐待をする親の虐待連鎖の長さは、虐待をしない親のそれの3倍もあったのである。これは、虐待をする親が一度体罰を与え始めると、やめられなくなることを意味している。虐待する親の恥─激怒の螺旋は統制不可能だと思われる。この螺旋効果のために、他の親が単純に子どもを叱るだけになるところが、実際には児童虐待になり、結果として、子どもは大けがをしたり、時には死に至るのである。

 

  中産階級の親の恥:わが子は私を愛していない

 

 養育行動に失敗したと感じたときに虐待の連鎖が始まるようだ。養育者は、子どもをある一定の仕方で行動させようとする。子どもが養育者が望む仕方で行動しないと、養育者は親として失敗だと思い、この失敗が恥を感じさせるのである。私が親子を観察したところ、次のような考えもしなかった連鎖が見られた。まず、母親あるいは父親が子どもに向かって、「これをしてはだめ」と言う。「これ」は、子どもがしたいことを意味している。やりたいことを禁止されたために、子どもは泣き出すか、反抗するか、あるいは悲しんだりむずかったりするだろう。この子どもの行動、特に反抗や悲しみは、親に恥を喚起する刺激の役を果たすのである。

 

P185

 では何かをしてはいけないと言われた子どもが不満に思うことで、なぜ親は動揺するのだろうか。恥─激怒の結びつきにその理由があるのだ。子どもが反抗したり、不満に思ったり、苦痛を訴えることがきっかけとなって、親は恥をかいて、そのために激怒するのだ。この連鎖について親と話し合ってみると、親はすぐに恥が働いていることを理解し、認めることがわかった。それは、子どもがやりたいことができないために動揺しているからといって、親が怒らなければならない論理的な理由はないからである。このように、健常な環境でも、恥─激怒の螺旋は働いているのである。

 

P186 憤激による犯罪

 私の考えている恥─激怒の螺旋は、この刑事が話してくれた現象と符合するように思われる。残虐な殺人は、殺人者の恥と激怒が引き起こす可能性があるので、誰か被害者をよく知る人が犯すのだろう。被害者は、本人が意識していようがいまいが、殺人者に恥をかかせている。そのために殺人者は恥を通り越して激怒し、被害者にさまざまな暴力を加えるのだ。(中略)

 

 傷つけられているという考えは、他人によって辱められたり恥をかかされたという感情を反映している。この事件では、妻の不倫が、彼が恥をかき、激怒して残忍な殺人を起こすほどに彼を辱めたのである。このように恥と屈辱は、激怒を引き起こしうるのだ。こうした知見は、カッツの、屈辱感が家庭内暴力の基底にあり、しばしば殺人に至るという研究によって支持されている。さらに、夫婦関係の研究をしているランスキーは、配偶者虐待があるような夫婦の間には激怒や屈辱感を引き起こすような恥が蔓延っていることを見出した。

 

P187 犯罪、犯罪者、人種差別

 激怒は、人に対しても物に対しても暴力の形をとりやすい。アメリカ合衆国の大都市をちょっと歩くと、ものに対する多くの暴力の跡を見て、衝撃を受ける。公衆電話のボックスから引きちぎられた電話、壊された建物、落書きだらけの記念碑や彫像などである。これは、人々が住んでいる建築物に対して市民の一部がもつ破壊的要素を反映している。こうした行為は、他の国でも見られるが、明らかにヨーロッパやアジアよりも合衆国では激しい。

 この国で見られる物に対する暴力を、どのように理解すればいいのだろか。貧しい人々や、黒人たち、公民権を剥奪されている人々がいつも辱められているためだろうか。ここで恥─激怒の螺旋を、われわれの身近に怒る反社会的行為に当てはめられることができると思う。

 

P188

 私がこの論説について触れたのは、貧しさやマイノリティであることがもたらす結果は、そのような状況から来る無気力感からだけではなく、恥からも来ていることを明らかにしたかったからである。私の恥─激怒の螺旋の分析が正しいとすれば、このモデルが個人のレベルだけではなく社会レベルにも適用可能なことがわかるだろう。街や施設への非論理的な破壊行為は、恥の精神内現象と関係があるに違いない。特に、貧困な黒人男性は、彼らがその中で生活している文化によってさまざまな形で恥をかかされているのである。また、彼らは、学校での処遇で恥を経験している。さらに仕事を見つける能力がない者とされ、恥を経験しているのだ。彼らは警察からも恥をかかされている。彼らは白人が主流の社会の中で黒人のマイノリティだというだけで、恥を感じているのである。これらの恥や、私が言及しなかったもっと多くの恥のすべての原因が、激怒を生じさせる可能性があるのだ。

 貧困、学業の不振、非行がわれわれの社会を悩ませている。これらの問題は、たいてい非行少年個人の能力の評価として考えられている。つまり、全体的な精神能力や特殊な能力と関連づけて多くの問題が考えられているのだ。たとえばチャンドラーは、攻撃的な子どもが役割取得能力に障害があることを見出した。

 

 →身分社会である中世と、このアメリカの状況は、実は似ているのではないか。同じ身分(たとえば、僧侶)内でも、出身階層(上級貴族・下級貴族・武士・庶民)によって、身分差別があったことは容易に想定できる。これが慢性的な恥を蓄積させて、多くの暴力行為を生み出しているのではないか。

 現代日本の場合はどうだろう。隠蔽されて見えなくなっている階層差があるようにも思えるが、それ以上に、批判をしやすい環境になったことが、恥をかきやすく怒りを生みやすい状況を作り出したのではないか。たとえば、自己責任論の登場(無責任の体系によって弱者が責任を負わされる構造)。学歴差別と逆学歴差別(たとえば、東大出身なのにこんなこともできないのか…)。SNSによる匿名批判と内容のエスカレート。人間を簡単に追い込める価値観やツールは、たくさん揃っている。ただし、SNSのようなツールは、この状況を持続させるだけであって、この状況を生み出した本質的な原因ではない。

 

P189

 だがこの解釈は、恥の可能性を考えていない。そこで学校で繰り返し出来が悪いと知らされる状況を想像してみよう。つまり来る日も来る日も課題に失敗するのである。学校で失敗した子どもは、この失敗で恥をかき、屈辱感を味わうだろう。つまり、学校での失敗と非行との関係は、多くの人が信じこまされるような知的な面での弱さではなく、失敗による恥やそれに続く激怒によるところが大きいのではないだろうか。この激怒は、自己にも他者に向けられる。非行の発生率だけではなく自殺の発生率も貧困層や恵まれない境遇の人々では非常に高い。犯罪は単に犯罪者が怠けているために起きるのではない。犯罪も、明らかに恥の螺旋の一部をなす激怒から生じるのだ。学業不振と非行の間に関係があるのは事実だが、私は、この関係は子どもの知的特徴と関係があるために生じるのではなく、[別の]因果関係を構成していると信じている。恥─激怒の螺旋を適用することで、非行の防止と救済の方法の糸口が見えてくる。こうした子どもが自分自身に対して肯定的な感情をもっともつことができるようにすれば、多くの社会的問題を除くことができるに違いない。非行少年少女や虞犯性のある子どもが成功感を味わえるようにして、自尊心を維持できるように援助すれば、犯罪を罰するよりも反社会的行動を防ぐことができるだろう。これと同じ分析を、内面に向かう激怒反応やその結果として生じる自殺や麻薬中毒にも適用することができる。この解決法は、恥を減らすためにデザインした認知─感情プログラムである。

 

P190

 上記の説を受け入れれば、恥を引き起こす事象と反社会的な結果との間に関連があるのは明らかである。私は最近ストックホルム大学の非行問題の縦断的研究の報告の一部を読んだ。著者のスタッティンとクラチェンバーグ─ラーソンは、非行と子どもの性別への親の好みとの関係を指摘している。この研究の結果、親が自分の子どもの性とは異なる性を好む場合は、親が自分の子どもの生と同じ性を好む場合に比べて、非行をする子どもの数は約2倍であった。この結果は、非行と恥の関係を支持するものである。自分の性のために望まれず、愛されず、おそらく拒否され辱められた子どもは、恥─激怒の螺旋を作り出す可能性がある。

 このような攻撃性と非行とを、低められた自尊心や恥と結びつける研究は特殊ではない。スラビーとゲラは、反社会的犯罪で服役中の男女青年の研究で、この関係を支持する別の証拠を見出した。彼らによれば、反社会的で攻撃的な人は、暴力は正当な反応だと信じていた。とりわけ、攻撃性が自尊心を高めたり、自己に対する負のイメージを避けることができるものだと信じていたのである。攻撃行動が自尊心を高めたり、負のイメージを避けるという結果は、恥─激怒の螺旋が反社会的行動の理解に役立つという私の主張を支持するものである。

 自己感覚の弱さ(低い自尊心あるいは恥)が攻撃性に影響するという結果を繰り返しわれわれは見出した。トックは、囚人について「彼らは他人から軽視されると、自分自身を守るためにいつも攻撃反応をする」と語っている。また、彼は囚人の研究で、自分に価値がないと感じると、何も恐れてはないのだということを示そうと暴力を振るう機会を求めることを示した。このように自尊心の低さが攻撃的行動を引き起こすだけではなく、攻撃行動そのものが自尊心を高めるように働くと思われているのである。

 

P191

 また、服役中の青年男子を教えている教師が、彼らは少しも挑発的ではない場面で、お互いに身体的な攻撃をよくすると語ったことがある。特に、彼女はある出来事のために、とても驚いたことがあるという。

 

  教室である少年がおならをすると、しばしば彼の隣に座っていた別の少年が怒って立ち上がり、彼の顔を殴ったと彼女は言った。このような些細な挑発で暴力が起こるのはなぜかと、私はこの教師に尋ねた。教師は、おならをされると、隣に座っている少年が困惑するからだと答えた。おそらくこのような状況は何らかの仕方で恥と関係しているのだろう。たぶん自尊心の低い人は、すべきではない状況でおならをする人がいたため、混乱してしまうのだ。おならをされることは、明らかに多くの人にとって屈辱的で、恥ずかしいことである。この場合、恥と激怒とは恥を引き起こされたのである。

 

 →「ウツワの小さな小便坊主」の記事を、追記する必要がある。立ち小便行為を稚児が嘲笑するのは、稚児がそれを恥ずかしい行為だと思っているからであって、一種の攻撃性を示したものと言える。そして、嘲笑された坊主は受けた恥が情動置き換えによって激怒に変じ、暴行へとつながったのではないか。

 

自殺:それは抑うつによるのか、それとも恥によるのか

 

 自殺は、たいてい抑うつの究極の指標だと考えられている。自己の破壊が、この状態の指標として用いられている。しかし、家族と自殺の研究をしているランスキーは、「しかし、患者が抑うつにのめり込んでいることを恥ずかしく思うという原因に比べて、抑うつ自体が原因で自殺する可能性は低い」と述べている。自殺は、内面に向かった激怒と関連する恥の結果である可能性がある。デュルケムは、自殺に関する彼の古典研究のなかで、自殺が恥と関連することを指摘している。恥と関係する自殺には文化差が存在する。戦前の日本では、恥は自殺と関係があった。自殺は恥の後で生じることが予期される反応であり、妥当な反応であった。殺人は恥─激怒の螺旋が外に向かって現れたものであり、自殺はうちに向かった現れである。ランスキーは、自殺者には恥じる傾向があり、「支えてくれる人から過剰に統制されたり、反対に捨てられることにきわめて敏感であって」、「適切な距離よりも少しでもずれると、おそろしく恥じ入ってしまう」と述べている。

 

  子ども時代、私にはジュラルドという友人がいた。彼は自殺した。自殺と恥の関係がわかるまで、なぜ彼が自殺したのか、私にはわからなかった。ある日、彼は父親と口論になったのだ。父親は彼の最も親しい人だった。その口論の最中に、彼は父親を押し倒した。父親は気絶して、しばらく動かなかった。彼は「父を殺してしまった!」と叫んで、近くの地下鉄の駅に駆け込むと、電車の前に身を投げてしまったのである。

 

 彼は自分がしたと思ったことで恐れ、怯えたのだが、私はずっとこのような自己破壊的な行為には意味がないと考えていた。しかし、彼は父親を殴ったことによる恥のために気が動転したのだと考えると、よく理解できる。実際、この例が示しているのは、激怒─恥─激怒の螺旋なのである。どんな理由があるにせよ、彼は父親に対して激怒し、彼を殴った。それが恥を生じさせて、今度は彼自身に向けられる激怒が生じたのである。

 

 →要は、恥─抑うつによって自殺する可能性は薄く、恥─(内面に向かった)激怒によって自殺する可能性が高いということ。激怒の方向性が父親ではなく、本人に向いたのは、自身に内化された基準・規則・価値観の影響ということになるのだろう。たとえば、自分を罵倒する人間は誰であろうと、他者が悪い、殺されても仕方ない、という価値観をもっていれば、ジェラルドは自殺することはなかっただろう。逆に、殺人は悪であり、理由はどうであれ、自分に責任があるとする価値観をもっていれば、自殺することになるのだろう。

 ひょっとすると、恥を感じていたままの方がよかったのかもしれないが、それはできない。必ず代替処置を脳みそが行なってしまう。

 

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 われわれの対人的な生活の大半は、恥─激怒の軸の周りを回っている。家族や友人は、この解決できないジレンマに対処するために必要なのである。その使い方のおそらく性差のために、この軸をめぐる男性の行動は女性のそれよりも特徴的である。そしてこれが男女の葛藤を増大させている。ここで私が示した分析が正しければ、激怒の社会的問題を解決する唯一の方法は、恥を減らすことである。審判や罰では激怒は減らせない。なぜならば、こうした方法は、激怒の原因である恥ではなく、激怒そのものに焦点化しているからだ。おそらく罰よりも許しが、そして屈辱よりも理解が、解決には必要なのである。明らかに、屈辱や罰は恥─激怒の螺旋を止めることはないだろう。

 慢性的な恥が抑うつや激怒に変化するという私の解釈は、この情動の強い結果を明らかにしている。繰り返される恥に対峙することが不可能で、かつ、恥を押し付けている世界から逃げられないと、人は生きるために他の方略を用いることを強いられる。極端な場合には、激怒あるいは抑うつを現すことになり、もっと極端な例では、精神医学的な自己の破壊を経験するのである。

 

 →1980年代に自殺者が急増したときは、プラザ合意による不況と説明されているが、この時に経済における「自己責任論」が登場している。自殺者を増加させるのは、経済的苦境だとよく言われるが、むしろこの「自己責任」の方が大きな問題ではないか。破産したのは自分のせい。会社が倒産して苦しんでいるのも、長時間路労働で苦しんでいるのも、ハラスメントで苦しんでいるのも、その会社を就職先として選んだ自分のせい。辞めたら次の職場が見つからないかもしれないという恐怖。そうした状況になっているのも自分のせい。当然、仕事ができないのも自分のせい。本当は、景気が悪いために売り上げが下がっているだけなのに、経営陣や上司が無能なために仕事が評価されていないだけなのに、「無責任の体系」によって権力をもっている人間はその責任から逃れ、弱者がその責任を一身に受けることになる。つまり、「自己責任論」が社会通念化しているかぎり、経済不況が起きるたびに、慢性的な恥を感じる人間が増加し、その恥を代替処理するために激怒する人間が増加し、激怒する人間のなかには、自己へ怒りを向ける人が増加し、自殺者が増加することになる。問題は、不況などでないのだ。