周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

恥の心理学 その3

M・ルイス『恥の心理学』(ミネルヴァ書房、1997年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P194 第9章 自己の病理

 それでは、心理的な障害に関してはどうだろうか。たしかに、環境の変化によってある障害が減少し、そして新たに他の障害が生じてきたように思われる。しかし、われわれはこうした変化を十分に説明するだけの理論をいまだもってはいないのである。ある種の障害の出現は、病気そのものが新たに現れたというよりも、それらに関する記録が整えられたり、あるいはそれらを特別な問題として報告する傾向が生まれてきたということによって、説明できる可能性がある。性的虐待などはそうした問題の一つだろう。たしかに性的虐待は増えてきているようにも思われるが、実際のところ、それはすでに過去からずっと存在していたのである。ただ、隠蔽され表に出てこなかったのである。変化したのは、問題そのものよりも、それをどう捉えるかというわれわれの認識の方である。同じことは児童虐待や養育怠慢の問題にも当てはまる。ある種の障害は減少してきているように見える。たとえば、ヒステリー患者は、フロイトの時代にはかなり多かったと言えるが今日では稀である。また、強迫神経症も減ってきているように思われる。

 

P195 自己愛

  自己愛および認めがたい恥

 私は、まず、人の一般的行為としての自己愛と障害としての自己愛との峻別を試みなくてはならない。自己愛という術語が健常的な心理的プロセスと精神病理の両方を意味するものとして用いられているということが、厄介な問題を引き起こしている。

 

P196

 私は、自己愛という術語を精神病理的な意味で使用すべきだと考える。そして、私はここで、その意味に限定して、この術語を用いることにしたい。私は、新生児、乳幼児、児童を対象に研究を行なってきたが、これらの研究を通して、子どもが、生まれた時点で(あるいはそれ以前から)生物学的な適応を求めて活発に活動する有機体であることを知った。そして、私は、こうした子どもの傾向に対して、コンピテンスとか自己効力感とかいう術語を当てたいと考える。(中略)

 病理としての自己愛は、精神障害診断統計マニュアル(DSM-ⅢR)によれば、①果てしない成功、権力、栄光、美、理想的愛などの幻想を伴う強迫観念など、自らが重要であることを虚栄的に顕示する傾向、②露出症的行為(自己宣伝癖)(exhibitionism)、③無関心、激怒、卑屈さ、恥、空虚感、④特権性の確信、操作、過剰な理想化、あるいは極端な意気消沈(deflation)、⑤同情心の欠落、と解釈できる。(中略)すなわち、この精神病理の規定には、恥や屈辱に対処できないことが関係していると主張したい。そして、恥に対処する際に用いられるメカニズムをもって、日常的相互作用の中にある自己愛的な人間の姿を描き出したいと考える。

 

P197

 自己愛に関するこうした分析の焦点は。恥に基礎を置くものである。いくつかの理由により、自己愛的な人間は、容易に恥を感じやすい傾向にあり、それゆえにまた、恥の経験をなんとか回避するように行動する。そうした人は、恥の回避を意図したある一群の観念作用を活用するか、あるいはそれがうまくいなかい場合は、基底に存在する恥を覆い隠すような情動的行動に走ることによって恥から逃れようとする。私のモデルに話を戻そう。

 私は、最も重要な特徴、すなわち、ある人たちは、自分自身を、特にネガティブな出来事に関連して、全体的評価をする傾向があるということから話を始めよう。自己愛を引き起こす根本的な原因は、こうした、失敗を評価する際に自分の丸ごと全体に焦点を当てようとする傾向である[自分のどこか特定の要素あるいは部分が悪いとか良いとか評価するのではなく、自分という人間存在の全体が悪いあるいは良いと評価する傾向]。こうした焦点化をするがゆえに、失敗は結果的に恥に結びつきやすく、成功は思い上がりに結びつきやすくなる。自己愛的な人間とは、誇り高ぶった人のことである。こうした評価の傾向は、そうした人の評価基準や、その基準に照らして失敗を評価するプロセスに影響を及ぼす。ある個人は失敗を決して経験しないということによって恥を回避することができる。すなわち、そうした個人は基準を低く設定し、それをクリアできないという事態が生じないようにすることによって失敗を回避することができるのである。しかし、低い基準は容易に満たされてしまうため、思い上がりの感情を生じさせる。ネガティブな出来事に対して全体的帰属をする傾向の強い人[出来事の原因を自分という存在全体に結びつけて考えやすい人]は、あまりにも低い基準を設定しやすい。ある意味で、そうした人の行動は社会的に好ましくないものである。というのは、彼らの価値基準や目標の構造が他者に比して低い水準にあるからである。われわれは、そうしたパーソナリティの持ち主に遭遇すると、彼らがより多くのものをなんとか手に入れよう、あるいは成し遂げようとしているというような印象をもってしまう。

 しかし、全体的帰属傾向を強くもっている人はまた、非現実的なまでに高い基準を設定し、その結果、恥を多く経験するようなこともある。おそらく、あらかじめ恥を予期してしまうことによって、結果的に、こうした基準の引き上げが生じてしまうのかもしれない。あるいはまた過去の成功がおそらくは思い上がり、裏を返せば元の状態に戻りたいという感情につながっているということも考えられる。さらに(これが最も可能性として高いが)そうした人が適切な基準を設定することを学習してきていないということがあるのかもしれない。容易に恥じ入るということがあるとすれば、そうした人はどうのように現実的な目標を設定したら良いかということを学習してきていない可能性がある。そして、それだからこそ、あまりに高いあるいは低い目標を設定してしまうということがあるのだろう。(中略)

 

P198

 しかし、ある人たちは、成功を非現実的に主張する傾向、すなわち同様の基準をもち、同じような行動をとる他のほとんどの人たちが自らの行動を失敗と評価巣領な状況で、頑なに成功を誇示する傾向を持っている可能性がある。成功の非現実的な評価は尊大さの特徴である。そうした非現実な評価は思い上がりを増幅させ、恥を避けるようになされる。自己愛的人間は、ほとんどの他者が失敗と考える行為を成功と評価する。こうした評価のあり方が、自己愛的人間の、実際以上に自らを優位に、尊大に見せようとする行動様式を際立たせている。

 

P199

 自己愛的パーソナリティの持ち主は、失敗が生じないことを確実なものとしようとして、きわめて多くの対人的コントロールを行なう。そして、このような、自分自身よりはむしろ他者を非難する習慣は、明らかに対人関係を困難な方向に導くことになる。

 

  私には、とても恥を感じやすく、いかなる非も認めることのできない女性の患者がいた。自分の失敗を認めてしまうと、彼女は非常に強い恥の感情を覚え、普通ではいられなくなった。そうならないために彼女がとる方法は、自分の周りのすべてを非難し、自分自身の感情状態が悪くなることを回避することであった。彼女の夫は、自分たちの問題のいくつかの非が彼女にもあることを、なぜ彼女が認めることができないのかを理解できなかったため、結婚生活は破綻してしまった。マリタル・セラピーもうまくいかなった。なぜならば、彼女があまりに恥を感じやすいために、結婚生活の問題点が夫にも自分にも等しくあるということをついに認めることができなかったからである。

 

 →かりに、平等に非があったとしても、夫はそれを認めず、妻だけがその非を受け入れ我慢してきたのが、かつての日本の婚姻の実態だったのではないか(今もそうか…)。今はそれが通用しなくなった(女性が我慢しなくなった)ため、離婚が増えたのではないか。ということは、基本、男性は自己愛傾向を許容されて育てられてきたということになる。

 

P200

 恥を避ける必要があり、しかも、その恥を必ずしも避けられそうにないという状況において、自己愛パーソナリティの持ち主は、極端な形で、自らが経験する恥に対して反応する傾向がある。恥を経験するとき、彼らは代わりに抑うつや激怒といった情動を示す可能性が高いのである。我々の文化的制約の下では一般に女性の自己愛者は抑うつを、また、男性の自己愛者は激怒を示しやすいようである。

 

 →これが自分の症状。

 

自己愛の社会化

 自己愛障害とは、自分自身の失敗に対して全体的帰属をしやすいという中核的特徴をもつ一群の障害である。先に触れた診断基準の中に、たとえば、自分が重要であるという感覚と自分が劣っているという感覚など、広く、また相矛盾するような記述があったことに注意されたい。こうした、多岐にわたる行動や感情を理解するための最良の方策は、それらが恥を回避しようとする傾向と関係していることを考慮することである。自己愛障害は男女両方に見出すことができ、また、特に、自身の失敗に対して全体的な評価をしやすい人の中により多く見られる。しかし、現れてくる障害の形態には、性差が存在するようである。おそらく、それは社会の中における男女の性役割の差異、または男女それぞれが経験する社会化(しつけ)の差異に関係していると考えられる。すでに(診断基準のところで)見たことからすれば、男性の場合は、具体的行為に関わる振る舞い、すなわち権力誇示、自己宣伝癖、激怒、搾取などをより示しやすいようである。一方、女性の場合は、過大な理想化、価値の引き下げ、(現実からかけ離れた)観念的な愛などをより示しやすいようである。

 社会化における重要な要因についてはすでに考察したので、ここで再度詳しく触れることはしない。しかし、要約しておくことは有用かもしれない。多くの親側の要因が子供の行為そのものよりも、むしろ自己に焦点化するように導く。その中には、たとえば「あなたがしたこと、あるいはあなたのやり方が悪い」というのではなく「あなたが悪いのだ」というように、特定の行為に対して帰属を行なうよりはむしろ、全体的な自己に対して帰属を行なうような場合も含まれる。またこれらの帰属に加えて、親のしつけの調子や、しつけをうまく行なうために恥や屈辱感を味わわせることが、子どもの全体的自己への焦点化を助長している可能性がある。さらに、親から愛情を注いでもらえなくなったり、外傷的な経験(親の死や重病など)に晒されたりすることによって、こうした帰属様式が生み出されるということも考えられる。

 

 →身内の死は愛情の喪失(愛情の撤去)を意味し、子どものころのしつけを思い出して恥を感じ、全体的自己にその原因を帰属させるのか。

 

P201

 親のしつけのなかに、もう一つ、こうした全体的な自己焦点型の帰属スタイルを生み出すものが考えられる。このしつけは、ネガティヴなものとは考えられていない。それどころか、推奨されるべきものと考えられている。則、この振る舞いとは、子どもを賞賛するというしつけ行為のことである。こうしたしつけは確実に増えてきており、そして、一般的に考える以上に多大な影響をもたらしている可能性がある。極端な賞賛や過度の甘やかしは自己への全体的な焦点かを増大させるかもしれない。「あなたはなんて素晴らしい子なの」という称賛は、子どもを、その自己全体に焦点化させることになる。こうした親の称賛は、それ自体本来ネガティブなものではないのだが、子どもの注意を、自分が行なった行為よりも、むしろ自分自身の全体的な特徴へと向けてしまうことになるのである。日本人は称賛を避ける傾向がある。それというのは、日本人が、褒めるという行為によって、(日本文化においては望ましいと考えられ促される)‘集団の中の自己への焦点化’よりも、むしろ‘個体化’や‘自己焦点化’が生み出されてしまうと信じているからである。われわれは、全体的帰属傾向が、外傷体験や苦痛などの悪いことが過度に積み重なることのみならず、良いことが過度に積み重なることによっても引き起こされるということを心に留めておく必要がある。しつけに関する現代の風潮によって、大人は、子どもを過度に褒めるように方向づけられている。そして、そのことが自己愛障害の増大に結びついているように思われる。特に、早期の経験は、全体的な自己への焦点化を最も促す可能性が高い。こうした帰属のメカニズムは、一旦確立されると、“自己愛的な”行動を生み出しやすくなるようである。このタイプのさまざまな行動や表出は、情動の表出性や攻撃行動の社会的受容といった要因に関係する社会化の経験を通して、もたらされるのである。

 

 →「褒めて伸ばす」がスローガンとなっているように、最近の日本人はむしろ称賛を多用しているように思われる。

 ①果てしない成功、権力、栄光、美、理想的愛などの幻想を伴う強迫観念など、自らが重要であることを虚栄的に顕示する傾向、②露出症的行為(自己宣伝癖)(exhibitionism)、③無関心、激怒、卑屈さ、恥、空虚感、④特権性の確信、操作、過剰な理想化、あるいは極端な意気消沈(deflation)、⑤同情心の欠落、のような特徴を備えた人物であっても、前近代では身分制によってそれを他者に強要できてしまう。それを是とするしつけ・教育が、身分の高い人々に施され続ければ、そうした傲慢な行動や態度を受ける身分の低い人々は、慢性的に恥を被ることになる。そこに、男性への攻撃性許容教育が施されれば、身分の低い人々は、喧嘩早くなってしまうだろう。室町のストリートが殺伐としているのも、なんとなくわかる。公家の厳しい身分体系の中に、攻撃性の強い武士が取り込まれ、さらに階層分化が進んだことで、騒擾が頻繁に起こるようになったのではないか。

 

P204 多重人格障害(M P D)

 ごく最近の神経生理学的研究も、高度な精神処理過程に、脳の複数の領域が関与しているということを支持している。たとえば、ルドゥーは、動物における脳の扁桃核が情動的符号化に関連があるとしている。同様の知見は人間に関しても報告されている。こうした新しい知見は、脳の[単一の特定領域のみがというのではなく]複数の領域が、情報処理を成しうるという一般的な主張を支持する。さらに、こうした種々の脳領域は、相互に直接、情報連絡していない可能性がある。もしこれが本当ならば、われわれは、人間が情報(特に感情的情報)を脳の複数の領域で処理しているということの確固たる証拠を得たということになろう。こうした考えは、われわれの多重的自己または乖離プロセスという考えに生理学的な支持を与える。こうしたことからすると、M P Dは、自己を検討するうえでの新しい枠組みに合致しているということが言える。

 精神障害診断統計マニュアル(DMS―ⅢR)によれば、MPDには以下の二つの特徴がある。①一人の人間の中には二つ以上の、相互に明確に区別されるパーソナリティあるいはパーソナリティの状態が存在する。そして、それらが、それぞれ固有のかなり持続的な、知覚や思考パターン、および環境と自己との関係のパターンをもっている。②こうした複数のパーソナリティおよびパーソナリティ状態の少なくとも二つは、定期的に入れ替わり、人の行動をコントロールする。

 

P205

 悪魔つきは、中世およびルネサンスにおいて、火あぶりの刑に処せられる咎であったが、それが、歴史上早い時期におけるMPDの一つの例と言えるかもしれない。

 

P206

 MPDの原因は、幼児期の外傷体験、それもそのほとんどが性的に虐待された経験であるように思われる。こうした障害が性的虐待に根をもつことが、10:1(女性:男性)という性比の主たる原因になっているのかもしれない。

 

P207

 ここまでの分析からすると、性的なものであれそうでないものであれ、虐待は結果的に恥を生み出すと結論するのが自然だろう。生み出された恥があまりにも強く苦痛に満ちたものであるため、それを変容させる必要が生じる。恥を回避しようとするプロセスの中で乖離は生じてくるのである。先に論じたように、恥を経験した際、自己は、それ自体を、恥じ入った自己から分離させようと試みるということを思い起こされたい。その分離のさせ方については、すでに多く述べたが、それは実に多岐にわたるものである。その中でも最も容易な方法には、忘却と笑いが伴う。より激しい方法には情動の入れ替えが伴い、そして最も激しい方法には自己の分裂(splitting)が伴うのである。M P Dの原因についての考察は、われわれに、外相的なそして長く引き伸ばされた恥の経験が極端な形の乖離、すなわち自己の断片化をもたらす可能性があるということを教える。

 私は恥と乖離のプロセスの間に何らかの体型的な関係が存在すると考える。単純で短い恥の事例に関して言えば、その乖離のプロセスは自身の過ちを他の自己とともに笑い飛ばすという程度に穏やかなものであろう。より激しい恥の経験になると、乖離のプロセスはより複雑になり、情動の入れ替わり、すなわち抑うつや激怒が生じてくる可能性がある。恥の経験が最も激しくなると、きわめて強度の乖離、つまりM P Dが生じてくる。ただし、私は、この極端な形の乖離がどんな人にでも生じ得る性質のものだとは考えない。この障害の発生の基盤に何らかの素因的な要素が絡んでいる可能性がある。それがいかなる性質のものか、現在のところ知られていないが、今後の研究課題としても興味深いものである。幼児期に極端な、そして長期にわたる外傷体験をもった個人が全てM P Dになるというわけではない。長期にわたる、非常に強い恥から逃げる、他の逃げ道、たとえば他の精神病や自殺なども可能性として考えられる。

 

P209

 [①は外傷体験が単一の統一体を崩し、新たに分裂状態を作り出すという考えであるのに対し、②はもともと複数状態としてある自己の分裂に拍車をかけるという考え]。

 

 

P210 第10章 恥の個人差と夫婦間の恥

 ある人たちは、他の人たちに比べて、より恥を経験しやすい傾向を備えているように見える。失敗をいかに解釈するか、そしてそれに対する自分の責任をどれだけ認めようとするかというところには人による違いがあるため、当然、恥にも個人差が存在することが想定される。

 恥は自然に生起するものである。人間が経験し得るあらゆる情動と同じように、恥もまた重要な適応的意味をもつ。われわれは、個人としては、恥を経験したいとは思わない。しかし、集団という立場で考えると、恥が存在しない世界で生活したいと望む者はほとんどいないだろう。さらに、恥を経験することを通して、われわれは、自分の行動を選択したり、自分の行為や自分自身に焦点化したりすることができるので、恥は、われわれが何者なのか、どのような存在になりたいのかを定義づけるのに寄与していると言えるだろう。たとえば、自分がある行為を恥じているということを認めるに至ったとき、患者は、自らの振る舞いを変えようというきわめて強力な動機をもつことになるのである。

 

P215

 私は、200人以上の学生に、恥が引き起こされやすい状況について尋ね、いくつかの興味深い性差を見出した。男性の場合、恥が最も引き起こされやすい状況は、二つのカテゴリーに分けることができた。一つは、自分が重要と考えている仕事や課題の失敗である。そうした仕事や課題は、私が中核的能力と呼ぶもの、すなわち、自己の定義づけに重要な意味をもつ能力に関係している。もちろん、そうした状況は人によってさまざまであるが、その中には、多くの場合、学校の成績やスポーツの出来、またお金を稼ぐなどの活動が含まれる、男性における恥を引き起こしやすい二つ目の状況は、性的な能力である。これもまた人によってさまざまであるが、その中には、多くの場合、早漏、インポテンツ、また女性側からのデート拒否などが含まれる。

 女性についても、二つの状況カテゴリーを見出すことができる。一つは、身体的な魅力である。これについては多くの研究者が女性にとって重要な特徴であることを見出している。身体的魅力は、外見や、自らを人目に晒すことと関係している。この点において、先述した困惑(てれ)の研究で、われわれが、女児が男児よりも困惑(てれ)を示しやすく、またその差は生後2年目の終わりごろにすでに現れることを見出したことは着目に値する。その研究では実験者が子どもたちの外見を褒めた。褒められたとき、女児は男児よりもはるかに多くの困惑(てれ)を見せたのである。この生後22ヶ月時点における知見は、そのころに、女性が自ら身体的自己に注意を向け始める出発点があることをうかがわせる。

 女性の恥を引き起こしやすい二つ目の状況は、仲間、ボーイフレンド、夫、子どもなどの対人関係場面での失敗である。明らかに、この状況は、さまざまなものを含む、かなり広いカテゴリーであると言える。それは、女性が、対人関係に興味や関心を抱いていることの反映である。この点において、ギリガンが記述しているように、女性の道徳的感覚が、内的基準やルール以上に、他者との関係、また他者がいかに感じ反応するかということによって影響されているということに、注目することが重要である。したがって、女性の道徳的基準は、彼女たちにとって恥を引き起こしそうな状況のタイプと密接に関連している。興味深いことに、対人関係場面での失敗は、男性でも、恥を引き起こす状況としてしばしば挙げられるのだが、男性の場合、全体的にあまり高くは評定されない[重要視されない]のである。それは、男性の反応の上位4番目までに入っていない。

 恥を引き起こしやすい典型的な状況における性差が、社会化の性差を反映したものであると信じる一方で、私は、そこに社会生物学的な力が関与している可能性も無視できないと考えている。たとえば、女性の身体的魅力や男性の性的能力は、両方とも恥を引き起こしやすいものであるが、それらは、繁殖上の成功に関係している可能性がある。

 しかしながら、さらなる社会生物学的証拠が見出されるまでは、性差に関わる社会化の要素が、恥に見られる男女の違いを最もよく説明するものと言えるだろう。男性が、経済システムの中で競争するために攻撃的な行動に価値を置くのに対し、女性が、家族や親族の世話をしたり、生活上の中心的価値として、他者との絆や他者を愛することを重視するよう方向づけられて生育することは明らかであるように思われる。また、他の社会化の要因も、考察されてきた。

 

P217

 女性は、男性に比して、対人的感受性が強く、対人的な葛藤や困惑が生起する状況で、関係性の維持に重きを置く。女性は、他者の情動や心理学的防衛をより適切に解釈することができ、またより共感的である。さらにまた、女性は、自らの他者に対する攻撃性に関して、より罪悪感を感じるように見える。他者の球場に対することどもの共感的反応を扱った研究のほとんどは、やはり、こうした行動に性差があることを示している。

 より年長の子どもを対象にした研究から明らかになっている、もう一つの興味深い性差は、学業に対する無力感あるいは達成志向性に関わるものである。無力感を抱きやすい子どもとは、成績目標[いい成績が取れるかどうかということ]に関心を抱き、結果的に自己全体に焦点化している子どもである。それに対して達成志向の子どもは、[成績ではなく]学習そのものに興味を抱き、結果的に特殊的焦点化を行なっている子どもである。女子は、全体的焦点化を、一方男子は特殊的焦点化をより行ないやすい傾向がある。こうした志向性の性差は、学業成績の差異を説明するかもしれない。これらのデータは、女性が全体的帰属志向性をもつこと、しかしその一方で、より他者志向的であり、また共感的であること、すなわち特殊的帰属志向性をもあわせ持つことを示しているように思われる。これは、女性の方が、男性よりも、恥と罪悪感の両方を経験しやすいという可能性を示唆する。残念ながら、初期の性差に関する文献のほとんどは、恥と罪悪感とを区別していない。女性が男性よりも共感的であるということもあり、また女性が他者に焦点化するということもあり、他者との関係における失敗によって、女性は自分自身に対する悪い感情は、より恥の経験に通じるはずである。もし、この考えが適切であるとすれば、これまで示唆してきた性差の存在も正しいものであるということになろう。

 恥の感じやすさに性差が存在するということから、興味深い可能性が示唆される。すなわち、人は、さまざまな情動的な世界に生活しており、そして、この差異が、対人的葛藤を引き起こすということである。これは、特に異性間のカップルに当てはまることと言える。なぜならば、カップルにおいては、個人差と性差の両方が、組み合わさり、対人的葛藤を助長し得ると考えられるからである。

 

P218 夫婦と二世界仮説(Two Worlds Hypothesis)

 二者関係の中における、行動の個人差が難しい問題を引き起こす場合があるが、それは、どちらか一方の人間に非があるからではなく、むしろ、そこに生じた行動を人が誤って理解してしまうことがあるからである。以下に示す例を通して、‘二世界(男と女の二つの世界)仮説’と呼ぶものについて例解することにしよう。

 

  (概略)

  けんかをしている夫婦がやってきて以下のような話をした。夫は妻に、ディナーパーティーで使用したテーブルクロスを二度と使わないでくれと言った。それに対して、妻はひどく怒り出した。彼の知らぬ間に、彼の言葉は彼女に恥をかかせていたのである。彼女は自分の失敗について全体的な帰属をしてしまい、結果的に恥を経験し、それが夫に対する怒りとして現れた。妻は、夫が彼女に恥をかかせたという意識がないことを理解しておらず、彼は故意に、自分に恥をかかせたと信じていた。夫には、妻を批判したという意識はあっても、彼女に恥をかかせたという認識はない。

 また別のとき、妻は夫に二度とその花瓶は使わないでくれと言った。夫は腹を立てるどころか、「そうだね、君の言うとおりだよ、今度は青い花瓶を使うことにするよ」と言うものだったのである。この場合、夫は恥を示していないことがわかる。失敗に対する彼の情動は、後悔の一種、あるいは可能性としては罪悪感でさえあったかもしれない。彼は過ちを犯したことを理解し、それを正そうと考えたのであった。彼の償いの言葉に対する妻の反応は、彼を混乱させた。彼女は「チャーリー、どうしてあなたは私の言ったことにちゃんと耳を傾けてくれないの?」と言ったのである。この言葉は、チャーリーには驚きだった。なぜならば、彼はちゃんと彼女の言うことを聞いたつもりだったからである。彼の反応は次のようなものだった。「リータ、ちゃんと聞けだって、いったいどう言うつもりなんだ。自分は君が言ったことを一字一句全部繰り返し言うことができるよ」。

 

 議論を交わすうちに、私は、「あなたは私の言ったことをちゃんと聞いていない」という妻の言葉が、実のところ、夫が妻のメッセージを聞いたかどうかを問題にしたものではないということに気がつくにいたった。むしろ、それは、彼女のメッセージを受け取った時の彼の情動的反応に関係していたのである。(中略)「あなたは私の言ったことをちゃんと聞いていいない」というリータの言葉は、夫が適切な情動的反応を示していない、すなわち、立場が逆になったときに自分が感じるだろう情動と同じ情動を感じていないと、彼女が思っているということをあらわす手段だったのである。チャーリーが、恥ではなく、後悔や罪悪感を経験していることが、リータには理解できなかった。なぜならば、彼女は、その場合、後悔や罪悪感を、正当で有意味な情動であるとは考えていなかったからである。余談になるが、男性が、彼らの妻が「あなたは私の意言うことを聞いていない」という表現を使うと広く報告していることは、興味深いことである。私は、この言葉、情動の共感的な理解ができていないことを反映しているのだと確信している。

 

P221

 なぜ人は、特別に親密な絆で結ばれているような人たちでさえ、お互いの情動状態をちゃんと理解したり、解釈したりできないのだろうか。(概略)「1つの理由は二人のうちどちらかに精神病理がある。もう一つは共感しようとする姿勢が欠けている。」しかし、こうしたことはあまりありそうにない。私は、共感性の欠落ではなく、共感のプロセスそのものが誤った解釈を導くのだと主張したい。たとえば、リータは、実際に恥を経験しているわけだが、彼女は、チャーリーもそのことに気がついているはずだと誤って思い込んでしまっているのである。こうした思い込みがあるために、彼女はまた、彼がわざと自分に恥をかかせているのだと考えるようになり、そして夫の攻撃的な行動に対して腹を立ててしまうのである。それとは対照的に、チャーリーの方は、彼の共感的なプロセスを通して、自分がリータをけなしたときに、彼女が後悔や罪悪感を感じているはずだと考え、彼女に、特定の行為に対する償いを期待してしまうのである。彼は、自分が彼女に恥をかかせたことに気がついていないし、また自分の単純な提案に対して彼女が怒っていることも、自分が耳を傾けないことに彼女が不満をもっていることも理解していないのである。結局、彼らの共感的な姿勢が、対人的葛藤を緩和するのではなく、それどころか、むしろ増大させている可能性が高いのである。

 

 →他者からの批判に対して、怒りを覚えるということは、恥をかいていることの証明だということ。批判を受け入れているなら、後悔や罪悪感を示す行動や態度をとるだろうし、受け入れられないなら、相手の批判に非があることを説得しようとするのではないか。怒りの言動や態度を現すのは、批判を受け入れたかどうかという段階より前の、批判されたという事態の段階で認識が止まっている可能性がある。

 

P222

 すなわち、二者関係は、どちらか一方の特定の病理によってではなく、むしろ、成員が‘二世界仮説[それぞれに別々の心理的世界があること]’を適切に理解し、また切り抜けることができないことによって、しばしば、まずい事態に陥るのである。(中略)(こうしたケースで)必要となることは、ここで展開したような種類の分析であり、また説明である。なぜならば、こうしたケース、および個人的な友人やカップルに関わる他の諸ケースにおいて、顕著なことは、いったん(分析を通して)理解が成立すると、そうした誤解は容易に修正されるということである。

 

P223

  夫とその妻が、ある知的な発想について熱のこもった議論を楽しんでいる。彼らは、大きな声を上げて、精力的に論を闘わせている。議論に夢中になると、彼らはそれぞれの自分の立場を擁護するようになる。そして、議論の途中で、妻は突然言うのだ。「なぜ、あなたは私にそんな言い方をするの?」

 

 今議論をしているトピックから、自分たちの関係性に焦点が移ることは、そこに恥の経験が絡んでいることを意味する。私は、こうした焦点の移行を相互作用の個人化(personalizing the interaction)と呼ぶことにする。二者のうちの一人が、議論そのものに焦点化するのをやめて、二者間の食い違いに焦点を合わせ始めるのである。食い違いに焦点が移ると、今度は、それを引き金に自己評価プロセスが働き始める。ここに挙げた例では、おそらく、男性の主張にあまりにも熱が入りすぎ、あまりにも大きな声が張り上げられるようになったのだろう。女性は、夫の言葉の内容に焦点化するのをやめ、彼の言葉の調子に心を留め始めるのである。次に、彼女は、その言葉の調子が(実際はそうした意図がなかったにせよ)自分に対する彼の蔑みを表していると判断し、そして恥を感じてしまうのである。一方、夫は、そうした彼女の内的な変化にまったく気がつかず、彼女からの突然の言いがかりに対して、まったく無防備な状態でいざるを得ないのである。それは、彼にとってみれば、どこから降ってわいたかわからない、まさしく青天の霹靂のようなものである。もちろん、夫の加熱した議論および妻の‘個人化’が基盤になっているわけだが、結果として起こる、こうした食い違いは、彼らがお互い情動生活について無知であることに起因しているのである。

 

P224 男女間の心理戦

 私が夫婦関係に関して気づいた、こうした性差は、もっと一般的な者であるように思われる。男性は、女性が敏感すぎると思い、一方、女性は、男性が攻撃的すぎると思う。こうした異なる見解は、恥に対する反応の性差を基盤として生じている。女性が入らない、男性同士の相互作用を考えてみよう。集団の中にいる男性によく見られる特徴は、彼ら自身の報告するところによれば、男性同士の間で頻繁に(直接的な攻撃という意味ではなく)攻撃‘的’行動が生じるということである。若い男性の間では、こうした攻撃的行動が、よく“ランキング(ranking)[一種のからかい]”と呼ばれてきた。ランキングとは、他者に粗野なことを言ったり、あるいは他者をばかにしたりすることである。私はニューヨークで育ったが、その当時、若い男性は、仲間との集団的相互作用の一部として、他者に対していかにこのランキングをし、また自分に対するランキングをいかに受け入れるかを、学んでいた。私は、こうしたランキングが引き金となって、男だけの仲間のうちで直接的な攻撃が生じた事例をほとんど思い出すことができない。こういったことが正しいかどうかを確かめる証拠はないが、私は、ランキング恥を誘発するものではないのだと思う。それは、ランキングそのものの性質が元来そうしたものではないからかもしれないし、また、男性が失敗について全体的帰属をしないように訓練されているかもしれない。男性の中には、こうした種類の行動をいっこうに嫌なものだとは思わない人たちがいるのである。実際、多くの男性は、むしろ、それを楽しんでいるのである。ランキングは、青年期の女性でも、成人期の女性でも生じない。もし、そうしたランキングが生じたとしたら、それは、人の気分を害し、また傷つけるものとみなされるだろう。女性は、ランキングを、礼儀に反したことだと考える傾向がある。なぜなら、それは、恥や屈辱など、悪い感情を誘発するものだからである。

 

 →仲間うちにおける「ランキング(からかい)」は親密さの確認。だが、もし男性が失敗について全体的帰属をするように養育されたら、恥をかく要因になってしまう。少なくとも、女性はそう思っている。女性にはランキング習慣(文化)がないし、全体的帰属をしやすいから。また、仲間うちでランキングをする分にはそれほど問題ないが、意識せずランキングを仲間以外でやってしまうと、ランキングをされた方は侮辱されたと思うのではないか。これが、中世の「笑う─笑われる」の根幹にあるのではないか。金閣寺・北野社騒動はランキングを部外者におこなったため、大騒動になった可能性がある。

 

P226

 特に、私は、男性が女性よりもよく発言するのは、男性が攻撃的だからではなく、自分の言動の失敗に対して全体的な自己評価をあまりすることがないからだという考えを提示したい。自己をさらけ出すこと、および帰属に関する性差を基盤にしたこうした分析が、妥当なものであるとすれば、男性にとっての失敗は、女性のそれよりもあまり深刻な結果をもたらさないということになる。

 

 →かりに、女性の方が言動の失敗に対して全体的な自己評価をすることが多いなら、自殺者数は女性が多くなりそうなものだが、実際は男性の方が多い。これはどういうことか?女性は抑うつ的になりやすいが、男性は怒りやすい、攻撃的になりやすいからか?

 恥が何に由来しているかによって、自殺への影響度が変わるなら、結局、恥が原因ではなく、恥を引き起こした原因が自殺の原因ということにならないか?むしろ、その恥を引き起こした原因に共通する何かを見つけることが大切なのではないか?

 

 

P231 恥の世代差と性差:エディプス神話再考

  息子と母親

 司書に母親と息子の関係について考えてみよう。私は、母親の息子に対する社会化(しつけ)の実践が、恥の露な感情表出を促すよう、また恥が認め難い場合は、怒りよりも悲しみを表出するよう、仕組まれていると考えている。男の子は、これと同時に、男性役割についても社会化を受けているので、親子の間には、自ずと相容れない不一致や葛藤が生じてしまうはずである。つまり、母親の方は、あまり意識することなく、息子に恥をより多く表出させたいと考えるのに対し、息子はできるだけ恥を感じたくも、また表出したくもないのである。こうした葛藤はさまざまな形をとるわけだが、その最終的な帰結は、それが息子を母親から引き離すということである。母親は息子を“赤ん坊のように扱い”、また、ずっと自分に依存させておきたいわけだが、こうした母親の態度に対する息子の反応表出は、こうした葛藤を物語っているかもしれない。

 

P232

 男子は何とか自律性を獲得し、恥を抑えようと努めるのに対し、母親の方は、達成よりも対人関係が、また罪よりも恥が、子どもの社会生活において優位になるよう、社会化を進めようとするのである。

 

P235 娘と母親

 恥は、子どもが息子か娘であるかによって、母子間に異なる働きをする。息子の場合、恥をめぐる葛藤は、母子を引き離す。一方娘の場合は、母子間に葛藤が生じず、結果的に、恥に対する対処が、現実に母子を結びつける役割を果たすのである。こうした葛藤は、従来、親子間の性的関心との関連で議論されてきた。しかし、私は、こうした葛藤を、自己および自己非難、そしてそれらに伴う情動に結びつけて考える方を好む。

 

 

P237 第11章 烙印(スティグマ

 ゴフマンによれば、烙印とは台無しにされたアイデンティティ(spoiled identity)を表しており、また、その人が属している社会の基準に照らしたとき、その人が何らかの理由のために不完全である、とするものである。烙印という概念を定義することは容易ではないが、烙印とは、ある人が社会的な基準から逸脱している、欠陥がある、何らかの能力を欠いている、損なっている、一般には望まれていないということを見分ける印、あるいは特徴だと言える。人の逸脱した特徴は、烙印を生じさせるに十分な理由となる。

 

P238

 烙印にはさまざまなものがある。なぜなら烙印とは、健常とみなされていることが公然と破られていることであるからだ。何が健常であるかについての基準や規則はさまざまであるため、ある場合には烙印と考えられていることが、他の場合にはそうではないこともあるだろう。

 

 →結局、どういう世界に属しているかが大きな問題になる。

 

 

P241 烙印のリスト

 (概略)病気、特に癌、癩病と癲癇。身体的外見。女性にとっての太りすぎ。胸の小ささ。男性にとっての身長、筋力。外見的な醜さ。身体的欠陥、身体障害。精神遅滞。高齢。

 烙印、特に年齢の烙印は、大部分文化的に規定されていることは明らかである。若さはどの社会でも価値があるとされるが─高齢が人生の終わりを意味するというだけならばの話だが─、諸社会間に強い文化さが存在する。文化によっては高齢者が尊敬される場合もある。このことは、烙印が印をつけられた個人の中にだけあるのではなく、社会の基準や規則、目標に反映される社会の価値体系の中にもあるという考えを示している。そしてこの考えは、恥はある特定の基準や規則、目標が満たされない結果生じる、という私の見解と一致している。

 

 →社会の変化、特に制度や技術的な変化が激しい場合、高齢は烙印になりやすいか。40年ぐらい前には、老人に対する敬意がまだあったような気がする。

 

P242 世論の声

  ナスバウム嬢は、突然自動車事故に遭い、脊髄に治療できないほどの損傷を負ったが、その後で自分が考えたことをこう振り返っている。「私は、突如として、母が路上でじっと見つめてはいけないと私によく言い聞かせていた人々の一人になりました。もし病院で死ねないのなら、病院の外に出ることになるときに自殺しようと思いました」。

 

P243

 過去10年の間に、人に烙印を押さないようにするために、並々ならぬ努力がなされてきた。この努力は、言葉の用法を帰ることに対する社会的な取り組みの中に認められる。たとえば、過去には「身体障害者」「精神遅滞者」あるいは「ダウン症児」などのように、その印があたかもその人全体を記述しているような言い方がされた。しかし今では、烙印を押すことを避けるために記述の仕方を変えることに対して、同意が得られてきた。われわれは今は、「遅滞者」と呼ぶのではなく、「遅滞のある人」と呼ぶ。この言い方の変化には、この人は多くの特徴をもっていて、遅滞というのはそのうちのたった一つにすぎないのだ、という意味がこめられられている。遅滞はその人全体を定義づける印ではない。語用の変化に反映されているように、このような認識は、社会が烙印を押すことの影響を変えようとしていることを表している。しかし、こう押した語用の変化に烙印の否定的な影響を減らす効果があるのかどうかについては、疑ってかからなければならない。

 

P244

 これまでに上げたような、烙印を押すことをなくすための試み(整形・精神遅滞のある子どものいるクラスだが、そうではないと欺くような試み)は、われわれが望むほどには効果はないかもしれない。しかし州の公法PL94-142条の通過は、価値ある成果の一つであった。この法律は、公共の建物、サービス、および教育を、烙印を押されている人たちにとってもっと利用しやすいものにすることで、彼らの経験している困難をなくそうとしたものである。この法律は部分的には反対を受けており、またばかげていてコストが高くつくようにも思われる。しかしこれは、烙印を押されることの有害な影響をわれわれの社会に知らしめたのである。それでも、烙印と、烙印に対し人々がどのように反応するか、つまり、烙印を押されている人々と彼らに対し反応する人々の双方に関連する心理的条件や社会的条件を考えると、その影響力はわれわれが望むほどには大きくはないのかもしれない。

 

P245 烙印の伝染

 烙印の影響は広く及ぶ。烙印は烙印を押されている人にだけ影響するのではなく、烙印を押されている人と関係のある人にも影響を与える。ゴフマンはこの現象を、「優遇烙印(courtesy stigma)」と呼んだ。烙印は伝染する。烙印は、烙印を押された人の家族や友人にさえも影響を与える。伝染病と同じように、烙印は烙印の犠牲者にだけ影響するのではなく、その人と関わりをもつすべての人に影響するのである。

 

P247

 障害は子どもの機能に直接的に影響するだけではなく、子ども自身の恥と親の恥を通じて間接的にも影響する。子どもの発達に対する障害の影響は、烙印の直接的影響と間接的影響の双方を考慮に入れてはじめて測ることができるのだ。烙印を押されることの影響を考慮しないで子どもの発達に対する障害の影響を適切に測ることはできない。ダウン症を患う子どもが施設に入れられたとき、彼らの知的能力はきわめて下がったという。ダウン症を患う子どもの知的能力の欠陥は、染色体の異常が原因だと考えられている。ダウン症を患う子どもを施設に入れないで、家庭で通常の社会化経験を与えたところ、彼らの知的能力は改善されたという。生物学的要因は重要ではあるが、それだけが彼らの知的能力の決定要因ではない。同じように、障害に関連した烙印をノーマライズする能力が、より満足のいく発達や成果を生むことになるかもしれない。これは、家族全員の心的健康や幸福にとって、たしかに重要なことである。

 

P247 きょうだいと恥の環境

 

P250 烙印としての親

 親の烙印は、さまざまな形で子どもに影響を与える。烙印は、ある子どもたちには自己非難をもたらし、恥を導くだろう。このような問題の数例はすぐに思い浮かぶ。親がアルコール依存であるということは、たとえそのことが他人に知られていなくとも、烙印になる。しかし、とげとげしく暴力的なアルコール依存の親と一緒に住んでいる子どもは、それよりもさらに烙印を押されることになる。子どもが親の飲酒に対し責任を感じていない場合でさえも、親の飲酒は子どもの恥の原因になりうるが、もし子どもが親の飲酒の原因は自分にあると思っている場合には、いっそうそうなる可能性が高い。親に関するその他の烙印のいずれもが─たとえば親がうつである、精神病あるいは入院している、あるいは失業して生活保護を受けなければならない場合でさえも─、同様の影響を子どもに与えるだろう。このような親の子どもであるということに関連した烙印は、子どもがどの程度責任を受け入れようとするか、その程度によって大きく左右される。このような子どもたちがストレスを感じ、自分のアイデンティティが台無しにされたと感じるのは、社会的に烙印を押される問題を抱えた親をもったこと結果であるに相違ない。このような子どもにとって、恥は、親の烙印のどの特徴に対しても生じるであろう。

 

P251 烙印、帰属、恥

 私が提示してきた恥の理論と烙印との間の、唯一かつ最大の矛盾点は、社会的行為対私的行為という問題である。人前での失敗は困惑という情動との関連があるが、恥や罪悪感、さらに誇りの情動とは関連がない。これらの自己意識的情動が生じる前には、何らかの社会的行為あるいは指摘行為があるはずだ。恥は、恥を生じさせる帰属が起これば、一人の時でも生じうる。烙印は通常、社会的な逸脱、あるいは社会的な行為についてなされる。そのような逸脱を恐ろしいものにするためには、烙印は身体の外見や行為などのように、わかりやすいものでなければならない。ゴフマンは次のように指摘する。すなわち、「健常者に直に接すると、自己への要求と自己との分裂を強調することになりやすい。実際、自分と自分を映す鏡とが存在すると、自己嫌悪と自己卑下しか生じ得ない。烙印を押された人は、自分が劣っているという覚知を意識の外に追いやることができない。そしてそれはもっとたちの悪い不安定の慢性的感情、すなわち辱められているという不安を形成するのである」とする。

 烙印に関する文献は、恥が自己破壊的な情動であるとする私の関心を呼ぶ。烙印がどのように恥を生み出すかを見るために、本書の初めの恥に関する分析に戻ることにしよう。まず、自分の行動が基準を満たしているかどうかを判断するためには、基準、規則、目標が不可欠であり、これらが個人の認知能力の中に組み入れられている必要がある。基準という観点から見れば、個人がもっている烙印とは、社会で受け入れられている基準からの逸脱を表している。これはきわめて明らかなことである。この逸脱は、外見や行動、ふるまいにおける逸脱であろう。しかし、この基準に合致しない特徴をもっている場合でも烙印を押されることはある。もちろん、これらの基準は時間とともに変わり、また文化によっても変わることは十分に認識されている。それでもこのような基準は存在するのであり、見かけや行動がその基準から逸脱している人は、烙印に苦しむのだと言える。

 恥の生起における2番目に重要な特徴は、他の自己意識的情動と同じく、責任あるいは自己避難の問題である。ここで再び、烙印についての分析と恥についての分析から同じ結果が導かれる。すなわち、烙印を押された人が自分自身の状態に対して自分を責める、あるいは他者から責められる程度が、その人の恥の程度に反映されるのである。

 責任および知覚された責任という考え方は、烙印や恥について考える上で重要である。ワイナーは、最近、知覚された責任という問題について論じている。たとえば、人は自分の食事を自分で統制できると考えられるため、太りすぎている人は自分自身の状態について自分に責任があると覚知する。ワイナーは、烙印と知覚された責任、情動との関連を検討した研究を行なっている。その研究では、成人が10個の烙印について、個人的責任がどれぐらいあるかを評定した。10個の烙印とは、エイズアルツハイマー病、盲目、癌、薬物嗜癖、心臓病、肥満、麻痺、子どもの虐待者であること、ベトナム戦争症候群であった。また、被験者はそれぞれの条件に対する自分の反応を、怒りと共感という観点から評定した。結果は次のとおりであった。アルツハイマー病、盲目、癌、心臓病、麻痺、ベトナム戦争症候群の6つの烙印に関しては、知覚された個人的責任は低く評価された。しかし、エイズ、薬物嗜癖、肥満、子どもの虐待に関しては、知覚された個人的責任は高く評定された。個人に責任がないと評定された烙印に対しては、哀れみが起こり、怒りは起こらなかった。したがって、責任と自己非難、あるいは他者から自己に向けられた非難とは、非常に関連していた。このように、社会的規則には基準や規則だけが含まれているのではなく、統制可能性についての社会的論争も含まれているのである。

 

 →自己統制可能な(と考えている)見かけや行動については、責任や自己非難が生じうる。

 

P253

 責任は個人だけの問題ではない。責任には、他者によって知覚された責任も関与している。たとえば、精神遅滞のある子どもを産んだ母親は、子どもの精神遅滞に対し、自分が妊娠中に正しいことをしなかったからだとか、十分に食事を取らなかったからとか、あるいは自分の身体を気遣わなかったからだとかと、自分を責めることもあるだろう。あるいは、自分にまったく責任のない偶然の出来事だと捉えることもあるだろう。しかし、自分には責任がないと自分自身が確信するだけではなく、自分のせいではないと他者にも確信させなければならないのだ。たとえば、ある太りすぎの女性は、太りすぎがホルモンによるものであって、自分には体重を統制する術がないことを十分にわかっているかもしれない。それでも、彼女は、他者より太りすぎの責任は彼女自身にあると思っていることをわかっているので、太りすぎが彼女の烙印となることには変わりないのである。

 

 →責任はないよ、という最後の保証を誰に、何に求めるか。その誰、何が現代では科学であり、過去では神であったのかもしれない。

 

 自己で自己の責任を抱えるということは、烙印と恥の生起の重要な特徴の一つである。なぜなら、自己に対して責任が課されることがなければ、基準、規則、目標からの逸脱は、恥を生起させるのに十分とは言えないからである。烙印は、恥や罪悪感を誘発する他の原因とは異なるかもしれない。烙印が社会的外見によっていることがその理由の一部である。烙印がどの程度社会的に明白なものであるかによって、その人が責任という問題にどう折り合いをつけるかの程度が決まる。それには、自分自身に対する責任の折り合いだけでなく、自分の自己と、烙印を見ている他者との間の折り合いも含まれる。烙印を押されることで、自己と自身の帰属の間の調整が必要となるだけでなく、自己と他者の帰属との間の調整も必要となるため、烙印は恥や罪悪感のいっそう強力な誘発因になるのである。

 私が恥と罪悪感、あるいは後悔との間に設けてきた大きな違いは、「私はだめな人間だ」という表現で捉えられるように、恥においては自己全体がだめである、と考えられていることにある。ゴフマンは烙印を「台無しにされたアイデンティティ」と表現した。この表現は、烙印によって、自分はまったくだめだ、という自己についての全体的帰属が作られることを明確にしている。台無しにされたアイデンティティとは、何らかの条件あるいは行動によってすっかり台無しにされた自己全体を反映している。烙印と関連のある精神病理の大半は、烙印が個人を規定するという考えからきている。このように、烙印によって自己全体が定義づけられてしまうようになるのである。ダウン症児、あるいは精神遅滞者、あるいは太った女性といった表現はすべて、烙印が自己の特徴を規定する、という認識を余儀なくさせることを意味している。烙印が台無しにされたアイデンティティを映しているとうことは、烙印とわれわれの恥の概念とが類似していることを示しており、このことから、烙印を押すという行為そのものが、まさに恥を生起させるものだということが理解できる。烙印に関する記述の中に、自尊感情の低さやそれに伴う、行動化(acting out)についての記述が見られるのは、何ら驚くべきことではない。烙印とは、差異という考え、そしてその差異がいかにわれわれ自身やわれわれが知っている人たちを恥要らせるものであるかということを述べているのである。

 

 

P255 第12章 さまざまな時代、文化・社会における恥

 情動状態については、二つの見方がある。私が以後、普遍的立場と呼ぶ見方においては、いかなる土地、またいかなる時代でも、情動状態は等質であると仮定される。(中略)しかし恥の主観的感情は(もしそれを測ることができるとすれば)、いついかなる時代でも、またどのような文化においても、一定であるというのである。

 一方、私が以後、相対的立場と呼ぶ見方においては、情動状態は、時代、文化によって異なるものと仮定される。相対主義者は、差異を強調する。彼らは、主観的な感情状態が、何がそれを引き起こしたかということと密接に関連すると考える。どれくらいの年齢の人か、それをどのように表出するか、またそれを経験するか否かということによって、主観的感情の質が違うというのである。社会的集団をかき乱す行為に対する恥、攻撃的衝動に対する恥、課題に失敗して経験する恥は、すべて異なる感情なのである。また、10歳児にとっての恥は、大人のそれとは異なる感情なのである。

 

P256

 論理的に言えば、類似した身体的構造は、ある普遍的な特質を生み出すように思われる。たとえば、基本情動に結びついた顔の表情は、文化や時代にかかわらず、同じように組織化される普遍的な神経筋組織を基礎にしている。楽しい気持ちでいる人は、どこの、どの時代の人でも(それを外にあらわそうとする気があれば)にこやかな顔をするものである。

 私は普遍主義者である。したがって、これから、恥の状態が、時と場にかかわらず同じものであるということを示していくつもりである。私は、文化的差異に関する文献も読んだが、恥が、どのようなところであれ、自分自身の重大な失敗に続いて起こる自己非難によって生み出されるという見解を脅かすだけの反証を見出すことはできなかった。さらに、私は、恥の状態がきわめて強烈で、しかも嫌なものなので、どこの人であれ、笑い、忘却、告白、精妙な情動の置き換えなど、本書ですでに見てきたような諸過程を通して、それらを自ら除こうと試みるものであると考えている。

 

 →私は恥の研究をしたいわけではない。恥という情動の分析を通して、その背後にある社会通念を炙り出したい。

 

 普遍的でないものは、それに対する違反が恥を引き起こす原因となる、個人に内在化された基準、ルール、目標である。これらのものは、時と場によって、異なりうる。基準に適わないことに対する反応としてどれだけ自分自身に非を帰属するかということも、恥をどのように表出し、またいかに除こうとするかということと同じように、違ったものでありうる。明らかに、文化は重要な参照の枠組みとして働き、普遍的な経験にいろいろな意味を与える。

 

  一連の研究において、ハヴィランドと私は、生後3ヶ月の乳児が、見知らぬ人が接近してくることに対して、さまざまな顔の表情をすることを見出した。一般的に男児は、まぶたを下げる傾向があったが、それに対して女児は、目を大きく見開く傾向があった。同じような性差は、彼らが幾何学模様を見るときにも見出された。こうした行動は、新規なものを観察することに関連しているようであった。しかし、これらの行動はいったい何を意味しているのだろうか。

  われわれは、目を大きく見開くことが何を指し示しているかについて、大人の人たちに尋ねてみた。彼らの答えは多岐にわたっていたが、多くの人は、それを、興味、行為、受容の意志、招き、純真さのあらわれと考えているようであったが、それに対して目を細めることは、疑念、敵意、防衛、慎重さなどの意味をもっているようであった。

 

 現代のアメリカ社会の意味体系を3か月児の行動に当てはめてみると、われわれは、部分的に、われわれの(実を言えば、ゆっくり変化してきてはいるのだが)男性と女性に対するステレオタイプについて理解できるだろう。しかし、そこに、アマゾンの熱帯雨林に住む隔絶された部族の意味体系を当てはめて考えるならば、それらの行動の意味は当然異なるものになるだろう。事実、我々がアメリカの子どもに見出した目の動きのパターンは、アメリカの文化的枠組みによって分かち持たれた意味以外の何ものをも指し示さないのかもしれない。

 

 普遍的な立場と相対的な立場は互いに相容れないものではない。ある種の普遍性は、行動レベルにのみ見られるものかもしれない。そして、こうした普遍性は、文化によってとく的の意味を付与される必要がある。また、はじめから特定の意味づけをなす深層構造に、より関連しているような普遍性もあるかもしれない。しかしながら、このレベルにおいても、文化的枠組みが異なれば、当然その意味に微妙な差異が生じることが考えられる。

 

P258

 あらゆる自己は、他者の自己とともにある世界、すなわち、行為、思考、感情についての確立された基準をもつコミュニティの中に存在している。あらゆる人が、ある一群の基準に照らして、自らの行為を評価する。人は失敗すると、その原因を探す。文化的背景がどうであれ、思考する人ならば、誰しも、原因と結果を認識するものである。失敗すると、人は、その原因を、自分自身に、他者に、また自分自身が理解する世界の性質に、神あるいは神々の仕業に、運命や偶然に、求めようとする。人が、失敗の原因を自分自身の中に見出そうとする場合、そうした過失の責任は、必ず、自分自身が犯してしまった悪いことに置かれることになる。こうした自己に対する焦点化は、自己のある特定の側面、すなわち“特殊的自己”に限定される場合もあれば、自己のあらゆる側面、すなわち“全体的自己”に向けられる場合もある。

 自己システムに関する知識や信念、およびその意味は、恥の生起プロセスにきわめて重要な役割を果たす。全体的自己に対して、特殊的自己は、われわれの恥の理解にどのような影響をもたらすのだろうか。私は、これまであえて、現代の西欧文化における自己や恥について論考を行なってきた。あらゆる人間は、まさに自分自身の意味システムの中に住まう。アメリカ人は、インド人とは多くの点で異なる意味システムをもっている。これはヒンドゥ系インド人とイスラム系インド人の意味システムが異なると同じでことである。

 

P259 場所による恥の違い

 これからさまざまな文化さについて見ていくことになるが、私は、「人に関する概念は、あらゆる社会集団において認識可能な形態で存在するというのが、穏当で安全な言い方である」というギアーツの見解に賛同する。

 その意味で、ギアーツの西欧的人概念に関する見解は、有用な出発点と言える。ギアーツによれば、西欧的伝統は、人を“他者との境界をもち、独自性を備え、多かれ少なかれ統合された動機づけ的・認知的存在、また、分離独立した全体として組織化され、他のそうした存在及び社会や自然の背景と対照をなす、意識、情動、判断、行動の力動的中心”とみなしている。ヨーロッパ人やアメリカ人は、自分自身を、時と場所にかかわらず、一つの単位として、独自で、明確な境界を持った存在であると考えているのである。そして、この単位は、他の単位とは独立に定義されうるものである。たしかに、こうした自己という単位は、他の同様の単位と一緒に生活する。しかし、お互いの中に組み込まれることはないのである。さらに、それぞれの単位は、いくつかの部分から成り立っているのだが、諸部分は高度に統合されているのである。

 

  複数の自己

 人について異なる見方をすることももちろん可能である。製法的伝統を離れて考えれば、そこではむしろ、一人の人間の中に複数の自己が存在するという発想の方がより一般的である。ギアーツによれば、たとえばジャワ人は、人を対照的な二つの部分、すなわち、相互に関係しない、内(“lair”)と外(“batin”)から成り立っていると考えている。そうした内的な自己を主観的な自己、また外的な自己を自己のふるまいと分類してもかまわないかもしれない。こうした二つの側面は、相互に独立である。よい生活を送るためには、それぞれを適切に秩序立てておくことが必要である。ジャワ人は“その半分はふるまいを伴わない感情、もう半分は感情を伴わないふるまいという、二つに分かれた自己概念”をもっているのである。

 ギアーツはジャワ人とバリ人との対照を試みている。バリ人は、個人としての役割を極力弱め、また単調化するために、個人的特性のあらゆる側面を形式化してしまう。彼らは、自分自身を、独自性を備えた個人であるとはとらえず、より広い文化内におけるあるパターンの一部をなすものだとみなしている。人は、ある総称的タイプ(generic type)の典型例として概念化されていることになる。こうした総称的タイプは多岐にわたる。したがって、自己もまた自ずと多様なものになる。そこに、われわれが個人の表出や個性的な側面とみなすであろうものは存在しない。なぜならば、バリ人は、役割の結びつき(nexus)を定義し、またそれによって定義づけられているからである。彼らは、そうした役割の結びつきの中におけるさまざまな立場についての形態が付与される。バリ文化における特に顕著な特徴は、人を分類する手段としての出生順位の重要性である。そこには、1番目の子、2番目の子、3番目の子、4番目の子という、四つの出生順位がある。全ての子どもがこれらのうちのいずれか一つを付与され、そして、これがその子どもたちの生涯にわたるアイデンティティを特徴づけることになるのである。(中略)バリ社会において、出生順位は、個々人の特異な点を何ら反映するものではないとしても、アイデンティティの重要な要素として機能する。一方、ギアーツによれば、モロッコ人は、主に他者とどのような関係にあるかということによって、またどのような集団に属するかということによって、定義されるという。もっとも、彼らは、自分自身の内的自己を分割した形で保持している。

 

 →中世びとは、どのような自己をもっていたのか。自認していたかどうかはさておき、それを明らかにしなければ、恥の歴史的特徴も、自殺の歴史的要因も明確にならない。今のままでは、ありふれた普遍論になってしまう。

 

 この三つの社会それぞれにおいて、自己は異なる形で定義されている。ジャワ人とモロッコ人の自己感は、われわれ自身のそれよりも、より文化されている。バリ人は、個人としての役割を弱め、また単調化することによって、自己の特異性をできるだけ減じようと試みている。しかし、こうした重要な違いがあるにもかかわらず、三つの社会とも自己という概念、および自己に関する基準をもっている。さらに、これらの社会すべてにおいて、基準をやぶることは、自己批判や恥の経験をもたらす。ジャワ人は、“kasar”という卑俗な状態よりも“alus”という洗練された状態に達するために、自分自身の内面、外面両方を秩序立ったものにしようとする。内面に関して言えば宗教的規律が、外面に関して言えば礼儀作法が、完全な秩序に到達するために必要なルールとして機能する。論理的に言えば、内外いずれか一方、あるいは両方の側面における失敗は自己の失敗を意味し、そして結果的にそこには恥が生じると推測することができる。

 

 →中世びとは、西洋個人主義的考えが染みついた現代日本人よりも、ジャワ人やバリ人、モロッコ人などのような、自己概念が弱く、自己概念が複数あるようなタイプに近いか。とすると、現代人のような個性的な存在として、前近代人を分析するのは間違いになってしまう。それとも、むしろ現代人的自己像を前近代日本人に当てはめた方がよいのか。

 たとえば、神仏への祈りである中世儀礼は、金銭的にその遂行が叶わなければ、宗教規律的にも体裁的にも大きな恥をかくことになる。政治とは完全な秩序の実現であり、それを遂行する存在が公家にとっての理想的な自己像ということになるか。とすると、他者との違いを強調するような近代的な自己とはまったく異なることになる。

 

 

P261

 (バリ人にとっての)自己の失敗とは、役割の失敗であり、基準化された公的アイデンティティの崩壊を意味する。ここで私が強調したいことは、基準が破られ、その非が自分(自己全体、あるいはそれに関係する自己の特定部分)に帰属されるときに、また行為(あるいはその部分)よりも自己に焦点化がなされるときに、恥が関するということである。つまり、基準の内容や性質および恥の表出は異なる可能性があっても、恥が生起するメカニズムは同じだということである。

 

P262

 ルリアによる分類研究が示すところでは、前工業社会で生活する人々は、抽象的な分類能力をほとんどもっていないという。ルリアは、産業化が進む以前の中央アジアに住む農民を対象にテストを実施し、彼らが、何らかの抽象的な類似性に基づいて同じものを分類することができないということを見出した。たとえば、彼は、人々に対して異なる四つのもの(青い皿、青い花、青い空、青い布)を提示し、そして、それらのどこが似ているかと質問した。産業化の進んだ社会に住んでいる人々なら「すべて青い」と答えるだろう。しかし、農民たちは、色の類似性を無視したのだった。事実、ルリアがすべて青いということで共通していると指摘したとき、彼らはそれに意を唱え、あくまでも同じではないと主張した。変化の中に普遍性を見出す能力は、彼らにとって意味のないものだったのである。ルリアは彼らの思考のあり方を農民という生活のタイプに関連づけて考察し、彼らも高度に産業化されれば、その思考形態も自ずと変わるだろうと示唆した。

 

 →ということは、中世の農民には農民の、漁民には漁民の、職人には、商人には、武士には、公家には、…僧侶・神官には僧侶・神官の思考形態があるということか。各身分固有のものだけでなく、中世びとに共通の思考形態も存在することになる。それが何なのかを知りたい。実は、そもそも同じ時代に生きている人間だからといって、思考形態が同じとはかぎらない。同じであることを証明することだって大事ではないか。

 

P263

 一人の人間の中に複数の自己が存在するという発想は、私の恥に関する考えに関して、いくつかの興味深い問題を提起してくれる。重要な基準に関して、行為の失敗ではなく自己の失敗と評価されるとき、恥が活性化されるということを思い起こしてほしい。自己が断片化されている場合、そこにおける自己の失敗とはどのようなものだろうか。おそらく私が用いている全体的という術語は、誤解を与えやすいものということになろう。全体的という術語は、自己が単一体である場合は自己の全てを指し示すものと言い得るが、自己が単一体ではない場合は、その時々の刹那的な自己を指し示すと考えることができる。換言するならば、一つ以上の自己が存在するような場合、自己の行為の評価は、すべての存在可能な自己が包含される必要はないのである。その瞬間瞬間の刹那的な自己も失敗し、また恥を経験するのである。他の自己は、同時には恥じていない可能性がある。恥が[複数ある中の]一つの自己のみに関係している場合、恥じていない他の自己への移行が促進されるかもしれない。

 

P264 ‘私─自己’(I─Self)と‘私たち─自己’(We─Self)

 自己に関する西欧的見解には‘単一自己’(a single self)[一人の人間の中には一つの自己しか存在しない]という考えのみならず、‘独立した自己(a self alone)’[自己は他者とは独立に存在する]という考えが含まれている。ギアーツが述べているように、現代の西欧的見方における自己という単位は、他者の同様の単位と対照をなすものであり、また自然や社会の背景からはっきりと区別され、際立っているものである。西欧社会に属するわれわれは、自己が社会的結びつき(nexus)との相互作用を通して成長すると考えている一方で、その成熟した状態が、そうした社会的結びつきから独立していることによって特徴づけられるとも考えている。マーラーは自己発達の最も重要な局面が分離個体化の時期に生じると主張している。それでは、こうしたことから、いったい何がより明確になるのだろうか。今、われわれにとって、自己の丸ごと全体が、分離独立した自己であり、そして他から制約を受けない自由な存在である。この個人的な自由という発想が、恥を増大させる原因なのかもしれない。

 私が先述した文化では、すでに見たように、そこの人々やそのアイデンティティは、社会的文脈および行為が生じる文脈に埋め込まれている。私は、他の研究者の用い方にしたがって、‘私─自己’という術語と対比的に‘私たち─自己’という術語を用いてきた。個人が社会や自然の文脈に埋め込まれるという現象は、文脈が固定化された実態である時にも、絶えず変化を続ける行為のパターンである時にも、同じように生じ得る。ただし、絶えず変化し続ける行為や役割のパターンの中にある時、自己はきわめて多様な形態をとり得る。一方、固定化されたパターンの中にある時、自己はそうならない可能性がある。たとえそうであるにせよ、両方のタイプの文脈において、自己は、他の‘私たち─自己’の中に埋め込まれ、またそうした‘私たち─自己’によって定義される。

 この埋め込まれるという現象は、特にインドや日本の文化の特徴である。細かく見れば、両者に、特に達成に関する、いくつかの違いはあるが、私はその近似性を強調するものである。私は特にローランドの発想に依拠するが、シュエンダーのインドのオリヤー族に関する民俗誌的な研究や、ベネディクトの日本に関する古典的研究をも参考にしている。私には、たとえば精神的自己(spiritual self)対家族的自己(familial self)といった、相異なる自己に関する魅力的な問題を考察するだけの時間や紙数のゆとりはない。少なくとも日本人に関しては、私的な自己の秘密性がきわめて固く守られるという証左がある。ローランドは、日本でセラピーを行なっても、しばしば内的な自己がまったく吐露されないことがあったと指摘している。彼によれば、日本人の自己はまるでタマネギのようで、きわめて多くの相をもちながら、われわれ西欧人がイメージするような中核をもたないというのである。

 ‘私たち─自己’は、インドおよび日本の両国において、家族やその他の集団との強力な同一化によって特徴づけられる。家族やその他の集団の利益、名声、名誉が、‘私たち─自己’の中核を占めている。そこでの自我理想は、互恵性を基盤とするものである。すなわち、責任や義務が自己を定義づけるのである。インド人や日本人のペルソナは、権利よりはむしろ義務に基づいたものであり、また、個人の独立性よりはむしろ、‘客我としての私(me)’と他者とのつながりによって規定されている。人の個性に関する、権利を基盤に据えた考え方からは、個人の自由や分離独立性という発想が生じる。‘私たち─自己’とは共生的な自己のことであり、そこでは自我理想が、関係性の多様な階層的組織の中における適切な行為(それを礼儀と呼んでもよかろう)を中核として作られている。個人は、まず家族の中で、この関係性の階層的組織を経験する。そして、その後、特定の集団や、制度上の集団単位との相互作用を通して、より多様で複雑な階層的組織を経験することになる。アイデンティティの感覚は、こうした構造化された集団の中で発達し、確立され、また、情緒的な相互依存性によって支えられる。家族の中の子どもおよび集団の中の幼い成員が、絶対的な忠誠、応諾、依存性を示すことを期待されるのみならず、彼らもまた、他者からの養護や保護を期待し得るのである。

 ‘私たち─自己’は、発達過程の最初期から社会化される。子どもたちは、その母親から、他者の感情や欲求に極端なまでに敏感になり、また配慮するよう、育てられる。逆に、子どもたち自身の欲求は、その母親によって注意深く、気を配られ、また満たされる。‘私たち─自己’の本質は、他者への焦点化にあると言える。なぜならば、人は、他者もまた自分に、また自分の欲求に対して焦点化することを知っており、また期待するからである。土居健郎は、こうした相互的な依存性のことを“甘え”と呼んでいる。依存性が、関係の中にある一方だけではなく、両方の成員の特徴となるということが着目に値する。子どもは自らの欲求を満たすべく母親に依存する。一方、子どもの欲求充足は、母親の欲求を満たすことにつながるのである。このモデルは、家族以外の集団にも当てはまるものであり、人の自尊感情、価値感覚、アイデンティティは、個人、および個人の行為によってではなく、集団によって規定されるということになる。日本では、たとえば、自尊感情の高低が、自分の得る収入額よりも、自分の属する特定の学校、大学、会社をもとにして決まるのである。個人よりも、集団が、成功か否かを表す指標になっているのである。

 

 →母子関係の例は、互恵関係と何が違うのか。互恵関係だけで言えば、普遍的な関係ではないか。家族集団と、それ以外の社会集団の区分けが、より明確になっているのが西欧だということか。

 帰属集団が指標になるという感覚は、「平家にあらずんば人にあらず」という感覚に似ている。大なり小なり、中世びともこうした感覚をもっていたのか。

 個人のみの力ではどうにもならない生活環境であるがゆえに、帰属集団を優先する社会になったのか。そんなものはどこでも一緒ではないか。いや、やはり違うのか。

 

P266

 恥は、‘私たち─自己’の周辺で生起することになる。‘私たち─自己’とって最も重要な基準は、摩擦や敵対を避け、調和的な関係性を維持することである。これは中核的な自己価値である。日本人は、こうしたことでつまづくと恥を経験する。たとえば、母親が子どもの欲求をうまく察してあげられない時などである。子どもたちが自分自身のことをあまり考えないように教え込まれることを考慮すれば、こうした母親の失敗は、特に問題となる例であるといえよう。子どもたちは、自分自身のことを気にかけない分、他者の感受性に依存するところが大きいのである。したがって、他者の側の失敗は、きわめて恥ずかしいものということになる。もちろん、失敗は、階層的に組織化された社会構造や集団との関係が問題になる場合、いかなるところでも生じ得る。恥はインドでも日本でも、子育てにおいて子どもを統制しようとする際、その最高の手段の一つとして用いられる。子どもが悪いことをすると、直ちに、辱めを受けるか、あるいは他の形の懲罰を受ける。良い行ないをした場合は、微妙な非言語的表現を持って受け入れられる。表立った賞賛は極力避けられる。なぜならばほめそやすことは、不謹慎なことであるのみならず、‘私たち─自己’に焦点化することを助長してしまうからである。

 

P267

 少しの間、恥の生起に関わる一般的な原則について振り返ってみることにしよう。まず第一に、自己というものが、この場合は‘私たち─自己’と定義されるものが、存在していなくてはならない。第二に、一群の、基準、規則、目標が存在しなくてはならない。日本、インドとも、そこでは社会的規則が認識されている。第三に、自己は規則を破る必要がある、しかし、‘私たち─自己’は規則を破るということがそもそもあるのだろうか。ここで、私の議論はより複雑になる。まず何よりも、人が‘私たち─自己’の定義を持つような場合でさえ、その人は何らかの分離独立したアイデンティティをもっているに違いない。すなわち、ある事柄が、‘私たち─自己’の一部として取り込まれた他者に対してはふりかからなくても、‘私たち─自己’の方にはふりかかる可能性があるということである。これについての好例を、シュエンダーが触れている、インドのオリヤー族の月経をめぐる社会的規則の中に見てとることができる。

 

P268

 自己の大部分が‘私─自己’よりは‘私たち─自己’によって規定されるとしても、他者との境界を持ち、独自性を備えた‘私─自己’は括弧として存在しているのである。明らかに、汚れ、そして触れば他者を汚せるのは、他ならぬ‘私’である。われわれが相互に触らない場合は、‘私たち’ではなく、あくまでも‘私’が汚れているのである。結局のところ、‘私たち─自己’が優位にあるとしても、‘私─自己’はあるレベルにおいて確実に存在し、時に失敗を犯し、恥を経験するということになるのである。

 

P269

 日本人にとって最も重要な基準は集団の基準である。基準が集団のものではない場合、その違反はあまり恥ずかしいものにならない可能性がある。したがって、集団の文脈で恥ずかしく感じられるふるまいが、そうではない文脈で生じると、あまり恥ずかしくないということがあり得る。攻撃や激しい怒りについて考えてみよう。集団においては、これらは耐え難いものなので、その表出は恥ずかしいものである。しかしながら、そうした表出は、集団外でも生じ、そして、その場合は悪いことだとは考えられない可能性がある。集団の内と外で事情が異なることは西欧人にとって厄介である。それというのは、西欧人にとって、理論的な意味で、何が不適切なふるまいかということに関する感覚は、集団の内か外かということによって別段変わるものではないからである。こうした集団の内と外での違いは、極端に儀礼化され礼儀正しいように見える日本の文化に緊密に結びついた怒りの現象をもうまく説明するように思われる。ローランドは、日本の文化においては、人が、‘私たち─自己’や‘甘え’社会的規則の違反によって引き起こされた怒りの感情を[そのまま露わにするのではなく]自分から強く切り離そうとすることを示唆している。彼らの依存性や自己愛的欲求はきわめて日常的なものであるため、互恵性の期待が裏切られたり、互恵性が軽んじられたり、欠けていたりすると、相当な怒り(西欧人にとってみれば恥の入り交じった怒り)が生じる。日本の文化では、こうした怒りの感情が、集団外に対する攻撃的行動(彼らの好戦的な歴史)、および経済競争や勤勉な労働(現代の歴史)として現れているのかもしれない。インド人についても、ローランドは、抑圧された恥や怒りが、ヒステリー的で脅迫的な症候に結びつくことを示唆している。事実、激しい怒りを噴出させることはめったにないが、それが生じると、彼らは一時的健忘状態に陥ってしまうようなことがある。

 もちろん、日本人は、インド人とは多くの点で異なっている。恥の議論に関して取り上げて然るべき違いの一つは、達成に関するものである。多くの日本人は、多くのインド人よりも、達成志向的である。彼らの達成への欲求は、恥によって強められている。日本文化、インド文化とも、母親は、子どもとの間に強く共生的な情緒的関係を形成するが、日本においては、愛情や敬意の印として、何かを達成したり遂行したりすることに、母親が強く執着するのである。したがって、失敗すると、子どもは非常に恥ずかしい状況に置かれることになる。というのは、それは、子どもたちが‘私たち─自己’の関係において失敗することを意味するからである。

 

 →公の法律に違反する反社会的集団内に独自のルールがあるようなもの。反社会的な人間は、国民の一般的な倫理観に違反してもなんとも思わないが、その集団内における基準に違反すると、その世界では生きていけない、あるいは劣等のレッテルを貼られるので、スティグマを押されるので、恥を感じるということ。田舎の互助組織内では年長者を立てることが求められるので、失敗を批判することは遠慮されるが、営利を純粋に追求する企業であれば、失敗は誰であろうと遠慮なく批判される。

 

P270

 恥は、自己とは何かということに関して異なる概念を持つ文化でも、明らかに見られる。恥は、どのように定義づけられていようと、自己が中核的基準を破り、そしてその失敗に対する非難、より正確に言えば、自己の行為というよりも自己そのものに焦点化された非難を受けたときに、生起するものである。恥は、自分が非を犯したのちに生じる行為、すなわち償いというよりは自己そのものに関わる行為の性質によって、はっきりと他と区別され得る。自己は、その恥からの許しを求めようとするのである。恥は、それが残す痕跡からも、はっきりと認めることができる。たとえば、失敗に対して激しい怒りを見せることは、そこに明らかに認め難い恥が存在していることを物語っている。‘私たち─自己’の文化では、自己の失敗は、個人の基準よりも集団の基準に、より関係している。‘私─自己’の失敗は、他者存在の有無にかかわらず(ある基準に照らした場合の)個人的な過ちと結びついている。一方、‘私たち─自己’の失敗は、常に他者の存在を伴う(ある基準に照らした場合の)集団的または家族的過ちの中での自己に結びついている。非難を自分の内面に、あるいは自己に帰属することは、‘私─自己’、‘私たち─自己’、いずれの文化においても、また、自己が単一自己の場合でも複数自己の場合でも、明らかに生じるのである。現時点ではあまり十分な情報をもたないが、[複数ある自己の中の]ある一時的な自己が、その時の基準からして何らかの失敗を犯した場合に、その非難を受け入れ、現在の行為よりは、現在の自己に関わる帰属を成し得るようなことも確かに存在するのである。[複数ある自己の中の]現在発動されている自己が、特に、その直面する状況により適切な、かわりの自己をすぐに発動し得るような場合、それをもって恥から抜け出ることが可能かもしれない。これは、さらなる研究を必要とする問題である。少なくとも、われわれ西欧文化においては、多重人格障害を通して、この問題を探索することができるだろう。

 

P271

 (概要)あなたはテスト勉強をせず、悪い成績をとってしまった。自分だけの視点に立てば、自分の過ちに罪悪感を感じるだけになる。しかし、それを母親に報告することを考えてみる。母親はそのことを知って、自分が親として失格だと感じる。彼女の視点からすると、あなたの失敗は、彼女に恥をもたらしたのである。もちろん、あなたは彼女の恥に気がつき、またそれに自分が関係していることを心得ている。今度は、あなた自身も恥ずかしくなってくるだろう。自己の相互依存性、すなわち‘私たち─自己’というものは、恥の経験を促す可能性が高いのである。しかし、あなたは恥の怒りとして表出できないものであるため、あなたは抑うつ的になるか、許しを乞うかのいずれかの選択をしなくてはならない。どちらの場合でも、それは個人同士をより緊密に結びつけることになり、そして許しが得られるような恥をより促進することになろう。

 

 →相互依存性が高いと、恥が伝播しやすくなる。自分の屈辱は集団への屈辱であり、集団への屈辱は自分への屈辱でもある。これは、中世の紛争がすぐに集団化・大規模化するのによく似ている。中世社会は相互依存、互恵性の強い社会だと評価できそう。同時に、中世は身分制社会であり、差別の激しい社会でもあった。こうした内部矛盾を抱えながらも集団としてまとまりをもったのは、‘私たち─自己’を優先する社会だったから、ということになるか。母親の子ども教育が、‘私たち─自己’社会を再生産したのであるなら、貴族社会・寺院社会・武家社会独自の教育がどんなものであったのかを探る必要がある。その意味で、法律の分析はかなりおもしろいかもしれない。

 

P273

 見てきたとおり、過ちの問題を解決することとしての償いは、罪悪感の印であり、恥の印ではない。ユダヤ教には雷精という概念、すなわち、生きている間の善行、悪行に応じて、善が報われた場合には天国に行き、悪が永遠に断罪された場合には地獄に堕ちるといった考えがない。ユダヤ教における報いあるいは罰は、まさにこの現世において生じるのである。

 

P280

 こうして、20世紀の半ばを過ぎた頃には、あるレベルにおける快の追及、より基礎的なレベルにおける単純な感情の追求が、個人がいかにして自分自身を定義し、また実現しようとするかを規定するようになったのである。文脈、すなわち土地や他者なしに、アイデンティティを維持することが、活動の焦点となったのである。過去に「あなたは誰?」と問われた時、われわれは「農夫、息子、ある宗教集団の一員」と答えることができただろう。今では、こうした問に応えることはより難しくなっている。かつてのラベルは、もはや真のわれわれを定義づけるものではない。われわれ自身の真実は、今や、その定義をそれ自体に求めるようになったのである。

 

P284 養育実践の変化

 歴史的に見ると、親のしつけは、同族意識を育むよう意図されていた。すなわち、親のようになり、親と同じ価値を有し、同じ社会的つながりの中に生活し、同種の仕事に従事するよう、うまく仕組まれていたのである。そうしたしつけは、わかりきった既知のものであるがゆえにうまく連なりうる特定の行為、行動、目標に中心が置かれていた。子どもが親から独立性を獲得するにつれて、親の特定の基準や規則や目標は重要でなくなる。私が農夫だとしたら、息子にもそうなることを期待し、彼に農業のやり方を教える必要がある。農業をするためには、ある情報、スキル、規則、基準が必要となる。情報を覚えられない、スキルを身につけられない、規則に従えない、基準を満たすことができないといったことは、[全体的ではなく]特殊的なことである。したがって、そこで最も生起しやすい情動は、恥よりはむしろ、罪ということになる。

 

 →ただ、基準未達を全体的自己に帰属させるような教育スタイルだと、恥を生起することになるのではないか。

 

 教えられるべきことが、特殊的なものでなくなると、あるいは、子どもの未来が不確かであるために、わかりきった既知のものでさえなくなると、そのプロセスはどれだけ違ってくるのだろう。われわれは養育の仕方をすでに変えてきている。現在、われわれの関心の対象は、個人の特質なのである。今では、基準は、何かをする(doing)ことよりも、何者かである(being)ことに関係している。焦点は、特殊的なものから全体的なものへ、言い換えれば、行為から人そのものへと移行してきているのである。そして、こうした焦点の変化は、恥の経験の増大に関連している。

 

P287

 恥に関係する問題の数が増えてきている。自己愛障害、他者に対する激怒(たとえば、それは児童虐待や無差別的な社会的攻撃として表出される)、多重人格障害の増加はすべて、恥に関係する問題が増えてきていることを示唆するものである。文化によって、恥の経験の多さや性質は異なる。今も昔も、恥を全く経験せずにすむ文化および人間というのは存在しない。文化や個人によって、経験される恥の量は異なるかもしれない。たしかに恥を引き起こす要因も、そしてまた、それにどのように反応するかということも違う。しかし、どの文化も、どの個人も恥というものを知っているのである。恥が欠如していることは、病理的である。特定の文化には、怒りや恐れ、そして、恥というものが存在しない(していなかった)ということは、ほとんど無意味なことである。Xという文化には、それらの情動に対応する言葉が存在しないかもしれないが、そこにいる人たちは確実にそうした情動を感じているのである。恥が過剰であることもまた、病理的である。恥を過剰に経験する文化は、特定の問題を抱えていることが想定される。たしかに、ある文化は、過度に攻撃的であるように見えるし、そして、その攻撃性は恥に駆り立てられたものであるといっても構わないかもしれない。ヒトラーは、ドイツ国民の恥の感覚をうまく利用することによって、力を得たのである。彼は、第一次世界大戦でのドイツの敗北およびその後の経済的崩壊を、反逆者、共産主義者ユダヤ教徒のせいだとし、ドイツの恥にピリオドを打つことを約束した。彼は、国の恥を攻撃性に変容させ、第二次世界大戦を引き起こしたのである。アメリカ合衆国は、その後も、朝鮮、ベトナムイラクに、兵を送ってきた。1991年にイラク砂漠で勃発した‘砂漠の嵐’戦争を、アメリカのベトナムにおける敗戦の恥を晒そうとする試みであると考える向きもあった。われわれは、われわれ相互においても戦いをしている。それは、殺人や自殺の高い発生率、無差別的暴力や児童虐待からも明らかである。問題の解決を望んでいるときでさえ、われわれは戦いをわれわれのモデルとして用いる。たとえば‘貧困に対する戦い’などである。われわれの高い個体化の程度が、恥の生起頻度を高め、そしてさらに、それが攻撃性へと変じている可能性がある。

 文化は時代とともに移ろう。われわれの西欧文化は、われわれが個人的自由を目指し、そしてさらにはそれを超えて自己愛に走り始めるにつれて、より恥を基盤にしたものになってきている。自己は今や客体でも主体でもあるが、それは、より恥を経験しやすくなってきているのである。そして、これと同時に、われわれは、恥をうまく吸収しうる宗教から離れてきており、そのため、われわれの多くが‘許し’を確実に得るメカニズムを描いているということが言えるのである。

 今日、われわれは、今までのどの時代よりも、より独りでいるようになり、また自分自身に焦点を合わせるようになってきている。こうした状況下において、われわれは、自分の望む者になりうる強力な自由を感じているが、それと同時に、不幸でもあるのである。成功する自由はまた失敗する自由でもある。自己は、そうした失敗に対する非難にしばしば耐えなくてはならない。したがって、恥とは、われわれにぴったりとくっついている影のように、われわれに取りつき、そしてわれわれはそれを恐れるのである。

 

 →現代において問題の数が増えているのではなく、現代においてそれらが問題だと判断されるようになってきただけではないか。いや、とある問題の増加に限っては、現代の個人的自由の追求が大きな影響を及ぼしている可能性はあるか。

 世の中に不満をもった人間が、無差別殺人を犯すぐらいなら、自殺してくれ(他人のせいにするぐらいなら、自分で命を絶て)という風潮はないか?

 

 

P288 エピローグ

  もし、私が私のために存在しているのでないとすれば、誰が私のために存在するのであろうか。もし、私がただ私のためだけに存在するのであれば、私とはいったい何ものであろうか。もし、今を尊ばないならば─いつという時であろうか。  (タルムードの言い習わし)

 

 文化は多様であり、また、時代は移ろう。ひたすら個体化へ駆り立てる現代西欧の趨勢の中で、われわれは鏡の呪術にはまってしまっている。いったん自分となり得た時に自分とは何者かを説明するのに、もし他者や文脈を用いないとすれば、われわれは自分自身を見るより他はない。自己愛およびそれに関係する障害の増加は、偶発的なものではない。水溜りに映る自分の姿に囚われてしまった、まさにナルキッソスこそが、今の時代に最もふさわしいイコンなのである。

 われわれの哲学は鏡を覗き込み、そこに写った像を定義しようとし、そしてまたそれに意味づけを行なう。おそらく、実存主義の哲学ほど、鏡のドラマを明確に打ち出しているものはない。それは、個人を、他者および文脈から明らかに切り離された形で存在する、唯一無二の独立した単一体として位置づけている。実存的な個人とは、本来、何ものによっても制約されず、また束縛されず、そしてまた定義されない存在である。そうした自己は、必然的に恥とともに存在するということになる。

 現代実存主義の最も明晰な代弁者であるサルトルは、次のように言っている。「実存は本質に先んずる」。実存主義とは個体化を正当化するものであると同時に、それの表現でも、また最終的な産物でもある。『存在と無(Being and Nothingness)』の中で、サルトルは、われわれのアイデンティティの性質およびそれが生み出す感情を分析しようと試みている。彼は、定義的な原理としての意識に注視している。人間は、その意識によって特徴づけられる。意識とは、まさに自らに対してある存在の様式である(サルトルが言うところの“対自存在(being-for-itself)”)。それに対して、(人ではない)ものとは、それ自体としてしか存在し得ない(サルトルが言うところの“即自存在(being-in-itself)”)。「意識とは、その存在が無であることを意識するという性質を持つ存在なのである」。

 サルトルの見方によれば、意識を通して得られる理解は、われわれの性質が、われわれをいかなるものにも向かわせないということの理解である。椅子は、あくまでもそれそのものとしてある即自存在である。その本質は椅子であることであり、それ自体を他の何者かに変えることはできない。それに対して、人は、「そうではない何ものかであり、またそうであるものではない」、まさに対自存在である。われわれには、本質というものがない。サルトルにとって、こうした自己に関する意識は、われわれを自由にするものである。われわれは本質によって束縛されず、われわれが望む何ものにも自由になりうるのである。サルトルにおける人間とは、何ものにも制約されず、また定義されない、まさに典型的な‘私─自己’である。

 

 →人間のこの自由のせいで、何ものになるかという悩みを強いられる。本当は自由に何ものにでもなればよいのだが、そこに社会的な価値観が割り込んでくるから、話がややこしくなるだけ。人間は自由であるにもかかわらず、自身で創造した基準によって束縛されという矛盾を抱えている。

 

P290

 サルトルの見方は、文脈を持たない人間を象徴する、なんと完全なメタファーになりえていることか! 実存主義とは、個体化を合理化するものである。私は、サルトルの見方に異を唱えるためにではなく、それが‘われわれがなったもの(what we have become)’を正当化するものとしていかに役立っているかを示すために、それを記したのである。

 しかし、サルトルでさえ、彼の存在の定義から必然的に生じる、ある種の苦悩を認識していた。たしかに、意識は自由を、われわれが望むものになり得る自由をもたらすかもしれない。しかし、この自由のために、われわれは相応の代価を支払わなくてはならない。真の自由を受け入れることは、容易なことではないのである。サルトルの哲学的貢献は、単に、われわれがいかなるものになったかを描出するだけではなく、そのなり得たものを自らの喜びとすることを可能にしたことである。個体化に伴う苦悩に耐え、それを克服することは、人間性の思考の達成である。それでは、この場合、他者の位置づけはどういうことになるのか。

 われわれの他者との関係は何の解決ももたらさない。サルトルはこの点をきわめて頑強に主張している。存在と無をめぐる不安は、‘私たち─自己’によっては解決されないのである。サルトルは関係性をあくまでも束縛とみなしていた。なぜならば、われわれは、他者の自己にとってはもの(対象)以外の何ものでもなく、そして、まさにただのもの(すなわち‘即自的自己’)として、われわれを独自のものとして際立たせている‘対自的自己’を喪失してしまうからである。「私は、他者にとって私がいかにあるかという自己を自ら理解することはできない。それは、私が、私の前に現れるもの(対象)としての他者をもとに、他者が他者自身にとっていかにあるかということを理解できないのと同じである」。

 この拘束から抜け出る道はない。サルトルが考えるように、自己は、不安を伴う自由な状態と不安を伴わない束縛の状態の間で揺れ動く。個人にとって、最も高尚な瞬間は、外に対して開かれており、独りでいるとき、すなわち自分自身の本質を決定づけるときに生じる。個人の苦悩の種は、こうした自由に対して支払わなくてはならない代価である。

 サルトルとほぼ時を同じくして活躍したフロムは、いくぶん異なる形で、現代的自己のジレンマに取り組んでいる。『自由からの逃走(Escape from Freedom)』において、彼もまた、個体化へと向かうわれわれの動向および増大する個々人の権利を、自由へとつながるものとみなしていた。彼によれば、その自由とは、政治的な観点から言うと、中世的な政教[教会と国家]の権威の終焉として定義づけられるものである。サルトルと同様、フロムが考えるところの自由によってもたらされる帰結も、他者からの分離である。自由の欠如は、帰属感という正の側面をもつのに対し、自由は、不安定という負の側面をもっている。フロムが思い描いていた人間にとっての難題は、自由に結びついた不安にいかに対処するかということである。不安を背負いこむことで、人は自分たちの自由から逃れようと試みる。この逃走は、しばしば、大義やリーダーや国家への盲目的な献身につながる。鮮やかな明解さをもって、フロムは、自分の孤独な状態や不安に苦悩する人たちが、不安を避けるために自らの自由を放棄するありさまを描き出している。

 

  自由は、近代人に独立性と合理性をもたらしたが、その一方で個人を孤独に陥れ、そしてそれゆえに個人は不安で無力な存在となった。こうした孤独は耐え難いものであり、そこで個人は、こうした自由の重圧から脱し、新たな依存や服従へと逃げ込むか、あるいは、人間の独自性および個性に基づく肯定的な自由を最大限に実現すべく、あえて直進するかのいずれかの選択を迫られることになったのである。

 

 →中世における被差別民、障害者、寡婦、孤児など、身分外身分と呼ばれるような存在でさえ、寺社に帰属し集団化するのは、孤独や不安という苦悩を避け、生きていくためには仕方なかったということか。集団から逃れれば自由は得られるが、孤独や不安とともに生きていかなくてはならない。恒常的な身分差別を受け入れるか、生の不安を受け入れるかの2択になるわけだから、当時の人々の生活は、過酷だったと評価できる。中世の放氏が刑罰になるという事態は、中世社会で命をつなぐことがいかに難しいか、孤独や不安がどれほど過酷かを示していることになる。

 

P292

 フロムが考える解決策は何か。それは、ロジャースによっても示された、自己実現の模索である。ここで、彼の分析は、完全な自由(‘私─自己’)を求めるあらゆる人の場合と同様、失敗しているように思える。フロムによれば、自己実現には、「思考という行為のみならず、人間のパーソナリティ全体の実現、すなわち情動的および知的な潜在的可能性の能動的表現も伴う」。こうした潜在的可能性はわれわれすべての中にある。自由へと至る道筋は、「全体として統合されたパーソナリティーの自発的な活動の中に存在する」。しかし、これがたとえ真であるとしても、処方的な意味での助けにはほとんどならない。フロムは、自発性が統合的パーソナリティに至る足掛かりであり、また、愛こそが自発性の至上の要素であると示唆するとき、われわれをある定義へと近づける。彼が、こうした発想にいかにたどり着いたかについてははっきりしないが、とにかく彼はこうした発想を打ち出しているのである。しかし、彼のいう愛とは「自己が他者の中に融合してしまうものとしての愛でも、また他者を所有するという意味の愛でもなく、他者を自発的に肯定すること、およびそれぞれの自己を保持した上で他者と結び合わさることとしての愛である」。

 こうした愛は複雑である。なぜならばそれは、自由や分離独立性の不安から生じていながら、結果的に「個性が排除されない形で一つに結び合わさる」というものだからである。結局のところ、フロムの示唆は、‘私─自己’を維持するために‘私たち─自己’の絆が必要になるというものである。これは、かなりの困難を伴う解決策と言える。フロムにとって、個人的自由(liberty)という発想は、きわめて重要なものであるため、いかなる形態であれ、その放棄は不安を伴うものになると把捉されていることを忘れてはならない。そうであるにもかかわらず、彼は個人の分離独立性ゆえに生じる不安を克服するために‘私たち─自己’が必要になることを理解していた。

 愛の他に、彼は、別の方法、すなわち仕事に打ち込むということも示唆している。彼における仕事とは、有意味で創造的な活動のことである。しかし、すでに見たように、愛と仕事は、所詮、幻想であり、また一時的なものでしかないのかもしれない。

 

 →そもそも、愛も仕事も他者と他者の価値観・基準を必要とするわけだから、完全に分離独立性を保つことなどできない。

 

P293

 ある文脈や複数の文脈の集合の中に位置づけてみるとき、人は最も定義されやすいという事実を受け入れることなく、人間の性質を理解することは不可能である。文脈から切り離された人間の個性の唯一の側面は、われわれの生物学的雑音、すなわち、自己制御や適応の諸機能にかかわる、身体が発する音である。しかし、それを見出しても、ほとんど意味がなかろう。人間という種は社会的であり、われわれの定義は、社会的なつながりの中にこそあるのである。独りでは、何も理解すべきことはないし、また、そうするためのいかなる方法も存在しないのである。

 

 →われわれの知りたい人間の性質は、生物学的なものではない。

 

 興味深いことに、多くの論者によって実存哲学の祖とされているキルケゴールは、この問題に対する解放を見出していた。今、私がキルケゴールに目を向けることは、奇異でもあり、また適切でもある。奇異だというのは、彼がいっさい友人や仲間をもたずに孤独な生活を送っていたからである。彼は醜く、それを恥じていた。彼はさまざまな筆名でものを書いている。ある意味では、彼は、彼の自己の分身とも言える、そうしたさまざまな名前の想像上の人物に囲まれて過ごしていたのかもしれない。彼がものを書いていたのは150年前のことであるが、孤独に関する彼の記述には、現代のわれわれの状態を予見させるものがある。彼は役割や文脈から離れようとすることが、独立性の獲得や個体化につながると主張していたのである。

 キルケゴールは、何ものかに対する積極的傾倒がなくなるとアイデンティティの喪失が生じると主張している。役割、そして関係性は、そうした傾倒を通してこそ、維持され得るのである。積極的な傾倒を欠くと、それがアイデンティティの問題を引き起こす原因となる。「自分の世界を規定するような積極的傾倒は、単に私に違いをもたらすだけではない。それはまた、私の中の他のあらゆるものが私にどのような違いもたらすかについて教えるのである」。したがって、われわれを定義づけるものは、まさに積極的な傾倒であり、自らを今ある私に傾倒させることによって、われわれの過去は有意味なものとなるのである。

 キルケゴールは、[われわれがそうして然るべき]規範を示すと同時に、ある種の逆説も示している。われわれは、通常、有意味な過去が未来に対して何らかの意味を創造するのだと信じている。われわれが今そのようにある姿は、われわれが過去そのようにあった姿に遡及して考えることができる。現在に傾倒するためには、われわれは自らの過去における傾倒について知らなくてはならない。キルケゴールは、この通常一般の考えを、逆転させている。彼によれば、現在や未来に意味をもたらすのは過去ではなく、現在こそが過去に意味を付与するのである。「過去の出来事が、現在の私の何ものかに対する傾倒を規定するのではなく、むしろ現在の傾倒こそが、私の過去の出来事について解釈をもたらしてくれるのである。同時に私の何ものかに対する傾倒は、他の誰かのではなく、私自身の過去の出来事に意味を当てるものでなくてはならない。傾倒するすべての対象が、こうしたことを可能にするわけではないことは明らかであるように思われる」。

 

 →歴史研究の意義でよく聞く話。そうすると、過去に関心をもたないということは、現在に関心がないことになる。

 

P294

 キルケゴールは、こうしたプロセスを“本質的随伴性(essential contingency)”と呼び、それこそが自己を有する人間の証であると主張している。キルケゴールにとって、何ものかに傾倒できないことは、虚無感を引き起こすものである。それにもかかわらず、われわれは、アプリオリに、ある傾倒が正しいもの、すなわち、本質的随伴性につながるものかどうかを知り得ないために、積極的に何ものかに傾倒することを恐れるのである。実存的なジレンマは、虚無と不安のどちらを選択するかということである。われわれは、反対の立場にも、賛成の立場にも立ち得るのである。

 サルトル、フロム、キルケゴールの自己に関する見解は、恥について何を教えてくれるのだろうか。第一に、個体化や個人的自由にはコストが伴うということである。古い秩序はわれわれを相互に結びつけ、われわれの行為を制約する一方で、われわれを定義づけてくれる。こうした定義がない場合、たしかにわれわれは自由であるが、見方を変えればそれはただあてなく漂っているに過ぎないのかもしれない。これこそが実存的存在の逆説である。第二に、自由は、自己意識を、自己の定義的特質とする。「私は私である」という言い方が、自己というものについての他のあらゆる言い方にとってかわったのである。第三に、自己意識によって恥およびそれに関係するあらゆる病の生じる確率が増大し、また人間相互の絆の欠如によって、われわれは許しを求めるすべを失ったのである。恥は、もはや耐えられるものではなくなり、われわれは新たな秩序、あるいは享楽や自己陶酔の世界に逃げ込むようになってきている。新たな秩序を求める場合、それはわれわれが自由を放棄することを意味する。享楽や自己陶酔に浸る場合、われわれは、すでにある自分を、ただ延々と続けていくだけである。こうした逆説的状況、すなわち自由と束縛の相剋から、抜け出る道はないだろうか。

 結局のところ、抜け出る道は、積極的傾倒ということになる。われわれは、いかなる傾倒であれ、それが正しいものであると確信することは決してできない。しかし、こうした安心感の欠落は、さほど問題にはならない。積極的傾倒は、本来、われわれを自分自身から解放するものであり、また、ある人たちと対立させることがある一方で、同様の傾倒をする他者と結びつくことを可能にする。また、それによって、われわれは、自己に陶酔する鏡の罠から抜け出ることができ、価値を共有するコミュニティの自由を享受することが可能となるのである。

 

 →結局、自由と束縛の間を揺れ動く、つまりバランスを保つことを是と認めるだけでよいのではないか。西洋人はなぜ、その中途半端な状態(中庸)を是と認めないのか。結局、この著者も西洋近代の二項対立主義から逃れられていないのではないか。

 

 

解説:『恥の心理学』の評価と問題

P352

 第三の違和感は日本を恥の文化と断定している第12章の記述に対してであろうと予想される。恥の文化を再考したいと本書を読んだ読者は「またか」という失望感を禁じ得なかったかもしれない。前章までは人間の心の作用として恥を論じていたルイスが、12章では日本人は集団主義的であるので恥を感じやすいと、例の俗説を当然のように展開するのであるから。ここでのルイスは「日本は集団主義的文化であるゆえに恥の文化である」ことを疑えない前提として、日本人と恥を結びつけようともっぱら努力している。このあたりのルイスの説明はかなり乱暴ですらある。しかし、ここで日本人論批判をするのは適当ではないし、すでに論じてもいるので(波多野・高橋、1997:高橋、1996)、ルイスのような学者ですらこのような議論に引き入れるほどに、ベネディクトやその後の文化二分法的論法の呪縛が強いことを指摘するにとどめたい。