平松ノ浦
岩城嶋小泉一方分天役浜数の事
宮にしの浦
名田弘延名内 はま 五ツ
(後筆)
名田守恒名内 はま 六ツ「今一有ト西九申」
散田貞末名内 はま 一ツ
にしはま (後筆) 半
名田田所名 はま 二ツ半「此内一ツ子細有」
にしはま (後筆)
名田下司名 はま 五四ツ「此内一ツ子細有」
(後筆)
散田公文名 はま 一ツ「今一有ト西九申」
そう路井ノ内(長ヵ)
散田□善寺領 はま 一ツ
散田物部井名内 はま 一ツ代貳百文
公文名内
散田寶蔵寺領 はま 一ツ代貳百文
わきのはま
散田御神田分 はま 三ツ代七百文
并西部一松の分
名田光利名内 はま 三ツ
名田国宗名内 はま 二ツ
散田公文名内 はま 一ツ代貳百文
一松 はま 二ツ半代貳百五十文
生名島天役はま数の事
(後闕)
*書き下し文・解釈は省略します。
「注釈」
「岩城島」
─現岩城村。岩城島の初見は、保元三年(1158)十二月三日の官宣旨(石清水文書)である。その中に、石清水八幡宮領の伊予国分として「石城島 生名島 佐島 味酒郷」が記されている。鎌倉末期の頃には、本島に、いわゆる悪党と呼ばれる在地領主が蟠踞していたらしく、延慶(1308─11)頃のものと推定される弓削島庄雑掌法橋栄実注進状(東寺百合文書)に、弓削島庄地頭代が、近くの岩木島(岩城島)と高向禰島(高根島、広島県)の悪党を率いて弓削島の百姓家に押し入り、乱暴狼藉したと記されている。室町初期のものと思われる村上図書申状(東寺百合文書)に「生口嶋地下者共ハ、去年皆々対治候了、石城島公文者関立を相語候て、彼城籠て候を、今月廿四日、公文一類無残打殺候て、海賊一向罷籠之際、弥此辺事無正体候」とあり、岩城島の公文が海賊衆村上氏の攻撃を受けて壊滅させられている。当時、この付近の島々が村上氏の支配下に組み込まれつつあったものと思われる。天正十三年(1585)十月、俊成左京進は、村上武吉から岩城島一貫二百文等を知行地として充行われているが、戦国末期岩城島は能島村上氏の支配するところであった(俊成文書)。なお、室町・戦国期頃のものと推定される伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文(極楽寺文書)から、部分的ではあるが、中世末期の岩城島の名や塩浜の存在形態を知りうる。(中略)
村の南岸中央に亀山(八幡山)城跡がある。伊予温故録」に八幡山城として「岩城嶋亀山にあり、一に亀山城といふ。明徳三年村上修理亮敬吉これを築き、天正年中に至る迄村上氏代々の居城たり」と見え、現在、海に臨む岩礁上には桟橋あるいは築城用の穴が約二十個残る。頂上には岩城八幡神社がある。島の西部にある祥雲寺(曹洞宗)観音堂は永享三年(1431)の建立。桁行5・4メートル、本瓦葺の単層、小型ではあるが唐様を主体とした美しい建築で重要文化財に指定されている。なお岩城村教育委員会には、村政・土地・海運等に関する江戸時代の史料が多数所蔵されている(「岩城村」『愛媛県の地名』平凡社)。
「生名島」
─現生名村。生名島の初見は、保元三年(1158)十二月三日の官宣旨(石清水文書)である。その中に、石清水八幡宮領の伊予国分として「石城島 生名島 佐島 味酒郷」が記されている。おそらく隣島東寺領弓削島庄同様に塩の獲得を目的として立庄された塩荘園であろう。なお、広島県廿日市町の極楽寺文書の中に、前後闕、年月日未詳、おそらく室町・戦国期のものとみられる伊予国岩城島小泉一方分等天役浜数注文があり、生名島については後闕のため内容はまったくわからないが「生名島天役はま数の事」という事書がある。岩城島の場合「宮にしの浦 名田弘延名内 はま 五ツ」などが記され、塩浜が名に結ばれ、名経営の一環として製塩が行なわれていたと思われるが、生名島の場合も同じ形態であったと推測される。なお、天正十一年(1583)十二月、俊成左京進は、村上武吉から生那島(生名島)五百文を知行地として充行われている。戦国末期生名島は能島村上氏の支配するところであった(俊成文書)(「生名村」『愛媛県の地名』平凡社)。