周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

自殺の中世史3─16 〜笑われたから殺しました…〜

  応永三十一年(1424)六月二十二日条

          (『図書寮叢刊 看聞日記』3─39)

 

 廿二日、晡夕立降雷鳴、

   (中略)

             南都

  抑此間南都有喧嘩事、去祇園会之時、田舎人酔狂有比興之事、傾城之美女咲之、

  仍田舎人其後件美女并亭主之傾城等殺害了切腹云々、依之田舎人方人大勢寄来、

  南都之土民等防戦、両方若干被討了、但巷説不審、後聞、興福寺東大寺

  両門徒確執、三ケ日合戦、両方若干被討云々、

 

 「書き下し文」

 二十二日、晡夕立降り雷鳴、

  抑も此の間南都喧嘩の事有り、去んぬる南都祇園会の時、田舎人酔ひ狂ひ比興の事有り、傾城の美女之を笑ふ、仍て田舎人其の後件の美女并びに亭主の傾城ら殺害し了り切腹すと云々、之により田舎人の方人大勢寄せ来り、南都の土民ら防戦す、両方若干討たれ了んぬ、但し巷説不審、後に聞く、興福寺東大寺門徒確執、三ケ日合戦す、両方若干討たると云々、

 

 「解釈」

 さて、近頃、奈良で喧嘩があった。先日の南都祇園会のとき、田舎人が酔っ払って悪ふざけをしていた。美しい遊女が彼を笑った。そのため、田舎人はその後にその美女と遊郭の女主人らを殺害し、切腹したという。これによって田舎人の仲間が大勢押し寄せ、南都の土民らが防戦した。両方とも多少の人間が討たれた。ただし、世間のうわさで疑わしい。後に聞いた。興福寺東大寺の両門徒に揉め事があった。三日間戦った。両門徒らは、それぞれいくらか討ち取られたという。

 

 「注釈」

「南都祇園会」

 ─東大寺郷の祇園社は、建武五年(1338)に、東大寺の「惣寺」が主導して東大寺郷に勧請。祭礼執行の初見は、『東院毎日雑々記』応永十年(1403)六月十四日条(河内将芳「南都祇園会に関する二、三の問題」『立命館文学』602、2007・11、12・13頁、http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/602.htm)。

 

「傾城」

 ─遊女。当時の遊女の家は、旅宿として利用されることもあったそうです(辻浩和『中世の〈遊女〉』(京都大学学術出版会、2017年)。今回の加害者である「田舎人」はどこからやってきた、どのような人物かはわかりませんが、おそらく祇園会見物のために泊まりがけで出かけてきた観光客だったのでしょう。

 

 

*今回の事件は、たんなる噂話(「但巷説不審」)であるかもしれないうえに、そもそも情報が少ないため、わからないことが多いです。おそらく事件の犯人である田舎人は、祇園会の最中に路上で酔っ払って悪ふざけしていたところ、それを通行人である遊女に笑われたのでしょう。見ず知らずの遊女に笑われたことが、田舎人の癇に障ったと考えられます。

 さて、今回の史料についてはすでに詳細な研究があるので、まずはそれを引用しておきます。

 

強烈な名誉意識

 応永三一年(一四二四)六月、奈良で起きた事件も、この金閣寺の事件とよく似ている。この日は奈良の町なかの押上郷の祇園会であった。この恒例の都市祭礼には毎年多くの人出があったようで、街の遊女たちや近在からの見物客で奈良の町はごった返していた。その人混みのなかで、一人の「田舎人」が「酔狂」のあまり「比興の事」(不始末)をした。この「田舎人」がしでかした「比興の事」が具体的に何であるか、残念ながらよくわからないが、たまたまそれを見ていた遊女が、ここでもそれを「笑った」。ただ、それだけのことなのだが、笑われた「田舎人」は突如として逆上し、酒の勢いもあって殺人鬼と化してしまう。彼はまず自分を笑った遊女を斬り、続けてその遊女屋の女主人をも惨殺したうえ、最後は自分自身、切腹して果てたという。彼の行為はほとんど通り魔の所業であり、これだけでも私たちから見ればまったく理不尽な出来事なのだが、このときも事態はこれで終わらなかった。やはり、事件後に「田舎人」の「方人(かたうど)」(支援者)と主張する人々(おそらく近隣住人だろう)が大勢で奈良の町に復讐のために攻め寄せてきて、奈良の町人たちと衝突し、このときは現実に双方にかなりの数の死傷者が出てしまったらしい。具体的な経緯については不明な点もあるが、ここでもさきの金閣寺の話と同じように、「笑う─笑われる」という本当に些細な問題が殺人に発展し、さらにそれが双方が属する集団どうしの殺戮劇にまでエスカレートしてしまっているのである(清水克行「室町人の面目」『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ、2006、15・16頁、その他に、同「中世社会の復習手段としての自殺」『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館、2004、38・39頁参照)。

 

 以上のように、清水著書によって事件の詳細は明らかにされているのですが、私の関心事項である「田舎人」の切腹動機については、取り立てて説明はされていません。そもそも、史料には切腹の理由や目的を語ってくれる表現が見当たらないので、八方塞がりになってしまうのですが、いくつかの推論を重ねながら、切腹の事情を探ってみようと思います。

 

 まず、確認しておかなければならないのは、加害者の田舎人が切腹しなかった場合、どのような刑罰に処されていたかです。当時の奈良では、殺人事件を起こした犯人は原則、死刑に処されていました(清田義英「中世死罪考」『早稲田法学』57─3、1982・7、269・271頁、https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8219&item_no=1&page_id=13&block_id=21、同「死罪考」『中世法華寺院法史論』敬文堂、2009、138〜150頁)。つまり、殺人事件を起こした時点で逃亡できなければ、いずれにせよ死んでいたことになります。いくら酔っ払っていたからといって、人を二人も殺害している以上、このことは頭を過ったはずです。田舎人の前には、罪人として捕縛・処刑されるという末路と、切腹によって自ら命を絶つという末路の二つの選択肢が用意されていました。選んだのは後者。では、なぜ後者を選んだのでしょうか。

 その理由を探るヒントを与えてくれるのが、以前に紹介した「自殺の中世史3─9・12」(https://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2020/05/24/094905?_ga=2.206142227.1251703596.1643531366-1091996426.1642315823https://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2020/11/08/154600?_ga=2.206812051.1251703596.1643531366-1091996426.1642315823)の事例です。私はこれを踏まえ、次のような仮説を立てようと思います。それは、罪人として死刑に処される恥を受け入れるぐらいなら、勇気や矜持を示すことのできる切腹のほうがよいと考えた、というものです。

 今回の事件は、田舎人が酔っ払って悪ふざけをしていたのを、遊女たちが笑ったことに始まります。中世びとにとって「笑われる」ということは、殺傷事件の原因にもなる大きな問題であり(前掲清水著書『喧嘩両成敗の誕生』16頁)、この事件を引き起こした田舎人にとっても、遊女たちを殺害する十分な理由になったのでしょう(注1)。この事件は、史料にもそう表現されているように、「笑う─笑われる」という出来事を発端とした、田舎人と遊女たちの「喧嘩」だった、と規定できそうです。これまでの記事でも紹介したように、喧嘩を原因に殺人事件を起こした加害者(いずれも武士)たちは、その場で自殺・切腹してしまうことがありました(「自殺の中世史3─9・12」)。そして、私はその動機を、「死刑という不名誉な死を避け、名誉の死を手に入れる目的で自殺を決行したのではないか」と説明しました。今回の田舎人も、実は同じような考え方の下、切腹したのではないでしょうか。

 

 さて、以上の推論が妥当であるなら、この田舎人はまるで武士であるかのような強烈な名誉意識をもっていたことになります。こうした状況はそれほど不思議なことではないようで、前述の清水著書によると、「名誉意識が侍身分に限定されず、僧侶や一般庶民にも共有されるものであった」と述べられています(前掲『喧嘩両成敗の誕生』28頁)。では、なぜ「笑う─笑われる」などという、現代人からすると些細な理由で殺人事件を起こしてしまうほど、室町時代の社会は殺伐としていたのでしょうか。

 この点については、すでに「恥─激怒─自殺の相関性」という記事で触れておいたのですが、そのとき私は、中世社会の特徴を次のように推測しました。

 

 ①中世びとは身分差別や序列の厳しい社会(基準の厳格な社会)に生きていたので、慢性的に恥をかきやすく、あらゆる身分の人々の自尊心が現代の日本人に比べて低い。

 ②中世びとは、恥によって自尊心が低められているがゆえに暴力を振るい、暴力を振るうことで、低められた自尊心を高めようとしている。名誉を過剰に望むのも、自尊心の低さゆえである。

 ③中世は、怒りや攻撃性が許容される殺伐とした社会である。

 ④中世社会では、恥の原因を全体的自己に帰属させる傾向があり、そのような教育がなされている、あるいはそうした思考傾向が社会に浸透しているがゆえに、恥を理由に自殺したと考えられる事例が散見されるようになる。

 

 以上の諸特徴の妥当性は、より多くの史料を博捜しながら高めていかなければならないのですが、少なくとも今回の史料からは、①「田舎人」の自尊心の低さや、②自尊心を高めようとする攻撃性、を読み取ってもよいのではないでしょうか。

 

 「注」

(1)辻浩和「中世後期における〈遊女〉の変容」(『中世の〈遊女〉』(京都大学学術出版会、2017年、356頁)によると、遊女の地位が低下して、下人(下女)化していくのは、十五世紀後半から十六世紀にかけてだそうです。今回の史料は十五世紀前半なので、少しばかり時期的に早いのですが、すでに卑賤視されはじめていた遊女から笑われたことが、田舎人にとっては許せなかったのかもしれません。

 

 

*2022.1.3追記

 1点、史料解釈を改めたほうがよい箇所が出てきました。それは、「田舎人酔狂有比興之事」です。私は現代人の常識(私個人の感覚?)で「酔狂」と「比興」を結びつけたため、「比興」を「みっともないこと」と解釈していました。つまり、「酔っ払ってみっともないことをしでかした」と理解していたのです。これは前掲清水著書もほぼ同じで、「比興の事」を「不始末」と理解しています。

 ところが、桜井英治「酔狂の世紀」(『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』講談社、2001年、240・241頁)を踏まえると、「酔狂」とセットで現れる「比興」は、必ずしも「みっともないこと」や「不始末」のような解釈にならないのです。長文になりますが、重要な指摘なのでそのまま引用しておきます。

 

 また貞成の『看聞日記』には「当座会」(とうざのえ)という言葉が頻出するが、酒で嘔吐することを当時「当座会」といったらしい。(応永)三〇年十二月に義教が貞成の伏見御所を訪問したとき、勧修寺経成(かじゅうじつねしげ)が酒宴で「当座会」に及び、貞成が室礼のために広橋親光から借用していた屏風に嘔吐してしまったが、経成がとっさに「広橋に懸けて濯ぐべし」と言ったので、一座は大いに盛り上がったという(「広橋」は広い橋に広橋親光を掛けたもの、「濯ぐ」には洗うの意味のほかに、酒宴で嘔吐した者が罰ゲームとして後日酒宴を用意する「当座すすぎ」が掛けてある。

 私たち現代人からみるといささか奇異なことだが、この事例からも明瞭にうかがえるように、当時酒宴で嘔吐することは少しも憚られなかったばかりか、むしろ最高の座興とさえ考えられていたのである。義教の時代、酒宴でよく嘔吐することで有名だったのが、関白二条持基である。彼は吐きながら飲む特技の持ち主であり、三五年正月に貞成が上御所を訪問した際にも、「関白盃を受くるの時、当座会。散々吐かれ、永豊朝臣これを拭いて掃除す。主人興に入る」と例の特技で大いに喜ばせている。

 

 現代人の感覚からすると、酒宴での嘔吐(=当座会)はとんでもない粗相ですが、室町時代の場合は座興と見なされていたようなのです。そして、この「当座会」とセットであらわれる表現こそが「比興」なのです。

 私は以前、勤務中に二日酔いで嘔吐した貴族が、その一族から絶交されたという事例を紹介しました(「酒の粗相で絶好…」https://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2016/08/16/092732?_ga=2.182016167.1251703596.1643531366-1091996426.1642315823)。どうやら勤務中のような日常的・公的な場での嘔吐は非難されるのですが、酒宴のような非日常的な場では、嘔吐のような粗相でさえ座興とみなされるのです。今回の史料は「宴会中」の出来事ではなく、「祭礼中」の出来事と考えられるので、状況はやや異なりますが、どちらも非日常の時空間であることに違いはありません。宴会中での嘔吐と同様に、祭礼中の酔狂・悪ふざけも座興と見なされていたのではないでしょうか。

 まだまだ確信はもてませんが、ひとまず「田舎人が酒に酔って乱暴し、みっともない出来事が起きた」という以前の解釈を改め、「田舎人が酔っ払って悪ふざけをしていた」という解釈に訂正しておきます。

 

 さて、このように解釈すると、遊女たちの笑いには「嘲り」の意図を含んでいなかった可能性が出てきます。ひょっとすると田舎人は、愉快な気持ちから生じた遊女の笑いを、「嘲笑」と勘違いしたのかもしれません。自ら酔っ払って悪ふざけをしていたのに、それを見て笑われたことで逆上するというのは、ずいぶんと理不尽な話ではないでしょうか。極端なたとえ話をすれば、お笑い芸人がネタを披露して笑わせていたのに、笑われたことに腹を立てて、観客を殺害したのと同じことになります。やはり、田舎人のキレ方は不自然だと言わざるを得ません。

 では、いったい何に腹を立てたのか? これまで私は、「嘲笑」に激怒・殺害の理由を求めていたのですが、前述のように、田舎人は自らふざけていて笑われたわけですから、「嘲笑」という理由は採用できなくなってしまいます。そうすると、残された理由は、笑った人間自体に問題があった、と考えざるを得ません。すなわち、卑賤視されはじめていた「遊女」という身分の女性から笑われたことが許せなかったのではないでしょうか。「比興」の意味を「みっともないこと」から「悪ふざけ」に改めたことで、当時の遊女差別がはっきり見えてきたように思います。