解題
沼田高山城主小早川春平は応永四年(1397)、彼が欽仰する禅僧の愚中周及を迎え「佳き山水」の地である現在の土地にこの寺を開創した。この寺は愚中が入唐に際し師事した仏通禅師にちなんで、仏通寺と名付けられた。その後、小早川氏一門の信仰に支えられて、三十年間に多くの堂塔が完成した。愚中は京都五山に迎合せず、その門派はむしろ五山に対抗して自ら清新の境地を求めて地方で活躍した。しかし、足利将軍家の愚中に対する厚い信仰があり、将軍家の祈願寺ともなっている。小早川氏が力を失い、福島氏が入部するや寺領は没収され、衰退した。後、浅野氏時代に二百石を与えられたが往時の繁栄はよみがえらず、明治五年(1872)には五院十四庵にとどまっている。
山内五派は開山の五高弟による分派で、正法・肯心・永徳・長松・両足の各派をいう。五大寺は開山愚中を開基とする寺で、丹波天寧寺・同円悟寺・播州雲門寺・安芸向上庵・紀州禅頭寺である。仏通十六派とは小本寺の諸分派である聖記・祥雲・正覚・大慈・慈雲・常喜・建国・円福・大通・華蔵・密伝・得月・英昌・権菅・法雲・霊源の各派をいう。
ここに収める文書は、原本によるものと、明治四十三年および昭和十二年採訪による東大影写本によるものを主体とし、「御許山仏通禅寺住持記」(以下、仏通寺住持記と略称)所収文書で補った。この住持記は応永四年八月から寺内外の出来事を日に追って書き留めたものであり、同序によれば延享二年肯心派瑞雲庵主等が記しているところから、その時に現在のように書きかえられ、その後は順次書き加えられていったものであろう。他に、永徳一笑禅師の語録(抜粋)、大通禅師頂相の賛を所収した(1023〜1026・1055頁)。
一 愚中周及遺嘱状写 ○住持記ニヨル
遺嘱
周及順寂後、但当下以二正月十九日一為中年忌・月忌上、不レ可三為レ予別有二
営為一、若違背者非二予弟子一也、
(1405) (周及)
応永十二乙酉年五月十九日 (花押)
「書き下し文」
遺嘱す
周及順寂の後、ただ当に正月十九日を以て年忌・月忌と為すべし、予の為に別に営為有るべからず、若し違背せば予の弟子に非ざるなり、
「解釈」
遺託する。
私が亡くなった後は、ただ正月十九日をもって、年忌・月忌とするだけでよい。私のために別に法要を営む必要はない。もしこの遺託に背くなら、その者は我が弟子ではないのである。
「注釈」
「順寂」─読み方・意味ともに未詳。「亡くなる」の意味か。
*なおこの文書は、『仏通寺住持記』(その6)でも紹介しています。