弘安七年(1284)七月十日・十二日条
(『史料纂集 勘仲記』2─5・6、
『編年差別史資料集成 第三巻 中世編一』三一書房)
(鷹司兼平)
十日丙戌 晴、参殿下、昨日奏聞條々今日又所内覧也、任勅定可宣下之由被仰下、
感神院申今月四日林中小童自害事出来、仰犬神人雖令撤却、可為触穢哉否、可
在時宜、但弘安三年如此事出来、其時無触穢之儀之由社家申之、可奏聞之由被
仰下、(後略)
(藤原)
十二日戊子 雨降、参禅林寺殿、伝奏人不祗候之間、以右大弁経頼朝臣奏條々事、
(1280)
其内官申感神院所司申林中子童結頸自害事所奏也、去弘安三年如此、其時社頭
無触穢之由載社解了、勅答云、任先例可申沙汰之由可仰之由仰下、仍其趣
仰官了、(後略)
「書き下し文」
十日丙戌、晴る、殿下に参る、昨日奏聞の条々を今日また内覧する所なり、勅定に任せ宣下すべきの由仰せ下さる、感神院申す今月四日林中にて小童自害の事出来す、犬神人に仰せて撤却せしむと雖も、触穢と為すべきや否や、時宜在るべし、但し弘安三年此くのごとき事出来す、其の時触穢の儀無きの由社家之を申す、奏聞すべきの由仰せ下さる、(後略)
十二日戊子、雨降る、禅林寺殿に参る、伝奏人祗候せざるの間、右大弁経朝朝臣を以て奏す條々の事、其の内官申す感神院所司申す林中の子童頸を結ひ自害する事奏する所なり、去んぬる弘安三年此くのごとし、其の時社頭触穢無きの由社解に載せ了んぬ、勅答に云く、先例に任せ沙汰申すべきの由仰すべきの由仰せ下す、仍て其の趣を官に仰せ了んぬ、(後略)
「解釈」
十日丙戌、晴れた。関白鷹司兼平のもとに参上した。昨日亀山上皇に奏上した事柄を、今日また兼平様が内見して処理したところである。上皇の仰せのとおりに宣旨を下せよ、と兼平様ご命令になった。祇園感神院が申すには、今月三月四日に林の中で子どもの自殺事件が起きた。犬神人に命じて遺体を撤去させたけれども、触穢とみなすべきか否か、上皇のお考えがあるはずだ。ただし、弘安三年(1280)にこのような事件が起きた。その時は触穢の判断はなかったと社家が申した。上皇に奏上しなければならない、と兼平様がご命令になった。
十二日戊子、雨が降った。禅林寺殿御所(亀山上皇のもと)に参上した。伝奏人が祗候していなかったので、右大弁藤原経朝朝臣をもって上皇に奏上した、さまざまな用件のこと。そのうち弁官方が取り次いだ件で、祇園感神院が申し立てた、林の中で子どもが首を括って自殺した事件を奏上したところである。去る弘安三年もこのような事件があった。そのとき、祇園社辺りは触穢と判断されなかった、と祇園社の申状に書き載せてあった。上皇がお答えになって言うには、「『先例のとおりに処置し申すべきである』と私がご命令になっている」と仰った。よって、関白兼平様は上皇のご命令を弁官方にお伝えになった。
「注釈」
*今回の史料で読み取れることはあまりにも少ないのですが、それでも、これまで紹介した史料にはない情報をもっています。それは、子どもが自殺したという点です。家族などと心中したという事例であれば、いくらでも見つかるのかもしれませんが、子どもが一人で自殺(縊死)をしたという記事は、これが初見になると思われます。しかも、古典籍ではなく、古記録に記された情報なので、史実と評価してよいでしょう。