一六 真知外三名連署規式写 ○住持記ニヨル
(前闕ヵ)
「
右両寺住持先年以二衆評定一定、太半隕没恰如二残星一、以二故此職一毎レ缺レ衆
以為レ患矣、故重設二規式一以題二直弟若干名字一、向後湏レ依二此臘一、次択二
其器用一、以可レ請二住持一者也、
但除三十三回於下両寺不二出頭一者上、蓋以二老病一為レ辞故也、
(1441)
嘉吉元年八月廿五日
字一咲禅慶 〈圓福寺」甲州人〉
字元哉符契 〈丹後州」慈雲寺〉
〈字千畝」京城人〉周竹 〈初称筠侍者」後改竹〉
真知
「書き下し文」
右両寺の住持先年衆評を以て定むる所、大半隕没の恰も残星のごとし、故を以て此の職欠くるごとに以て患ひと為す、故に重ねて規式を設けて以て直弟若干(そくばく)の名字を題して、向後須らく此の臘次に依るべし、其の器用を択び、以て住持を請ずべき者なり、
但し三十三回を除きて両寺に於いて出頭せずんば、蓋し老病を以て辞めんがための故なり、
「解釈」
右、両寺(天寧寺・仏通寺)の住持を、先年の評定衆の評議によって決定したところ、住持候補者たちの大半が死没してしまい、まるで夜明けの空に残る星のように、候補者たちも残りわずかとなってしまった。こうした事情によって、住持不在になるたびに思い悩んでしまう。だから、もう一度住持に関する規則を設け、幾人かの直弟らの名前を書き、今後は必ずその僧の臈次によって選ぶべきである。そして、その人の器量を選び、それによって住持を招請するべきものである。
ただし、愚中周及の三十三回忌を除いて両寺に出頭しないならば、老病によって辞退しようとする理由であると思おう。
*『仏通寺住持記』にはほぼ同文の文書が書き写されています。その返り点や送り仮名を参考にして、書き下し文や解釈を作っています。
なお、この文書については「仏通寺住持記 その13」でも紹介しています。