周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺文書19

    一九 天寧寺仏通寺両寺住持并番衆次第写  ○住持記ニヨル

 

   両寺住持并番衆次第

  天寧寺            仏通寺

  一番             一番

 住持契沢庵主         住持明三庵主

 番衆聖喜寺派         番衆正覚庵派

  二番             二番

 住持玄貴庵主         住持養浩和尚

 番衆祥雲寺派         番衆大慈寺

  三番             三番

 住持景延庵主         住持的当和尚〈諱」周禎〉

 番衆〈華蔵寺派」加密伝派〉  番衆建国寺派

  四番             四番

 (後筆)「元哉和尚之事」     (後筆)「千畝和尚之事」

 住持慈雲和尚         住持常喜和尚

 番衆〈自派加」権管派〉    番衆 自派

  五番             五番

                (後筆)「一笑和尚之事」

 住持俊育庵主         住持円福和尚

 番衆〈自派加」得月派〉    番衆 自派

  番衆終而復始

  仏通寺            天寧寺

  一番             一番

 住持自立庵主         住持安柏庵主

 番衆聖記寺派         番衆正覚庵派

  二番             二番

 (後筆)「智泉院」

 住持常誠庵主字至心       住持真康知客

 番衆祥雲寺派         番衆大慈寺

  三番             三番

 住持従潤庵主         住持祖傑庵主

 番衆〈華蔵寺」密伝派〉    番衆〈建国寺」加法雲派〉

  四番             四番

 住持定膳庵主         住持善勗庵主

 番衆〈慈雲派」加権官派〉   番衆常喜院派

  五番             五番

 住持聖宗庵主         住持自純庵主

 番衆〈得月庵派」加大通院派〉 番衆円福寺

 両寺此年以来、住持并番衆以其缺典、故重加評議、題直弟老僧廿員

 名字、任両寺十年住持之職、又挙諸老門葉十派両寺五年之番衆

 五年終而復始之時、湏両寺番衆互換也、然則十年之間、住持各一度番衆各両回

            (小早川氏)

 也、住持交代之時、不檀那之命、唯以当住状一通之、若有辞退

 則当番或倩余之直弟、或擢其派一老主席空却也、番衆亦預報来番

 派下老僧一人、以知其期至、若番衆不出、則住持或自補或倩人相佐、

 若住持番衆共不出、則当住并当番衆湏其寺来年住持番衆、以眼同

 交代上レ期也、若無交代者縦雖住役一回、堅守寺家退出而

 空却矣、若缺番之一派者不両寺并門中出入、直湏擯出絶映迹

 也、暫時会合尚不許、況同行同住乎、併可以所同罪者也、如此評議莫

 欠博愛之慈只要老少同守此規式両寺無退転矣、又両寺各依常住

 米銭収納僧衆数而置年中之定案、更出余分修造之費、若依

 水旱土貢減損、則縦止修造僧衆、若止修造尚不足則量

 其現納衆亦得矣、但願住持番衆彼此和合随順、以勤行専、且亦営

 修造、近来番衆或不定案規式、随意安衆、或減少至十人十五、而

 復不修造自招重罪、可慎乎、然則若有番衆濫減衆者、住持

 宜算収納切加呵責、若否則者、住持亦不其責者也、又当寺

 僧堂衆内別有檀那六人分之田、且要此六人者湏常住普請等専以

 道行上レ本矣、然則維那侍聖侍真祠堂坊主其外老僧二人以定直堂

 可僧堂、如上六員湏諸務以応檀那信心願力也、

     (1447)

     文安四年丁卯九月廿八日

         仏通寺住持比丘禅慶書之、

 右依如上之評定、現前老僧十五人押花字、以為後代不易之式焉、

    前住中端各有判      前住周竹

    当住禅慶           俊育

       真康           定善

       祖傑           聖宗

   大慈本詢        大慈慈曇

   祥雲派善徹        大慈全機

   祥雲派宗春        祥雲派祥沢

   祥雲派通三

 此外任住持之不前衆、題其名字使、乞花字以為後証矣、

     契沢各有判       符契

     周禎         明三

     幻観無判        玄貴

     景延         安柏

     常誠         従潤

     永忠無判        善勗

     自純        右之人数一笑和上真筆在于肯心院

 

 「書き下し文」

  (前略)

 両寺此(しきり)の年以来(より)の住持并びに番衆其の欠典有るを以て、故に重ねて評議を加へて、直弟老僧二十員の名字を題して、両寺十年住持の職に任ず、又諸老の門葉十派を挙げて、両寺五年の番衆に配す、五年終わりて復た始めの時は、須らく両寺の番衆互いに換へるべきなり、然らば則ち十年の間に住持は各々一度、番衆各々両回なり、住持交代の時は檀那の命を要せず、唯当住の状一通を以て之を請ず、若し辞退有らば則ち当番或いは余の直弟を倩ひ、或いは其の派の一老を擢でて、主席をして空却せしむること莫きなり、番衆も亦た預(あらかじ)め来番派下の老僧一人に報じて、以て其の期の至ることを知らしむ、若し番衆出でずんば、則ち住持或いは自らを補ひ、或いは人を倩(やと)ひて相佐けしめよ、若し住持・番衆共に出でずんば、則ち当住并びに当番衆須らく其の寺の来年の住持・番衆を請じて、眼同交代を以て期と為すべきなり、若し交代無くんば、縦ひ住役一回すと雖も、堅く寺家を守りて退出して空却すること莫し、若し番を欠くの一派の者は、両寺并びに門中出入りを許すべからず、直に須らく擯出して映迹を絶たしむべきなり、暫時の会合尚ほ許さず、況んや同行(あん)同住せんをや、併せて以て同罪に所すべき者なり、此くのごとき評議博愛の慈を欠くと道ふこと莫かれ、只要ず老少同じく此の規式を守りて、両寺をして退転無からしめよ、又両寺各々常住米銭の収納によりて、僧衆の数を定めて年中の定案を置く、更に余分を出だして修造の費えに充つ、若し水旱によつて土貢減損せば、則ち縦ひ修造を止むとも僧衆を減ずべからず、若し修造を止めんに尚足らざらば、則ち其の現納を量りて衆を減らすも亦得たり。但し願はくは住持・番衆彼此和合随順して、勤行を以て専らと為し、且つ亦た修造を営まんことを、近来の番衆或いは定案の規式を用ひず随意に衆を安んじて、或いは減少し十人十五に至る、而るに復修造を営まず自ら重罪を招くこと、慎まざるべけんや、然れば則ち若し番衆有りて濫りに衆を減ずれば、住持宜しく収納を計算して切に呵責を加ふべし、若し否らずんば則ち、住持も亦た其の責めを免るべからざる者なり、又当寺僧堂衆の内別に檀那有りて六人分の田を捨す、且つ要ず此の六人は須らく常住の普請等を免じて、専ら道行を以て本と為すべし、然れば則ち維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と其の外老僧二人を以て直堂に定めて僧堂を離るべからず、如上の六員須らく諸務を免じて以て檀那の信心の願力に応ずべきなり、

     文安四年丁卯九月廿八日

         仏通寺住持比丘禅慶之を書く、

 右、如上の評定により、現前の老僧十五人花字を押し、以て後代不易の式と為す、

   (中略)

 此の外住持に任ずるの前に現れざる衆、其の名字を題し、使ひを遣はし花字を乞ひ、以て後証と為す、

 

 「解釈」

  (前略)

 天寧寺・仏通寺はここ数年以降、住持と番衆についての規則が不完全であるため、重ねて評議を行ない、直弟の老僧二十人の名前を書き、両寺それぞれ十年間(一人一年?)の住職に任命する。また老僧たちの流派十派を示し、両寺に五年間の番衆を配置する。五年間の当番が終わって再び始めるときは、必ず両寺の番衆を互いに入れ替えるべきである。だから、十年のうちに、住持はそれぞれ一度、番衆はそれぞれ二回担当するのである。住持交代のときは、檀那(小早川氏)の任命を必要としない。ただその時の住持の書状一通だけを用いて、次の住持を招請する。もし辞退することがあれば、当番の住持は他の直弟を雇い、あるいはその流派の最長老を抜擢し、主席である住持を空席にしてはならないのである。番衆もまたあらかじめ、次の番を勤める流派の老僧一人に連絡して、当番の時期が来ることを知らせなさい。もし次の番衆が出てこなければ(辞退すれば)、住持が自ら番衆を補任し、あるいは人を雇って、互いに助け合いなさい。もし次の住持・番衆がともに出てこなければ(辞退すれば)、現在の住持と番衆がその寺の来年の住持・番衆を招請する必要がある。眼同交代によって期日とするのである。もし交代する者がいなければ、たとえ住持職を一度行なっていたとしても、しっかりと寺家を守り、寺を退いて住持を空席にしてはならない。もしも番を勤めない一派の者は、両寺並びに門派への出入りを許してならない。直ちに追放して、その痕跡をも消してしまわなければならない。しばらくの間は、会うことさえも許さない。ましてや、同行・同住はなおさら許してはならない。このような議決は、博愛の情を欠くと言ってはならない。ただ必ず、老いも若きも皆に、同じようにこの規則を守り、両寺を衰退させないようにしなさい。また、両寺はそれぞれ通常の米銭収納額によって、僧衆の員数を決め、年中行事を定めなさい。さらに余分の収納を出して、堂舎の修理・造営の費用に当てなさい。もし洪水や旱魃によって年貢が減少するならば、たとえ修理・造営を止めても、僧衆を減らしてはならない。もし修造を止めてもさらに僧衆を養う費用が足りなければ、米銭の現納量を計量し、僧衆を減らすのもまた致し方ない。ただし、住持・番衆は、どうかあれやこれやと和合随順して勤行に専念し、さらにまた修理・造営に励んでください。最近の番衆は、一方では定まった規則を用いず、思いのままに振る舞って番衆の勤めをあなどり、一方ではその数を減らして十人十五になる。しかし、修理・造営に励まず、自ら重罪を招くことは慎まなければならない。だから、もし番衆がむやみに人員を減らすならば、住持は収納を計算し、人員を減らした番衆をひたすら厳しく責め立てるのがよい。もしそうしないのであれば、住持もまたその責めを免れることはできないものである。また、当寺の僧堂衆のうち六人分を養う田を、特別に檀那が喜捨した。したがって、この六人は通常の普請等を免除し、もっぱら仏道修行に専心するべきである。したがって、維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と、その他の老僧二人を直堂に定め、僧堂を離れてはならない。上述の六人は必ず雑務を免除し、檀那たちの信心の願力に応えなければならないのである。

   (中略)

 右、上述の評定により、現前の老僧十五人は花押を押し、それによって後世において不変の規則とする。

   (中略)

 この他、住持に任命する僧侶で、前に書いてない衆は、その名字を書き記し、使者を遣わして花押を書くように依頼し、それによって後々の証拠とする。

 

 「注釈」

「一老」─「一﨟」の当て字か。

 

「或減少至十人十五、而〜」

 ─未詳。強引に書き下し、訳してみましたが、まったく確信がもてません。

 

「建国寺」

 ─三重県伊勢市宇治浦田。行基の草創と伝え、禅宗である。応永年間に将軍義持が 武運長久の祈りとして内宮に一切経を納めたのを、内宮からこの寺に納め、神領中から寺領を給し、ついで将軍義教は経蔵を建立したという事情から有力な寺であった。戦国期にこの寺が衰廃しかけたのを,神宮庁宣を発して寺僧の勧進の達成を計ったことがある。宝永年間に至って内宮神官薗田家との間に争を生じ、宇治郷年寄の預りとされ、もって維新に及んで廃寺となった(萩原龍夫「伊勢神宮と仏教」『明治大学人文科学研究所紀要』 7号、1969・2、4頁、https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/9845/1/jinbunkagakukiyo_7_2-1.pdf)。

 

 三重県伊勢市宇治浦田にあった寺院。明治初年に廃寺となった。建国寺の淵源は、南北朝時代の祭主大中臣忠直が創建した大中臣氏の氏寺にある。その後、応永十三年(1406)に、禅僧であったと考えられる徳侍者が、一禰宜荒木田経博によって建国寺に招聘され、禅宗寺院として復興を遂げた。応永三十三年(1426)、足利義持によって一切経が奉納され、内宮専門法楽所としての機能を帯びるようになり、内宮建国寺が成立する。義教は内宮建国寺を幕府公認の祈願寺とし、天下泰平・千秋万歳のための神明法楽を、毎日勤行するよう命じた。内宮建国寺は、一切経のみならず、寺領も、寺僧も、そして伽藍までもが、一禰宜の主催する内宮庁の強い管理下に置かれていた。ところが、長享三年(1489)の焼失によって、神宮祠官の一氏寺に戻ったものと思われる(多田實道「内宮建国寺について」『伊勢神宮と仏教』弘文堂、2019年)。

 なお、上述の徳侍者は、愚中周及の直弟「中和周徳禅師」を指すのかもしれません(このブログの記事「仏通寺住持記」その4参照)。

 

*『仏通寺住持記』にはほぼ同文の文書が書き写されています。その返り点や送り仮名を参考にして、書き下し文や解釈を作っています。

 なお、この文書については「仏通寺住持記 その15」でも紹介しています。