周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

勇者の誉れ

 『徒然草』第八十段

     (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、156頁)

 

 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道を立て、夷は弓引く術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなるおのれが道よりは、なほ人に思ひ侮られぬべし。

 法師のみにもあらず、上達部・殿上人、上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽き、矢窮りて、つひに敵に降らず。死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近きふるまひ、その家にあらずは、好みて益なきことなり。

 

 「解釈」

 誰もみな、自分に縁遠いことばかりを愛好している。法師は武士の道を専らにし、荒武者は弓を射る方法を知らないで、仏法を知っているふりをし、連歌をしたり、音楽を愛好しあったりしている。けれども、いいかげんな自分の専門よりは、いっそう人に軽蔑されてしまうに相違ない。

 法師だけでもなく、上達部・殿上人など、上層の人たちまで一般に、武術を好む人が多い。百度戦って百度勝っても、まだ勇者の名を決定的なものにするわけにはゆかない。そのわけは、好運にのって敵を討ちやぶるときには、誰でも勇士でないような人はいない。武器が尽き、矢がいよいよなくなっても、最後まで敵に降伏せず、平然と死んで後、はじめて、真の勇者たる名をあらわすことができる道理である。だから、生きていよう間は、武勇を誇ってはならない。武道というものは人間の道にはずれ、鳥や獣に近い行為で、武士の家柄ではなくして、好んでも無益なことである。

 

 【頭注】

元弘の乱に当面する時期に書かれたと思われるこの記事には、内乱時代の世相がおのずからにじみ出ている。しかし例によって兼好は、時代を社会的な視点からはとらえようとせず、専門の道々から逸脱した人間を、その足下から批判するという態度である。ただ内乱に対する超越的な立場は、武に対する特別きびしい批判となり、かたがた彼の貴族的かつ保守的な思念を表現することになっている。

 

 

 「注釈」

*今回の記事から考えてみたいのは、中世における勇敢な武士のイメージです。詳細については解釈を参照していただければよいのですが、兼好法師は、百戦百勝の武士ではなく、最後まで敵に降伏せず平然と死んでいく武士こそが勇者だ、と考えているのです。

 前掲頭注の分析にもあるように、この記事は「武に対する特別きびしい批判」として書かれたものですが、とくに武士の家柄ではない法師や公家たちが武を好むことに対して、字数を割いて批判しています。元弘の変に当面する時期ですから、実際に戦を経験した法師や公家もいたのでしょう(呉座勇一「指揮官たちの人身掌握術」『戦争の日本中世史』新潮選書、2014年、189頁など)。兼好はそのような「にわか武士」たちがたまたま戦に勝って生き残り、武勇を誇っている姿を見聞して、苦々しく思っていたと考えられます。こうした「にわか武士」たちを批判するために生み出されたのが、「最後まで敵に降伏せず平然と死んでいく武士」という真の勇敢な武士像だったのではないでしょうか。

 では、兼好推しの勇敢な武士像とは、いったいどこから生まれてきたのでしょうか。そこで注目したいのが、「兵尽き、矢窮りて」と言うフレーズです。実はこれ、兼好独自の表現ではなく、先人の言葉を引用したものと考えられます。インターネットで検索すれば、こんなこともすぐに調べがついてしまうのですね。便利な時代になりました。

 

【史料1】 『明月記』建暦三年(1213)五月九日条

(『明月記研究 記録と文学』9号、2004年12月、18・20・22頁、https://books.google.co.jp/books?id=UHEIko12a-0C&pg=PA20&lpg=PA20&dq=#v=onepage&q&f=false

 

 九日 天晴、(中略)

 義盛士卒一以当千、天地震怒、此間千葉之党類〈常胤之孫子〉練精兵、自隣国超来、義盛雖兵尽矢窮、策疲足之兵、当新羈之馬、然尚追奔逐北、至于横大路〈鎌倉之前有此路云々〉、此時義村兵又塞其後、大破義盛、因茲遂不得免、多散卒等出浜、棹船向安房方、其勢五百騎許、船六艘、(後略)

 

 「書き下し文」

 義盛の士卒一をもつて千に当たり、天地震怒す。この間に千葉の党類〈常胤の孫子〉精兵を練り、隣国より超え来たる。義盛兵尽き矢窮まると雖も、疲足の兵を策(むちう)ちて、新羈の馬に当たる。然るになほ奔るを追ひ北ぐるを逐ひ、横大路に至る〈鎌倉の前にこの路ありと云々〉。この時義村の兵またその後ろを塞ぎ、大いに義盛を破る。茲により遂に免るるを得ず。多くの散卒等浜に出で、船に棹して安房の方に向かふ。その勢五百騎ばかり、船六艘。(後略)

 

 「注釈」

 (和田)義盛の士卒は一人で千人の敵を相手にするほどで、天地も(軍兵の)怒号で震えるようだった。この時に常胤の孫にあたる千葉一族が精兵を引き連れ、隣の国からやってきた。義盛軍は兵もいなくなり矢も尽き果てていたが、疲れきった兵たちを励まして、新手の騎馬隊に立ち向かっていった。それでもなお(義盛軍は)走り去る敵を追い敗走する敵を追撃して、横大路に出た、鎌倉(の御所)の前にこの道があるという。その時(三浦)義村の兵がまた背後を塞いで、大いに義盛軍を攻め破った。このため(義盛は)討死せざるを得なかった。多くの散り散りになった兵たちは(由比)浜に出て、船に乗って安房方面に向かっていった。その軍勢は五百騎ほどで、船は六艘であった。(後略)

 

 

 「兵尽き、矢窮りて」といったありふれた表現など、誰でも書き記しそうなものなので、成立時期が100年以上も離れた『徒然草』と『明月記』の表現を結びつけるのは、突拍子もないように思われるかもしれませんが、実はそれほど不自然なことではないのです。

 兼好は言わずと知れた二条派の歌人で、二条為世門下の四天王と称されていました(「二条為世」『日本大百科全書https://kotobank.jp/word/二条為世-17413)。そして、師匠である為世の曽祖父こそ、藤原定家だったのです。門人である兼好が『明月記』に目を通していても、何ら不思議はありません。この推論が妥当であれば、兼好が勇者として具体的にイメージしていたのは、和田義盛ということになります。

 さて、兼好が定家の表現を引用したことの是非はいったんおくとして、もう一つ気になるのが、両者の記事の相違点です。兼好は「兵尽き、矢窮りて」以降の表現によって、勇者のイメージ(自身の価値観)を語りました。ところが、『明月記』の記事から読み取れるのは、兵や矢の尽きた和田義盛が自軍を励まし、敵を撃退したものの、最終的には討ち取られた、という伝聞情報のみで、義盛の振る舞いに対する定家の評価などは書いてないのです。

 さらに続く文章を読んでみると、大将の義盛を失った軍勢は、散り散りになり安房へ逃亡したと記されています。義盛は「最後まで敵に降伏せず平然と死んでいく武士」でしたが、配下の武士たちは命を惜しみ逃亡する者たちでした。彼らについても、よくぞ逃げ果せたと称賛することも、臆病だと謗ることもないのです。

 このような違いを、随筆と日記という作品ジャンルの違いに求めたらよいのか、兼好と定家の個性の違いに由来すると理解すればよいのか、それとも時代の違いとみなせばよいのか、以上のすべてが関係してくるのか、なかなか確定しにくいところではありますが、少なくとも定家は、「最後まで敵に降伏せず平然と死んでいく武士」に対して、自身の日記に称賛や非難の評を書き記す必要はない、と考えていたことだけはわかります。定家自身が実際に、和田義盛やその配下の兵士たちをどのように評価していたのかはわかりませんが、鎌倉前期の公家にとって、武勇の評価など記すに及ばない些細な問題だったのではないでしょうか。ところが、兼好は「最後まで敵に降伏せず平然と死んでいく武士」こそ、真の勇者と評価したのです。もはや伝説となっているようなかつての鎌倉武士を引き合いに出し、同時代に増加した「にわか武士」たちを批判したかったのかもしれません。

 ちなみに、『徒然草』のフレーズとやや異なりますが、『保元物語』にはほぼ同じような内容を記した箇所があります。

 

 

【史料2】「為義最期の事」『保元物語』(『新編日本古典文学全集』41、小学館、2002年、341頁)

 

 かくあるべしと知りたらば、六人の子供前後に立て、矢種のあらむ限り射尽くして、討ち死にして、失せたらば、名を後代にあげてまし。さては、犬死にせんずるにこそ。

 

 「解釈」

 こうなる(斬首される)とわかっていたら、六人の子供に前後を護られて、矢種のある限り、最期まで戦って後討死したならば、後世名を挙げることができたものを。犬死にで終わってしまうことになろうとは。

 

 

 これは、息子である源義朝の命令によって、殺害されそうになっているときに吐露した、源為義の言葉です。『保元物語』の成立年代は、『明月記』よりも遡るかどうかはっきりしませんが、『徒然草』よりは早いと考えられています(「保元物語https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=817、「徒然草https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=196)。兼好は『保元物語』を読んでいたからこそ、あのような評価を書き記したのかもしれません。