周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

呉座著書

 呉座勇一『戦争の日本中世史』(新潮社、2014年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第一章 蒙古襲来と鎌倉武士

P21

 だが、承久の乱の後、鎌倉幕府は平和な時代を迎える。唯一の例外は、宝治元年(1247)に鎌倉で勃発した宝治合戦(執権北条時頼vs三浦泰村)である。幕府の準公式歴史書である『吾妻鏡』によれば、戦闘時間は6時間、敗れた、三浦泰村方で自害した者は、主要な者だけで276人、それ以外の武士も含めると500余人に上ったという。

 6時間の先頭で500人の犠牲者が出たというと、かなり激しい戦闘が行われたように思われるかもしれない。しかし、これは「自害」した人の数である。彼らは敗色濃厚となってから、敵の手によって討たれるよりはと自ら命を絶ったのであり、戦闘中に殺されたわけではない。

 

 →戦争と自害慣習の説明はない。自害慣習があるというだけで、人間は自殺してしまうということを意味しているのではないか。そんな慣習がなければ、自害しないのではないか? 戦争における自害の意味(戦争終結の象徴?)をきちんと問わなければならない。

 

P22

 建保元年(1213)、二日間にわたって鎌倉で繰り広げられた和田合戦では、幕府方の御家人50人が討死している(敗者である和田義盛方は142人が討死・自害、28人が捕虜)。宝治合戦時の被害も、おそらくこの程度だろう。

 もちろん、右に挙げた犠牲者数は御家人クラスに限定したものであるから、御家人の家来たち、一兵卒まで含めた場合は、多くの戦死者が出た可能性がある。だが、承久の乱終結からの50年間で、大規模な戦闘はこれ1回のみである。まして遠征、長期戦の経験は一度もない。

 もう一つ重要なのは、宝治合戦に勝利した北条氏は、三浦氏ら反乱軍の所領を没収し、北条方の御家人たちに恩賞として分け与えているという事実である。なお、討死は当時、最大の戦功であり、戦死者の遺族に恩賞が与えられた。宝治合戦に限らず、内戦の度に〝勝ち組〟の御家人たちは所領を増やしていった。だから彼らは「合戦は勝てば儲かる」と考えて、たまに合戦が起これば「いざ鎌倉」したのである。

 

P28

 しかし、最近の「戦争論」の進展により、治承・寿永の内乱、すなわち源平合戦の時代から、一騎打ち以外の戦法も使われていたことがわかってきた。源平合戦では騎兵だけでなく、刀や弓を持った歩兵も多く戦闘に参加したし、初めは一対一の戦闘でも、戦っているうちに敵・味方が集まってきて集団戦に移行することも少なくなかった。実際、有名な竹崎季長の追撃も姉聟らと一緒に行ったものであり(後述)、小勢での攻撃ではあるが一騎討ちとは言えない。

 文永の役で日本軍が一騎打ちを行ったと記すのは、『八幡愚童訓』という史料だけである。これによれば、鎌倉武士が日本の戦いのルールに則って、名乗りをあげて一騎ずつ進み出ていくと、モンゴル軍がこれを大勢で取り囲んで殲滅してしまうのだという。

 右に見える名乗りを上げるという行為は、自分が名乗ることで相手にも名乗らせ、それによって名のある武士を探り当てるためのものである。

 

 →これが戦争を長引かせない、被害を拡大させない効果を生んだのかもしれない。

 

P30

 竹崎季長三井資長が装着している大鎧とは頭も含め全身を完全に防護する鎧のことで、敵の騎射から身を守る目的をもつ。非常に重いので)現存する鎌倉前期の大鎧は20キログラム以上)、これをつけて動き回るのは難しい。当然、馬に乗って移動することになる。つまり、大鎧は騎射戦に特化した甲冑である。

 当時、馬を走らせながら弓を引く武芸を「馳射(はせゆみ)」と言い、騎馬武者同士が「馳射」で戦うことを「馳組戦(はせぐみのいくさ)と呼んだ。すでに治承・寿永の内乱の時点で「馳組戦」は流行らなくなっていたのが、大鎧はその後も存続した。それは、大鎧を身につけることが、武士にとってステータス・シンボルだったからである。

 

P31

 実は、(竹崎)季長は、所領をめぐる一族との裁判に敗れ、所領を失っていた。季長は自分のことを「無足」と言っているので、所領を一切持たない困窮状態であったことがわかる。このため季長は若党(家来のこと。郎党・郎従と同義)を引き連れてくることができなかったという。つまり、本来なら歩兵も率いてくること路だが、それだけの経済的余裕がないため断念したというのである。

 

P43

 (文永の役)さて『元史』日本伝は「(至元11年)冬十月、其国に入り、これに敗れる。官軍(モンゴル・高麗軍)整わず、また矢尽く」と記している。矢を本当にい尽くしたかどうかは分からないが、日本軍の猛烈な抵抗によってモンゴル軍が戦線を維持することが困難になっていたことは確かだろう。また、軍議で決戦案を唱えた司令官もいたにもかかわらず総司令官が撤退を決定したというから、所期の目的・目標を達成できていないが犠牲の拡大を恐れて撤退したと見るべきである。早期撤退は実質的にモンゴル軍の「敗北」であった。

 

P45

 鎌倉武士は勇戦し、相手の戦力が思っていた以上に強力であることを知ったモンゴル軍は被害の少ないうちに撤退した。その事実を認めることは軍国主義でもなんでもない。「日本軍は負けた」と言い募ることが「平和主義」の発露だと思わない。なお海上自衛隊教官出身の太田弘毅氏は、「遠征中の戦闘の過程の最中に決断された撤退」と冷静に論評しているが、氏の議論をほぼ黙殺しているのが日本史学界の現状である。

 

P48

 御家人所領を入手した非御家人の中には、京都大番役など幕府への奉公を通じて御家人身分の獲得を目指した者もいるが、もとからの御家人の反発もあり、正式な御家人にはなれず、御家人に準ずる立場に留まった。高橋典幸氏はこのような〝非正規雇用者〟に「御家人予備軍」という呼称を与えている。御家人所領の権利移転は、スムーズな軍事動員を妨げるものであり、幕府にとって決して望ましいものではなかったのだ。

 

 →非御家人は軍事動員できないし、無足の御家人を軍事動員しても仕方ないから、文永以降のたびたびの徳政令で土地を取り返させようとした。徳政令の本来の目的は御家人救済ではない。

 その後、文永の役が発生して、緊急的に本所一円地住人の軍事動員を可能にした。そのせいで、彼らに恩賞を与える責務を負うことにもなった。

 

P54

 以上のように、蒙古襲来以降、鎮西御家人の間では一族の結束をよめようとする動きが見られる。近年の研究は右の動向を、「家」内部の和を重視しながら家長権の強化を図ろうとする意識の表れとして積極的に評価している。だが、御家人たちが内部事情から自発的に行なっているのではなく、「戦争」への対応として否応なく一族結合の強化を迫られているという点に留意すべきだろう。前著『一揆の原理』でも論じたように、緊迫した「非常時」においてこそ、絆が強調されるのである。

 

 

第二章 「悪党」の時代

P58

 この石母田の本における東大寺は「天皇制」の暗喩であり、黒田悪党は石母田自身を含む日本の知識人、荘民(荘園の住民)は日本の一般人民を暗示している。戦前の共産運動が結局、天皇制を打倒することができず敗れ去ったという事実と、黒田悪党が東大寺に抵抗しつつも最終的には屈服してしまい中世社会を切り開くことができなかったという歴史理解が、重ね合わされているのである。「黒田悪党は自分自身に敗北したのである」という同書の主張は、一般大衆から孤立し日本の軍国主義を押しとどめることができなかった無力な知識人たちに向けられたものであり、何よりも自己批判であった。

 

P69 宗教用語としての「悪党」

 ただし荘園内全域での殺生禁断というルールが厳守されていたわけではない。薪を集めたり魚を取ったりしなければ、武士も荘民も生活できない。当然、寺社から許可をもらう必要が出てくる。「殺生禁断」は口実であり、荘民の生殺与奪権を握ること、そして外部勢力の侵入を排除することが、彼らの真の目的であった。そして「殺生禁断に違反すると仏の罰が当たるぞ!」と脅かすことを専門用語で「殺生禁断イデオロギー」という。要するに、人々の信仰心を利用した宗教的支配、マインド・コントロールのことである。

 

P70

 以上で述べた、国家的犯罪者としての「悪党」と宗教的な意味での「悪党」を結びつけて、国家の敵=仏神の敵として強制的に排除される存在として「悪党」を位置づけたのが海津一朗氏である。海津氏は「悪党を実体として捉えるのではなく、弾圧のためのレッテル貼りと考える。それだけなら山陰氏や近藤氏の発想とあまり変わらないが、海津説の特徴は、「悪党」弾圧政策を蒙古襲来の直接的影響によって生じたものと評価する点にある。

 

P72

 悪党は「異類異形」の人でなしであるというイメージは体制側の宣伝にすぎず、特定の反社会的暴力集団が存在していたわけではないという事実認識を学界内に広く浸透させた海津氏の功績は大きい。ただ、右の問題意識が背景にあったため、海津説では体制による弾圧の側面が著しく強調されている。氏が提示する図式は、鎌倉幕府から弾圧された人々が結集して討幕に立ち上がるというものであり、結局、従来の「階級闘争史観」による説明と大差ない。

 

P74

 十二世紀の中後期、鳥羽院政期・後白河院政期が中世荘園の成立のピークであり、新しい荘園が次々と生み出された。この時期に「悪党」という言葉が急増したことに、渡辺氏は注意を喚起する。

 新しく荘園を設立する(「立荘」という)際には、その領域を確定する必要がある。それは土地の〝囲い込み〟を意味する。標識を打って「ここから先は○○荘」とやるわけだ。当然、隣接する勢力との摩擦は避けられない。このため寺社は荘園の神聖性を強調し、荘園を外部から侵略・侵害した者を「悪党」として非難した。渡辺氏はこれを荘園「外部」の悪党と呼び、この時期の悪党問題の特徴として堺相論(境界争い)に関わって発生していることを挙げる。

 しかし十三世紀末になると状況は一変し、本所に対して年貢を納めるべき

荘官の反抗(学界ではこれを「本所敵対行動」と呼ぶ)が目立つようになる。渡辺氏はこれを荘園「内部」の悪党と呼び、それ以前の「外部」の悪党と区別すべきだと主張している。つまり、「外部」の悪党から「内部」の悪党へ、という変化が見られるのである。

 

P75

 だが、社会変革の担い手にせよ、社会矛盾の体現者にせよ、他の時代にはいないからこそ、「悪党」は時代を象徴する存在とされてきたのである。「悪党」が「当時代固有」ではない以上、「悪党」をキーワードに鎌倉後期の社会を読み解くことは難しい。この章のタイトルに反するようで恐縮だが、鎌倉後期〜南北朝期を「悪党の時代」と位置づけるこれまでの研究には疑問を感じる。

 

P78

 確かに有徳人(備後大田荘の淵信)と、「悪党」と呼ばれる存在は、現実問題として重なっている。本郷恵子氏は「両者の活動の基盤は荘園経営や年貢物資の運送・換金等の請負、そのための条件整備等で、社会事業家としてあらわれれば有徳人、紛争を招けば悪党」と述べている。ダーティーだが金儲けが上手な実業家で、社会に貢献することもある。たとえるなら、時代の寵児から一転、犯罪者として糾弾されたホリエモンこと堀江貴文氏あたりであろうか。

 

P79

 しかし、近年の細川重男氏の研究によって、御内人とは、御家人でありながら得宗の従者になった者のことであり、御内人になったからといって御家人の身分を失うわけではないことが明らかにされた。したがって御家人御内人を対立的なものと捉え、前者をメジャー、後者をマイナーと位置づけるのは間違いである。その意味で蓮聖(安東蓮聖は御内人)を「悪党」と見ることにも、私は反対である。

 

P81

 だが、大田由紀夫氏の研究により、­代銭納制の成立の背景には、中国国内情勢が深く関わっていることが明らかにされた。それまで中国で貨幣として使用された銅銭に代わって紙幣を流通させることを目的として、前者の1220年代には金朝支配下の北中国で、後者の1270年代にはモンゴル支配下の江南(金朝は1234年、江南に拠った南宋は1276年に、モンゴルによって滅ぼされた)で、銅銭禁止政策が推進された。中国内で銭貨の需要が激減した結果、だぶついた銅銭が日本や東南アジア諸国に大量に輸出された。この渡来銭=中国銭の大量流入を機に日本では年貢の代銭納制が一気に普及したのである。

 貨幣の流通量を増やせば景気が良くなるとは、まるでアベノミクスのような話だが、ともあれ、こうした経済構造の変化を追い風に登場したのが前掲の有徳人である。有徳人は荘園の代官として年貢の輸送を請け負ったが、彼らは年貢として徴収した生産物をどこかの地方市場で売って銭貨を中央に送るのであり、ここに有徳人が大儲けするチャンスが存在した。なぜなら、生産物の市場価格は地域や時期によって異なるので、船や倉庫を有する有徳人は、各地・各時期の相場を見極め、安く買って高く売ることで大きな利益を上げることが可能だったのである。

 ここまで来ると、もはや相場師であり、鎌倉後期の好景気が良くも悪くも有徳人たちのマネーゲームによって支えられていたことは、もっと留意されていよい。

 

 →今と一緒。

 

P82

 さて、この時代の有徳人の特徴として、僧侶が多いことが挙げられる。

 

 →檀家の永代供養を行うために、寄進された資金を増やしていくスキルが不可欠。寺院の財産は仏物で、借りた金を踏み倒すのは心理的抵抗があるから、寺院が貸金業を営むのは合理的。ある程度まとまった資金がプールされているところは地域の有力寺院ぐらいしかないため、寺院が融通を行うことは、社会からも期待されていた。

 荘園経営に必須の読み書きや計算能力を持つものが寺院社会には豊富に存在した。

 人脈と情報を獲得するには、寺院に身を置くことが最も手っ取り早かったから。本寺・末寺の関係によって中央の大寺院と関係をもつ僧侶は、中央とのコネを作りやすい。

 

P83

 このように地方寺院は、人・財物・情報が集まる地域社会のセンターであった。有徳人は僧侶の立場で地方寺院に関与することで、〝地元の名士〟として多彩な経済活動を展開することができたのである。

 

P84

 ただし、金持ちは人々の標的になりやすい。そこで有徳人は、前出の淵信がそうであったように、自前の武力を持つことで自衛し、さらには武力を荘園支配に活用した。

 逆に、武士出身の僧侶というタイプの有徳人もいる。僧侶になってからも武士としての属性を捨てないので、正確には「坊主の姿をした武士」というべきかもしれない。学界では、このような存在を「僧形の武士」などと呼んでいる。

 

P86〜88

 本家・領家・預所下司・地頭はそれぞれ荘園から何らかの収入を得ており、この取り分のことを「得分」といった。職務と引き替えに「得分」を得る権利のことを「職」と呼び、それぞれ本家職・領家職・預所職・下司職・地頭職という。(中略)これを学界では、永原慶二の命名に則り「職の体系」と呼んでいる。

 この「職の体系」論に対しては、近年、図式的な理解だという批判が提出されている。確かに「職の体系」論が提示する中世荘園のイメージはあまりにも整然としすぎている。(中略)実際には、一つの荘園に本家・領家・預所がすべて揃っているとは限らないし、おのおのの「職」の職務や権利は最初からアイマイであり、権限が競合することは少なくなかったと思われる。(中略)

 

 →複雑な権利関係を整理するための方法が「下地中分」。相互の排他的な支配権を認め合うようになるため、「本所一円地」と「地頭一円領・武家領」に分かれる。これを網野善彦が「一円化」と呼んだ。

 

 右に見たような本所と地頭との間でのトラブルだけでなく、本家と領家、本家と預所の間での訴訟も、この時期には多く見られる。争点は、本家の人事権の有無である。つまり、本家が領家や預所を自由に解任できるのか、それとも領家や預所は本家の恣意によって解任されることはなく、後任も自分で決められるのか、ということである。荘園ごとに事情が異なるので、どちらが勝つかはケース・バイ・ケースだが、いずれにせよ、片方の権利が圧縮され、その分、もう片方の権利が伸長するので、権利関係は単純化される。こうした諸々の現象を、中世史研究者は「一円化」と総称しているのである。

 

P89

 現在、荘園制の評価をめぐっては議論百出し、定説を見ない。このような研究段階において「一円化」の要因を探るのはなかなか難しい。そのためか、近年は目先を変えて、蒙古襲来に伴う鎌倉幕府の軍制改革の影響を指摘する意見もある。高橋典幸氏によれば、「本所一円地」という表現は鎌倉末期に成立したものであり、非御家人を軍事動員するために案出された法的用語であるという。幕府が全国の所領を「武家領」と「本所一円地」とに弁別する過程で、土地の権利関係が整理されていくという可能性は確かに想定される。

 

P90

 実はこのような変化(嫡子単独相続)は武士の世界でのみ起こっていたのではない。市沢哲氏によると、鎌倉後期になると貴族の世界でも分割相続から単独相続へと移行し始めるという。(中略)

 特に水田を耕作する場合、同じ用水を使う家々が団結して水を配分・管理することが必要であり、水利を軸に農作業の共同組織が自然と生まれる。一般的にはこれが「村」に該当するのであって、武士や貴族などの領主の所領は、実質的には村の集合体といえる。つまり経営の最小単位は村であり、村を分割して相続するというのは、基本的には難しい。したがって、ここで分割相続はストップすることになる。

 新しい荘園が次々と立荘された十二世紀中後期には、王家や摂関家が潤沢な資金によって大規模な土地開発を行なった。鎌倉時代にも在地領主(武家)が荘園領主(公家・武家)の下で未墾地の開発や荒野の再開発を営々と続けていくが、そうした開発が限界に達するのが鎌倉後期だった。むろん大規模な灌漑工事を行なえば、低湿地などで新田開発を展開することも可能であるが、当時の技術では難しかった。簡単に開発できるところは開発し尽くしてしまったのが十三世紀後期の状況だったのである。

 

P91

 家の存続を最優先するためには仕方ないのかもしれないが、ロクに土地をもらえなくなった庶子にとっては、たまったものではない。農業経営という〝本業〟での成功を諦めた次男三男たちの一部は寺に入って〝財テク〟に走った。結果、運良く儲かった連中が「有徳人」だ。(中略)

 他方、農業生産に依拠する本家や領家、地頭といった領主層は、これ以上の耕地の拡大が見込めない中、耕地面積あたりの収穫量を増やすべく二毛作などの工夫を進めていく。しかし、限られた面積の土地に資本と労働力を集中投下することで生産高を増やすという方式を採る場合、一つの土地を複数の権利保有者が併存する「職の体系」的な領有体系は甚だ不都合である。領家が「これからはここの土地を二毛作にしよう」と言ったときに、地頭が「私に断りもなく勝手に新しいことを始められたら困りますね」と横やりを入れてくるかもしれない。

 粗放的な農業経営ではなく、限られた農地をきめ細やかに利用しようとした場合、権利を声高に主張する他者を淘汰していかなければ話が前に進まない。これが「一円化」現象の本質ではないか、と私は考えている。要は限られたパイの奪い合いであり、この熾烈なサバイバルが刑事事件に発展すると、幕府や朝廷から「悪党」問題といして認識されることになるのである。

 

 →これにはパリア海退も影響しているのだろう。

 

P94

 寺田一族は矢野荘重藤名を代々本拠地としてきた地元の人間であり、鎌倉幕府の成立により、半ば便宜的に御家人に組み入れられた。ただし、挙兵当初から源頼朝に付き従って戦った東国武士の末裔である東国御家人に比べると扱いが低く、寺田法念も幕府から地頭に任命されることはなかった。こういう法念のような西国土着の武士で、東国御家人よりワンランク下の御家人を「国御家人」という。

 

P96

 こういう説明を聞かされると、「寺田法念、大暴れだな」と思うかもしれないが、実際にはかなりスケールの小さい戦いだったようだ。

 

 →小川弘和氏の研究によると、寺田一族の兵力は二十人程度。本所=荘園領主である東寺が動員した軍事力は名主や百姓であり、武士は参加していない。せいぜい数十人で、戦っているのは素人に毛が生えたような連中。

 

P97

 東寺の命を受け寺田一族と対戦した名主は、後に東寺に対し、自分がいかに勇敢に戦ったかを力説している。だが、弱小御家人にすぎない寺田一族が20年近くも抗戦していることを踏まえると、この種の武勇伝を額面通りには受け止められないだろう。たぶん彼らは本気で戦っていない。「命懸けで戦いました!」という自己主張とは裏腹に、残された史料からは一連の合戦における戦死者を見出すことができないのである。

 この時期の「広域的な在地領主連合」なるものの実態は、流動的というか、かなり脆弱なものであった。『峯相記』が描くような強大な武力集団は成立していない。なので、鎌倉後期の「悪党」を、南北朝期の「一揆」の前提として高く評価することには、慎重であるべきだろう。

 

P99

 しかし、近年の研究では、楠木氏は御内人、赤松氏も六波羅探題配下の御家人であったことが指摘されている。反体制派どころか、完全に体制側の人間だったのである。

 右に掲げた諸説に共通していえることは、体制から疎外された勢力が蜂起し、体制を打破するという筋立てである。読者諸賢はすでにお気づきであろう。そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない。

 

P100

 そもそも前近代の権力はおしなべて専制的であるので、「専制支配への不満が高まり、体制打倒の機運が生じた」といった説明は無内容なのだ。日本の保守派の評論家は10年以上前から「民衆の生活を省みず先軍政治を続ける北朝鮮の命脈は長くない」「貧富の差が拡大し続ける中国はいずれ崩壊する」と説いてきたが、ご覧のとおりである。

 現代日本も同じだ。「今の政治に不満を持っていますか?」と質問したら、ほとんどの人が「はい」と答えるだろうが、だからといって現在の政治体制が革命によって崩壊することはあり得ない。結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論は、革命の実現を熱望したマルクス主義歴史学の残滓でしかない。

 研究が今後さらに進めば、もしかしたら鎌倉幕府滅亡の根本的原因がわかるようになるかもしれない。だが、現時点では「分からない」が良心的な回答である。分からないのにムリヤリ答えを捻り出しても仕方ない。

 

P101

 そこでひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか。「階級闘争史観」の影響が残っているからか、日本の歴史学界では体制崩壊の直接的契機より体制の構造的矛盾を指摘した方が偉いという風潮があるが、体制への不満分子を「発見」して「これが体制崩壊の根本的要因だ。〇〇は滅ぶべくして滅んだ!」と決めつけることが生産的とも思えない。鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけを真剣に考えてみることも必要だろう。

 

 →内部矛盾を指摘することも大切だが、きっかけ・契機をきちんと説明することも大切。トリガーがなければ結果は生じないわけだから、きっかけも理由の1つとして尊重するべき。結局、たった1つの原因によって何かが起きるわけではなく、複数の要素が偶然に絡み合うことで、物事は生起するという考えに改めなければならない。

 

 そのように発想を転換した場合、楠木正成の果たした役割は極めて大きい。元徳三年(1331)四月、吉田定房の密告により後醍醐天皇の倒幕計画が幕府にもれ、幕府が後醍醐の処分を決めかねている間に後醍醐は京都を脱出、九月には山城国(現在の京都府)の笠置山(上の地図参照)に立て籠った。楠木正成はこれに呼応して挙兵し、河内国の赤坂・千早の両山城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪)を拠点に一年半にわたって山岳ゲリラ戦を展開したのである。

 大軍をもってしても千早城を落とせない、楠木正成一人に振り回されている。そんな幕府の体たらくを人々が目にしたことで、鎌倉幕府、というか北条氏の〝不敗神話〟が崩れていく。勝ち続けることで支配の正当性を維持してきた北条氏にとって、これは致命傷であった。人々が〈鎌倉幕府の存在しない社会〉という可能性を創造し始めたことで、今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出していく。

 市沢哲氏は、千早城を攻囲する武士たちが、厭戦気分にとらわれていく中で倒幕という選択肢の存在に気づき、その意思を共有していったのではないか、と推測している。千早城合戦は鎌倉幕府にとって蟻の一穴だったのである。

 

 

第三章 南北朝内乱という新しい「戦争」

 

P111

 この年の差一つの同母兄弟は実際に仲が良かったようで、直義を救うために尊氏が出陣したというのは強ち創作とも思われない。安田次郎氏は、そもそも中先代の乱で尊氏が出動命令を待たずに京都を飛び出したのも、北条時行の猛攻を受けて敗走中だった直義の身を案じたからではないか、と推測している。だとすると、兄弟愛が建武の新政を崩壊させたことになってしまうが、歴史の真相は案外そんなところになるのかもしれない。

 

 →これは結局、研究者がどの要素を原因とみなすかという、研究者自身の常識を提示しているだけにすぎないことになる。絶対的な原因など、存在しないのではないか(小坂井著書)。そうすると、歴史学のような因果関係を説明することを主目的とした学問の存在意義はどうなるのか?

 

P113

 尊氏は九州で少弐頼尚ら地元の武士に迎えられる。同年三月、尊氏は筑前多々良浜(現在の福岡市東区)の戦いで後醍醐方の菊池武敏の大軍を撃破、九州の制圧に成功した。

P114

 私たちは尊氏が最終的に天下を取ることを知っているので、「ああ、ここで態勢を立て直したのね」と軽く流しがちだが、現実には圧倒的に不利な戦況から逆転した奇跡的大勝利であった。

 

 →現代人は結果を知っているため、歴史を現在の視点から俯瞰的に見てしまい、可能性の高低で出来事を評価してしまいがちだが、当時の人にとってみれば、戦争で勝つか負けるかの可能性は、常に50%が提示されているにすぎない(一ノ瀬著書)。

 

P128

 右に見える南北朝内乱期の過酷さに比べれば、鎌倉後期の「悪党」事件なんぞ、所詮は小競り合いである。

 

P129

 鎌倉幕府では、出陣する御家人が兵糧米、つまり食糧を自弁するのが原則であった。鎌倉時代の戦闘は短期的・小規模だったので、これでも問題なかったのだが、南北朝時代に入り、大規模な遠征がしばしば行われるようになると、この方式では餓死してしまう。この結果、採用されたのが、兵糧米の原始調達方式である。

 

P130

 現地調達で戦争が継続できなくなるのは、弾薬の消費量が飛躍的に増加した第一次世界大戦以降である。それまでは、洋の東西を問わず、現地徴発で軍隊を養うことがスタンダードな手法だった。

 

P131

 占領統治を行うとなると強奪ばかりもしていられないが、通過するだけの地域からは遠慮なく強奪できる。文字通り「後は野となれ山となれ」である。昔から歴史家は、(北畠)顕家軍の快進撃を見て「大軍なのに驚異的スピード!」と驚いてきたが、発想が逆である。大軍が食っていくには移動し続けるしかないのである。(中略)

 なお大豆は主に馬の飼料として挑発したと考えられる。

 

P132

 近代軍事学創始者であるクラウゼヴィッツは『戦争論』において、「軍の必需を賄うには、人口の稠密な土地の方が、人口の希薄な土地よりも遥かに容易である」と指摘している。狙うなら農村より断然都市なのだ。北畠顕家が鎌倉を二年半で3回襲ったのも、同じ理由だろう。

 近年の研究は、南北朝内乱が、当時「市町」と呼ばれた地域的流通拠点の争奪という形をとって進行したことを明らかにしている。この理由について、在地領主が地域の交通・流通の要衝を支配下に置くことで、当該地域のヘゲモニーを握ろうとしたのではないか、と推定する研究者もいる。そうかもしれないが、より即物的な理由として、「市町」に眠る大量の糧食が目当てだったということも考えられよう。

 

P132

 とはいえ、現地調達はどれだけの食糧が得られるか予測不可能であるし、進軍がストップして一地点に長逗留するハメになると、得られる食糧はどんどん少なくなる。かように不確定要素が大きいので、現地調達のみに依存することはできない。やはり事前にある程度の食糧を確保する必要がある。そのための有力な手段が兵粮料所の設定であった。

 

P134

 敵方所領にも設定しうるという性質(いわゆる「切り取り次第」)を考慮すると、兵粮料所は現地調達にも有効な仕組みである。実は、武士たち自身が食糧徴発に出かけることは大将・守護からすると好ましくなかった。それは別にモラルに反するからではなく、軍の規律が乱れ進軍に支障をきたすからである。その意味では、兵粮料所を設定し荘園側に兵粮米を供出させるほうが、略奪は略奪でも、よりスマートな略奪と言える。

 小林一岳氏は兵粮料所からの兵粮米徴収を「略奪の体制化」と呼ぶ。クラウゼヴィッツは食糧の現地調達法として「軍隊自身の徴発による給養」と、行政組織を介した「正規の徴発による給養」の二タイプを挙げ、後者を「最も簡単で最も有効な給養方法」と評したが、「掠奪の体制化」たる兵粮料所の設定は、後者のタイプに該当するだろう。

 

P137

 既述の通り(P133)、兵粮料所の設置について、幕府は現場の指揮官にほぼ一任していた。現地でなし崩し的に進行する兵粮料所の設定に対し、幕府は追認するか抑制するかという形でしか関与できず、兵粮料所の戦略的配置といったものは想定できない。

 松永(和浩)氏が検討素材として取り上げた一連の幕府法令からは、「方針転換」と呼ぶほどの劇的な政策変更は認められない。保護の度合いは時期によって異なるものの、寺社本所領保護の方針は一貫していると見るべきであろう。現地武士の兵粮料所設定(事実上の略奪を含む)に対して、幕府は「寺社本所への返付」と言う立場(タテマエとしては)崩していないのだ。したがって主語による半済は軍事政策だが、幕府の半済令は軍事政策ではない。

 

P140

 室町〜戦国時代における民衆の戦争参加を検討した藤木久志氏は、武家の兵が敵正面に当たるのに対し、軍事動員された民衆は後方に配備され、落武者狩りや通路遮断を担ったと論じている。いわば補助的な戦闘員であり、その戦力を過大視することはできない。藤木氏の指摘を参考にすると、南北朝時代の「野伏」は右の動員体制の先駆と言えるのではないか。

 ただし、室町期においては、民衆の武力は村単位で組織され、守護の軍隊とは独立して行動している。一方、南北朝期の「野伏」は大将の指揮下に入っているように見える。「(幕府方大将の今川満範が)甲百余・野伏三百余人差し遣わし候いおわんぬ」(「禰寝文書」)といった記述からは、「甲」つまり完全武装の武士に付き従う形で、「野伏」=軽装の農民兵が援軍として派遣されたことがうかがえる。この点に、南北朝期と室町期の段階差が認められよう。

 

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 戦国時代には「野伏」を「本格的先頭の前の小競り合い」の意味で用いる事例が見られ、「野伏合戦」も、主力同士の会戦とは区別される、小規模な戦闘を指す可能性がある。

 したがって、この時期の「野伏」部隊=農民軍の活動を過大評価するべきではないだろう。

 

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 高度な技術を要する弓矢から扱いやすい太刀・槍へ、と言う説明もしばしばなされるが、軍忠状(126頁)や合戦手負注文(合戦における負傷を申告したもの)で見る限り、南北朝時代の戦傷では矢による傷が圧倒的に多い。この時代に徒歩斬撃戦が流行したとは到底言えない。

 南北朝期の合戦の壮烈な白兵戦として描いた『太平記』の影響もあり、当時の戦闘員がたいへん勇敢であったと私たちは錯覚しがちである。だが彼らとて人間、死にたくはないので、できるだけ接近しないで敵を殺傷しようと、遠矢での戦闘を志向したのである。

 とはいえ、軍忠状などに記された戦闘状況を踏まえると、接近戦が無視できない比重で起こったことも、また事実である。この問題について、功名の証として敵の首を取るために刀や槍を奮って戦う必要があった、と言う鈴木眞哉氏の推定が正鵠を射ていると考える。つまり、遠矢によって敵を崩したうえで、白兵戦になだれ込むのである。

 

 →こんな武士たちが、なぜ負けると切腹するのか? 切腹に身分や役職による階層性はないのか?

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 旧来の研究では悪党・野伏の活躍という先入観から、太刀や槍で戦う歩兵(これを専門用語で「打物歩兵(うちものほへい)」という)の増加が、従来の「戦争」とは異なる南北朝内乱の最大の特徴である、と論じられてきた。だが近藤好和氏は、太刀や槍を持った騎馬武者(「打物騎兵」という)の登場や、弓矢を持った歩兵(「弓射歩兵」)の増加にこそ注目すべし、と主張している。

 近藤氏によれば、南北朝期になると三枚打弓(さんまいうちゆみ)という飛距離の長い弓矢が使われるようになり、これに伴い、敵に接近してピンポイントで狙う騎射よりも遠距離からの歩射(かちゆみ)の方が有利になったという。この時期に楠木正成の赤坂城・千早城赤松円心の播磨白旗城(現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松に所在)など、天然の要害を利用した常設の城郭、いわゆる「山城」が出現したことも見逃せない。攻城戦(守側から見ると籠城戦)においては、互いに歩射の遠矢にならざるを得ないからである。そして弓射歩兵は楯の陰から弓を射るので、防具は軽装になる。

 

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 歩兵が弓射を担うようになった結果、騎兵は弓射から解放され、打物戦(うちものせん)に参加するようになる。騎兵同士で打ち合う馬上打物戦はすれ違いざまに相手を攻撃する一撃離脱方式であり、チャンバラをするわけではない。言うまでもなく彼らはれっきとした武士であり、依然として中核的な戦力であった。

 

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 では、南北朝内乱期は前代の戦争と、どこが異なるのか。遠戦志向の発達は一目瞭然であるが、戦術面の革新とまでは言えまい。むしろ遠征・長期戦・大規模戦の増加によって食糧の確保が最優先課題に浮上した点に、南北朝内乱の最大の特色がある。(中略)

 これは戦国時代にしばしば見られる「付け城」、南北朝時代の史料でいうところの「向城(むかいじろ)」「近陣(きんじん)」「詰陣(つめじん)」にあたると思われる。すなわち、小田城に攻めかかるのではなく、援軍の到着を待ちつつ小田城への糧道を断つことで籠城軍を屈服させる持久作戦である。この「向城」作戦は、南北朝期に攻城側の戦術としてポピュラーになった。

 このように、籠城している味方を援護するために攻城軍の背後を脅かす軍勢を「後詰(うしろづめ)」「後巻(うしろまき)」「後攻(うしろぜめ)」などと呼び、南北朝時代には「後詰」作戦が盛んに用いられた(ちなみに戦国時代になると再び流行した)。そのため、「後詰」の武士が敵の包囲を突破して城中に兵粮米を運び入れたら軍功にカウントされたし(「毛利家文書」)、逆に城中に兵粮米を運び入れる人夫を攻城側の武士が捕らえることも戦功として賞賛された(「野上文書」)。

 すなわち、『太平記』が描写する壮絶な白兵戦や巧妙なゲリラ戦ではなく、兵粮と将兵の争奪戦こそが当該期の「戦争」の真の姿であり、正面攻撃を極力回避した点に〝新しさ〟を見出すべきであろう。

 

 

第四章 武士たちの南北朝サバイバル

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 この時代の軍忠状を見ていると、「身命を捨てて」戦った、といった表現にしばしば出くわす。恩賞をもらうためには自分の武勲を強調する必要があるので、軍忠状の表現は基本的に大げさになる。こうした記述を真に受けたわけではないのだろうが、かつての内乱史研究は、武士たちが南北朝内乱を〝成り上がり〟の好機と捉え、喜び勇んで戦争に向ったかのごとく論じてきた。これはもちろん、武士たちを変革の主体とみなす「階級闘争史観」に根ざした捉え方であった。

 

P151

 後ろ髪を引かれる思いで出陣し、戦場でも故郷の妻子を気にかける─「高幡不動胎内文書」から浮かび上がる内乱期の武士の〝軟弱〟な姿は、これまでの研究が想定していた勇壮なそれとはかけ離れており、中世史学界に衝撃を与えた。

 

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 戦争に青年・壮年の男性が動員されるので、小さな武士団の場合、家に残るのは老人・女性・子どもだけ、ということも少なくない。もし戦地から男たちが帰って来なければ、その家の所領経営はたちまち破綻の危機に直面する。周辺の武士から侵略を受ければ、なす術がないからだ。

 従軍を嫌がる武士たちは、何も臆病なわけではない。彼らは自分が死ぬのが怖いというより、おのれの戦死によって遺族が生活できなくなり家が滅びることを恐れていたのである。中世においては、戦死は最高の戦功とされ遺族には恩賞が与えられたが、これは、そうでもしなければ武士たちが命の危険を冒してまで戦おうとはしなかったからである。

 もっとも、南北朝期の恩賞は、かなりアバウトなものだった。前章で説明したように、敵方所領を恩賞として与えるが敵方勢力は自力で排除せよという「切り取り次第」パターンも多かったので(133頁)、恩賞地を実際に支配できるかどうかは定かでなく、上部権力から拝領した証明書が単なる紙切れになることだってあった。

 

P154

 →相知秀は勲功により愛甲荘を恩賞としてもらった。しかし、相知秀は戦死。幼い息子はこの所領を実効支配できず、結局は手放す。

 

 こうした空手形に命を賭けるだけの価値があるかどうか、はっきり言って疑問である。

 この時代、指揮官が武士たちに「戦場に来なかったら所領を没収するぞ」「もし遅れたら、どうなるかわかっているだろうな」とおどしをかけるのは日常の風景だった。裏を返せば、それだけ不参・遅参する武士が多かったと考えられる。もちろん彼らは死にたくなかったのである。

 内乱が長期化し一族や家人の戦死者が増えていくにつれて、「戦争への参加は割に合わない」という認識が武士たちの間で広まっていく。従軍拒否や戦線離脱の増加という事実から目を背け、武士たちを変革の主体として位置づけているかぎり、当該期の「戦争」の実態に迫ることはできないだろう。

 

P155

 正確に言えば、南北朝内乱の前の、元弘の乱の段階から、合戦に参加する当主や子息の戦死を想定した所領配分・訓戒が多く見られるようになる。

 

P156

 幼い孫や女子など戦場に行かない者に所領を預けるという行為からは、全滅を覚悟して出陣していく武士の悲壮感が見てとれるだろう。

 

 新井孝重氏が指摘するように、「力こそ正義」の時代において、身体に障害があっては、在地領主としての務めに支障をきたしたであろう。戦傷が戦功としてカウントされたのも、そのためである。

 

P157

 (家人が従軍してしまうと、残された)女性と子どもだけでは、百姓にも舐められてしまうのである。

 

P159

 つまり、武士の場合は、ちょっとしたミスが命取りになりかねない、というのである。

 武士は戦うことが仕事なのだから当然でしょ、と思うかもしれないが、こういう緊張感に満ちた置文は、鎌倉時代には見られない。彼らは明らかに「今は非常時である」と認識していた。南北朝内乱の勃発によって、武士たちを取り巻く環境はガラリと変わってしまったのである。

 

P161

 第3の対策は兄弟惣領である。南北朝初期の武士の「家」では、惣領が足利尊氏に従って京都周辺で活動する一方、惣領の弟が留守を預かり、一族・家人を統率する、というパターンがしばしば見られる。惣領の弟は複数いることが多いが、その中の一人(惣領の同母弟など)が惣領の権限を代行するのだ。この惣領と「特別な舎弟」が惣領権を共有する南北朝期特有の構造を、田中大喜氏は「兄弟惣領」と呼んでいる。

 

P162

 将来的には単独相続に戻すべきだが、現状では均分相続にする。このようなイレギュラーな相続法を入来院氏が採用した社会的背景は、一つしか考えられない。ズバリ、内乱状況雨である。

 

P163

 このような、惣領の代官もしくはスペアという役割を担う「特別な舎弟」に対する経済的配慮は当然の措置と言えよう。要するに兄弟惣領とは、「非常時」を乗り切るための武士たちの危機管理策であり、一時的なものにすぎなかった。

 武士たちを変革の旗手とみなした戦後歴史学は、内乱を利用して武士が成長していくという側面を強調してきた。だが、現実には、内乱は分割相続から嫡子単独相続へという流れを阻害し、さらには逆流させてしまった。武士たちにとって、本当に内乱はチャンスだったのだろうか。むしろ内乱という〝災難〟から身を守るのに必死だったように、私には見えるのである。

 

 しかし、このような措置は、「家」が断絶するリスクを軽減する上で一定の効果をもたらした反面、場合によっては嫡子の地位を相対化しかねない危険性を孕んでいた。

 

P164

 もっとも、第一章でも見たように、兄と弟が争うといった事態は今にはじまったことではない。骨肉の争いじたいは超歴史的に観察され、珍しくもなんともない。南北朝期の一族間紛争の特徴は、一族内部の対立が上部権力の抗争と結びつくことで、対立が決定的なものになるという点にある。惣領が北朝につけば、惣領と対立する庶子南朝方になる、という形で、地域でも大規模な戦闘が発生したのである。

 

P165

 俗に「歴史は勝者が作る」というが、現代に伝わった武家文書は、基本的に勝ち残った武士たちの文書である。〝勝ち組〟の文書ばかり見ていると、武士の成長・発展という側面に目を奪われがちだが、成功者の陰で没落・滅亡した家も少なくなかったであろうことに留意すべきだ。

 

P167

 親子が敵味方に分かれる(当時の言葉で「父子各別」という)

 

P173

 観応の擾乱の勃発は、「平和」の到来を期待しつつあった武士たちを仰天させた。前著『一揆の原理』で、南北朝期内乱が武士の一揆(学界では「国人一揆」という)を生み出したと述べたが、より厳密にいうと、国人一揆の結成が本格化するのは、観応の擾乱以後である。尊氏・直義・南朝が離合集散を繰り返し政治情勢が混迷を深めた結果、先の見通しがまったく立たなくなったことが、一揆結成ブームにつながったのである。

 

P176

 山内一族一揆契状から浮かび上がるのは、内乱に乗じた武士たちの軍事行動が、さらなる内乱の拡大を生むという壮大なドラマではなく、中央政局の混乱に翻弄される地方武士の悲哀に満ちた姿である。

 

P177

 遼遠渡海により、大略故障せしむるといえども(はるばる渡海しなくてはならないため、多くの御家人が参加を断るなか)

 

P179

 在陣のために長期間にわたって本領を空けた結果、恩賞をもらって所領を拡大するどころか、本領を近隣武士に侵略される。「正直者が馬鹿を見る」ではないが、内乱の長期化によって、幕府の出陣命令に素直に従って遠征に参加することは、メリットよりもデメリットの方が大きくなってしまったのである。やがて山内氏も、地域密着型武士へと方針転換する。

 

P180

 南北朝内乱という大規模戦争の勃発は、「一円化」の流れを停滞、逆流させた。そして、北朝南朝という不毛な「戦争」から下りて、「一円化」に千年した武士だけが、生き延びることに成功したのである。

 

P182

 これは、敵方から降参してきた武士の所領の半分を没収し、半分は安堵するという「降参半分の法」の適用によるものだった。(中略)

 

 既述の通り、内乱期には当主が討死することが珍しくなかったので、幼少の新当主が出現する確率は非常に高かった。そして、幼少の当主が自己の所領を防衛するためには、一族・近隣武士と一揆を結ぶ必要があった。このような「非常時」特有の危機への対応として、国人一揆は成立したのであり、鎌倉期の在地領主連合の単純な延長として把握することはできない。

 

P184

 以上のように、普段は友好的な関係にある一族・近隣との激突も想定しなければならない「非常時」への対応として、一揆契約は締結された。したがって一揆契約とは、まさしく〝戦時立法〟であって、単なる親和・協力関係に留まる鎌倉時代の領主結合とは一線を画すものだった。

 

P186

 南北朝時代の武士たちは、上から〝有事法制〟を押し付けられるまでもなく、自ら知恵を絞って生き残るための術を案出していった。彼らは、戦後歴史学がもてはやしてきたような命知らずの革命児ではなかったが、少しでも判断を誤れば命を落としかねない極限の状況下で必死に生きようとしたことには、率直に敬意を表したい。

 

 

第五章 指揮官たちの人心掌握術

 

 →これまでの歴史学は、何らかの変動の原因を社会構造的に理解しようとする傾向が強すぎたのではないか。もっと当時の人々の直面している現象(事件や戦争、飢饉や災害など)に注目し、その直接の影響によって状況が劇的に変化していくという現象を正確に捉えておかなければ、史観に影響されすぎて正しい認識が得られなくなる可能性がある。

 

 

P212

 南北朝時代になって新しく出現した文書に「軍陣の御下文」がある。(中略)要するに、戦場に駆けつけた武士に対して、その場で将軍が安堵状や充行状(124頁)といった下文を与えるということだ。

 本来、所領を安堵したり恩賞を与えたりする時には、厳格な審査が必要である。しかし、武士たちを味方につけるためには、迅速に下文を発給することが望ましい。そこで、審査を省略して、参陣してきた武士に機械的に下文をあげてしまうのである。

 

P222

 →「勧進」は仲間の勧誘という意味で使用している。

 

P223

 要するに、親房は経忠への憎悪の念から「勧進」=物乞いと見下したというより、経忠の使節の活動がまさしく「勧進」のように見えたから、そのまま「勧進」と評しただけなのではないか、と思うのである。

 

 

第六章 武士たちの「戦後」

P248

 基本的に戦後歴史学は、革命が大好きなので、「なぜ内乱が始まったか」という命題は熱心に論じてきたが、「なぜ内乱が終わったか」という問題には関心を寄せてこなかった。要は、そういう景気の悪い話はしたくない、ということなのだろう。武士たちが変革への情熱をずっと持っていた、と歴史学者は考えたいのである。

 しかし、現実は現実である。「革命」が達成されたから、内乱が終わったのではない。変化を嫌い、冒険を避け、安定を求める気持ちが武士たちの間に芽生えてきたからこそ、内乱は収束へと向かったのである。

 

P256

 では、なぜ細川頼之は、応安大法を大々的にぶち上げる必要があったのだろうか。もともと半済は、観応の擾乱の勃発に伴い「勇士の懇望」「戦士の要須」(武士たちの要望)に応える形で特例的・一時的に幕府が認めた軍事的措置であった。つまり半済は戦乱の象徴であった。

 その半済を大きく制限する応安大法の発令は、〝戦時体制〟の終了を意味する。幕府による全国支配、完全なる平和の実現がまもなく訪れることを内外に印象づけ、新しい為政者たる足利義満の威信を高めることにこそ、応安大法の真のねらいがあったと考えられるのである。

 

 

終章 〝戦後レジーム〟の終わり

P303

 しかし、近年の家永遵嗣氏の研究によると、日野富子山名宗全の提携というのは同時代史料には見られず、後世の軍記物『応仁記』の創作であるという。我が子かわいさで大乱を引き起こした悪女、という日野富子のイメージも実はここから来ている。現実の宗全はむしろ義視と親しく、義視が将軍になることは宗全にとって望ましかった。実際、応仁の乱の前年に発生した文正の政変で、宗全は義尚の乳父(養育係)である伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。これより義視の将軍職継承はほぼ確定したので、将軍後継問題は応仁の乱とは無関係である。

 乱の直接の引き金となったのは、一四六七年正月の足利義政の決定である。すなわち義政は、細川方の畠山政長を畠山氏惣領の座から引きずり下ろし、山名方の義就を新惣領と認定した。これに抗議して政長が管領職を辞すると、後任に宗全の娘婿である斯波義廉をすえた。

 この一連の政変を仕掛けたのは、いうまでもなく山名宗全であった。山名宗全斯波義廉畠山義就は京都に大軍を集めていたので、クーデター的な性格を持っていたと評価できる。山名宗全足利義尚を将軍にするためではなく、政権掌握という自らの野望のために動いたのであり、これに対し細川勝元が反撃に出たことで、諸大名は応仁の乱へとなだれ込んでいった。その意味では、宗全こそが応仁の乱の火付け役、張本人だったといえよう。

 

P310

 だが前著『一揆の原理』で指摘したように、京都を襲う土一揆の主体は京都の住民ではなく、むしろ土倉に対して債務を負っていない京都近郊の農村の百姓であった。(中略)

 この時期は飢饉が頻発しており、窮乏した民衆が富の集中する京都へと押し寄せてきた。そうした窮民の一部は京都で物乞いを行なったが、中には食糧や財物を強奪する者もいた。このような京都に出て富を奪おうとする飢餓難民の動きを組織化したものが土一揆なのである。もちろん、村でつまはじきにされたアウトロー、ならず者が一旗揚げようと京都に出てきて、悪党になるケースもある。かくして京都では強盗や悪党が日常的に出没するようになり、放火や略奪が相次いだ。悪化の一途をたどる京都の治安状況が足軽誕生の前提になったことは明らかだろう。

 幕府・守護に仕えている下級武士や主家の没落によって失職した牢人たちも土一揆に加わった。こうした「大将」に指揮された土一揆の戦闘力は侮り難いものがあった。土一揆の標的になる土倉や寺社は自衛のため、腕に覚えのある者たちを集めて用心棒とした。言うまでもなく、こういった連中は、場合によっては、土一揆に参加して土倉や寺社を襲撃する側に回りかねない。だが、京都の治安が乱れに乱れている状況では、そういうあやしげな傭兵たちに頼るしかなかったのである。

 このような悪党への依存は、土一揆を鎮圧する側の幕府や守護についても見られる。京都の犯罪を取り締まる任務を担う骨皮道賢という犯罪者を起用していることが象徴するように、土一揆に組織されてもおかしくないような悪党たちを、幕府や守護は足利として積極的に取り込んでいった。真っ向から対立しているかに見える土一揆土一揆鎮圧軍は、どちらも京都の闇社会を人員の供給源としている意味ではつながっているのである。

 

P311

 応仁の乱が繰り広げられている間、土一揆は京都から姿を消すが、土一揆の原因である飢饉が収束したわけではないし、民衆の暮らしがよくなったわけでもない。生活苦から土一揆に参加して京都で略奪を行なっていた人々が、今度は足軽として京都で略奪を行なうようになったにすぎない。つまり、土一揆の武力が、足軽という形で諸大名に吸収されたのである。

 応仁の乱は単なる権力闘争、武力抗争ではなく、その底流には、それまで40年近くにわたって続いた窮民の京都流入という深刻な社会問題があった。室町幕府は度重なる土一揆の蜂起に場当たり的に対処するだけで、食糧問題・貧困問題に解決するための抜本的な対策を取ろうとはしなかった。その結果、幕府は応仁の乱という破局を迎えるのである。

 

P314

 村の武力の発動は基本的に、自衛、そして同盟を結んだ村を守るための〝集団的自衛権〟の行使に限定されていた。永享の山門騒乱の際に幕命に応じて伏見庄が出陣したのも、自衛の延長線上の行為と解される。したがって、幕府が村の軍事力を、地域防衛とは関係のない遠征に駆り出すことは不可能だ。

 応仁の乱が始まると、東軍も西軍も、京都近郊の村々を味方につけようと競って働きかけた。両軍が村々に求めたのは、兵粮の提供もさることながら、村の軍事力による交通路の掌握だった。すなわち敵軍が村々を通過しようとした場合はこれを妨害し、自軍が通過する場合にはこれを援護することを要請したのである。

 たとえば応仁2年(1468)、山科の16の村々は、東軍の命令を受けて東山通路を封鎖し、西軍が東の大津方面から京都に侵入しようとするのを阻止している(『山科家礼記』)。この功績に対し東軍は村々に恩賞を約束しているが、この種の戦功に対する報酬の多くは「半済」だった。ここでいう「半済」は年貢の半分免除を意味する。南北朝時代、武士たちが恩賞としてもらっていた「半済」を、ついに村の百姓たちが手にするようになったのである。

 なお東軍は山科の村々に対して、宇治に進出した西軍を撃退するよう命じたが、山科は宇治への出兵を拒否した。百姓たちは自分たちの生活の場である山科の防衛には全力を尽くすが、故郷を離れて遠征することには否定的だったのである。

 

P323

 断っておくが、だから「戦後レジーム」から脱却しなければならない。九条改正は不可欠だ、と主張したいのではない。たとえ「ただれてくるよな平和」であろうと、自衛隊を国軍化して朝鮮戦争ベトナム戦争に派兵するような勇ましく毅然とした(?)仮想の日本よりも、戦後の日本の歩みの方が断然マシであった、と私は思っている。

 そうではなくて、「一点の曇りもない清らかな平和」を語るのはやめよう、ということである。(中略)

 世界の歴史において、しばしば「恒久平和のための戦争」というレトリックが使われてきたことからもわかるように、〝完璧な平和〟を追い求めることは、かえって戦争を招き寄せる危険がある。後醍醐天皇も、足利義教も、政権の身の丈を超えた理想を追求したために破滅した。