周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

天狗のイタズラ その5 〜戦を起こす天狗〜 (Tengu's mischief ─part5)

  文明十五年(1483)正月二十日・晦日・二月二日・四日条

           (『大乗院寺社雑事記』7─488・493頁)

 

    廿日夜雪下、(中略)

 一当山天狗タヲシ自旧冬度々在之、若宮拜殿衆大略聞之云々、凡先々モ細々在之

  事也、非可驚事也、故上座法眼隆舜ハ正シク於若宮殿聞之之由相語了、

 一雑説、七日・八日両日社頭辺ニ火柱立云々、菩提院方ニ同立云々、神人見之

  云々、真実不知其体如何、凡如此事申沙汰凶也、又天狗両人入南都之由、田舎辺

  及其沙汰云々、是又凶事也、去年正二月比南殿之天狗両人入生駒山辺之由申、

 

  其後三月比細川俄ニ下向、随而又畠山入河内国、以来生駒辺以外時宜也、以之

  (案ヵ)

  安之只今雑説可驚入々々々、

 

    晦日(中略)

 一今朝信貴山炎上云々、可尋之、毘沙門堂并平坊共炎了云々、

 

    二日(中略)

 一信貴山ニ成奉書、無心元故也、

 

    四日

 一信貴山返事到来、公文琳盛書状也、

          (陰)

  自本覚院火出、夜隠之間自火・付火之実否不分明云々、有別子細者重可注進

        (知)

  云々、使者検智分本堂・東谷等坊三十計炎上了、以外事也、本堂ハ応永二年

  焼失、其後建立、不及供養而今度又焼了、去去年正月十四日ニ、為公家之輩習礼

  元日節会之儀被擬之了、於南殿在之、其後白馬節会・十六日節会同前也、及

  十余年一切公事無之間、公家輩一向不覚悟条、無念之間、為習礼也云々、此折節

  此間南殿ニ居住之天狗二人罷出、行向生馬山辺云々、其後細川九郎可在国之由

  二月比より及其沙汰、三月八日畠山左衛門督相伴摂州辺ニ下向、則畠山河内国

        (変)

  入部以下之大辺事共出来、生馬谷・平群谷等其近所高山以下及数箇所発向焼失

  了、生馬ハ大和・河内之堺之山也、天狗之所為以外事也、信貴山炎上可歎々々、

 一去年冬事歟、一向宗息大谷狂乱、天狗来テ相語、准后与将軍御仲事可令違之、

  両方御確執事出来、京中悉以可滅亡之由天狗儀定之、旧冬事也、其後如案両御所

  御仲不穏事出来了、以外事也、

 

 「書き下し文」

     廿日夜雪下る、(中略)

 一つ、当山天狗倒旧冬より度々之在り、若宮拜殿衆大略之を聞くと云々、凡そ先々も細々之在る事なり、驚くべき事に非ざるなり、故上座法眼隆舜は正しく若宮殿に於いて之を聞くの由相語り了んぬ、

 一つ、雑説、七日・八日両日社頭辺りに火柱立つと云々、菩提院方に同じく立つと云々、神人之を見ると云々、真実知らず、其の体如何、凡そ此くのごとき事凶と申し沙汰するなり、また天狗両人南都に入るの由、田舎辺りに其の沙汰に及ぶと云々、是れ又凶事なり、去年正・二月ごろ南殿の天狗両人生駒山辺りに入るの由申す、其の後三月ごろ細川俄かに下向す、随ひて又畠山河内国に入る、以来生駒辺り以ての外の時宜なり、之を以て之を案ずるに只今の雑説驚き入るべし驚き入るべし、

 

    晦日(中略)

 一つ、今朝信貴山炎上す云々、之を尋ぬベし、毘沙門堂并びに平坊ども炎え了云々、

 

    二日(中略)

 一信貴山に奉書を成す、心元無き故なり、

 

    四日

 一つ、信貴山より返事到来す、公文琳盛の書状なり、

 本覚院より火出づ、夜陰の間自火・付火の実否不分明と云々、別の子細有らば重ねて注進すべし云々、使者検知する分本堂・東谷等坊三十ばかり炎上し了んぬ、以ての外の事なり、本堂は応永二年亥焼失す、其の後建立するも、供養に及ばずして今度又焼け了んぬ、去去年正月十四日に、公家の輩の習礼の為元日節会の儀之を擬せられ了んぬ、南殿に於いて之在り、其の後白馬節会・十六日節会同前なり、十余年に及び一切公事無きの間、公家の輩一向に覚悟せざる条、無念の間、習礼を為すなりと云々、此の折節此の間南殿に居住之天狗二人罷り出で、生馬山辺りに行き向かふと云々、其の後細川九郎在国すべきの由二月ごろより其の沙汰に及ぶ、三月八日畠山左衛門督相伴し摂州辺に下向す、則ち畠山河内国入部以下の大辺(変)事ども出来す、生馬谷・平群谷等其の近所の高山以下数箇所に及び発向し焼失し了んぬ、生馬ハ大和・河内の堺の山也、天狗の所為以ての外の事なり、信貴山炎上歎くべし嘆くべし、

 一去年冬の事か、一向宗の息大谷狂乱、天狗来りて相語り、准后と将軍と御仲の事之を違はしむべし、両方の御確執の事出来す、京中悉く以て滅亡すべきの由天狗之を儀定す、旧冬の事なり、其の後案のごとく両御所の御仲不穏の事出来し了んぬ、以ての外の事なり、

 

 「解釈」

     二十日夜、雪が降った。(中略)

 一つ、当寺の天狗倒が昨冬からたびたび起きた。若宮拝殿衆の大多数がこれを聞いたという。だいたい、以前も小規模な天狗倒は起きていたのである。驚くべきことではないのである。亡くなった上座法眼隆舜は、若宮社ではっきりこれを聞いたと語っていた。

 一つ、噂話がある。七日・八日の両日、社殿あたりで火柱が立ったという。菩提院方でも同じく火柱が立ったという。神人がこれを見たそうだ。真実はわからない。その様子はどうだったのだろうか。だいたいこのようなことは凶事だと噂しているそうだ。また、天狗が二人奈良に入ってきた、と田舎あたりで噂になっているという。これもまた凶事である。去年の正月・二月ごろ、南殿の天狗二人が生駒山あたりに入ったという噂があった。その後三月ごろ、細川政元が突然摂津に下向した。したがって、また畠山政長河内国に入った。それ以来、生駒山あたりではとんでもない事態である。この騒乱のことを考えてみると、先ほどの噂話に驚くばかりだ。

 

    晦日(中略)

 一つ、今朝信貴山が炎上したという。この件を尋ねなければならない。毘沙門堂や平坊なども炎上したそうだ。

 

    二日(中略)

 一つ、信貴山に奉書を遣わした。気がかりだからである。

 

    四日

 一つ、信貴山から返事が到来した。公文琳盛の書状である。

 本覚院から火が出た。夜の暗闇だったので、寺自身の失火か放火か、その真偽ははっきりしないという。異なる理由があれば、再び注進せよという。使者が調査した分では、本堂・東谷等坊三十ばかり炎上した。とんでもないことである。本堂は応永二年亥(1395)に焼失した。その後再建したが、落慶法要をしないうちに今度また焼けてしまった。一昨年(文明十三年・1481)正月十四日に、公家たちが作法習得のために、元日節会の儀式に似せて練習した。南殿で行なった。その後、白馬節会・十六日節会も同じように行なった。十数年に及んで朝廷の儀式は一切なかったので、公家たちはまったく作法を覚えていないことが無念であった。だから、練習をしたのである。ちょうどこの期間に南殿に居住している天狗二人が出かけて、生駒山辺りに向かったという。その後、細川政元が摂津に在国するにちがいない、という噂が二月ごろから流れた。三月八日畠山政長を伴って摂津国あたりに下向した。そこで畠山政長河内国に入部するなどの大きな事変が起きた。生駒谷や平群谷の近所の高い山など数箇所に軍勢が向かい、焼き払ってしまった。生駒は大和国河内国の堺の山である。天狗のしわざはとんでもないことである。信貴山の炎上は悲しむべきである。

 一つ、去年の冬のことだろうか。一向宗の息(順如)が正気を失った。天狗がやって来て語った。准后足利義政と将軍足利義尚とを仲違いさせるつもりだ。双方にとって揉め事が起きる。京中は悉く滅亡するはずだ、と天狗は合議した。旧冬のことである。その後、予想どおり、両御所の仲は険悪になってしまった。とんでもないことである。

 

 「注釈」

「若宮拜殿衆」

 ─拝殿沙汰人、拝殿衆。春日若宮社の神楽男や巫女のこと(梅田千尋「近世寺院史料論の課題―興福寺関連史料を中心に―」『国文学研究資料館紀要』6号、2010・3、145頁、https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=810&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。

 

「天狗倒」

 ─てんぐだおし。深山で、突然大木を倒したようなすさまじい音や暴風が起こること。また、強大な者が原因もなしに倒壊すること。天狗のしわざと考えられたところからいう(『日本国語大辞典』)。

 

「菩提院」

 ─大湯屋の南、三条通を隔てた所にある。玄昉の創建と伝承。長和二年(1013)以後は朝欣によって十一面観音(秘仏、稚児観音)を安置(菅家本諸寺縁起集、興福寺濫觴記)。堂は天正八年(1580)に創建された(菩提院大御堂棟札)のを、旧規模で内部鉄筋コンクリート、外部木造の二重構造として昭和四五年修理完成した。この時の発掘調査によって、五間に三間の創建時の建物と、四期に分かれるその後の変遷とが明らかになっている。とくに第三期、十二世紀末の大御堂に付属する鎮壇具が良好な保存状況で出土したことが注目される。本尊木造阿弥陀如来坐像(国重文、鎌倉時代)。ほかに観音・勢至などを安置する。

 菩提院を俗に十三鐘または大御堂ともいう。昔七つと六つの間にこの寺の鐘が撞かれるので、七つと六つを合して十三鐘といわれた。いつしかそれが十三歳の三作という子供が春日の神鹿を殺して石子詰の刑に処せられたという伝説となった。鐘はいま南円堂に移されている(『奈良県の地名』平凡社)。

 

「南殿」

 ─信貴山の南殿という意味か。地名辞典に「南殿庄」という項目もあったので、ついでに書き載せておく。

 三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「三十三南殿庄山内七ヶ所、二階堂方 二十八丁七反」とある。

 興福寺大乗院領荘園であり、喜多院二階堂は預所と考えられる。荘号により、現大字南之庄に比定される。南之庄には南殿歓楽寺(なんでんかんがくじ・高野山真言宗)がある。応永六年(1399)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の山辺郡「大乗院方 南殿庄二十五町小」とみえる。これは寺門段銭・段米賦課の面積であり、実面積ではない。「大乗院雑事記」文明三年(1471)九月二八日条に「南殿庄ハ甲岡知行云々」とみえる。甲岡氏は荘官か。同書の長禄四年(1460)三月五日条に「光宣僧都代官甲岡次郎」とあり、筒井氏一党成身院と関係のあった現大字甲岡(こうおか)の在地武士と考えられる(『奈良県の地名』平凡社)。

 

信貴山

 ─朝護孫子寺。現平群町大字信貴畑。信貴山南東中腹に位置。信貴山朝護孫子寺歓喜院と号し、信貴山真言宗。一般には信貴山寺、信貴の毘沙門天さんと呼ばれる。広大な境内には舞台造りの本堂をはじめ三重塔・多宝塔など多くの堂宇・塔頭がある。本尊毘沙門天は福徳開運の仏として信仰され、縁日寅の日には参詣者が多い。創建未詳。(中略)平安時代の中頃には、山岳密教の寺、修験道の宿として大いに栄えたと考えられ、中世には興福寺の末寺となり、一条院・大乗院両門跡支配となった(後略)(『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

*今回の天狗の悪巧みは、これまで紹介してきた事例以上に、かなりタチの悪いものでした。その1つが戦争です。天狗が動くと軍隊が動く。なんとも物騒な話です。

 この記事を読んでいると、「天狗」はたんなる妖怪変化の類ではなく、実在する人間のように思えてきます。実のところ、『日本国語大辞典』の「天狗」の項には、「修験道の行者。山伏。」という意味も載せられています。用例の典拠が江戸時代の史料になっているので、この意味がどの時代まで遡れるのかはわかりませんが、地域や階層によっては、中世後期でも修験者や山伏を「天狗」と呼んでいたのかもしれません。

 山野を抖擻し、諸国を巡歴する修験者や山伏が、諜報活動や軍事工作を行なっていたのか、工作員が修験者や山伏に扮装して活動していたのかはわかりませんが、こういう輩が活発に動き始めると、その地域で戦が起きる、そんな経験則が畿内では形成されていたのではないでしょうか。戦争の背後に「天狗」=「諜報員・工作員」あり。今年になって始まったロシアのウクライナ侵攻でも、早い段階から胡散臭い天狗が暗躍していたのかもしれません。

 もう一つは、足利義政・義尚親子の仲違いです。一般人親子の仲違いなら大きな問題にもならないのでしょうが、前将軍と現将軍の不和ですから、そのいざこざは自ずと政治問題化し、さまざまな人々を巻き込んでいくことになります。こちらについても、怪しげな天狗が、親子の仲を引き裂くために手練手管を弄していたのかもしれません。天狗とは、本当に面倒なことをしてくれるものです。