周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

川本著書

  川本慎自『中世禅宗儒学学習と科学知識』(思文閣出版、2021年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

序章

P3 一 中世禅宗の二つのイメージ

 日本中世の禅には、二つの大きくかけ離れたイメージがある。一つは、道元や愚中周及に代表されるような、深山幽谷のなかでひたすら坐禅に励んだり、世俗の喧噪から離れてひたすら偈頌詩文を著すといった、清冽な仏教というイメージである。そしてもう一つは、夢窓疎石や亀泉集証に代表されるような、室町幕府などの政権と結びつき、将軍の精神的支柱となる一方で寺院経営に長じ、荘園経営や金融経営などの面で中世経済を牽引するイメージである。(中略)

 本書の目的を一言で表すならば、この二つの相反するイメージをいかにして一つのものとして整合的に理解するか、ということを考えることにある。

 

P4

 さてこの禅宗の「二つのイメージ」は、実は禅宗寺院の組織形態の繁栄でもある。禅宗寺院の組織は、学問・思想面を担当する西班衆と、寺院経営・生活面を担当する東班衆との二つに大別される。(中略)

 つまり、「清冽な禅宗」と「経済の禅宗」という二つのイメージは、西班衆と東班衆という組織のそれぞれの側面に着目した結果生まれてきたものなのであるが、これらのイメージが齟齬しているように見えるのは、二つの組織の関係がきちんと研究されていないからに他ならない。

 

P5

 中世における儒学は、あらたに「宋学」が伝来し、その新註が受容されたことが特徴の一つとして挙げられる。宋学とは中国・宋代に生まれた儒学の新潮流で、周敦頤(濂渓)から程顥(明道)・程頤(伊川)の兄弟へ受け継がれ、その門弟たる朱熹朱子)によって大成された朱子学がその最大のものである。これに対して漢代・唐代の儒学を「漢学」と呼ぶ。「漢学」というと広義では中国の学問全体を指すが、狭義では「宋学」の対義語として、旧儒学を指すのである。ただし本書で「漢学」の語を用いる際には、広義の意で用いることとする。

 

P6

 中世日本への儒学の受容に当たっては、古代までの儒学の解釈を「古註」と呼ぶのに対比して宋学による解釈は「新註」と呼ばれることが多いが、宋学はただ単に儒典そのものが大きく変更されているのである。旧儒学が『周易』『毛詩』『礼記』などの経書を基本テキストとしていたのに対し、宋学においてはあらたに『論語』『中庸』『大学』『孟子』の四つを「四書」として中心的な儒典とした。このうち『論語』はもちろん宋学以前も基本典籍であり、『中庸』と『大学』は朱熹が『礼記』の一変を抽出して独立した書目としたものであるが、『孟子』は宋学ではじめて注目されるようになった書目である。それ以前には孟軻(孟子)は諸子儒家の一人にすぎず、『孟子』もそれほど注目されるものではなく、宋代以前には科挙試験科目にも入っていなかった。宋学の興隆のなかで、朱熹が孟軻を講師に次ぐ「亜聖」として称揚し、『孟子』の新註を著すことで、はじめて基本儒典となったのである。もちろん漢・唐代にも『孟子』の古註は細々と存在するのではあるが、日本の古代に『孟子』が伝来した徴証は少なく、受容されるのは鎌倉期以降、宋学の伝来に伴ってのものであった。

 したがって、日本に受容された儒学のうち、宋学とそれ以前の儒学とを区別するにあたっては、『孟子』学習の有無をみることが一つの目安となる。また、しばしば儒学の基本典籍は「四書五経」と表現されるが、「四書」は宋学においてはじめて用いられるようになった概念であり、「四書五経」という語の使用も宋学以降のものと考えてよいであろう。

 

P7

「九経十七史」(儒典と史書

 

P8

 (渡来僧の)一方で、中巌円月らの入元僧は、単に禅宗を学ぶにとどまらず、大陸文化全般を受容しようとして入元した人々である。だからこそ禅籍だけでなく、儒典や史書・詩文集などさまざまな漢籍を持ち帰り、最新の儒学である宋学を学ぼうとしたのである。そこには、大陸文化の一つとして、意識的に儒学を学習しようとする意志があったと考えられよう。

 すなわち、中世日本の宋学学習は、入元僧の中国文化受容の一環として進められることとなったのである。

 

P9

 このように「興禅の方便」として宋学を取り入れることにより、鎌倉末・南北朝の公家・武家の間で宋学が流行することになる。とくに『孟子』にはいわゆる易姓革命の思想が含まれていることから、これが南北朝期の政治的な動きの原動力となるという見方が古くからあり、『太平記』には『孟子』の引用が多いことも指摘される。また、今谷明氏による足利義満のいわゆる「皇位簒奪計画」説でも『孟子』の影響について言及されるが、この時期に広く流行した『孟子』学習を過度に評価しているとして否定する見解もある。

 一方で義堂周信は、門下の禅僧に対しては、仏典を講義するのみならず、儒学を学ぶことを固く誡めている。永和元年(1375)には、常陸正宗寺の資中という禅僧が行なっている儒学講義に義堂門下の僧が出席することを禁止し、常陸守護佐竹義宣に依頼して資中の儒学講義を禁止させようとまでしている。義堂にとっては儒学は一貫して「興禅の方便」すなわち禅宗布教のための手段にすぎなかったのであり、本来の禅の思想にとってはむしろ害悪と考えていたようである。

 しかし、「興禅の方便」という目的からはじまったといえ、盛んに学習されれば禅僧のなかにも宋学に親しむ者が現れるのは必然で、義堂周信の拠った相国寺南禅寺からは仲方円伊・大椿周亨、虎関師錬の拠った東福寺からは岐陽方秀・雲草一慶など、宋学の意義を理解した上で本格的に研究する僧が禅宗寺院から輩出する。こうして日本における宋学研究は禅僧によって担われることとなっていったのである。一方で、禅宗寺院において儒学はあくまで「興禅の方便」であるという意識があったことは、この後の禅院における学問および儒学学習の方向性を定める重要な要素となってゆく。

 

P11

 東福寺普門院の建物を書き上げた「普門院造作并院領等記録」(東福寺文書)には、「本堂」「中門」「東司」などとならんで「印板屋」すなわち印刷工場が挙げられており、寺院内で五山版が刊行されていた状況がわかる。日本における木版印刷は、それ以前にも高野山や春日社で行われていたが、高野版や春日版が主として仏典のみであるのに対し、五山版で印刷されたものは仏典禅籍にとどまることなく『論語集解』『音注孟子』など儒典にも及んでいる。このように儒典が印刷されることによって、それをテキストに「講義」という形式を行うことが前代よりも容易になり、禅宗寺院では儒典の講義が盛んに行われるようになるのである。(中略)

 ところで、儒典をはじめとする漢籍の講義を行なうのは禅僧に限られたことではない。古代から朝廷においては明経道紀伝道の各博士が儒典や司書の講義を行なっていた。そして明経道の清原・中原両家、紀伝道藤原氏日野流・菅原家は室町期まで存続し、それぞれ家学の漢籍注釈を伝えていた。これはもちろん宋学伝来以前からの注釈を守ってきたのであり、「古註」すなわち漢代・唐代の旧儒学のものということになる。

 では、これら博士家の講義と、禅僧による講義の関係はどのようになっていたのであろうか。大江文城氏によると、室町中期ごろまでに禅僧の広義は、博士家の講義に抵触しないように巧妙に書目を避けて行なっていたとされる。博士家によって講義が行なわれる書目は「施行」といって朝廷の許可を得て博士家が訓点・解釈を施したものに限られていたが、この「施行」の書目については禅僧は講義を行わないのである。たとえば、『毛詩』『孝経』などの経書は「施行」であり、古註をもとにした明経道の家説があるため、禅僧が講義することはなく、現存する抄物(講義ノートのようなもの、P11)も清原家の手になるものである。逆に『孟子』は、宋学以降に加わった儒典のため「未施行」の書目であり、先に見たように義堂周信は盛んに講義しているが、博士家が講義することはなかった。また、史書でいえば『後漢書』は「施行」だが『漢書』は「未施行」であるため、禅僧は『後漢書』を講義することはなく、一方で『漢書』については竺雲等連など多くの禅僧が講義している。

 

P12

 このように禅僧と博士家はそれぞれ研究範囲を住み分けており、講義内容はお互いの領域を侵さないという了解があったようである。ただし、こうした住み分けは京都においてのみであり、東国においては適用外であった。前述の常陸正宗寺の資中による儒学講義をはじめとして、東国の禅宗寺院の周辺では脈々と儒学学習の営みが続けられており、それは永享十一年(1439)に上杉憲実により足利学校が整備されるという動きに結実する。足利学校での講義は、遠く京都から離れた東国であったため、禅僧と博士家住み分けのような制約から自由であり、禅僧によって伝えられた宋学の新註、博士家の家説によって伝えられた古註の双方を取り入れて、「新古折衷」と呼ばれるような儒学学習を行なっていたのである。

 こうした禅僧の宋学受容や足利学校の新古折衷の動きは徐々に広まり、博士家も新註を取り入れざるを得ないような状況となっていた。室町期の清原良賢の時期には、清原家も本格的に新註の解釈を取り入れ、新たなる家説が成立するが、表立って「宋学を取り入れた」と言明することは難しかった。そこで、平安末期の清原家の中興の祖である頼業(1122〜1189)が朱熹(1130〜1200)と同世代の人物であることを利用し、朱熹よりも先に清原頼業が独自に行なった注釈書が発見された、という釈明を行なっている。こうして清原家の家説にも『孟子』や『中庸』などの新註が実質的に取り入れられ、禅僧と博士家の住み分けといった問題もなくなったのである。こののち清原良賢やその孫業忠の頃には盛んに『孟子』講義を行うようになり、また禅僧側も経書の講説に徐々に参入する。このころ東福寺の岐陽方秀、雲草一慶らの儒学講義が盛んに開かれ、清原家と禅僧との間でお互いの講義に参加して交流する状況が生まれてくるのである。

 

P16

 第一部「禅僧の経済活動と知識形成」では、禅宗寺院において経営面や生活面を担当する組織である東班衆について、とくに日本中世における実態と推移を検討する。中国禅から受容した「生活即修行」という思想を反映して、学問を担当する西班衆と経営を担当する東班衆とは対等と位置づけられているが、日本中世においては西班衆と東班衆の僧は固定化しておらず、互いに転移することがしばしばあることを明らかにする。そして室町期に至って、東班衆の間で継承される塔頭が出現して「東班衆の法系」として固定化してゆく。このことは、荘園経営をはじめとする経済活動に用いられる知識(年貢徴収の方法や守護との関係構築など)が師資の間で受け継がれ、特化して高度化してゆくことにつながるが、一方で東班衆は関与することが可能となる。禅宗寺院内の講義の口述記録である「抄物」の記述の検討から、こうした寺院内の講義では、いわゆる儒学抗議にとどまることなく、荘園経営の実際の現場における知識が伝授されていることを明らかにし、儒学講義の場において経済知識が培われていると結論づける。

 第二部「禅僧の儒学足利学校」では、これらの儒学学習の場がどのように成立し、どのような実態を持っていたかという点について、足利学校を中心とする関東地方を例として取り上げて考察する。学問所としての足利学校が実質的に成立するのは応永年間の関東管領上杉憲実による整備以降であるとされるが、それ以前の南北朝期の東国禅林においても、とくに常陸正宗寺を中心とする儒学学習が盛んに行われており、書籍の移動状況などを考察することにより、常陸正宗寺・鎌倉建長寺・伊豆修禅寺を結ぶ儒学の人的・物的交流が足利学校以前から形成され、それが足利学校における儒学学習につながってくることを考察する。また足利学校における儒学学習の具体的な例として、戦国期の『論語』講義のなかに鎌倉公方古河公方故実にかかわる知識が三件していることに注目し、猪苗代兼載らの連歌師足利学校との間の関係を指摘して知識が形成される様相を明らかにする。

 第三部「儒学に付随する科学知識」では、再び視点を京都に戻し、五山禅林における儒学や漢学学習のなかに、寺院経営・経済活動や政権との関わりに資するような知識が含まれていることを具体的に考察する。室町期の禅僧江西龍派による杜甫詩講義には赤米や湿田耕作などの農業にかかわる知識が含まれ、戦国期の禅僧月舟寿桂による『三体詩』講義には東国の農事歌に関する知識、同じく戦国期の禅僧桃源瑞仙の『周易』講義には室町幕府の「国役」(守護出銭)の金額算定に関する知識が含まれていることを考察する。これらの背後には禅僧の周辺に公家・武家など様々な階層との人脈が形成されているということがあり、儒学(広義の漢学も含む)講義を互いに聴講することを通じて知識が形成され、さらにはこれらの聴衆の関心が講義内容にも影響することによって、講義自体に具体的な実用的知識を含むようになってゆくことを明らかにする。さらに、桃源瑞仙の『周易』講義には算木を用いた計算技術の知識が含まれており、それが禅宗寺院の金融経営や土倉角倉家の経営とも関わってゆくことを考察し、またなぜ禅僧がそうした計算技術を持つことができたかという思想的背景についても、東班衆の動向と関連させて考察する。

 終章「室町の文化から江戸の科学へ」では、これら三部にわたって考察してきた内容を総括し、禅宗寺院において蓄積された実用的知識が、江戸初期の科学技術の基礎となってゆく様相を展望する。とくに禅宗寺院内における東班衆の位置づけの高さから中国禅の思想に起因することと、それが禅宗寺院における実用的知識の尊重につながったことを指摘し、そうした思想と知識が公家や戦国大名に広がることで、たとえば直江兼続徳川家康らの学問(とくに医学知識)につながることを明らかにする。

 これらの検討により、本書では、中世禅僧の儒学学習と科学知識についてさまざまな角度から明らかにしようとするものである。

 

 

第一章 南北朝期における東班僧の転位と住持

P31

 すなわち、このように東班として実質的に寺院運営を担っていた僧が首座という教学上の役割を担う役職にもつきうることを示しているのであり、本当の意味での「東班・西班の間での人事の交流」が行なわれていることを確認できる。当該期の禅林においては、東班位につく僧は必ずしも寺院運営に特化した固定化した僧侶集団に属しているのではなく、東西両班流動性を持っていたことを示しているといえよう。(中略)

 室町期の禅林の詩文の応酬については、朝倉尚氏により明らかにされているように、詩文応酬の場である詩会への参加資格は厳しく制限され、「友社」という閉鎖的な集団の一員にならなければ詩会に加わることは困難であった。そこでは東班衆の参加は排除され、詩会への参加を求めて強訴するという事態まで起こっている。

 しかしその前段階である南北朝期においては、ひとり東谷圭照のみならず、多くの東班位にある僧が詩文の応酬を行なっている。

 

P34

 むしろ南北朝期の東班僧と西班僧との関係は、同一の僧侶集団のなかで、たまたま東班位につくか西班位につくかの差異にすぎないというべきであり、東班位につくべき僧があらかじめ「東班衆」として定まっていることはなかったのではないだろうか。人事上・学芸上の交流も、こうした「一つの僧侶集団」を前提として考えると、矛盾なく理解できよう。

 こうした様相を示す南北朝期から室町期への間には、「東班衆」が形成され、固定化し特化してゆくという変化が起こることとなる。この間に禅宗寺院を取り巻く状況にどのような変化があったのかについては、引き続き事象で見てゆくこととしたい。

 

 

第二章 室町期における東班衆の嗣法と継承

P40

 却来(きゃくらい)─兼務。

 

P47

 小師─弟子。

 

 このように東班僧は、西班僧と同じように師と嗣法関係を結ぶことには困難を伴っていたが、西班僧を形式的な師として迂回して法系を確保することが行なわれていた。この場合においても東班僧と師弟関係にあることは変わりなく、追善供養も同様に行なわれていた。いわば、擬制的な嗣法関係と呼ぶべきものである。すなわち、東班僧は決して孤立した存在ではなく、継続性を持った存在だったのである。

 

P52

 このように、「東班僧の継続性」のなかには、観念上の継続性と同様、物質上の継続性も含まれていたのである。高い経営能力を持ち、私財を蓄えていたとされる東班僧の財産は、死後もその後継者によって継承されていたといえよう。

 

 

第三章 禅僧の荘園経営をめぐる知識形成と儒学学習

P73

 浄居庵は清原業忠の曽祖父良賢の隠居所として創建されたもので清原氏の本居に付属して建てられており、鶴隠周紹は清原氏出身である。

 

P74

 このように淨居庵は清原業忠を中心として儒学を学ぶ禅僧・官人らが集まる知識交換の場となっていた。つまり、雲章一慶・太極・清原業忠を結ぶ線の背後に、儒学学習を媒介とした禅僧・博士家門徒の交流を想定することができるのである。そして博士家清原氏とその門徒は、局務とその配下として朝廷の実務を担う層でもあった。東福寺の百丈清規講は、こうした背景のなかで行なわれていたのである。(中略)

 ここで瑞渓は、業忠と瑞渓との関係について、「彼問仏教、我問儒教」と述べている。瑞渓は業忠に仏教について教授し、業忠は瑞渓に儒学について伝授していたのである。このように、博士家と禅僧との関係は、相互に知識を伝授し合う関係にあったといえる。

 

P75

 和島芳男氏の指摘によると、清原氏と禅僧との交流は、禅僧により最新の宋学典籍が伝来して広まっていることに危機感を持った清原氏が、禅僧の儒学を吸収しようとしたものであるとされている。しかし、こうした禅僧・博士家の交流は、単なる典籍注釈の授受にとどまらず、前に述べたような広範な知識を含んだ儒学知識の相互的交換という性格をもっていたのである。

 太極の『碧山日録』には古今東西のさまざまな逸話が数多く記されているが、そのような広範な知識もこうした人脈、いわば「儒学学習ネットワーク」ともいうべきものからもたらされたといえる。このような、典籍注釈の授受を超えた広範な知識の交流、とくに実務的知識が儒学学習に付随していたからこそ、そうした儒学学習の一つ出会った『百丈清規抄』にも荘園経営に関連した記述が見られるのである。

 

P79

 この鶴隠周紹・素晟蔵主の例からわかるように、博士家・禅僧の「儒学学習ネットワーク」に参加している層は、そのまま荘園経営の実務に携わる層でもあった。清原氏の荘園経営は、ただ単に禅宗寺院の荘園経営と類似しているのみならず、博士家・禅僧の儒学交流の人脈を踏まえて、実際に禅僧の関与のもとに行なわれていたのである。これは、前節で述べたように、儒学知識の中に思想的なもののみならず実務的なものも含まれていたことによるものであって、清原氏の荘園経営の形成には周辺的知識も含めた「儒学」が大きな役割を果たしていたといえよう。

 

 

 

第二部 第一章 中世後期関東における儒学学習と禅宗

P103

 このように、南北朝期から室町期にかけて、常陸において儒学学習の営みが連綿と続いていた。もちろんこの一部には、鎌倉で行われたことも含まれている。しかし、こうした常陸における営為が鎌倉とのつながりをもって成立しているという点も需要なことと言えるだろう。そして、その営為は、建長寺宝珠庵などに拠る大覚派、および常陸法雲寺・建長寺連枝軒などに拠る幻住派の禅僧を中心として営まれていたことになる。ここで仮に、このような常陸建長寺を結ぶ儒学学習の広がりを「常陸儒檀」と呼ぶこととしたい。

 

P107

 このように、「常陸儒檀」を含む常州太田を中心とする学問文化圏は、佐竹氏の勢力と非常に密接な関係をもっていたのであり、佐竹氏なくしてはこの文化圏は成立し得なかったといえよう。

P108

 さて、こうした常陸の学問状況を踏まえたうえで、「常陸儒檀」と足利学校との関係を考えてみたい。「常陸儒檀」の学習内容を改めて見てみると、資中の儒学講義は「儒典」としか記されていないが、[史料八]に見えるように大椿周亨が「常州師」から学んだのは『孟子』と『周易』であり、とくに『周易』については親族から財を集めて学ぶほど冀求したものであった。また[史料九]に見えるように、一曇聖瑞から学んだ正中祥端が最も得意としたのも『周易』であった。一方、足利学校の学習内容の特徴の最大のものは易学であり、『周易』は足利学校以外の他所では容易に学ぶことのできないものであったとされる。こうしてみると、学習内容の面で見ても、「常陸儒檀」と足利学校には共通性があったことがうかがえる。

 

 

第二章 足利学校と伊豆の禅宗寺院

P128

 足利学校は中世日本における宋学のひとつの拠点であったが、草創・再興期における状況があまり明らかではないこともあって、その地域社会における位置づけについては必ずしも明確にされてこなかった。あたかも足利学校が突如出現し、孤立して存在していたかのように考えられてきたのである。しかし一方で戦国期においては、足利学校における易学や医学の知識を求めて、古河公方あるいは後北条氏や上杉氏などの戦国大名足利学校と深いつながりを持っていたことが指摘されている。孤立して存在していた足利学校が戦国期に突如として大きな学問上のネットワークを持ち始めると考えて良いのであろうか。

 ここまで見てきた容認、足利学校は草創期においても宝珠庵門派を通じて常陸から伊豆にかけて関東一円にわたるネットワークをもっていたと考えることが可能なのであり、それをふまえると戦国期における大名とのつながりも容易に考えることができるのではないだろうか。本章においては言及できなかったが、戦国期の伊豆・相模に拠点をおいた後北条氏は、のちに足利学校の外護者になるのであり、これと足利学校・伊豆禅宗寺院のネットワークがどのように関連してゆくのかという点も課題である。

 また、三島暦版暦が足利学校に存在しているということは、足利学校における知識が、宋・元から「輸入」されたもののみならず、関東の地域社会からもたらされているといことを示しいている。足利学校を考える上では、地域の学問文化と足利学校とがどのような関係を持っていたのかをも検討する必要があり、次章以下で見てゆくこととしたい。

 

 →足利学校の運営主体・組織・体制はどんなものだったのか? 結局、上杉氏が運営していたことになるのか?

 

 

第三章 道庵曾顕の法系と関東禅林の学問

P131

 足利学校を中心とする中世後期の東国における学問を考えるとき、玉隠英璵・竺雲顕騰・用林顕材・筹叔顕良ら北関東における禅僧の文筆活動が、古河公方周辺の文化圏を形成しながら、足利学校と関連をもって広がっていることが注目される。上杉憲実以来、足利学校は上杉氏による保護が加えられてきたことから、古河公方との関わりはそれほど大きくないとされてきたが、佐藤博信氏は古河公方歴代の文化的側面を検討するなかで、足利政氏と玉隠英璵との関係を通して、古河公方足利学校の学問圏へ関与していたことを明らかにした。では、玉隠英璵以外の竺雲顕騰ら三僧はどのような活動を行っていたのであろうか。先行研究に導かれて簡単に概観してみたい。

 

P140

 ここで臼井庄内の一部が宝珠庵領となったことに注目したい。永和年間には宝珠庵門派と思われる僧資中が常陸において儒学講義を行なっており、宝珠庵門派の学習活動はすでに展開していた。一方、これまで述べてきたように南北朝期の臼井庄内には仏国派道庵下の展開が進んでいたのであり、両門派の間で地縁的に一定の交点があったことが考えられる。すなわち、宝珠院門派の学問活動が仏国派道庵下に波及し、のちの竺雲顕騰らの学問活動につながってくることが想定できるのである。

 

 

第四章 足利学校論語講義と連歌師

P157

 ここまで、国会図書館本『論語集解』に見える足利義政の逸話を手がかりとして、足利学校における漢学以外の知識、とくに過去の人物の逸話がどのように伝達されていたかを考えてきた。その背景として、足利学校庠主九華の時代、足利学校連歌師、とくに猪苗代家の周辺の人々との関係が想定され、足利学校を含んだ北関東の学問文化圏のなかに広幢・長珊らも存在していたことによって、九華周辺に和歌・連歌にまつわる知識が伝達されたのである。『論語集解』に見える足利義政の逸話や、『三体詩』の抄物に見える足利義尚の逸話、古河公方の逸話はいずれも和歌・連歌にまつわるものであり、こうした逸話は連歌師との関係から伝えられたと考えられるのである。

 

 

第三部 第一章 江西龍派の農業知識

P174

 このように、江西龍派の農業知識は、『斉民要術』のような中国農書によって得られた書物上の知識と、日本の実際の農事風景について見聞きした直接的な知識の両面で構成されていたのである。こうした知識は、どのような場で形成されていたのであろうか。

 

 →「農事風景」の知識と「農業知識」を同一視してよいのか。また、こうした知識を荘園経営に対する能力や知識と見なしてよいのか? 黒田日出男・木村茂光らのいう「農書的メモ」が伝わったという事例ではなかった。以下に明らかにされる数学知識と同様に、結局のところ、伝えられたのは農法知識ではなく、荘園運営法的知識だったということになるのか。

 では、農法的知識は、各地に伝播しないのか? するのなら、誰がその知識を運んだのか? それが禅僧であるという証明が見たかった。

 

P177

 これらを踏まえると、歓喜寺・建仁寺・浄居庵(清原業忠・中原康富)・東福寺をめぐる人脈は重なっており、ほぼ一体のものであったと考えることができよう。たとえば、東福寺の太極がしばしば杜詩講義もこの人々が集う場のなかで行われたのである。

 

P179

 このように、江西龍派の日本の農業知識は、歓喜寺を基点とする学芸上の交流に加わっていた下級官人や武士から、実際の所領へ下向して見聞きした知識の伝聞として得ていたものである蓋然性が高いといえよう。

 

  おわりに

 ここまで見てきたように、江西龍派の杜詩講義が行われた「歓喜寺の文雅」の周辺には、一条兼良や五山詩僧のみならず、鞍智高春や中原康富のような、実際に荘園現地へ下向し「農務」をみるという経験をしている人々が集っていた。こうした人々が集まるなかで『杜詩続翠抄』における農業知識への言及は成立したのである。ただしこれは単に経験談の伝聞を述べただけのものではない。近江の田舟や九州の大唐米の伝聞を、中国の「槳」や「紅鮮」米の知識と関連づけながら語っているのであり、いわば『杜詩続翠抄』は経験知と書物知の結節点となっていたのである。(中略)

 中世における禅宗寺院の展開の背景には、それを支える経済的基盤、とくに寺領そのものや公家領代官の請負による収入があったことが指摘されている。中世後期において荘園制全体が後退してゆくなかで、禅宗寺院が比較的強固な所領経営を行うことができた背景には、荘園経営に対する能力や知識を全層が習得し、伝達して行ったことが想定される。農業知識もその一部分であったのである。

 

 →「農業風景」の知識が、荘園経営に役立つ農業知識と呼べるのか? 伝達されたのは、収奪するための知識のみで、農民にとって役に立つ農業経営的知識ではないのか? 前者だけなら、従来の説明とあまり変わらないか。

 黒田俊雄によると、顕密僧も農業知識を持っていたわけだから、禅宗寺院が強固な所領経営を行うことができたという評価はおかしくなる。知識の問題ではなく、武家や公家との人的交流の密接度によるのか?よくわからないが、いずれにせよ、黒田説がある以上、他の要因を考える必要がありそう。

 

P180

 中世の日本において「農書」が作成されることはなかったが、農業についての経験知を伝えるものとして田遊びにおける口承伝達や在地の農法を記した「農書的メモ」の存在が指摘されている。こうしたものに類することとして、禅院の講義における農業知識への言及が考えられるのではないだろうか。『杜詩続翠抄』に垣間見えた農業知識はその一部分であり、「歓喜寺の文雅」のような交流が学芸上のみならず実務上の交流をも包摂していたことが、中世における禅宗寺院の展開の一つの要因となっていたと考えられるであろう。

 

 

第二章 月舟寿桂と東国の麦搗歌

P196

 このように月舟寿桂の学問と足利学校の学問との内容上・人脈上の連関性はつとに指摘されているが、月舟自身は足利学校に学んだわけではない。しかし、前述のように月舟の師である正中祥端は関東で学んだ僧であり、常陸法雲寺において復庵宗己・一曇聖瑞に学んでいた。復庵宗己や一曇聖瑞は南北朝・室町期の関東儒学の中心的存在であり、足利学校とも密接な関わりを持っていた。こうしたことから、月舟と「足利学校に学んだ者たち」とのつながりが生じたものと考えられる。

 

P197

 このことを可能にしたのは、禅宗の法系が全国に張り巡らされていたという点によってである。禅宗では釈迦から続く法系のなかに自己を位置づけることが重視されるが、その法系は単一の寺院、塔頭内にとどまるものではなく、同一の法系に位置する僧が全国の寺院に散らばっていた。これは本来的には、死を求めてさまざまな禅院を遍歴するという禅宗教団のあり方によるものであるが、こと日本中世においては、十方住持制のもとに五山・十刹・諸山という官寺が全国に配置されるという制度によって担保されていた。鎌倉末期以降、各地の武家勢力が住持として高僧を招くことを希望し、幕府がそれに応じて高僧を分与するという行為が、中央と地方の関係を構築していたということは斉藤夏来氏の説くところである。

 こうした禅宗の広域性の帰結は、政治的にはたとえば幕府・鎌倉府間の施設として多く禅僧が起用されるという形で見ることができるが、文化的には、ここまで見てきたように、月舟寿桂を取り巻く広域的な学芸上のつながりという形で現れてくることになるのである。

 

P199

 このように月舟寿桂は、背後には足利学校周辺から得た東国農業の知識を背負い、眼前には公家社会の風流踊歌への関心を見据えて『三体詩』講義を行った結果、「鎌倉謂ふ所の麦搗歌」に触れることとなったのである。

 

 

第三章 桃源瑞仙と武家故実の周縁

P213

 ここまで見てきたように、桃源瑞仙は武家の知識を講述の傍証として言及しているのであり、『周易』あるいは『史記』の論理を補強するためのものであった。

 こうした桃源瑞仙の姿勢は、清原氏の姿勢と共通するものである。前述の田中尚子氏の指摘のように、清原宣賢らが式目注釈を行なう目的は、御成敗式目が公家法に立脚していることを歴史的に遡り、自らの家学の優位性を明らかにすることにあった。式目注釈という武家故実の知識は、自らの論理を学問的に補強する傍証だったのである。このような学問的探究は、桃源瑞仙の講述のあり方と一致する部分がある。

 ただし、桃源瑞仙と清原宣賢の間には、対象となる武家知識の内容の違い、すなわち一過性の情報化、固定化した故実かという相違点がある。この違いの生ずるところは、講述の着地点の違いにあると考えられる。すなわち清原氏武家知識への言及は、あくまで過去の事象、つまり公家法の御成敗式目への影響という事実を明らかにするためのものであるのに対し、これまで見てきた桃源瑞仙の言及は、『周易』講述に端的に現れるように、むしろ現在・未来の事象に対応するために挙げられているものと考えられる。だからこそ一過性の情報、流動的な状況に言及することとなったのである。つまり桃源瑞仙は実務的、実用的な知識を形成しようとしているのであって、むしろ幕府奉行人が式目注釈に着目した理由、すなわち現行法の解釈のために式目の意味するところを明らかにしようとする、という姿勢に近いものであるといえよう。

 

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 ここまで、桃源瑞仙の周易注釈書『百衲襖』に見える武家の知識を検討することによって、武家の知識蓄積に対する桃源瑞仙の関心と関与のあり方を考えてきた。そこで見られる武家にかかわる知識は、守護出銭の国役は一国当たり百貫文であるといった金額や、文明七年における近江騒乱の戦況など、固定化した「武家故実」というよりは一過性の情報という性格の強いものであった。桃源瑞仙は、こうした武家に関する知識を講義のなかで取り上げることによって、『周易』や『史記』などの論理の信頼性を示す傍証としていたのである。そして、傍証としてこうした武家の知識が選択された背景には、講莚への武家の出席が念頭におかれていたのではないかと推測した。

 こうした検討を経た上で、室町中期の武家に関する知識蓄積を改めて概観すると、いくつかの位相に整理することができる。一つは武家の側に蓄積された知識であり、武芸や儀礼、書札礼といった政所系統に蓄積された知識と、御成敗式目吾妻鏡の注釈などの問注所・奉行人系統に蓄積された知識が挙げられる。これらはいずれも現行の政務に直接用いるための知識であるとともに、ある種の規範として固定化されたものであった。

 一方、博士家清原氏にも式目注釈や吾妻鏡注釈などの武家の知識が蓄積されていった。これらは問注所・奉行人系統の知識と同じものではあるが、それを用いる意図としては、現用のものではなく、自らの家学の正統性を歴史的に遡って実証するためのものであった。

 ここで禅僧による武家に関する知識蓄積を考えれば、ちょうど両者の中間に位置することになる。当時においても一般には呪術性を持つものとして認識されている『周易』について、その信頼性を示そうとするならば、注釈活動において具体例を挙げて合理的に実証することが必要となる。そうした動機の面では博士家清原氏の式目注釈への関心と近いものであるが、一方でその実証の方法としては、聴講者として武家を想定したことから、現行の政務に近い知識を挙げることがより効果的だったのである。その結果、流動する一過性の情報を多く取り上げることになったと言えるのではないだろうか。

 

 →つまり、禅宗寺院で講義された内容は、聴講者のニーズを意識して選定された実用的・実務的な実践学問だったということか。

 

 

第四章 禅僧の数学知識と経済活動

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 こうした禅宗との関わりを踏まえると、角倉一族の事業が、金融・土木など、数学を基礎に置くものを含むことが注目される。角倉の家業を行なう上では、必然的に数学的知識が必要とされることとなっていたのである。たとえば、医師吉田宗桂の子宗恂(意安)は、医師として豊臣秀次徳川家康に仕えていたが、一方で慶長の役で捕虜となった朝鮮の儒者姜沆と交流して測量術を学び、『漏刻算』などの算書を著している。吉田宗恂や『塵劫記』を選述した吉田光由自身は禅宗に入門したという記録があるわけではなく、直接的に禅院における数学知識が『塵劫記』に継受されたわけではないが、むしろ日常的に角倉一族が禅院との関わりでさまざまな知識を得ており、そのなかに数学も含まれていたと考えるべきであろう。桃源瑞仙の講義に見られた「医」と「算」という知識が、双方ともに角倉・吉田の事業の根幹となり、禅院からもたらされた基礎的な知識は医業、金融・土木事業、そして算書『塵劫記』を生み出す土壌となっていたと想定できるのである。

 

 →国人・土豪層が、新田開発や土地の再開発、灌漑事業に乗り出せた(小早川氏の干拓・革島氏の上野庄再開発)は、彼らの子弟が禅宗寺院に入寺して、数学を身につけていたからではないか。そうでなければ、たんなる武士や金持ちだという理由だけでは、こうした事業を成功させることはできないだろうし、荘園領主から委託されることもないだろう。

 食い扶持減らし、地域の宗教組織・宗教圏の把握、経済的相互扶助など、いろいろと理由はありそうだが、国人・土豪の惣領らは、一族のものに実学的知識を身につけさせ、自身の事業経営(農業・商業など)の役に立たせるために、禅宗寺院への入寺を促したということになるか。目的か結果かの判断はできないが…。

 これは禅宗寺院、とくに臨済宗寺院の事例が多いようだが、曹洞宗寺院ではどうなのか。旧仏教系寺院ではこういう実学学習は行われていないのか。いや、あるだろう。ないのなら、旧仏教系の僧侶たちも禅僧の講筵で学んでいたことになるのか。

 黒田俊雄・平雅行によると、顕密仏教でも農業・土木・算術知識の蓄積と伝播はあったわけだから、川本著書の研究意義は、禅宗でもそういうことがあったという史実を証明したということになるのか? 顕密でははっきりしなかった部分を、禅宗史料の分析によって明らかにしたという評価でよいのか?

 あるいは、たとえば、小早川氏の場合だと、臨済宗仏通寺、真言宗楽音寺、曹洞宗米山寺が関係の深い寺院になるが、もともとそれぞれの寺院どうしの関係はなくても、パトロンとしての小早川氏を介して、または小早川氏の子弟がそれぞれの寺院に入寺し、その俗縁が出家後も続くことで、各寺院が保有してきた知識が日常的な交流や学習活動によって相互に伝えられ、各寺で蓄積されていくようなことはないのか?

 

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 以上、十四世紀から行なわれていた禅僧の基礎的な数学学習が、十五世紀にかけて社会においてどのような継受され、とくに経済活動の分野でどのように展開したかを中心に考察を加えてきた。具体的には中巌円月が幼時に『九章算術』を学んでいたことに注目し、そうした数学学習が広く平僧に開かれていた点を位置づけた。そして、中巌円月の著した算書『觿耑算法』が桃源瑞仙によって受容されていることに着目し、数学学習は継続して行なわれていたこと、そして前走と土倉との学問上、人脈上のつながりのなかで、角倉一族などの具体的な経済活動に展開していくことを考察した。

 本章では数学知識の伝達について書物の継受を中心に考察を加えてきたため、中巌円月や桃源瑞仙のような、書物を選述にするに至った、いわゆる学僧が考察の中心となっているが、その背後には幼時から多くの僧に対して広く数学教育が行なわれていたことを随所に垣間見ることができる。十五世紀以降に広がってくる多彩な寺院経営を担った東班僧に具体的にどのような数学教育が行なわれていたかを個別に検討することはできなかったが、東班僧の間で財の継承が行なわれていたことは先に考察したところであり、そこには当然知識の継承も行なわれていたであろう。こうした知識継承の源泉として、中巌円月の幼時に見られるような、十四世紀における禅僧の数学学習があったのである。

 ここで注目すべきは、これらの数学学習は儒学学習の文脈のなかで行なわれていたということである。中巌円月の『九章算術』学習は『論語』『孝経』とともに学習され、また桃源瑞仙の『觿耑算法』受容は、易書の一種として行なわれていた。数学学習は、儒学と不可分の関係にあったのである。こうした状況は数学に限ったことではなく、医学や農学に相当する分野でも同等に見られるのであり、こうした「実用的」知識の伝授の様相は、禅宗寺院などにおける儒学・漢学講義の記録である抄物史料に詳細に残されている。

 十四・十五世紀の日本においては、農書や算書などの「実用的」な書物が選述されることはなく、これらの種類の書が成立するのは近世を俟たなくてはならなかったということが指摘されている。たとえば農書は土居清良『清良記』巻七がその嚆矢であり、近世初頭の成立である。医書については、在来の医学知識の延長線上に単発的な選述の営みは続けられるが、体系的かつ公開性をもつ医書は近世初頭の曲直瀬道三の出現を俟たなければならなかった。一方、算書については、中巌円月『觿耑算法』以降、吉田光由『塵劫記』や毛利重能『割算書』まで空白となるのである。すなわち、古代から在来技術の書物が存していたとしても、それらは中世前期までには途切れることが多く、十五世紀にはこれら実用系書物の空白期があると位置づけることができよう。

 こうした状況はなぜ生まれるのか、そこに「実用的」な知識と儒学学習との関係が考えられよう。中世においてはこうした知識は漢学講義に付随して伝達されるものであり、それは独立して一書をなすものというよりは、漢学講義のなかで伝えられ、その記録たる抄物に載せられるべきものであったと考えられる。この漢学講義が活発化するのが十四世紀後半からなのであり、桃源瑞仙は仮名交じり抄物の最も初期の作成者の一人と考えられている。十五世紀の「実用的」書物の空白期は、漢学講義、抄物作成の盛行と揆を一にしているのであり、桃源瑞仙や月舟寿桂によって講義された『史記抄』の扁鵲倉公伝が、長く一種の医書として扱われていたことは象徴的である。そして、中世において、こうした漢学講義を組織的には行いうるのは、主として禅宗寺院だったのである。

 こうした儒学・漢学学習の盛行は、榎本渉氏の指摘する十四世紀の「日本禅林の渡海ブーム」を受けてのものであることはもちろんであるが、「実用的」知識においてはすべてこのときに宋元から伝来したものとは限らず、むしろ漢学講義という場で、宋元由来のものと在来の知識とが融合したことが、とくに技術の場面においては重要であったとも考えられる。本章で取り上げた数学知識に立ち戻って考えてみると、中巌円月は入元以前に鎌倉において数学の基礎的知識を学び、入元を経て、帰国後に算書を選述している。そしてその数学知識は、桃源瑞仙の『周易』講義のなかで、類書による知識と融合され、天龍寺龍安寺や土倉角倉の経済活動へと展開してゆくことになる。

 このように、十四世紀における数学知識は、儒学・漢学学習に付随して包摂される他の「実用的」知識とともに学習され、その後十五世紀にかけて禅僧を中心として伝授されることによって、禅宗寺院とその周辺の経済活動の展開を準備することになるのである。中巌円月の数学学習は、禅宗寺院の経済活動の出発点であったとも言えるであろう。

 

 →儒学が当時の実学として学習されていたということになる。

 

 

第五章 中世禅僧の数学認識

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 このように算用状に起請文を付すという行為は、中世の早い段階から年貢散用状に広く見られるものであり、たとえば播磨太山寺の事例では、年貢算用には起請を付すことが寺規に定められている。こうした行為の根源には、富澤清人氏の指摘するように、荘園現地における検注において、領主と百姓の側が立ち会い、読合を行なって起請するという慣例があったことが考えられる。遠隔地の荘園における算用を直接確認することの代替として、神仏への起請によって正しさの保証を行なうということになるであろう。

 

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 つまり、桃源瑞仙の数学知識は基本的には漢籍の知識を背景としたものであったが、一方で禅僧とくに東班衆の経済活動を反映した、具体的かつ実用的な計算技術をも取り込んでいたことがわかるのである。

 

P256

 一方で、第一節において算用状以外の場面では禅僧が「起請」を行なう例があることを指摘したが、その[史料三]の起請文言を確認してみると、「南瞻部洲大日本国」の諸神ではなく、「開山国師」すなわち夢窓疎石に対して誓約している。これは高野山などにおける、空海に誓約する起請文に見られるような、祖師信仰に基づく起請文の書式を流用したものと考えられるが、ここで勧請される祖師は須弥山世界観に立脚するものではない。つまり、須弥山世界観を認めない立場であっても、この形式の使用は矛盾するものではないこととなる。禅僧は、必ずしも起請文そのもの、つまり呪術的なるものを否定しているのではなく、その起請の拠って立つ須弥山世界観を否定しているのであって、制約の対象が須弥山説の「南瞻部洲大日本国」諸神でなければ、起請すること自体に問題はなかったといえよう。算用状に起請文を付するか付さないか、という問題は、呪術性か合理性か、という選択ではなく、須弥山世界観に拠るか拠らないか、という問題だったのである。

 

 →ここがよくわからない。開山国師に誓約する起請文を付して算用状を作成してはいけないのか?

 

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 中世において、「呪術的」なものと「合理的」なものを二項対立で発展段階論的に考えうるかという点についてはすでに疑問が呈されており、たとえば平雅行氏は鎌倉期の顕密仏教の呪術体系は文献的な裏付けを持った「合理的」なものであったことを指摘している。また数学の側でも、中口久夫氏は、織豊期の検地における一反あたりの収量の算定について、実は計算ではなく数表(斗代目安)を使って誤った値を当てはめる、非「合理的」なものであったことを指摘している。つまり、「呪術的」に見えるものにも合理性があり、「合理的」に見えるものにも理由なく信じているだけのものもあるということになる。

 

 

終章 室町の文化から江戸の科学へ

P274

「生活即修行」

 

P275

 日本における水墨画の最初期である南北朝時代から室町時代の初めにかけて、作品制作に関わったのは多くが禅僧であった。なかでも明兆や周文は、「兆殿司」「文都管」という呼称が示すとおり、東班衆であったことが知られている。東班衆であることと、美術制作を行うこととの間には、どのような関係があるのであろうか。

 「兆殿司」こと明兆は京都東福寺の僧であり、東班衆として寺の建物の整備や装飾を担当していた。そこでは、仏堂を彩る様々な美術、たとえば襖や掛軸などを入手し、傷んだところがあれば修繕する、という作業を行うこととなる。この点については竹田和夫氏が詳細に事例を整理しており、以下これに導かれて概観してみたい。

 「文都管」こと天章周文においては、明兆に比べてもっと直接に東班衆の職務との関わりを見出すことができる。周文は相国寺の都聞として寺院経営の全般に関わっており、応永三十年(1423)には幕府の遣朝鮮使に同行して大蔵経を入手する実務を担う一方、朝鮮の風景を実見して水墨画に描いている。永享八年(1436)に焼失した京都八坂の雲居寺の再建に携わった際には、仏像(阿弥陀如来像)の制作を発注した京都の仏師が争いを起こして解任されてしまったため、周文が自ら奈良の仏所(仏像制作工房)に乗り込んで製作の指揮をしている。さらには今朝の裁縫の手配まで行っていたことも指摘されており、都聞として寺院で用いる什器を発注することをきっかけに、水墨画にとどまらない様々な美術制作にかかわる多彩な才能を発揮していたことがわかる。

 国宝『瓢鮎図』(退蔵院所蔵)を描いた大巧如拙も京都諸国寺の僧であった。如拙には、将軍足利義持が夢窓礎石の碑文を建てようと思い立った際に、碑にふさわしい石を探すことを命ぜられ、はるばる四国まで探し歩いて、巨石を見つけたものの、あまりに大きすぎて京都まで運ぶことができなかったという逸話が残っている。碑の石を探すということは、庭園の整備を担当していた、おそらくは直歳(しっすい)などの東班僧ということになるのであろう。

 絵師が立石を行うことは早く平安期から見られることで、たとえば『今昔物語集』巻二十四に見える絵師百済川成が、嵯峨院大覚寺)滝殿の造営において、御堂の壁絵とともに石も立てたとされることや、『作庭記』における立石口伝において、絵師巨勢弘高や延円阿闍梨の言を引用することなどから、立石の技術と絵画の技術は一体であったことが指摘されている。とすれば、庭園を管理し、立石を行なっていた僧が詩画軸の絵を描くのは当然の成り行きなのであり、如拙もまた東班衆の職務から美術制作へと発展した僧の一人であることが推察できる。禅寺の庭園の玉砂利を掃き清めるところからはじまり、木や石に彫刻すること、そして絵を描くことに至るまで、一貫して東班衆の仕事であり修行であった。東班衆の職務は美術とも密接な関わりを持っていたのである。

 そして、周知のように『瓢鮎図』はいわゆる「応永の詩画軸」とよばれる一連の作品のなかに位置づけられる。如拙の絵画に三十一人の僧の賛詩を寄せる西班衆とが対等な形で一つの作品に集うこととなる。もちろん、必ずしも詩画軸のすべてがこうした構図を持っているわけではないが、東班衆は学芸の世界に直接的につながっていたのである。そして、第三部第一章で見たように、この学芸の世界は、そのまま江西龍派の周辺に継承され、農業知識を交換する場につながることとなるのである。

 だとすれば、従来の東班衆のイメージ、すなわち寺領荘園や金融経営といった会計を専門にし、禅の教義とは無縁の俗的な存在という像は改めなければならないだろう。これが序章において提起した、禅宗に関する二つのイメージ、「清冽な禅宗」と「経済の禅宗」を統合的に理解するという課題への一つの答えとなる。そこで、「経済の禅宗」としての東班衆の役割が大きくなった室町中期においても、なお東班衆が学芸の世界と接続を求めていたという事例を見てみたい。

 第一部第一章でも少し言及したが、長享三年(1489)、京都相国寺で東班衆と西班衆が詩会への参加をめぐって大きく対立する事件がもちあがる。以下、朝倉尚氏の研究に導かれて事件の経過を概観すると、六月二十八日に開催された相国寺禅昌院の単尺詩会に、維那衆(東班衆)が一人も参加を許されなかったことに抗議して、七月五日、東班衆が決起して相国寺住持らに訴状を提出し、強訴を行なったのである。強訴の発端は詩会への参加であるが、問題の本質は東班衆が西班衆に比べて不当に扱われているという不満であり、決着は寺内で付けることができずに前将軍足利義政の裁定にゆだねられることとなった。義政は東班衆・西班衆の双方から意見を聴衆し、出された裁定は「特今維那衆中無人才、即則今訴訟之段無所以也、速可止訴訟」、東班衆に詩文の才能のある者がいないのだから訴訟は無効である、詩会に参加できないのは当然、というものであった。しかしその一方で「万一於後世有如三師傑出之人才、致訴訟者其言可及糺明歟」、もし将来、東班衆に才能のある者が出てきたならば、改めて

考えるべきであるとも述べている。つまり、東班衆が詩会に参加する可能性自体は否定していないのである。ここで重要なのは、実態として詩会への東班衆の参加が認められることはなかったが、本来は東班衆と西班衆は対等であり、詩会にも隔てなく参加できるはずという理念を再確認したということであろう。と同時に、東班衆の側も詩会への参加、つまり学芸の世界への接続を求めていたということが読み取れるのである。

 こうして再確認された東班衆と西班衆の対等性は、本書第三部で具体例を見たように、禅宗寺院における儒学・漢学の講義において大きな影響をもたらすこととなる。これらの講筵に東班衆も聴衆として多く出席し、そのことは講義内容にも反映された。第三部第一章で見た、江西龍派の杜甫詩講義における赤米や湿田などの農業知識、第三部第二章で見た、月舟寿桂の三体詩講義における東国の農事歌の知識、第三部第三章・第四章で見た、桃源瑞仙の周易講義における武家故実や計算技術に関する知識などは、東班衆が行うような寺院経営上の職務に密接に関わりのある事である。学芸の世界、すなわち「清冽な禅宗」の側も、実務の世界、すなわち「経済の禅宗」の側へ歩み寄ることになっていたのである。

 そして、こうした内容が含まれているからこそ、禅宗寺院の儒学・漢学講義は禅宗にとどまることなく、武家や公家などの広い層が聴講することとなった。禅宗寺院における儒学学習が寺院外にも開かれたものとなっていった背景の一つには、東班衆という存在があったといえよう。

 このように禅宗寺院の儒学学習が広く社会に開かれたものとなってゆくことによって、戦国期に至り、禅宗寺院の学問が実社会に応用されてゆく事例を見ることができる。その例の一つが、第三部第四章で触れた角倉家の金融事業と禅院の数学知識との関わりであるが、そこで詳しく触れることのできなかった医学との関わりについて、若干の補足をしておきたい。

 室町後期から戦国初期にかけて、相国寺の桃源瑞仙、建仁寺の月舟寿桂によって『史記』の講義が行なわれている。そのなかでは、単なる医師の伝記の解釈を超えて、詳細な医学知識が含まれることが柳田征司氏・小曽戸洋氏・田中尚子氏らの研究で指摘されている。とくに月舟寿桂については医僧としての活躍も知られるところであり、その講義は雑談にとどまらず医学の初歩の講義として機能するものでもあった。

 こうした医学の講義は、戦国期に至り、曲直瀬道三とその門弟たちによって医師自身による講義が行なわれることとなる。前代までの医家の知識伝授とは異なり、その講義は社会全体に開かれたものとなり、講義を記録した抄物による記録という形式は足利学校禅宗寺院の漢籍講義から受け継いだものと考えられる。抄物を作成した医師には曲直瀬流のほかにも竹田定祐・一栢現震(谷野雲庵)・吉田宗恂などがあることが柳田氏により明らかにされているが、そのいずれも五山僧との関係があることが指摘されている。

 医学の漢籍は、すでに南北朝期の医師竹田昌慶が入明して宋版『外台秘要力』などを将来しており、その後も継続してある程度の医籍が移入されたものと考えられる。日本における医書の出版も、堺の阿佐井野宗瑞による『医書大全』や、越前一乗谷における『勿聴子俗解八十一難経』などが行なわれており、医書自体は中世後期には徐々に受容されつつあった。こうしたなかで曲直瀬道三は医書の知識を開かれた形で講義したことが画期的なのであり、織田・毛利・豊臣などの武将から重用されたことからもわかるように、その知識は医師や禅僧にとどまることなく、社会に広まる契機となったのである。

 こうした医書の講義の拡大は、本書で見てきたような禅僧寺院における儒学学習の積み重ねの結果としてもたらされたものであり、儒典を中心とした漢籍が実用的知識を含んだ書物であるという認識が広がることによって、漢籍蒐蔵の形にも変化をもたらすこととなる。戦国期においては、豊臣秀次直江兼続徳川家康らが漢籍を蒐集していたことが知られているが、その意図や目的は、前代までの「唐物」や「東山御物」に見られるような、威信財としての勝ちを求めることにとどまるものではなかったのである。

 まず直江兼続の蒐書について、その旧蔵書には、宋版『史記』『漢書』『後漢書』をはじめとして貴重な漢籍が大量に含まれることが知られている。もちろん宋版は戦国期においても珍重すべき善本であることは間違いないが、岩本篤志氏の指摘によれば、直江旧蔵本は単にそうした珍本のみを集めたものではなく、『古文真宝』についての禅僧の講義を記録した抄物『古文真宝後集抄』や漢詩文を読むためのマニュアル的な本である『文鑑』など、韻書・類書や抄物の延長線上にある、漢籍の内容理解のために書写作成された書籍が多く含まれることが明らかされている。そして宋版『史記』『漢書』『後漢書』には月舟寿桂の手による膨大な書き込みがあり、むしろそちらにこそ価値があるとする。さらにその蒐書には医書『備急千金要方』『聖済総録』や占筮書『霊棋経』などの実用的な漢籍が含まれていることが指摘される。すなわち、兼続は漢籍の内容を理解したうえで、実用的知識を含む漢籍そのものの中身を求めるために蒐集していると考えることができるのである。

 また徳川家康についても、足利学校庠主をつとめた禅僧閑室元佶から『毛詩』講義を受けるなど学芸を愛好したことで知られ、金沢文庫安国寺恵瓊旧蔵本などから広範に漢籍を蒐蔵しているが、そのなかに医書『外台秘要方』や農書『斉民要術』などの実用的漢籍が含まれている。さらに家康は、中国や朝鮮から移入された唐本を蒐集するのみならず、清原家蔵本などを書写するという形でも漢籍を入手している。もはや物体としての将来漢籍を珍重する威信財としての蒐書ではなく、内容として漢籍の知識を得ようとする新しい形での蔵書形成を行っていたのであり、儒学・漢学学習という営みの本質に迫るとともに、それが社会に開かれてゆくことを示しているといえよう。そして、こうした徳川家康の蔵書形成の背後には、閑室元佶や西笑承兌など、禅僧の関与があったのである。中本大氏は、五山文学研究の観点から、近世を迎えてもなお、文壇において五山文学が相対化されつつも評価され続けることの背景に、「「禅林」が情報発信・受容の拠点として、忌避することなく周辺領域にコミットした結果、それ自身が多面体的な存在になり得る」という点があることを指摘する。この史書医書の事例は、まさにこうした点を示しているのであり、文学に限らず、学芸上のさまざまな分野で影響を与えているといえよう。

 ここまで見てきたように、中国禅の「生活即修行」という考え方は、東班衆と西班衆が対等という理念を生み出した。ときには東班衆を下に見て排除しようという動きが現れたりもしたが、それでも理念としては対等という原則を持ち続けることによって、東班衆の技術が西班衆の知識と融合し、実用的な学問となることができたのである。そしてそれは禅宗寺院の周辺の人々へ伝えられ、やがて江戸時代の数学や医学にもつながってゆく。

 道元の出会った老典座の播いたささやかな種は、やがて室町文化のなかで花開き、そして、さまざまな学問を受粉することによって、江戸の「科学」にも結実することになるのである。