周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─18 〜神人大将の切腹〜

  応永三十一年(1424)十月十四日条

          (『図書寮叢刊 看聞日記』3─65)

 

                    〔議〕

 十四日、晴、(中略)抑八幡神人騒動不思儀又出来、去十一日権別当

    (照清)

  〈号東」竹、〉庭前木栽、其前神人無礼罷過之間、若党共咎之、神人立帰

  悪口、結句腰刀抜懸之間、若党共神人打擲了、然間与党神人等彼坊

  押寄、社務中入、無為之処、神人鬱憤猶不散歟、彼」被打擲神人死する躰にて

  輿被舁上洛、神人大勢相率公方訴申、室町殿因幡堂御参籠之間、彼

       八幡奉行也(為行)

  庭中申、就飯尾加賀可申之由被仰、仍加賀宿所罷向、神人百人許浄衣下

  腹巻致其用意、以外及嗷訴、其間室町殿可召捕神人之由、侍所并問注所・奉行

               京極(高数)(太田康雄)

  加賀等被仰付、今日昼程侍所・問注所二頭大勢加賀宿所押寄、加賀於家中致

  用意待儲之処、侍所・問注所勢共門前より責入之間、神人等家内逃入之処、自内

  加賀勢責合、自内外取巻欲搦捕之間、神人自元存儲致用意之間、散々合戦、

  神人廿七人、〈或説卅七」人云々、〉矢庭被打殺、其中大将腹切云々、生捕

  神人五十人許悉手負、其中一人不負手云々、侍所・問注所勢手負数多、死人

  少々有之、加賀勢数多手負、加賀蒙疵云々、神人死骸車七両五条河原

  捨之、合戦之式驚目言語道断事云々、此夏神人嗷訴動天下之処、属無為了、今

                                  

  不慮事出来、神人数輩堕命了、彼等若違神慮滅亡歟、不審、神慮難測者■、

  八幡ニも騒動、神人与党猶可致悪行歟之間、諸大名被仰、勢共馳下社頭奉警固

                          (小川)

  云々、権別当ニも用心勢共相語、東竹田向縁者之間、有善以下地下輩五六十人

  為合力、自田向遣之、騒動不思儀事也、

 十五日、朝雨下、以外甚雨也、有鳴動、非雷不審、昨日合戦謳歌之説同前也、召捕

  神人大略可被斬云々、」抑神人東竹坊欲押寄之時、放生川辺集会評定之処、

  鹿三頭走出、神人馬武者懸出心得右方左方逃散、兵具捨云々、而鹿三頭

  馳通間、其神人逃散不押寄云々、併神慮歟、生捕共手負四十人許死云々、張本

  輩於河原今朝被刎首了、昨日空死神人輿より出て逃走、侍所於九条辺切殺云々、

 

 「書き下し文」

 十四日、晴る、(中略)抑も八幡神人の騒動不思議に又出来す、去んぬる十一日権別当坊〈東竹と号す〉庭の前の木を裁す、其の前を神人礼無く罷り過ぐるの間、若党ども之を咎む、神人立ち帰り悪口す、結句腰刀を抜きて之に懸かるの間、若党ども神人を打擲し了んぬ、然る間与党の神人ら彼の坊へ押し寄せんと欲す、社務中に入り、無為なるの処、神人の鬱憤猶ほ散らざるか、彼の打擲せらるる神人死する体にて輿に舁かれ上洛す、神人大勢相率て公方へ訴へ申す、室町殿因幡堂に御参籠するの間、彼へ参りて庭中申す、飯尾加賀(八幡奉行なり)に就きて申すべきの由仰せらる、仍て加賀の宿所へ罷り向かふ、神人百人ばかり浄衣の下に腹巻を着し其の用意を致し、以ての外嗷訴に及ぶ、其の間に室町殿神人を召し捕るべきの由、侍所并びに問注所・奉行加賀等に仰せ付けらる、今日昼ほどに侍所京極・問注所二頭大勢加賀宿所へ押し寄す、加賀家中に於いて用意致し待ち儲くるの処、侍所・問注所の勢ども門前より責め入るの間、神人ら家内へ逃げ入るの処、内より加賀勢責め合ひ、内外より取り巻き搦め捕らんと欲するの間、神人元より存じ儲け用意を致すの間、散々に合戦す、神人二十七人、〈或説に三十七人と云々、〉矢庭に打ち殺さる、其の中大将は腹切ると云々、生け捕れる神人五十人ばかり悉く手負ひ、其の中一人は手を負はずと云々、侍所・問注所の勢手負ひ数多、死人少々之有り、加賀勢も数多手負ひ、加賀も疵を蒙ると云々、神人の死骸を車七両に積みて五条河原に之を捨つ、合戦の式目を驚かし言語道断の事と云々、此の夏の神人嗷訴は天下を動かすの処、無為に属し了んぬ、今不慮の事出来し、神人数輩命を堕とし了んぬ、彼ら若し神慮を違へ滅亡するか、不審、神慮測り難き者なり、八幡にも騒動、神人与党猶ほ悪行致すべきかの間、諸大名に仰せられ、勢ども社頭に馳せ下り警固し奉ると云々、権別当にも用心し勢どもを相語らふ、東竹は田向の縁者の間、有善以下地下の輩五、六十人合力せんが為、田向より之を遣はす、騒動不思議の事なり、

 十五日、朝雨下る、以ての外甚雨なり、鳴動有るも、雷には非ず不審、昨日合戦謳歌の説同前なり、召し捕る神人大略斬らるべしと云々、抑も神人東竹坊へ押し寄せんと欲するの時、放生川辺りにて集会評定するの処、鹿三頭走り出づ、神人馬武者懸かり出づと心得て右方左方へ逃散し、兵具を捨つと云々、而るに鹿三頭馳せ通るの間、其に神人逃散し押し寄せずと云々、併しながら神慮か、生け捕れども手負ひ四十人ばかり死すと云々、張本の輩は河原に於いて今朝首を刎ねられ了んぬ、昨日空死の神人は輿より出でて逃走す、侍所九条辺りに於いて切り殺すと云々、

 

 「解釈」

 十四日、晴れ。(中略)さて、石清水八幡宮の神人の騒動が思いがけず起きた。去る十一日に、権別当坊照清〈東竹と称する〉が庭の前の木を伐採していた。その前を神人が礼を失したまま通り過ぎたので、東竹の若党らがこの神人を咎めた。神人は立ち戻って悪口を言い、挙げ句の果てに腰刀を抜いて切り掛かってきたので、若党らは神人を殴ってしまった。そうしているうちに、仲間の神人らが東竹の坊舎へ押し寄せようとした。社務西竹保清が中に入って、何事もなく終わったが、神人らの鬱憤は依然として治らなかったのだろうか、あの殴られた神人は半死半生の状態で輿に乗せられ上洛した。神人たちは大勢の仲間を率いて室町殿足利義持へ訴え申した。足利義持因幡堂にご参籠になっていたので、そこへ参上して提訴し申し上げた。義持は八幡奉行である飯尾加賀守為行を通して訴え申せとご命令になった。そこで、飯尾為行の邸宅へ出向き、神人百人ばかりが浄衣の下に腹巻きを身につけ準備をして、とんでもない強訴に及んだ。その間に足利義持は、神人らを召し取れ、と侍所や問注所、飯尾為行らにご命令になった。今日の昼ごろに、侍所京極高数問注所太田康雄の二人の長官の大軍が飯尾為行邸に押し寄せた。飯尾為行は邸内で戦の準備をして待ち受けていたところ、侍所と問注所の軍勢が門前から攻め入ってきたので、神人らは邸内に逃げ込んだ。そこで内から飯尾勢が攻め立て、内からも外からも神人を取り巻き搦め捕ろうとしたので、神人はもとから討伐されることを予想し準備し申し上げていたので、激しく合戦した。神人二十七人〈ある説に三十七人という〉は、あっという間に打ち殺された。そのうち、大将は切腹したという。生け捕られた神人五十人ほどはみな負傷し、その中の一人は負傷しなかったという。侍所・問注所勢の負傷者は数多く、死人も少々いた。為行勢も数多く負傷し、為行も負傷したという。神人の死骸を車七両に積んで、五条河原に彼らを捨てた。合戦の様子は目を驚かし、言葉にならないほどひどいものだったという。この夏の神人の嗷訴は天下を揺るがしたが、平穏無事に終わった。いま思いも寄らないことが起こり、数多くの神人が命を落とした。もしかすると、彼らは神の思し召しに背いて滅びたのだろうか。疑わしいことだ。神の思し召しは判断しにくいものである。石清水八幡宮でも騒乱が起きた。神人の仲間たちがさらに悪行を重ねるにちがいないだろうから、足利義持は諸大名にご命令になり、軍勢が大急ぎで社殿に向かって警固し申し上げたという。権別当東竹の坊舎でも用心し、軍勢を引き入れた。東竹は田向経良の縁者なので、小川有善ら地下の輩五、六十人が合力しようとするために、田向から派遣された。この騒乱はあるまじきことである。

 十五日の朝、雨が降った。とんでもない豪雨であった。鳴動があったが、雷ではなく、はっきりしたことはよくわからない。昨日の合戦についての世間の噂は、前に記したことと同じである。召し捕られた神人らがだいたい斬殺されたはずだという。さて、神人らが東竹の坊舎へ押し寄せようとしたとき、放生川あたりで寄り集まり相談していところ、鹿が三頭走り出てきた。神人らは騎馬武者が襲い掛かってきたと思い、右往左往しながら逃げ去り、兵具を捨てたという。だが(実際は)、鹿が三頭走り通った(だけだった)。そのために神人らは逃亡し東竹の坊舎に押し寄せなかったという。結局のところ、これも神の思し召しだろうか。生け捕ったが負傷した四十人ほどは死んだという。事件の首謀者たちは、今朝河原で首を刎ねられた。昨日、死んだふりをした神人は輿から抜け出して逃走した。侍所が九条あたりで切り殺したという。

 

 「注釈」

「権別当坊」

 ─東竹照清(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、続群書類従完成会、1939、44頁)。『看聞日記』応永三一年(1424)七月十三日条(3巻―46頁)に「別当ハ東竹ニ被補」とあるので、正しくは「別当」だったと考えられる。

 

「社務」

 ─検校西竹保清(「石清水祠官家系図」『石清水八幡宮史』首巻、続群書類従完成会、1939、42頁)。『看聞日記』応永三一年(1424)六月十九日条(3巻―39頁)によると、神人らは当時の社務田中融清の改替など十三ヶ条の要求を通そうと訴訟(神訴)に及んでいる。そして、七月十三日(3巻―46頁)に田中融清は改易され、西竹保清が補任されている。

 

因幡堂」

 ─因幡薬師。現下京区因幡堂町。町のほぼ中央にあり、真言宗智山派。正称を福聚山平等寺といい、本尊薬師如来

 「拾芥抄」に「高辻南、烏丸東、大納言橘好古」とあり、同書東京図には方一町は現因幡堂町と灯籠町西側にあたる。

 鎌倉時代作と言われる因幡堂縁起(「山城名勝志」所収)によれば、一条院の長徳三年(997)因幡国賀露津の海に夜夜霊光あり、国司橘行平が漁人を海に潜らせてみると薬師の像であった。その後、長保五年(1003)烏丸高辻の行平の邸に像が飛来、仏閣を造って安置したのが因幡堂であるという。本願は子の光朝で、承安元年(1171)高倉院の勅額を賜り、平等寺と号したという。

 「中右記」永長二年(1097)一月二十一日条に「戌時許蓬屋北隣一許町小屋等焼亡、火相分東西、従三方逼来、(中略)烏丸東有小霊験所、世云因幡堂、已焼了、仏像雖奉取出、堂令已煨燼、哀哉」とあり、焼失が知られ、加えて「小霊験所」という記載に当時の規模がうかがわれている。次いで康和五年(1103)十一月十六日(本朝世紀)、嘉承三年(1108)二月八日(中右記)、康治二年(1143)十月十三日(百錬抄)、仁平三年(1153)四月十五日(同書)、安元三年(1177)四月二十八日(「山槐記」治承三年二月二十八日条)、寛元四年(1246)六月六日(百錬抄)、建長元年(1249)三月二十三日(同書)、元中八年(1391)十一月十日(南方記伝)、永享六年(1434)三月十一日(看聞御記)など何度も焼失している。

 当寺は縁起に記された霊験談によって朝野の信仰があつく、歴代の天皇の厄年に当たる時には勅使が代参して祈祷が行われた。「満済准后日記」応永三十一年(1424)十月九日条に、「自今日御所様因幡堂御参籠」とあり、将軍足利義量も参籠したことなどが知られる。

 室町時代には民衆の信仰も集め、応仁の乱以前から本尊薬師如来は、七仏薬師の一つとして治病・安産などに効験ありとされ、乱後には革堂行願寺(現中京区)、六角堂頂法寺(現中京区)などと同じく、いわば町堂とでもいうべき庶民の寺になった。「康富記」応永二十五年七月二十六日条に、

  五条東洞院因幡堂者、園城寺末寺也、而因幡堂者為聖護院之末寺之由申之、叛三井寺云々、仍自園城寺押寄于因幡堂、可打毀僧坊等之由風聞之間、此間侍所〈一色兵部并小」舎人雑色等、〉勢并近辺之町人等大勢、昼夜警固因幡堂云々、彼因幡堂本尊、自天竺渡給薬師如来也、依触耳聊注記、

とあり、園城寺(現大津市)の僧兵に襲撃されるという風聞に、近辺の住民が侍所の軍勢とともに因幡堂を昼夜警固しており、すでに町堂としての性格を強めていることを思わせる。

 現在の建物は明治十九年(1886)の再建で、本尊の木造薬師如来立像(重要文化財平安時代)は嵯峨釈迦堂の釈迦如来信濃善光寺阿弥陀如来とともに日本三如来の一とされる。他に木造如意輪観音坐像(重要文化財鎌倉時代)、木造釈迦如来立像(重要文化財・建保元年)などがある(『京都市の地名』平凡社)。

 

「田向」

 ─田向経良。同資蔭子、長資・あや父。三位・三品。応永28年7月20日任参議。新宰相・宰相・源宰相。永享4年改め経兼、同8年出家。伏見宮御領奉行職(横井清「『看聞日記』の人びと─人名小辞典─」『室町時代の一皇族の生涯』講談社学術文庫、2002年)。

 

「有善」

 ─小川友善。新左衛門。禅啓子。伏見庄公文(横井清「『看聞日記』の人びと─人名小辞典─」『室町時代の一皇族の生涯』講談社学術文庫、2002年)。小川禅啓は、伏見庄政所・山名氏被官・鹿王院領金松名代官、地下古老。永享7年5月20日没(前掲同書参照)。

 

「放生川」

 ─大谷川の部分名称。綴喜郡田辺町松井を水源とする大谷川(別名荒坂川)は、美濃山を水源とする御幸谷川と合し戸津の西を北流、戸津の北で内里・下奈良より西行する蜻蛉尻川を合わせてさらに北へ流れ、森で西に向きを変え平谷の買屋橋から名を放生川と変えて男山山下を北流する。その下流は科手からそのまま直流して淀川へ流れ込む尾無瀬川と、西行して大谷を通り橋本樋門へ通じるものとに分かれていたが、現在は科手から橋本へ通じる流れのみである。また八幡源氏垣外で大谷川に合流する涙川を支流にもつため放生川は子持川ともいう。

 放生川の名は、石清水八幡宮放生会がこの川で行われたことによる。「臨放記」に「公文所家記曰」として「山路子持川辺」で放生会を行ったとあり、承平六年(936)別当定胤が「始於高良庭勤修放生会」とある。「高良庭」とは石清水八幡の摂社高良神社の庭で、放生川左岸の河原に続く地にあった。「男山考古録」には「護国寺牒云」として「天暦十年三月十一日、左大臣参陣仰外記曰、去六日石清水放生川魚或死或悶絶由、宮寺所申也」とある。

 「臨放記」長寛元年(1163)条に「護国寺牒曰、放生河水泛溢、依日来大雨也、人多溺水了」とあるように、八幡南部からの水をすべて集めた放生川は度々溢水した。享保二年(1717)頃の放生川は数ヶ村の悪水や山川の水が流れ込み、少々の雨でも洪水となった。橋本樋門で淀川に水抜きするが、少しの増水でも逆水する状態であった(享保二年五月付の「八幡宮神領百姓惣代口上書」石清水文書)。

 慶長十五年(1610)九月二十五日付の徳川家康朱印条目(「石清水八幡宮史」所引)に「八幡宮放生川之事為霊地之間所之者ニ申付如前々疏申事」とあることや、同時期の相応院(徳川義直生母)消息(同書)に「さてハはうちやう川なとも御さらへさせ候よしよき御事にて候」とあるように洪水対策の川浚えが江戸時代を通じて年一回行われた。各町六百数十軒から出役し、立杭・堰止め役や川浚えが一軒当たり一尺五寸八歩と割り当てられた(「諸事記録帳」上林家蔵)。

 放生川には買屋橋のほかに男山山下を北流する間に、上流から安居橋・高橋(反橋)・全昌寺町(石橋)の三橋が架かるが(諸家蔵古絵図)、高橋は現存しない。寛延四年(1751)の八幡四境図(石清水八幡宮蔵)によれば、高橋は「輪橋」と記され、その上流隣に「添橋跡」と見える(『京都府の地名』平凡社)。

 

 

*強訴・閉籠をきっかけとする騒乱の結果、石清水八幡宮の神人やその関係者たちが自殺・切腹に及んだ事例を、私はこれまで2度紹介してきました。1つは嘉元二年(1304)の事例(「自殺の中世史2―9・10」)で、もう1つは応安四年(1371)の事例(「自殺の中世史3―2・3」)です。細かい内容は、それぞれの記事をご覧になっていただきたいのですが、この二つの強訴と今回紹介した応永三十一年(1424)の強訴では、参加した人数が圧倒的に異なるのです。嘉元二年は14人、応安四年は6人プラスαで、両者ともにわりと小規模な強訴だったのですが、今回の強訴はなんと100人にも及んでいるのです。興味深いのは、飯尾為行邸に攻め込んだ神人集団には大将がいたところ、そして、この集団とは別に、男山の東竹照清邸を攻めようとする別働隊が組織されていたところです。嘉元二年と応安四年の事例とは明らかに異なり、15世紀になると、神人集団がかなり組織だった武装集団へと変貌を遂げていることがわかります。そのせいでしょうか、合戦自体もかなり激しかったようで、死者は27人(あるいは37人)、負傷者は50人ほどにも及びました。

 さて、個人的に最も気になるのは切腹した人数です。嘉元二年は14人中7人、応安四年の場合はっきりしないのですが、最大で6人程度が切腹したと考えられます。ところが、今回の場合、参戦した人数が多いにもかかわらず、切腹したのは大将たった1人だったのです。ではなぜ、同じ強訴でありながら、これほどまでに自殺者の数に違いがあるのでしょうか。たんなるあて推量ですが、以下に2つの考えを提示して、私自身の備忘録に替えておこうと思います。

 1つ目は、騒乱の起きた場所の影響です。嘉元二年・応安四年は石清水社殿で騒乱が起き、今回は飯尾為行邸で合戦が起きました。以前私は、「自殺の中世史2―10、3―3」という記事で、中世では石清水八幡宮の鎮座する男山を西方極楽浄土とみなす考え方が広まっており、そこが死を迎えるのにふさわしい場所と考えられていたのではないか、と指摘したことがあります。ひょっとすると、本地阿弥陀如来の鎮座する男山は、洛中にある一奉行人の邸宅よりも、自殺のハードルを下げる効果があったのではないでしょうか。

 2つ目は、強訴に及んだ神人集団の変質です。前述のように、今回の強訴は「大将」に統率された武装集団による大規模な騒乱であり、史料にも記されているように、もはや「合戦」と呼んだ方がふさわしいものだったのです。嘉元二年・応安四年の事例ように、利害関係者と目される少数の人物だけで強訴に及ぶのであれば、思い余って自殺することもあるでしょうが、今回の強訴の場合、その人数から推測するに、強訴内容とは直接利害関係をもたない人物の方が多く参加していたのではないでしょうか。つまり、参加者の多くは、一部の首謀者(大将)に率いられた雑兵・足軽・傭兵(たんなる軍事力)だったと考えられるのです。もしそうであれば、参加者のほとんどは強訴にたいした思い入れもないでしょうから、敗戦に至って切腹することもないでしょう。自殺者が少ない理由は、このようなものだったのかもしれません。

 ところで、今回の首謀者である神人大将は、いったいどのような人物だったのでしょうか。敗戦に至り、たった一人で切腹するなど、まるで武士の行動そのもののように思われます。周知のとおり、中世の戦では、自殺・切腹に及ぶ武士の事例に事欠きません。おそらく当時の武家社会では、このような切腹は、敗戦のケジメや降伏の意を示すための儀礼・慣習として定着していたものと考えられます。そうすると、この神人大将は神人の身分をもちながら、武家にも属するような人物だったのではないでしょうか。神人でありながら武士でもあるからこそ、負け戦の場面で儀礼としての切腹が頭に浮かび、それを遂行したのかもしれません。

 

 

*今回の事件の最も詳しく正確な記事はこの『看聞日記』の記事ですが、以下に、関連史料2点も示しておきます。

 

【関連史料1】

  同日条(『兼宣公記』2─223)

 

 十四日、丙辰、晴、(中略)

                        〔訟〕

  抑未初程巽方騒動、不審之処、 八幡神人依有訴詔事百人許参洛、列参奉行人

    (為行)        (高数)

  飯尾加賀守宿所、被仰付侍所京極、欲召捕之処、余手之間闘諍畢、仍神人侍所

  者家主飯尾若党多以夭亡、死人者百五十余人出来、蒙疵□十余輩、適無為之

                       (為種) (太田康雄)

  神人者三十余人、召捕之被籠舎、飯尾加賀守・同肥前問注所等奉行三人触穢

  之間、三十个日可籠居之由被仰出、侍所是又依穢不可出仕由同被仰下、仍 北野

           (満祐)

  経所警固事俄被仰赤松畢、因幡堂御参籠所門役事侍所不叶之間、被仰管領

  也、飯尾加賀守宿所因幡堂東門前也、此騒動出来之間、諸人群衆勿論事也、及

  晩頭退出之処、猶以未静謐、希代珍事欤、

 

【関連史料2】

  同日条(『満済准后日記』上、続群書類従・補遺一、283頁)

 

 十四日。。後夜日中如昨日、初夜同前、〈重衣」体〉。

   (中略)

  今日申末刻。於飯尾加賀守宿所。八幡神人等被召取。二百余人帯兵具参洛之間

  召取、余於当座卅余人被切殺了。四十九人召取了、侍所内者少々蒙疵云々。其内

  両人半死半生云々、近比神人等余任雅意嗷訴重畳。去比七月。護国寺閉籠種々

  悪行以外云々。併自滅体神罰歟。為公方御下知ハ只少々張本嗷訴者可召置由被

  仰云々。侍所可致其沙汰由企処。彼等不事問手向放箭。言語道断云々。

  明徳内野合戦以来。於京中多人被打殺事無之歟。

 

 

 「書き下し文」

【関連史料1】

  抑も未の初めほど巽方にて騒動、不審の処、 八幡神人訴訟の事有るにより百人ばかり参洛し、奉行人飯尾加賀守宿所に列参す、侍所京極に仰せ付けられ、召し捕らんと欲するの処、手に余るの間闘諍し了んぬ、仍て神人も侍所の者も家主飯尾の若党も多く以て夭亡す、死人は百五十余人出来す、疵を蒙る者は十余輩、たまたま無為の神人は三十余人、之を召し捕り籠舎せらる、飯尾加賀守・同肥前問注所等奉行三人触穢の間、三十箇日籠居すべきの由仰せ出ださる、侍所是れ又穢により出仕すべからざる由同じく仰せ下さる、仍て北野経所警固の事俄に赤松に仰せられ畢んぬ、因幡堂御参籠所門役の事も侍所叶はざるの間、管領に仰せらるる者なり、飯尾加賀守の宿所は因幡堂東門の前なり、此の騒動出来するの間、諸人群衆勿論の事なり、晩頭に及び退出するの処、猶ほ以て未だ静謐ならず、希代の珍事か、

 

【関連史料2】

  今日申の末刻。飯尾加賀守の宿所に於いて。八幡神人ら召し取らる。二百余人兵具を帯び参洛するの間召し取る。余当座に於いて三十余人切り殺され了んぬ。四十九人召し取り了んぬ。侍所の内の者少々疵を蒙ると云々。其の内両人半死半生と云々。近ごろ神人ら余りに雅意に任せ嗷訴重畳たり。去んぬるころ七月。護国寺閉籠種々の悪行以ての外と云々。併しながら自滅の体神罰か。公方御下知としては只少々張本の嗷訴する者を召し置くべき由仰せらると云々。侍所其の沙汰を致すべき由企つる処。彼ら事問はず手向かひ箭を放つ。言語道断と云々。明徳内野合戦以来。京中に於いて多く人打ち殺さるる事之無きか。

 

 

 「解釈」

【関連史料1】

  さて、未の初めころ、南東の方角で騒動があった。細かい点まではよくわからなかったが、八幡神人の訴訟によって百人ほどの神人が参洛し、八幡奉行人飯尾加賀守為行の邸宅に列参した。室町殿足利義持侍所頭人京極高数にご命令になり、神人らを召し捕ろうとしたところ、手に負えなくなったので、闘争になった。そのため、神人も侍所の者も家主飯尾の若党も数多く夭亡した。死人は百五十余人出た。負傷者は十数人、たまたま無事だった神人は三十余人で、彼らを召し捕り牢屋に押し込めた。加賀守飯尾為行・肥前飯尾為種問注所執事太田康雄ら奉行三人は触穢となったので、三十日間籠居せよ、と足利義持はご命令になった。侍所京極高数もまた穢により出仕してはならない、と同じようにご命令になった。したがって、北野経所警固のことを急に赤松満祐にご命令になった。因幡堂御参籠所門役のことも侍所が担当できないので、管領畠山満家にご命令になったのである。飯尾為行の邸宅は因幡堂東門の前にある。この騒動が起きたので、群衆が集まったのはもちろんのことである。夕方になって宮中を退出したところ、依然として騒動は治まっていなかった。世にもめずらしい一大事であろう。

 

【関連史料2】

  今日申の末刻、飯尾加賀守為行の邸宅で、八幡神人らが召し取られた。二百余人が武具を身につけて参洛したので召し取った。その他、その場で三十数人が切り殺された。四十九人を召し取った。侍所の被官が少々負傷した。そのうち二人が半死半生だという。近ごろ神人らはあまりに自分勝手にふるまい、嗷訴を繰り返している。去る七月、護国寺の閉籠など、さまざまな悪行はとんでもないことだという。要するに、自滅のような状態は神罰だろう。公方足利義持の御命令としては、ただ悪事の元となるような嗷訴をする者を少々召し取れ、と仰せになったという。侍所がその命令を遂行しようと計略を立てていたところ、彼らはものを言うことものなく歯向かい、矢を放った。とんでもないことであるという。明徳の内野合戦以来、京中で多くの人が打ち殺されるようなことはなかったのではないか。

 

 「注釈」

「明徳内野合戦」

  ─明徳の乱。内野での合戦については、貝英幸「中世後期北野門前と内野」『佛教大学総合研究所紀要』第20号、2013年3月、150〜154頁、https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2013/SK20132R147.pdf)を参照。