周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

歴史・民俗・宗教系論文一覧 Part3

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出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 240 つまり、これら4点を総合すれば、中世京都において「五条」ないし「六条」近辺は、現実の生活のうえでも、信仰の意識のうえにおいて、共通して都市の境界、もしくは周縁地と認識されていたのである。あるいは、より厳密を期すならば、境界としての性格は「五条」の方が強く、「六条」は境界外の地、周縁地としての意味をもっていたというべきかもしれない。
そして、その背景の一つには、生活圏から遠く離れた場所で処刑・梟首を行うことで、犯罪によって生じた犯罪穢や、死刑によって生じた死穢を極力遠ざけようという中世人独自の観念があったと思われる。
 
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 242 このように中世京都の処刑は〝場所〟においては都市空間の境界の地で行われるという特徴をもつとともに、〝時間〟においても「日暮」から「夜半」という人気のない時間を選んで行われるという特徴をもっていた。言い換えれば、中世京都の処刑は一貫して人々の日常生活から離れた〝場所〟と〝時間〟で行われるのを大きな特徴としていたと言える。やはり、その背景には、さきに述べたような中世人の犯罪穢や死穢に対する忌避の観念があったと考えるべきだろう。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 243 中世京都の処刑・梟首においても、日常生活から〝場所〟〝時間〟ともに遠ざけられる一方で、同時にひろく人々に「見せしめ」ようという意識が共存していたのである。しかも、この処刑・梟首の両儀的な性格はなにも処刑・梟首を実行する為政者だけの観念だったわけではない。今日に住む一般の都市民衆においても、一方で処刑・梟首は「彼辺民屋計会云々」と忌避される一方で、いざ処刑・梟首が行われると物見高い大勢の人々がその場に駆けつけ「洛中諸人群集見物之」という状況が現出されている。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 246 しかし、『平治物語絵詞』で真に注目せねばならないのは、その信西梟首を描いた場面に重大な誤りがあるという点である。実際には「獄門に懸ける」というのは、なにも獄所の門に首をぶらさげるわけではなく、平安期以来、獄門の前に生えていた楝(樗)の木の枝に首を懸けることを意味していた。しかし、この『平治物語絵詞』では、信西の首は獄門の屋根の端に棟飾りのように吊り下げられてしまっている。これは『絵詞』の絵師が、首を懸ける獄門の「楝木」を「棟木」と勘違いして書いてしまったことによる誤りであることは明らかである。だが、絵師が間違えるのも無理はない。現実に京都において獄門での梟首は、史料で判明するかぎり建仁元年(1201)の城長茂らの梟首を最後に、鎌倉期では行われることはなくなっていた。絵師は少ない情報をもとに想像力に頼って信西梟首の場面を描いたために、誤りを犯してしまったのだろう。ここから、鎌倉期には「朝敵の首は獄門に懸けるべき」という獄門原則を人々は強く認識していたものの、現実にそれが行われることはなく、人々の記憶からその具体的な様態は忘れ去られようとしていたことがわかる。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 250 以上、論証したように、鎌倉・室町期を通じて、王朝国家以来の「朝敵の首は獄門に懸けるべき」という原則は折に触れて唱えられ、人々の共通認識となっていた。しかし、室町幕府はその獄門原則を意識しつつも、それを実行することはほとんどなく、政治的反逆者・一般犯罪者を問わず処刑・梟首の場には六条河原や東寺口四塚を使用しつづけた。その意味で室町幕府は、天皇権威に収斂する獄門原則からは距離を置き、前節で明らかにしたような中世的な処刑・梟首感を持ち続けた、と評価することができよう。  
2006 清水克行 室町人の面目 喧嘩両成敗の誕生 講談社 著書 15  応永三一年(一四二四)六月、奈良で起きた事件も、この金閣寺の事件とよく似ている。この日は奈良の町なかの押上郷の祇園会であった。この恒例の都市祭礼には毎年多くの人出があったようで、街の遊女たちや近在からの見物客で奈良の町はごった返していた。その人混みのなかで、一人の「田舎人」が「酔狂」のあまり「比興の事」(不始末)をした。この「田舎人」がしでかした「比興の事」が具体的に何であるか、残念ながらよくわからないが、たまたまそれを見ていた遊女が、ここでもそれを「笑った」。ただ、それだけのことなのだが、笑われた「田舎人」は突如として逆上し、酒の勢いもあって殺人鬼と化してしまう。彼はまず自分を笑った遊女を斬り、続けてその遊女屋の女主人をも惨殺したうえ、最後は自分自身、切腹して果てたという。彼の行為はほとんど通り魔の所業であり、これだけでも私たちから見ればまったく理不尽な出来事なのだが、このときも事態はこれで終わらなかった。やはり、事件後に「田舎人」の「方人(かたうど)」(支援者)と主張する人々(おそらく近隣住人だろう)が大勢で奈良の町に復讐のために攻め寄せてきて、奈良の町人たちと衝突し、このときは現実に双方にかなりの数の死傷者が出てしまったらしい。具体的な経緯については不明な点もあるが、ここでもさきの金閣寺の話と同じように、「笑う─笑われる」という本当に些細な問題が殺人に発展し、さらにそれが双方が属する集団どうしの殺戮劇にまでエスカレートしてしまっているのである。  このほかにも、同じ頃の北野社では、神前に奉納した連歌の内容がヘタだといって「笑」ったことで、北野社の社僧と参詣人が喧嘩になり、一方が撲殺されてしまうという事件が起きるなど、この時代には「笑う─笑われる」を原因とした殺傷事件は後を絶たない。それほどまでに彼らは傷つきやすく、「笑われる」ということに過敏だったのである。しかも、ここで稚児や遊女に笑われたのを理由にして大惨事を巻き起こした人々は、とくに侍身分というわけではなく、いずれもただの僧侶であったり、たんなる「田舎人」である。彼らの場合、稚児や遊女といった自分たちよりも身分の低い者から笑われたのが、どうにも許せなかったのだろう。この時代の人々は、侍身分であるか田舎を問わず、皆それぞれに強烈な自尊心「名誉意識」をもっており、「笑われる」ということを極度に屈辱と感じていたのである。もちろん室町人の中にも個人差はあり、その程度は人それぞれであるが、それはおおむね現代人の想像を超えるレベルのものだったようだ。  
2006 清水克行 室町人の面目 喧嘩両成敗の誕生 講談社 著書 27  ここに出てくる「下剋上」という言葉が室町・戦国時代を語るうえでのキイ・ワードの一つであることは一般によく知られているが、その「下剋上」の原因は、家臣の側の権勢欲や野心ばかりではなく、しばしば双六の勝敗のようなつまらない事柄であったことには注意をされたい。この時代の武士の間には、主従の間の上下の秩序よりも、自らの自尊心や誇りを維持することの方がときとして優先され、それが「下剋上」を生み出す原因ともなっていたのである。  ちなみに、近年の近世史研究の成果により、江戸前期の武士社会においても、人々のなかに過激な名誉意識が共有されており、しばしばそれが紛争の火種となっていたことが明らかにされている。そうした成果に学んで、あえて本書が扱う室町時代の人々の名誉意識と江戸時代の人々のそれとの相違点を述べるとすれば、大きく二点が指摘できるだろう。すなわち、一つには、すでに述べたように、その名誉意識が侍身分に限定されず、僧侶や一般庶民にも共有されるものであったこと、そしてもう一つには、ここで述べたように、それがより容易に主君への反逆にも転化する性格のものであったこと、である。  もちろん主人の側にとって、このような被官たちの心性ほど厄介なものはない。そのため、主人たちは被官たちの荒ぶる心性を主従秩序の側に矯正しようとしばしば試みるのだが、それはなかなかうまくはいかなかった。ひとたび屈辱を加えられれば相手が主人といえども黙っていてはならない、という当時の社会通念は、それほどまでに根強かったのである。現に、一五歳の細川勝元自身、前田少年の反逆行為を即時に罰することをせず、むしろ当時においては最大級の恩典を与えて、「切腹」というかたちで死に花を咲かせてやっている。しかも、そうした勝元の穏便な措置を「当座つつがなし、後代に名を揚ぐ」「感悦々々」と褒めそやす人々は決して少なくなかったのである。  
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 161 呪詛調伏の代表的な修法に太元帥法や六字経法があるが、まず前者は九世紀中葉より毎年正月に天皇護持のために祈られたものであり、また臨時祈祷では平将門の乱をはじめとする内乱・外寇で修された。大壇の上に刀剣・弓箭・棒鉤・鉄杖など、ありとあらゆる武器を並べて修するのがこの修法の特徴である。これらの武器は諸尊の三昧耶形を表すとされ、僧侶はこれらを想念の世界で駆使しながら敵の姓名に呪詛調伏した。私修が認められなかった太元帥法に対し、貴族たちが日常的に利用していたのが六字経法や転法輪法である。六字経法では人形に敵の姓名を書いて、弓矢で「射殺」す所作をし、さらにそれを切り裂いて炉で焼き、依頼主にその灰を飲ませている。また、転法輪法では行疫神や不動尊を描き、敵の姓名を書いた人形の頭や腹をそれらに踏ませて呪詛している。たんなる所作とはいえ、呪詛調伏が孕んでいる暴力性をよく示していよう。
しかもこうした呪詛は、民衆支配の場でも用いられた。金剛峯寺は四季祈祷で、年貢を未進・対捍するなど寺命に背いた者の名字を書き上げ、彼らに神罰・仏罰が下るように呪詛していたし、興福寺も寺敵の名字を五社七堂に籠めて呪っていた。荘園制社会は基本的に民衆の自発性を組織することによって成り立っているが、最終的にその秩序を支えていた装置の一つがこうした呪詛の暴力であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 162 もちろん、呪詛調伏は相手の身体に危害を加えていない以上、近代的な暴力官からすればこれは暴力ではない。しかし、技術と呪術が未分離な中世社会にあっては、暴力と呪術が未分離であり、こうした呪術的暴力が実体的力をもつと見なされていた。呪術調伏で恩賞をもらった事例は無数にあるし、呪詛が重大な政治的影響を及ぼした事件も珍しくない。藤原頼長近衛天皇を呪詛したとの噂が保元の乱の伏線となったし、将軍護持僧による執権北条経時への呪詛が寛元四年(1246)の宮騒動宝治合戦へと連なった。後醍醐天皇は御産祈祷の名目で鎌倉幕府を呪詛させたし、永享六年(1434)には延暦寺の有力山徒が将軍義教を呪詛したことから、室町幕府延暦寺を攻撃している。(中略)
気筒の世界でも攻撃型の手法と防御の祈祷があった。防御の修法を担った代表的存在が護持僧である。
たとえば天皇の護持僧には正護持僧と副護持僧があり、いずれも臨時によって補任されていた。副護持僧(数名)は除目などの際に臨時帰投を要請されたが、それに対し正護持僧の三名は長日三壇御修法を修した。彼らはそれぞれ六口ほどの伴僧を従え、不動法・如意輪法・延命法の三法をおのおの自坊で毎日3度ずつ勤修していた。つまり天皇が健康であり、社会も平穏無事な平時においてすら、正護持僧だけで年に5000石もの費用を使って、3000回以上の手法を行なっていた。膨大な労力が、天皇の護持祈祷に費やされていたのである。この費用と労力は朝廷が呪詛の有効性を信じていたことの証左である。
しかもこうした護持僧による護持祈祷は、武家の世界に波及した。鎌倉幕府では将軍護持僧や得宗護持僧が確認できるし、室町幕府でも5、6名の武家護持僧が一貫して護持祈祷に従事していた。
5億。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 163 中世の暴力を考える際、武士の暴力だけでなく、こうした宗教的暴力も併せ検討しなければならない。実際、武士が見える世界の侍であるとすれば、護持僧は冥界の侍であり、中世の権力者はこの領主の侍から守護されるのが一般的である。院政期の事例であるが、『朝野群載』所収の「国務条々事」によれば、地方に赴任する際に国司が京都から連れて行くのが望ましい人物として、「堪能武者一両人」と「験者并智僧侶一両人」を挙げている。武士と護持僧とによって、顕の敵と冥の敵から貴人を守るという護衛システムは、地方赴任の国司においても採用されていた。
中世には呪詛への恐怖が薄れたとする赤松氏の主張は、呪詛や護持僧の実態からして従うことができない。中世の政治において宗教的暴力は不可欠の存在であった。この点において、赤松説・石井説ともにその論拠はほぼ崩壊している。
これは国人・土豪層でも同じだろう。上層身分の慣習が下位層にも伝播し、宗教勢力の需要が全国的に高まって行くということだろう。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 164 さらに、正応三年(1290)本願寺覚如は、治病のために護符を勧められたところ、飲む振りをしてそれを捨てており、護符の有効性を信じていなかった。
中世人が概して神仏に篤い信心を寄せていたにしても、他方ではそうした信仰に冷淡な意識も着実に広がっていた。顕密仏教は、こうした厳しい視線の中で社会的信頼を勝ち取らなければならなかった。社会発展につれて育まれた合理性を宗教の内部に取り込むことができなくては、顕密仏教は中世という時代を生き延びてゆくことができなかったはずである。むしろこの課題を達成しえたところに、原始的な呪術とは異なる顕密仏教の特質があった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 165 このように『東山往来』では、その結論が呪術的なものであれ、合理的なものであれ、それぞれの質問に対して、必ず内典・外典の文献を博捜して典拠を示した上で結論を導いている。もちろん依拠文献の合理性に限界があるため、呪術性の融着を払拭することはできていないものの、事例は文献で挙証をもとに結論を導く姿勢が貫かれている。『東山往来』の批判精神は挙証主義によって担保されていた。(中略)
 天台三大部私記を著した延暦寺の宝地坊証真や、東大寺の宗性・凝然のような文献学の巨匠は、こうした中から登場した。その影響は密教にも及んでおり、東密の『覚禅鈔』、台密の『阿婆縛抄』『行林抄』『渓嵐拾葉集』はこうした挙証主義を背景に生まれている。また法然の『選択本願念仏集』や親鸞教行信証』をはじめとする異端派の著作も、この挙証主義の伝統を踏まえている。
もとよりそれは、近代的な合理主義とはなお異質である。彼らは論議・講経による仏意の究明が鎮護国家・五穀豊穣につながると確信していた。(中略)
どの宗派の僧侶であっても、顧客を納得させるために、幅広い知識が必要だった可能性がある。僧侶が漢籍を勉強するのも、そこに理由があったか。であるならば、地方の僧侶でも勉強しなければならない。縁起は突拍子もない創作話のように読めるが、当時の人間に納得させるためにも、漢籍の知識を使って説得力を高めたか。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 166 このように、仏典の一文一句を正確に理解することが、神々への法楽となり、その神威を増して鎮護国家・五穀豊穣につながると、彼らは信じていた。その点で彼らの文献学や挙証主義は近代的なそれとは異質である。しかしニュートン力学神の摂理を解明するものとして登場し、そこでの科学的思考とキリスト教の信仰とが共存しえていたように、顕密僧の呪術的信心と合理的な挙証主義とは矛盾なく併存していた。彼らは神の法楽と鎮護国家・五穀豊穣の実現のために、文献研究に没頭したのである。
『東山往来』にみえる挙証主義や批判精神は、中世の顕密仏教を貫く基本的性格の一つであった。顕密仏教はただの呪術であったのでは決してない。高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義、これが顕密仏教の特質であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 166 この論文で田中(文英)氏は、①僧侶たちは病の原因を六つに分類しており、病因に応じて対処法を変えていた、②身体的不調が主因であれば懺悔させて祈祷を行なうなど、僧侶は医療技術と祈祷を総合的に駆使しながら治病に当たっていたと論じ、当時としては可能なかぎりの医療技術や知識を動員して祈祷を行なっていたのであり、その修法は医療技術を踏まえた一定の合理性を保持していた、と結論している。(中略)
そもそも医学・薬学などの医方明は、声明・因明・内明・工巧明とともに五明の一つとして、僧侶の学ぶべき学問分野の一つとされていた。実際、慈円はこの五明のうち最低一つに通達していることを大懺法院供僧の補任条件に挙げているし、鎌倉末の天台宗光宗は元一律師や行法・清増から医方明を学んでいた。(中略)
こうした医療技術や薬学的知識を援用しながら祈祷しているがゆえに、彼らの修法は社会的な信任を得ることができたのである。このように顕密仏教は、顕教であれ、密教であれ、一定の合理性を踏まえた呪術であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 167 これは二つのことを意味している。第一は中世農業における豊作祈願の必要性である。農書の述作を積み重ねることによって近世の農業技術が次第に呪術性を脱していったのに対し、呪術と技術が未分離な中世社会では、様々な芸能や読経・祈祷による農作祈願が不可欠であった。つまり、日本の中世社会は生産過程のなかに宗教性・呪術性が分かちがたく融着しており、豊作祈願なしに生産活動は完結しなかった。それ故に、修正会をはじめとする予祝神事は、中央では延暦寺興福寺などの権門寺院から、地域の一宮・国分寺や有力寺社、さらには荘園鎮守から村堂・村社にいたるまで全国一斉に実施された。延暦寺興福寺が行なう五穀豊穣の祈りの背後には、方策を祈る地域民衆の素朴な願いが存していた。顕密仏教は民衆と無縁な貴族仏教であったのではない。それは確かに中世の支配イデオロギーのであったが、しかし民衆的基盤のない支配イデオロギーはそもそも支配イデオロギーの名に値しない。技術と呪術の未分離に起因する豊作祈願の不可欠さ、これが中世の顕密仏教を支えた社会的基盤であり、民主的基盤であった。  
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 167 仏教的・神道的な祈りと農作過程の模擬とが組み合わさる形で予祝儀礼が実施されており、そこでの儀礼は農業技術の中世的達成を示すものであったし、それはまた技術伝承の場でもあった。『渓嵐拾葉集』の著者である天台宗光宗が「術法」「作業」「土巧」「算術」を学んでいたように、中世寺院は土木技術・農業技術や天文学的知識を集積しており、呪術と不可分な技術的知識が、顕密寺院を介して地域社会に灌流されていた。こうした技術的背景があったため、顕密仏教の五穀豊穣の祈祷は社会的心因を獲得することができたのである。 黒田日出男『日本中世開発史の研究』、黒田俊雄『寺社勢力』
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 168 それによれば、奉行人は證文によって事実審理を行なうが、それに限界があるときは証人の陳述を採用し、それでも解明できない場合には起請文による神判で当否を判断するという。つまり鎌倉幕府の裁判制度は、その内部に呪術的な審判を構造的に組み込んでいた。中世の裁判制度は呪術と未分離であって、宗教性を払拭できていない。
とはいえ、その呪術性は野放図なものではない。神判の採用は限定的であり、証文や証言による合理的な事実認定をできるかぎり追求している。(中略)このように「失」の客観的な判断基準が明確に定められており、恣意的な運用に歯止めをかけていた。合理性と呪術性との共存・協働は、裁判制度においても確認することができる。(中略)
中世は人間の力が万能ではないが、神仏の力とて万能ではない。中世社会の諸事象に、合理的呪術性や呪術的合理性の共存・協働が見えるのは、ここに原因がある。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 169 では、なぜ顕密仏教は呪術体系の頂点に登ることができたのであろうか。第一の理由は文献的裏付けの豊かさと質の高さである。仏教の祈祷や読経・講経に功能があることは膨大な仏教典籍で裏付けされており、いわば「国際的」評価が定まっていた。仏教以外の呪術はこの点で大きく遅れをとっていた。『東山往来』は巷間での俗説や巫女の迷妄を厳しく批判しているが、その批判が可能なのは、俗説・迷信が内外の文献による正当化に耐えないからである。膨大な蓄積のある仏教経典、さらに儒教をはじめとする中国古典や日本文献に対する該博な知識、それらを縦横に駆使して現実に生起するさまざまな事柄に対して、対処法を教示しえたところに顕密仏教の文化的強靭さがある。
しかも延暦寺などの顕密寺院における「知」のありようは、狭い意味での仏教に留まるのではなく、和歌・儒教はもとより、医学・薬学的知識や土木技術・農業技術・天文学などまで包含していた。顕密仏教の知的世界は広大であるだけでなく、その「知」が技術的な裏付けも有しており、高い質を誇っていた。知的世界の広さと深さ、これが顕密仏教に対する社会的信頼を醸成したのである。(中略)
武士が日常的に戦闘の訓練に励んでいたように、密教僧は戒律・禅定・智慧(三がく)を磨くことによって自身の祈祷力を鍛えていた。仏教の教えに裏づけられた厳しい日常的修練、この点においても顕密仏教は他の呪術より優位にあった。(中略)
ここに見える慈悲による呪詛、救済のための調伏という考えは密教修法の基本である。呪詛という宗教的暴力の行使を、このような救済論によって正当化することは、他の呪術には成し得ないことであった。
以上、述べてきたように、仏教は文献的裏付けの質と量の両面で他の呪術を圧倒していたし、祈祷者の厳しい禁欲と日常的修練、さらに呪詛を正当化する理論の卓越によって、顕密仏教は中世の呪術体系の頂点に君臨することができたのである。
 
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 58 本稿でいう「山の寺」とは、山中や山麓に立地し、本堂・中心堂舎群(神社である場合も含む)を中核とし、数個から数百の坊院がひな壇状(テラス状)に展開する施設群の総称をさす。禅宗寺院、町の寺(律宗時宗法華宗など)、村の寺(一向宗など)との対比で「山の寺」とくくっているが、必ずしも深山・高山に立地するものには限らない。天台・真言系の寺院が多く、おおよそ9〜16世紀に発達した。陸奥国から薩摩・大隅国まで列島全域に立地した。
それぞれの地域において「山の寺」は、宗教的な中心地であるだけなく、もの作りや経済のセンター、文化・芸能の発信地でもあった。大きな政治力・軍事力を帯びている場合も多い。すなわち、「山の寺」は中世の地域社会における最重要な「核」のひとつであり、「山の寺」を素材に地域社会像を描くこともできるのである。
これまでともすれば、戦国時代や近世の城下町のイメージを前代に敷衍し、室町時代においても武家の政治拠点である守護所が地域社会の核として機能していたかのように論じられてきた。しかし、実態分析が進むにしたがい、人口、経済中心性、行政・裁判機関としての機能など、守護所がもつ都市としての指標がいずれもそれほど高くないことが明らかになりつつある。
一方、中世における地方都市の典型が港町であることも近年の研究によって明らかになった。
『守護所と戦国城下町』高志書院、2006
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 59 しかし、戦国時代の中葉にあたる16世紀初頭以降、武家諸権力が成長し、大規模な城郭や城下町を形成する時代になると、「山の寺」の多くは衰退してゆく。近江国などでは、「山の寺」が城郭や城館に改造され、武家の拠点とされる例も見られる。近江北半「守護」である京極氏の本拠となった上平寺館滋賀県米原市)などが典型である。
一向宗が盛んとなった近江・北陸などでは、一向宗の伸長と反比例して「山の寺」が凋落していった。中世近江の村落の指導者である土豪の多くは、室町時代、「在地山徒」となった。そして、自らの城館の近辺に比叡山延暦寺につながる天台宗寺院を建てていた。ところが、そうした寺院の多くが15世紀末以降、一向宗道場に改宗していった。百姓たちの惣村(共同体)強化の動きに対応し、土豪たちが率先して一向宗に改宗して坊主(毛坊主)となり、百姓たちへの指導性を宗教的な側面から維持しようとしたためである。
以上のように、武家一向宗の台頭が「山の寺」の衰退に結びついたとすれば、大名や国人(有力武士)など(一部の地域では一向宗)が戦国時代中葉以降、地域社会のなかで担う役割・機能の重要な部分を、室町時代までは「山の寺」が担っていたのではないかと推察される。逆にいえば、室町時代まで「山の寺」に結集していた地域社会の力量が、戦国時代には武家側、村落側(一向宗)に分け取られてゆくのではなかろうか。
村々の有力者や村(惣)の力が「山の寺」に集まり「山の寺」が政治・軍事・経済・文化の拠点であったのが室町時代であり、それは鎌倉、平安時代まである程度、さかのぼるのではないかと思われる。
城郭史研究の立場からは、武家の城づくりに先行する形態として「山の寺」が注目されている。
近江国では、戦国大名六角氏の山城である観音寺城滋賀県近江八幡市)の石垣構築にあたり、近隣の「山の寺」から技術援助を得たことを示唆する、同時代の文献史料が注目されている。石垣港地区の技術が「山の寺」から戦国期城郭に伝えられた可能性は高い。
福島克彦畿内・近国の戦国合戦』戦争の日本史、吉川弘文館、2009
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 62 それぞれの地域社会の有力者が、子孫を「山の寺」に入寺させたり、「山の寺」の坊院を氏寺・菩提寺にして結集していることも重要である。周辺農民から集めた債権(借金証文)を、自宅に置いておくと徳政一揆の攻撃目標となり危険なので、「山の寺」の関連坊院に預けておくこともあったらしい。
このように「山の寺」は、一般的な農村とは異なる中心性をもち、その卓越性は顕著である。こうした村落とはちがう存在を「都市」と規定することは誤りではないだろう。
ただ、「山の寺」を宗教のみの空間であると考え、その清浄性だけを強調するのは誤りである。中世の「山の寺」の現実世界には俗人もふくめ多くの人びとが集まり、暮らしていたのであり、それが「山の寺」の活力を生み出し、だからこそ中心性も高まったと考える。中世の「山の寺」の特質はここに認められる。
 
2017.3 藤井雅子 中世醍醐寺における他寺僧の受容 日本女子大学紀要 文学部66   論文 71 (「横入」)寺院においては、近年刊行された『寺院法』の注釈に「同一宗派の他寺僧が寺の住僧として入ってくること。」「他寺から移ってきて寺僧となること。」と記されるように、本稿においても「他寺において出家や修学した僧侶が、別の寺院に移って寺僧(「交衆」)となり、活動すること。」と定義しておきたい。なお「交衆」とは「仲間として交わりを持つ集団」との意であり、「寺僧」として活動することを許された僧侶と考えたい。  
2017.3 藤井雅子 中世醍醐寺における他寺僧の受容 日本女子大学紀要 文学部66   論文 76 実は室町中期から後期における醍醐寺は前述したように、山下の多くの伽藍が焼失し荒廃していたため、多くの僧侶は被害の少なかった山上の院家において活動していたとみられる。ただし山上は山下に比して出自の低い僧侶が住持する傾向にあったとみられ、また応仁文明の乱によって多くの貴族が京都を離れて地方に下向した事例もあり、この時期の醍醐寺諸院家への貴種の入室は減少した。その代わりに嫡流の断絶を防いだのが、「平民」出身の「法流預」であった。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 20 したがって、若君が遭遇した鬼たちは、手が三つで足が一つの者や、目が一つの者、目が三つの者、馬の頭をした者、牛の頭をした者、あるいは鳥の首の頭をした者、鹿の形をした者など多様な姿かたちをしていた、ということが推測できるだろう(『今昔物語集』巻十二の第一、『古本説話集』下・第51「西三条殿の若君、百鬼夜行に遇ふ事)。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 27 (『泣不動縁起絵巻』)その右脇、一番下の妖怪は長いくちばしを持ち、腰から下の身体は明らかに鳥の羽を思わせるので、鳥の妖怪のようである(図6)。この鳥の妖怪は、上述の「さまざまの異類の形なる鬼神ども」のうちの「鳥の首の鬼」に対応するような絵ではないだろうか。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 23 黒田日出男の論文について批判めいた言葉を述べたが、じつは私自身も、絵巻などに鬼の絵像を探すさいに、ついつい現代人が抱く鬼のイメージを手がかりにして絵像を探してきたようである。(中略)しかしながら、自分自身への反省を込めて言うならば、上述のように、平安時代から鎌倉時代の鬼イメージの形成期の鬼の絵像探しは、もはや現代人から見れば鬼とはみなされないような「鬼」探しなのだ、ということである。言い換えれば、これから試みる「さまざまな異類の形なる鬼神ども」の絵像探しは、「百鬼夜行のえぞう表現探しであるとともに、現代人にとっての「妖怪・化け物」の絵像上の先祖探しでもあるわけである。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 31 さて、こうした多様な鬼が存在していたことがわかってくると、今日の鬼は、そうした鬼のうちの一部、つまり、角を持った異形な者に限定されていることもわかってくる。すなわち、「角を持たない鬼」は、鬼の仲間から次第に排除され、「化け物」と称されるようになっていったのである。今日でいう「化け物」と総称される異形の者たちを意味する語であった「鬼」が、「化け物」にその総称としての役目を奪われてしまったわけである。
中世の鬼という語は、「化け物」(妖怪)の総称であって、その姿かたち、その由緒・出自も多様であったということを確認することは、とても有意義である。というのは、当時の文献に登場する鬼を、そうした脈絡で考え直す必要を迫るからである。たとえば、当時の文献のなかに「鬼」という文字が出てきたときに、私たちはついつい「角を持った筋骨逞しい異形の者」をイメージしてしまうのだが、その文献の記述者はじつは「多眼の鬼」をイメージしていたのかもしれないし、「角だらいの鬼」をイメージしていたかもしれないからである。
 
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 36 こうした絵巻物(鎌倉時代に制作された不動利益縁起絵巻・融通念仏縁起絵巻、南北朝前後から大江山絵巻・酒呑童子絵巻・土蜘蛛草紙絵巻)の登場は、鬼の歴史に照らしてみたとき、古代から成長してきた鬼伝承・鬼信仰の頂点を物語っているようである。というのは、この時代あたりから鬼のイメージは、「角を持った筋骨逞しい異形の者」へとイメージが固定化し始めたからである。こうした鬼のイメージの固定化は、すでに見たように、逆にいえば、「さまざまの異類の形なる鬼神ども」の宗旨替え、つまり「鬼」から「化け物」へと変わっていくことを意味した。  
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 64 「お金」は交換ということがあって、初めて意味をもつものである。そうした「お金」が「富」のシンボルとして民俗社会の人々に考えられていたということは、当然のことながら、民俗社会も貨幣経済に組み込まれていたことが、それによって明らかにされていたわけである。
しかしながら、民俗社会に現れる「お金」は、現代人にとっての「お金」とはかなりちがった形で表現されているように思われる。つまり、御伽草子の時代の考え方に極めて近いのだ。
埋納銭の習俗を考える際のヒントになるか。
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 69 では、「犬」はどうだろうか。この「犬」もまた異界的な存在、媒介的な存在であったのだ。というのは、黒田日出男も指摘するように、「一遍上人絵伝」などいくつかの絵巻に、約束事のように、墓場の場面には、烏とともに犬が描かれているからである。祇園社などに隷属して死体の処理など〝異界〟的な仕事に従事していた下級の神人を「犬神人」と賤称したが、これも犬の媒介的イメージと無縁ではないはずである。犬は「死」や「異界」に深くかかわった動物なのである。だからこそ、「富」を異界から運んでくることができるとみなされたのである。  
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 71 それでは、こうした「善良な爺」には好ましい「富」をもたらし、「欲張り爺」には負の「富」をもたらす犬は、どこからやってきただろうか。興味深いことに、この昔話のヴァージョン(異話)の多くは、この犬を水界から出現した、と語っているのである。つまり、この犬は、「竜宮小犬」であり、「竜宮小槌(打出の小槌)」の変身、「竜宮童子」の変身であったわけである。  
2018 小松和彦 茨木童子渡辺綱 鬼と日本人 角川文庫 著書 77 しかし、ここで確認しておかねばならないのは、伝説上の茨木童子酒呑童子も、人間社会から逸脱し捨てられ、そして人間社会に反抗する存在だということである。したがって、茨木童子たちの直接の歴史的原像は、童髪童形の非農業民それ自体のなかに求めるのではなく、非農業民の社会秩序からも逸脱して、ときには徒党を組み、時には単独で悪行を重ねる人々、あるいは童髪童形に身をやつして悪行を働く人々の中に、つまり「童盗賊」という表現を貼られるような人々の中に求めねばならないであろう。  
2018 小松和彦 茨木童子渡辺綱 鬼と日本人 角川文庫 著書 78 すなわち、渡辺党の惣領は、武士団の支配者であるとともに、漁業民の支配者でもあり、また河川港湾労働者の支配者でもあったのである。つまり、渡辺党は「川の民」の支配者だったのである。
とすれば、近藤喜博が説くように、渡辺綱伝説は、「川の民」とその支配者、荒ぶる水霊とそれを鎮斎する司祭者という対立が、神話的な表現をとって示されている伝説でもある、と読み解くこともあながち的外れではなさそうである。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 96 ところで、この「鬼隠しの里」と「王土」との間の違いとして、時間の流れの違いが挙げられている。王土=人間世界では、どんなに長生きしても百歳くらいまでしか生きられない。ところが、鬼隠しの里=鬼の世界では、人間世界の時間で言えば二百余歳まで軽々と生きられるのである。別の言い方をすれば、鬼隠しの里では、時間がゆっくりと流れているということになる。この時間の流れは、浦島太郎が訪れたという海底の龍宮世界の時間の流れ方によく似ている。浦島太郎伝説によれば、龍宮の数年が地上の数十年、もしくは数百年に相当する。龍宮世界も鬼の世界と同様、時間はゆっくり流れている。  
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 99 これを整理して述べると、「外部」の発生によって脅かされている「内部」は、その「内部」を守るために武士と陰陽師が動員され、かつ霊的存在について言えば、武士の守護神仏や天台密教の神仏、そして式神が活動している、ということになる。これは中世王権神話に見られる王権の危機とその除去のあり方を、まことによく示している例と言ってよいであろう。中世の都の人々は、王権はそのようにして守られている、と想像していたのである。  
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 102 したがって賢王・賢人を語る説話は、賢王・賢人の偉業を称えるために、鬼の復活と退治を語らねばならない。
伝教大師酒呑童子比叡山から追放し、桓武天皇は近江のかが山から酒呑童子を追放した。それゆえに、彼らは賢王・賢人なのである。賢王はその権力の強さを誇り、かつそれを強化するために、皮肉にも権力の危機を語らねばならず、その危機を克服したことを語らねばならない。こうして、酒呑童子は、賢王・賢人の時代にエネルギーをその身体にみなぎらせ、「内部」へと侵入してくるわけであった。それも結局は、追放もしくは退治されるために。この説話を王権説話と読み解くためのカギの一つは、このあたりにあると見てよいと思う。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 114 もっともこの老狐もまた、酒呑童子の首を焼いたのちに川に祓い流したとするテキストがあったのと同様、『玉藻の草子』(慶應義塾大学図書館蔵)に見られるように、「狐をば、うつぼ舟にのせて、ながされける」とするものもある。すなわち、この狐の遺骸のその後についても、宇治の宝蔵に納めたと語る場合と、祓い流したとする場合とがあったわけである。
酒呑童子の首、大嶽丸の首、そして那須野の妖狐の遺骸。中世中頃から流布した説話群の中に描かれた妖怪退治譚の中で、退治されて宇治の宝蔵に納められたとする妖怪は、この三妖怪である。ということは、中世においてこの三妖怪が、王権を脅かす強い妖怪変化ということになるはずである。余談になるが、こう見てくると、説話の中にその名を見出すことはできないが、宮中に出没し、源三位頼政に退治され「うつほ船」に載せて流し捨てられたという「鵺」なども、知名度が高いところから考えると、宇治の宝蔵に納めるにふさわしい妖怪変化であったのではなかろうか。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 118 なぜ賢王・賢人の時代に、強大な鬼などの妖怪変化(「外部」)が出現するのかというパラドックスは、こうして読み解かれるわけである。賢王とは強大な「外部」と対峙し、それを手中に納めた者である。その「外部」の象徴として語られたのが、古代から中世では海神=龍神の所持する珠(宝珠)であり、酒呑童子の首であり、大嶽丸の首であり、那須野の妖狐の遺骸であった。歴史的コンテクストで言えば、それらの間には影響関係が見られる。しかし、そのような関係はなくともよい。ただ、王権は「外部」の象徴を手中に納めることが重要であったのである。
そうした「外部」が王権によって捕捉されて閉じ込められたところが、象徴論的もしくは「内部・外部」論の立場から言えば、王権の「中心」であった。その「中心」を、中世説話は「宇治の宝蔵」として語ったのである。
こういう作品意図を、いったいどれぐらいの人間が理解していたのか。理屈としては納得できるが、作者は本当にそんなことを考えながら、作品を作っていたのか?無意識で作っていたのか?現代人(研究者)が無理やり難しく考えているだけではないか?
また、作者がこういう意図を実際に考えて、一定層の受容者がそれを理解できたとする。こんな高度な意図が理解できるのは、一部の知識階層だけ。文字も読めないような庶民は絵巻というメディアの受容者ではないことがわかる。文字が読めないということは、メタメッセージが理解できないということ。おそらく、参詣曼荼羅などに込められた本当の意図などを、庶民たち明確に理解できず、描かられたものを事実として受け取っていただけなのだろう。
2018 小松和彦 鬼を打つ 鬼と日本人 角川文庫 著書 148 ところで、こうした妖怪出現の音がそれなりに定式化されるようになった背景には、中世になって盛んに生まれてくる鬼の芸能があったのではないか、と睨んでいる。  
2018 小松和彦 鬼を打つ 鬼と日本人 角川文庫 著書 151 日本の妖怪たちの出現に際しての音は、それほど深刻に考えられてていたとは言えない。しかし、ある程度の定形化がなされたものは雷鳴の音であり、それを芸能や儀礼においては拍子木などによって作り出していたらしい。
幽霊の登場するときのヒュー・ドロドロもまた、笛と太鼓のお囃子の音であったことを考えると、文学作品のなかの妖怪出現の音が、芸能との深い関係の中から形成されていることを、つくづくと思わざるを得ない。
 
2018 小松和彦 鬼の太鼓 鬼と日本人 角川文庫 著書 156 『北野天神縁起絵巻』が制作されたのは13世紀の頃であるが、こうした鬼の姿をとった雷神が背負った太鼓を叩き鳴らして雷音をつくるというイメージは、大陸から伝来したもので、今日まで連綿と語り伝えられ描き続けられた。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 168 鬼とはなにか。本書でも繰り返し問いかけてきたが、これに一言で答えることは難しい。ここでの私のとりあえず考えを述べれば、鬼とは人間の分身である、ということになる。鬼は、人間が抱く人間の否定形、つまり反社会的・反道徳的人間として造形されたものなのだ。
一般に言われている鬼の属性を少し列挙しただけでも、そのことがよくわかるはずである。人を食べる、人間社会を破壊する、人に恨みを抱き殺そうとする、夜中に出没し、子女や財宝を奪い取っていく、酒を好みいつも宴会や遊芸・賭け事に熱中する、徒党を組んで一種の王国をつくっている、山奥や地下界、天上界に棲んでいる…。
こうした属性はいずれも、人間それも社会的・道徳的人間の否定項として挙げられるものである。したがって、人が鬼の属性とみなされるような立ち振る舞いをすると、その人は人間ではなく、鬼とみなされることになる。
このように見ると、鬼とは、実は人間という存在を規定するために造形されたものだということがわかってくる。日本人は、個としての人間の反対物として鬼を想定し、人間社会の反対物として鬼を想定し、人間社会の反対物として鬼の社会を想定し、そうした反対物を介して、人間という概念を、人間社会という概念を手に入れたわけである。このために、人々は人間社会の「外部」に棲むとうい鬼についての数多くのストーリーを紡ぎ出してきたのだった。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 170 鬼とはまず恐ろしい姿かたちをした、したがって忌避し排除すべき存在であった。しかしながら、人間にとって必要な存在でもあった。鬼がいなければ人間という概念が成り立たないからだ。それゆえに、人々は絶えず鬼を人間社会に登場させ、そして社会から排除したのだ。すなわち、日本人にとって招かざる客であるがゆえに、招かざるを得ない客であったということになる。日本人は、鬼を必要とし、鬼とともに生きてきたのである。
鬼は異界からやってくる。人間の求めに応じてやってくる。排除され追放され退治されるためにやってくる。それは、いうならば、もう一つの「まれびと」であった。そこに鬼の魅力が隠されているように思われる。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 174 では、人間の側に立ったときはどうだろう。古端将来にとっては牛頭天王は恐ろしい鬼神=悪霊であり、蘇民将来にとっては、福の神であるといことになる。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 177 すなわち、ここでは物忌みを守らなかったために鬼の侵入を許してしまっており、古端将来の話の方に近い。
こうした悪霊退散の儀礼と物忌みの話は数多く伝えられている。日本人の鬼や悪霊の来訪に対処する方法は、こうした方法が一般的であった。
では、牛頭天王に祝福された蘇民将来のように、鬼を艦隊することでその攻撃をかわすという方法はどうだろうか。すでに述べたように、「蘇民将来の子孫也」と唱えて、疫病にかかることを逸れようとする人々も、牛頭天王スサノオ神を歓待してはいない。蘇民将来であっても、来訪者が疫病神であることがあらかじめわかっていたら、はたして宿を提供したかどうか怪しいものである。むしろlこの話は蘇民将来の慈悲ある人柄を強調するために語られていると見るべきであろう。慈悲の心があれば、鬼神も心を動かされることがあったのだ。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 178 折口の「まれびと」論で「まれびと」に制圧される「土地の精霊」に「分類される邪悪な神霊たちに対しての人々の饗応も、考えようによっては悪霊歓待説話と見ることもできる。たとえば、古代神話に見える生贄を要求するヤマタノオロチや、『今昔物語』に見える生贄を要求する猿神、あるいは説教や御伽草子「松浦長者」の大蛇(龍神)などは、年に一度、村落に姿を現し、人々を恐怖させ、生贄という饗応を受け取って去っていく。つまり、異界からの好ましくない「まれびと」なのである。そして、ここでは年一度の来訪とそれに対する人々の歓待がなされる限り、悪霊は人々に危害を加えず、共同体の秩序は保障される。つまり悪霊が生贄を受け取ること、食物を受け取ることが、ある意味で共同体の祝福であったとも言えるだろう。 何もないことが幸せ。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 182 鬼の面がいつ頃から制作されるようになったかはわからない。しかし、おそらくは平安後期のことではなかったろうか。というのは、この頃から、奈良や京都の寺院で行なわれていた修正会に、鬼が登場する儀礼が執り行なわれるようになっていたからである。 修正会のような国家儀礼が地方に伝播し、民衆統合儀礼として普及していくから、日本で画一的な鬼のイメージができあがるということか。井原論文大事。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 186 もう一点注目しておきたいことがある。それはこうした修正会の追儺式の多くが正月、とくに15日の子正月の日の前後に集中して執り行われていることである。修正会の追儺から派生した節分の鬼追い・豆まきも、この日を年越しの日とする観念に基づいている。すなわち、修正会の鬼は一年に一度、正月に来訪する邪悪な「まれびと」、排除されるために来訪する「まれびと」であった。鬼に扮する儀礼によって、人々は時を定めて鬼を登場させ、そして退散させることが可能となったのだ。 小松著書で描き出された鬼は、予定調和の鬼ではないか?日記に現れるイレギュラーな鬼は、別の捉え方をした方がよくないか?それとも同じように考えればよいのか?いつでも庶民は、ハイソな連中の考えたイデオロギーに踊らされるだけの存在なのか?
P197に疑問の答えがある。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 193 まず扮装であるが、多くは鬼面を被り、天狗面や獣面を着けたりするところもある。鬼の面と称しつつ角のない面もある。これをもってナマハゲ系の神格をもとは鬼ではなかったとする説もあるが、たとえば「熊野の本地」の絵に描かれているように、鬼とはいわば悪霊の別称であって、角のない恐ろしげなる面を被った者や獣面らしきものを被った者も、九百九十人の「鬼」たちのなかに含められており、とくに奇妙だというわけではない。むしろかつては異形なる者が鬼であり、その属性や行動が鬼であるかどうかを決定したのであった。
この儀礼に登場する神格は、人を殺すことのできる道具を携え、折りあらばそれで刺し殺すぞと脅す。つまり、恐怖を人々に引き起こす神格であり、それゆえ邪悪な鬼と考えるのが妥当であって、これを祝福するためにやってきた善なる神霊=「まれびと」だとか、その原質は「祖霊」だと説いたところであまり意味がない。そうした解釈はむしろナマハゲ系の本質を見逃すものである。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 195 ナマハゲはたしかに私たちが検討してきた鬼の属性と類似する属性をもっている。ナマハゲはその来訪を告げる騒音を立て、家の中に乱入してくる。家の一部や家具などの破壊さえも許されていた。これは明らかに修正会の「乱声」などに通じるものである。
鬼が蓑をつけているというのも古くからの考えであった。とりわけ民間で信じられていた鬼はそうだったらしい。『枕草子』人も「蓑虫…鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき、心あらむ」と語られ、よく知られた御伽草子一寸法師』に描かれた、一寸法師に追い払われた鬼たちも蓑と笠を着て出現している。前頁の図を見ていただきたい。一寸法師に追われた鬼たちは蓑と笠と打出の小槌を放り出して逃げ去っている。
このように、古くから鬼たちは蓑笠を着ているのだとする考えが人々の間に浸透していたのである。しかしながら、ナマハゲ系行事の異形者も蓑笠を着けるからというだけで、ただちに悪なる「まれびと」なのだと説くわけにはいかないし、逆に善なる「まれびと」だと断定するわけにもいかないのだ。鬼が蓑笠を着けてやってくることがあったが、それはまた善なる神霊の来訪時の服装でもあったし、死者があの世へ旅立っていくときの服装でもあったからである。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 196 もっとも、ナマハゲは、修正会や節分の鬼のように、牛玉杖で打たれたり、つぶてや豆をぶつけられて退散するのではなく、家の主人の歓待を受け、餅や金銭をもらって立ち去っていく。饗応された方も、この年の豊作や家人の無病息災などの祝福の言葉を述べる。この点に注目すれば、ナマハゲも異界から人々を祝福するためにやってくる「まれびと」ということになる。ナマハゲはこうした二面性を持っている。この二面性を相手に応じて発揮させるのだ。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 197 子どもや新参者たちに対しては恐ろしくも乱暴な鬼として臨み、社会の中心部を占める人々には善良なる神格として臨むナマハゲは、言い換えれば、村落共同体が飼い慣らした鬼、コントロール可能になった鬼といえよう。鬼の儀礼に限らず、儀礼とは元来そういうものなのである。 P186の疑問に対する答え。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 202 蓑着て笠着て来るものは誰か。それは鬼である。それは神霊である。それは死者である。それは旅人である。それは乞食である…要するに、たしかな答えはないのだ。したがって、私たちはこう問い直すべきなのだ。人間もしくは人間社会の反対物は何か。人間の概念をより明確にしてくれるものは何か。つまり反社会的・反道徳的存在は何か、と。それこそが、いかなる名称を持っていようと、日本においてかつて鬼と呼ばれた存在に相当するものなのである。  
2018 小松和彦 鬼と人間の間に生まれた子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 223 私の解釈の基本は、いつの時代にあっても程度の差はあるにせよ、民俗社会の人々の異類に対する態度は両義的なものであったであろう、ということにある。さもなければ、昔話におけるこれほど多様なかつ対照的な差異は生じなかったであろうし、また人々に受け入れられなかったはずである。
民俗社会の人々は、一方において異類との交流を通じて「富」を獲得しなかればならないことを充分に承知していたのである。共同体を根底から支配する「富」もしくは「力」は、その外部に存在する。けれども、共同体と外部、つまり異類との関係は一方的な関係ではなく相互的なものであり、そのために外部から得た「富」の反対給付として共同体から外部へと「富」を渡さねばならなかったのだ。すなわち、両者は等価交換の関係に立っているのである。
この昔話群では、交換される共同体側の「富」は女であった。この女を、共同体言い換えれば人間社会の外部に流出させずに内部に留め、内部で交換しようとしたときに異類婚姻の否定、さらには異類それ自体の否定という態度になるのである。
「異類聟・嫁入り」型の昔話を見る限りで、「鬼」や「猿」の場合は、どちらかといえば、否定され排除される異類とみなされ、「蛇」の場合には、肯定と否定の間をさまざまな形で揺れ動いているのがわかる。したがって、人々は「蛇」に対してとくに両義的なイメージを抱いていたらしい、ということになるであろう。つまり、「異類聟・嫁入り」型の差異の多様さは、蛇に対する人々の両義的態度の揺れの大きさを如実に反映しているわけである。
 
2018 小松和彦 神から授かった子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 250 この大蛇は「いんない」の淵に住んでいたという。この「いんない」はおそらく「院内」のことであって、堀一郎の『我が国民間信仰史の研究(宗教史編)』(東京創元社)によれば、主として土御門家支配下の下級陰陽師系統の人々を意味する語であった。とすると、この伝説に見える淵の主人としての大蛇とそうした人々の姿がオーバー・ラップしているとも考えられる。速断は許されないが、この伝説は、そうした人々を異類視した結果生まれたものと考えることもできるかもしれない。
だが、それを排除するのではなく、その異類との婚姻を通じて、むしろ特別の力=聖なる力を得て、有力者になったと説いているので、まだ中世の陰陽師の呪力が残っている伝説とも言えるであろう。
 
2018 小松和彦 神から授かった子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 256 「蛇女房」の昔話は、〝子ども〟よりも〝目の玉〟の要素の方を強調しているかに見える。しかも、多くは三井寺の鐘と結びつけた伝説的色彩の強い話が多い。おそらく、これには三井寺に集まった盲僧(琵琶法師)との関係や、大蛇(龍神)が持つという「潮満玉(しおみたま)」と「潮干玉(しおひたま)」や仏教化された「如意宝珠」との関係が反映されているためであろう。  
2018 小松和彦 あとがき 鬼と日本人 角川文庫 著書 265 しかしながら、妖怪を研究する私たちには、その違いは明白である。すなわち、「妖怪」は研究者が用い出した学術用語・分析操作概念であり、「鬼」は大昔から日本人が特定の現象や存在に対して用いた民俗語彙・民俗概念なのである。  
2018 小松和彦 あとがき 鬼と日本人 角川文庫 著書 267 私が「鬼」に興味を持ったそもそものきっかけは、日本の歴史における敗者や非征服者、制外(外部)の者たちのさまざまな思いが、「鬼」に託されているのではないかと考えたからである。すなわち、「鬼」とは「王土」の周辺や外部にいる人々に貼り付けられたラベルのようなものと考えていたのである。
しかしながら、その探究を進める過程で、「鬼」にはそうした役割もあったが、それに留まらず、それは「過剰な力」を意味し、その力が社会にとって好ましくない事柄に幅広く適用されたときの用語・概念だということに気づいた。何よりもまず「鬼」は否定すべき邪悪な事柄を意味する概念であり「力」の象徴なのである。これは古代から今日まで変わることがない基本的な意味・概念であると言えるだろう。(中略)
最後に、「妖怪」と「鬼」の関係について述べておこう。
「鬼」は、「天狗」や「妖怪」や「河童」「山姥」「龍蛇」「狐」「狸」等々とともに、学術的操作概念としての「妖怪」概念によってからめとることのできる民俗語彙・概念である。極言するならば、学術的な「妖怪」概念は民俗語彙としての「鬼」を検討する中から立ち上がってきた概念であり、「鬼」とは「妖怪」とほぼ重なるだろうと言っても過言ではないほどなのである。
 
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 60 しかし、道元の解釈は、全く異なっています。道元はこの言葉を「ある時」と訓読せず、「有時」(うじ)と音読しているようです。つまり、「有」というのは「存在」のこと、「時」というのは「時間」のことで、時間と存在が一つであるという現実の在り方を示した言葉と解釈しています。このような解釈は道元の思想の中でも極めて特徴的なもので、冒頭に挙げた学者や多くの思想家・哲学者からも注目されています。  
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 63 私たちは、過去を振り返って、あの時は北海道にいた、あの時は東京で仕事をしていたというように、記憶をよみがえらせることができます。「ああ、あの時はよかった」、「あの時は辛い時期だった」、「あれは十年前のこと、あれからもう十年も経ってしまった」などと過去のことを思い出して、時は過ぎ去ってしまったと考えます。
しかし、時は、私から去ってゆくのではなく、今に移ってきたのでもなく、今の私にすべての時があると道玄は言うのです。過去を思い出している今の私も時であり、今の私の中にすべての時があるというのです。
そして私たちの人生は常に「有時」であり、「今」「ここ」だけであり、そのほかに「私」は存在しないということになります。過去を思い出す私も、今の私なのです。
今の私という存在のなかに、過去・現在・未来のすべての時間が存在している。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 67 「今・自分がいる」このところ、そして私という存在、そして今という時間、その時その時の時間にすべての時間があり、すべての存在があり、今という時間から除外されている存在はない、それが道元の世界観であり時間論であると言えます。 時間は、存在の数だけ存在する。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 73 この世の中の出来事は、つながってゆきますが、つながりながらも、その時その時であり、その時その時以外に人生はなく、そのような人生が連なっていくということになります。道元はさらに「有時」という言葉に「吾」という字をつけて、「吾有時」と示しています。存在と時間が一つであるとは、私と存在と時間が一つである、ということになるのです。時間と存在が一つであることは、私と関係なくあるのではなく、私の問題として、私の生き方の中で、捉えるべきものなのです(『本山版訂補 正法眼蔵』(大法輪閣、2019年)。 映画のフィルムと同じか。私の見ている静止画の連続と捉えろということか。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 75 我々は、もし仮に時間が止まってしまったら、世界のあらゆる物事が静止するかのように考えます。しかし、この道元の説示によれば、時間だけが止まって、この世界のあらゆるものごとが存在しているという状態はあり得ないことになります。時間が静止すれば、存在もなくなるのです。存在がなくなれば時間もなくなるのです。時間だけが止まり、あらゆる存在が静止してそこにあるという状態はあり得ないと言うのです。時間だけがある、あるいは存在だけがあるということはあり得ない、それが道元の見方です。
時間と存在は一体のものなのです。
タイムストップという妄想はあり得なくなる。自分だけ高速で動き、他者には時間を止めているように見せるニノマエジュウイチのスペックなら理論上可能ということか。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 78 通常は次のように考えます。「私」がこの「世界」の中で「生きている」、そこに「時間」の経過がある、と。しかし、道元は、「私」と「生きている」ということと「時間」と「世界」はみな一つのことであり、それが事実であると言っているのだと思います。私以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは、私が生きているということであると言うのです。 過去という時間は知識として存在するだけで、それを思い出して活用しているのは、今の自分。未来は未確定である以上、実在はしていない。常に今の自分が想起することで存在するだけだから、今の自分とともにある。
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 110 スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学の卒業式に招かれてのスピーチの最後に卒業生たちに「Stay hungry, stay foolish」というメッセージを送っています。〝貪欲であれ、愚直であれ〟とでも訳したらよいでしょうか。禅宗でよく読誦される禅籍に『宝鏡三昧』があります。その末尾に、「潜行密用は愚のごとく魯のごとし、ただよく相続するを主中の主と名づく」と示されています。「潜行密用」とは人知れず密かに行うことです。「愚」も「魯」も、愚かで鈍いという意味です 。他人に知られずとも、誰にも認められなくても愚直にコツコツと修行する、人から見れば、〝ただ坐っていて何になるのか〟と思われるような坐禅をひたすら黙々と行なっていく。愚かなように見えるかもしれませんが、禅僧にとっては、そこに大きな意義があります。その行いが他人から見れば愚かなようなことであっても、そこに素晴らしい意味があるのです。 周梨槃特と同じ発想。ただ掃除を続けている。
結局、世界はものの見方(心)によるわけで、有為転変しないものはない。だから、愚かに見えるものが優れたものになる可能性もあるし、優れたものが愚かなものに変わる可能性もある。愚かなものが愚かなままである可能性もある。そういう現実をきちんと見抜けるからこそ、無意味と思われることを続けることに意味があると言いたいのか。
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 124 幻聴を聞いたり、幻視を見たり幻臭を嗅いだりする人がいます。そうでない人からすれば、それは異常なことであって、病気であると捉えます。確かにそうかもしれません。しかし、本人にとっては確かに聞こえるのであり、確かに見えるのです。「空華」を現前の事実であると捉える道元は、それをそのまま認めるに違いありません。それを障害であるとして、異常であるとして、疎外することはしないはずです。
道元に言わせれば、おそらく「障害者」でもなく「異常」でもないということになるのでしょう。それは本人にとってそうであるのだから、それが事実であるのだから、ありのままに生きていけばよい、ということになります。人はそれぞれです。人それぞれに、その人なりの生き方があります。人生には正常も異常もない、それぞれがそれぞれの日常を生きているだけです。人生には成功も失敗もない、それぞれの日常があるだけだと思います。その日常のほかに生きる場所はありません。その日常を仏の世界にしなければならない、理想の世界にしなければならない、というのが道元の教えであると私は受け取っています。
私たちのこの日常こそ「夢中説夢」であり「空華」であることになるのです。第2回でお話ししたように、私たちは、自分の感覚器官の能力の範囲で、ものを見たり、声や音を聞いたり、暑さや寒さを感じたりしています。それは千差万別であり、千人が千人、万人が万人、違っているのです。多様性を認めながら、自分にとっての現実を生きていく、それでよいわけです。自分にとっての現実を、前向きに正しく生きていく、それが仏の道の生き方でもあるのです。
 
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 138 先述のように私は学生のときに、酒井得元先生の指導を受けましたが、先生はこんなことをおっしゃっていました。「坐禅のときに、ふと何か思いが浮かぶというのは、これは仕方がないのだ。それは私たちの正常な意識活動である。嫌うことはできない」と。いけないのは、座禅のときに、意識的に何かを考えることであって、ふと何かの思いが浮かぶことがあってはならない、ということではないのです。もし、坐禅しているときに、けっして思いが浮かばないように頑張るとしたら、それはまた強い意識の働きです。意識的に〝何も考えないように努力する〟ということになってしまい、それもいけないわけです。「放っておく」という言い方をする指導者もいます。何か思いが浮かんでも放っておき、とりあわない。何か頭に思いが浮かんでも、そのことに次々と思いをめぐらすことをしないということです。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 113 「引付」は「引き合わせる」と訳す。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 114 文安年間における東国荘園からの京納再開は、東国社会の安定にともなう京都─鎌倉間の人流・物流の改善とも連動していたとみることができる。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 118  東国公家領の再生は、文安年間に画期が見える。これは永享の乱から十年間が過ぎ、恩賞としての押領が許されなくなったためである。東国荘園の経営環境は、気候変動よりも政治社会状況に大きな影響を受けていたと言えよう。京納の再開交渉は京都で行われ、文安年間の京都─鎌倉間の人流・物流の円滑化がそれを助けた。寺社参詣は、行動指標のひとつとなりうる。また東国社会の混乱に乗じて、積極的に代官職の獲得をめざす人物の存在もみえた。しかし東国公家領では、守護や守護代の関係者から代官職を選ぶようになっていった。公家にとって、在地社会への影響力を強める守護・守護代との関係は重要になる一方であった。しかしそれもまたすべては自力救済であった。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 75 明徳2年末、奥羽両国が室町幕府から鎌倉府へ移管されたことを明示する。
氏満─満兼───────持氏─
     満貞(稲村公方
     満直(篠川公方
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 77 二代鎌倉公方足利氏満は自ら奥羽に出兵したが、三代足利満兼のときは、弟満貞を稲村公方として派遣し常駐させて、自分は動かなかった。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 78 史料1「不能一二」は「一二らかにする能はず」と読む。
史料2「委細得其意可申之旨被仰出候」は、私満頼が上意を理解して、あなた鬼柳にこの内容を伝達するように命令されたという意味。
「奥方」は陸奥。「羽方」は出羽方。
「改年之祝言、重畳雖事定候、猶以珍重ニ候、」は、「新年のお祝いは毎年の決まり事だか、やはりめでたいことです」と訳す。
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 80 第二次伊達政宗の乱では、稲村公方がいながら、鎌倉から上杉禅秀が出兵。そのため、稲村公方の存在意義は低下。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 81 四代足利持氏は十二歳で世襲。そのため、関東管領上杉憲定を中心とした評定によって運営。その後、関東管領上杉禅秀に代わり、稲村公方が使えないから、奥羽の直接支配に乗り出した。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 82 「行沙汰」は「代行する」という意味。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 83 正長の南奥州の騒乱
白川氏─篠川公方(足利満直)─室町幕府足利義教
  私戦
石川氏─稲村公方足利満貞)─鎌倉公方足利持氏) の対立。
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 84 この永享の乱結城合戦に伴う鎌倉府崩壊と鎌倉公方稲村公方篠川公方のあいつぐ途絶によって、奥羽をめぐる様相も大きく転換することになる。
奥羽両国は、鎌倉府の崩壊にともない室町幕府へ再移管されたとみられ、京都との関わりが顕在化する。
「何トカイタソト」は「何と書きたるぞと」でよい。