周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

貧乏神と福の神 (God of poverty and God of fortune)

  文明十五年(1483)六月二日条

        (『大乗院寺社雑事記』8─26頁)

 

    二日雨下、

     (中略)

 一石さ衛門尉罷下、京都無殊事、和泉堺福天十六七人、各女房也、入上京之由申

                   (貧乏ヵ)

  云々、真実拜見者在之云々、又京都之賓法神五六十人男也、各鸎・ニワ鳥ヲ

  頭ニイタヽク、和泉堺へ行向之由申下向云々、此説共雖比興事、一天下申合、

  希有事也云々、

 

 「書き下し文」

 一つ、石左衛門尉罷り下る、京都殊なる事無し、和泉堺の福天十六、七人、各々女房なり、上京に入るの由申すと云々、真実拜見する者之在りと云々、又京都の貧乏神五、六十人の男なり、各々鶯・鶏を頭に戴く、和泉堺へ行き向かふの由申し下向すと云々、此の説ども比興と雖も、一天下申し合ふ、希有の事なりと云々、

 

 「解釈」

 一つ、中井石左衛門尉宗弘が奈良に下向してきた。京都では特別なことはなかった。和泉堺の福の神十六、七人はそれぞれ女性の姿である。福の神たちは上京に入ると申していたという。本当に福の神たちを拝見した人がいるそうだ。また京都の貧乏神五、六十人は男性の姿である。それぞれ鶯や鶏を頭に載せている。和泉の堺へ出かけると申して下向したそうだ。この噂はつまらないものだが、国中で口々にしゃべり合っている。とても珍しいことであるという。

 

 Munehiro Nakai came to Nara. There was nothing special in Kyoto. The 16 or 17 Fukunokami(gods of fortune) in Sakai, Osaka, were all women. They said they were going to Kamigyo in Kyoto. I heard that some people really saw them. Also, 50 or 60 Binbogami(gods of poverty) in Kyoto were all men. They were wearing warblers and roosters headgear. They said they were going to Sakai in Osaka. I can't trust this rumor, but everyone in Nara is talking about it. It's very unusual.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「石左衛門尉」

 ─中井石左衛門尉宗弘。享徳二年(1453)生〜明応四年(1495)没。享年四十三歳。一条家に奉公する侍で、美濃に住まいする一条兼良の妻室(尋尊の実母)や子女の近況を訪い、兼良・尋尊へ報告することを職務としていた(湯川敏治「戦国期、一条家の様相 ─『大乗院寺社雑事記』に見る一条家家僕、石左衛門尉を中心に」『大乗院寺社雑事記研究』和泉書院、2016年、296頁)。

 

 

*堺の福の神が京都に向かい、京都の貧乏神が堺に向かう。応仁の乱で荒廃した京都の住人からすると、なんとも希望に満ちた心強い噂話ですが、堺の住人にしてみれば、きっと聞きたくもない話だったのでしょう。

 この史料については、早くに上田正昭氏が注目しており、「堺からの福神らの入洛説には、京都の復興を切望する町衆のこころが投影されていた」(上田正昭「史心映像」『古代からの視点』P H P研究所、1980年、43頁)という評価がなされています。

 それはさておき、気になるのは福の神と貧乏神の描写です。まず注目されるのが、福の神は女、貧乏神は男と、はっきり区分けされているところです。なぜこのような対比で描写されているのか、残念ながらよくわかりません。15世紀に性差意識に画期があったのか、子どもを産む女性に富を生み出す福の神のイメージを重ね、戦で人の命や財産を奪う男性に貧乏神のイメージを重ねたのか、それとも「福の神・女性」/「貧乏神・男性」というわかりやすい構図で説明したいだけだったのか、理由はいろいろと考えられそうですが、それにしても、明確に男女で描き分けたところは、ジェンダー史的にもかなり興味深い課題を提供してくれているように思えます。

 ところで、不幸をもたらす貧乏神に流行り廃りがあるとは思えませんが、一方の福の神にはそれがあったのようなのです。女性の福の神といえば、すぐに弁才天(弁財天)が想起されるのではないかと思うのですが、畿内近郊の弁才天信仰のなかでとくに有名だったのが、滋賀県にある竹生島宝厳寺です。小松和彦「福をさずける神々」(『福の神と貧乏神』筑摩書房、1998年、58頁)によると、この弁才天は、恵比寿や大黒天、毘沙門天などに比べると、中世ではそれほど人気がなかったそうです。それが、以前から人気のあった観音信仰や吉祥天信仰、ダキニ天(稲荷)信仰などを吸収・継承することで、人気が高まっていったと説明されています。今回の記事は、まさにその人気が上昇していく過程を教えてくれる史料だったのではないでしょうか。15世紀になると、福の神といえば弁才天と考えられるほど、人々の信仰を集めていたと考えられます。

 

 次に気になるのが、貧乏神の描写です。中世では痩せた僧侶や童、恐ろしげな「鬼」のような姿をしていると考えられていましたが(羽鳥佑亮「日本における貧乏神譚の研究」『國學院雑誌』第120巻、第7号、50〜55頁、https://kaiser.kokugakuin.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=296&direct_target=catdbl&direct_key=%2554%2543%2530%2531%2538%2536%2530%2533%2538%2538&lang=japanese#catdbl-TC01860388)、この史料にあらわれた貧乏神は、被り物かアクセサリーでしょうか、頭の上に鶯や鶏を載せているのです。ずいぶんと奇抜な格好をしているように思うのですが、なぜこのような姿で描かれているのでしょうか。

 実は、明確に貧乏神と記されているわけではないのですが、鳥の頭をした鬼神・疫病神・厄神であれば、説話や絵巻物に書き残されているのです。すでに、小松和彦氏が紹介されているのですが(「『百鬼夜行』の図像化をめぐって」『鬼と日本人』角川文庫、2018年、20・27頁)、『今昔物語集』巻13・第1「修行僧義睿値大峰持経仙語 第一」には、「或ハ馬ノ頭、或ハ牛頭、或ハ鳥ノ首、或ハ鹿ノ形、此如クノ多ノ鬼神出来テ」(『日本古典文学全集21』小学館、355頁)と記され、『泣不動縁起絵巻』にも「長いくちばしを持ち、腰から下の身体は明らかに鳥の羽を思わせる」妖怪が描写されています。ここでは参考までに、『不動利益縁起絵巻』の画像URLを添付しておきます(中央に描かれた鬼神のうち、一番下・5体目の灰色のものが鳥の頭をした鬼、https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0000018)。

 

 この他にも、鳥の頭をもつ疫神が『融通念仏縁起絵巻』「正嘉疫癘の段」に描かれています。

 Bは嘴の描写から鳥と考えられますが、種類まではわかりません。一方、Aはトサカなどから、鶏をモデルにした疫神だと考えられます。他にもさまざまな疫神が描写されているのですが、よく見ると頭にアクセサリーをつけた疫神の存在に気づきます。Cは馬、Dは牛のように見えますが、Eは猫でしょうか、よくわかりません。これらは地獄の獄卒である牛頭・馬頭、あるいは牛頭天王馬頭観音、薬師十二神将などの図像を参考にしたものと考えられますが、動物のアクセサリーを頭につけること自体も、当時の疫病神の描写としては珍しくない、と言えそうです。

 

 それにしても、なぜ「鶯」や「鶏」を頭に載せていたのでしょうか。貧乏神がかぶっている以上、この2種類の鳥は不吉・不幸・災厄の象徴ということになりそうですが、「鶏」については、すでに興味深い研究がなされています。高橋昌明「〈補説2〉 鶏と雷公(頼光)」『定本 酒呑童子の誕生』岩波書店、2020年、62頁)によると、中世における鶏は、この世とあの世の境目に現れる神聖な鳥で、魑魅魍魎の跳梁する夜と人間の活動する昼との境目を告げる、境界的な鳥だと考えられていたそうです。また、モノノケを撃退する役割を果たすとともに、時にはケガレを移し付け異界まで運び去る妖鳥とみなされることもあったそうです。この指摘を踏まえると、貧乏神のアクセサリーに鶏が採用された理由も見えてきます。おそらく中世では、この世とあの世を行き来し、ケガレや災厄を運ぶ鶏は、人間に災厄をもたらす貧乏神(鬼神・疫病神・厄神)の装飾として用いるのにふさわしい動物だと考えられていたのでしょう。

 

 さて、「鶏」の疑問はこれで解決できたのですが、それ以上によくわからないのは「鶯」です。美しい鳴き声で春を告げる風雅なイメージの鳥ですが、この鶯にも不吉なイメージがあったのでしょうか。前述の「鶏」のように研究があればよいのですが、残念ながら見つけることはできていません。災厄やケガレ、異界との関連性を示す史料や研究については、今後も探し続けていこうと思いますが、ここでは少しばかり憶測を示して、お茶を濁しておこうと思います。

 「鶯」と異界の関連性を示す素材に、「見るなの座敷」という昔話があります。この話の解説は『日本大百科全書』に簡潔にまとめられているので、詳細はそちらをご覧になっていただきたいのですが(https://kotobank.jp/word/見るなの座敷-139936)、鶯と異界を結びつけるポイントとして、次の指摘が参考になります。

 

 昔話。禁忌を破った報いを主題にした運命譚(たん)の一つ。旅の男が野中で家をみつけて泊めてもらう。若い女が1人いる。女は、四つの蔵のうち一つは見てはいけないといって、男に留守番を頼む。男が三つの蔵を開けてみると、夏、秋、冬の景色がある。禁止を犯して四つ目の蔵を開けると、梅にウグイスが止まって鳴いている。女主人がきて、約束を破ったことを責め、ウグイスになって飛び去る。家も蔵もなくなっている。男は野原にいる。(中略)この家は、ウグイスの内裏(だいり)といって、人間にはなかなか行けない所であると伝える例もある。男は選ばれて、そのウグイスの家にきていたことになる。女が3000年もかかって積んだ行(ぎょう)がむだになり、もう人間界にはいられないという話には、禁忌を守れば、ウグイスは人間になり、男と結婚して幸せになるはずであったという前提があったのであろう。

 

 この解説で注目したいのは、男が禁を犯した後に家や蔵がなくなってしまう点と、鶯の家がなかなか行けない所である、という点です。この2つのポイントは、鶯の屋敷が山中他界にあったことを示しているのではないでしょうか。また、「もう人間界にはいられない」という説明からも、鶯が異界の住人であることを示していると考えられます。この昔話が中世まで遡れるのかわからないので、今回の史料解釈にそのまま適用できるとは思いませんが、鶯の異界的性質を考えるうえで、少しは参考になるのではないかと思います。いやむしろ、この記事が鶯の異界性を示す最も古い史料になるのかもしれません。

 では、なぜ鶯にそのような異界性が備わったのでしょうか。これもたんなる憶測にすぎないのですが、鶯は鳴き声でその存在に気がつきやすい一方で、とても発見しにくい鳥でもあります。鶯は古くから歌に詠まれてきた鳥ですが、その描写は声ばかりで、姿の描写は管見の限り存在しません。当然、見た目の地味さにも原因はあるのでしょうが、それ以上に薮に隠れているために見つけにくいのです。こうした鶯の発見のしにくさが、本来目に見えない存在である異界の住人たちの特徴に通じ、鶯と異界を結びつけたのではないでしょうか。

 陳腐な説明になりましたが、ひとまず以上の妄想を自問の自答にしておこうと思います。

 

 

【補足資料】

 「貧窮(びんぐう)を追ひたる事」(『沙石集』巻9─22、新編日本古典文学全集52、小学館、2001年)

 

 尾州に、円浄房と云ふ僧ありけり。世間貧しく、年齢も五旬に及びけるが、真言の習ひか、若しは陰陽に付きたる法を知りたりけるにや、弟子の僧一人に、小法師一人ありける。「かく年来あまりに貧窮なるが悲しければ、貧窮を、今は追はんと思ふなり」とて、十二月晦日の夜、桃の枝を、我も持ち、弟子にも、小法師にも持たせて、呪を誦して、家の内より、次第に物を追ふ様に打ち打ちして、「今は貧窮殿、出でておはせ、出ておはせ」と云ひて、門まで追ひて、門を立てけり。

 その後の夢に、痩せたる法師一人、古堂に居て、「年比候ひつれども、追はせ給へば、罷り出候ふ」とて、雨に降りこめられて、打ち泣きて有りと見て、円浄房語りけるは、「この貧窮、いかに侘びしかるらん」と、打ち泣きけるこそ、情ありて覚ゆれ。

 それより後、世間事欠けずして過ぎけり。この事、慥かに聞きたる人の説なり。貧窮も先世の業にて、仏神の助けは叶はぬ事にてこそ、多くはあるに、不思議なりける。

 ある貧窮道の者、過ぎ侘びて、他国へ行かんとしける夢に、痩せ枯れたる小冠者、藁沓をさばくりけり。「何者ぞ」と云へば、「貧窮の冠者にて候ふ。御他行候ふ時に、御伴仕るべし」と云ひけり。

 

 「解釈」

 尾州に、円浄房という僧がいた。貧乏暮らしで、年齢も五十歳に至ったが、真言を学んだのか、それとも陰陽道に関わる呪法を知っていたのか、弟子の僧一人、小法師一人がいたが、「こうも長らくあまりに貧乏なのが切ないので、貧乏を追い払おうと思うのだ」と、十二月の大晦日の夜に、桃の木の枝を自分でも持ち、弟子にも小法師にも持たせ、呪文を唱えて、家の中から徐々に追い出すようにあちこちを叩き、「もう貧乏神殿よ、出ていかれよ、出ていかれよ」と言って、門まで追い払い、門を閉めてしまった。

 その後の夢に、痩せた僧一人が、古い堂に座り、「長年、お側に置いていただいたが、追い払いなさるので、お暇いたしました」と、雨に降られてどこへも行けず、さめざめと泣いていると見て、円浄房が語ったことに、「この貧乏神はどれほどつらく思っていようか」と、さめざめと泣いたのは、情け深い人柄である。

 ある貧乏人が、どうにもやっていけなくて、他の国へ引っ越そうとしたとき、夢で、痩せこけた少年が藁沓の準備をしていた。「お前は誰か」と聞くと、「少年の貧乏神です。お引っ越しにお供するつもりです」と答えた。