周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─19 〜石清水神人の強訴と自殺〜

  応永三十二年(1425)八月十五日条

          (『薩戒記』2─209)

 

 十五日、辛巳、天晴、午終剋花山院中納言〈持忠、放生」会上卿、〉自八幡送

 使者曰、昨日焼亡太驚存、殊近々間心苦存之処、無別儀云々、抑放生会神人昨日依

 致強訴被召籠了、件神人子、今朝於宿院南門前自害了、是神幸之御路也、依件穢可

 延引欤之由、社家評定、則注進入道内相府了、可随其左右云々、卅个日延引欤、将

 今日一日延引欤、不一定云々、如此之儀、往例上卿以下存先例可進止也、而近代

 更不知子細、惘然相待社家左右云々、凡近日世上不安、昨日火事、今日又大会

 延引、非無恐、若昨日火事穢、不図而及八幡之故歟之由、有沙汰云々、後聞、

 自害之神人、未死終之已前令出社頭、仍酉剋有神幸、上卿花山院中納言

 〈持忠、初度、〉参議四条宰相、〈隆盛、〉弁右少経直等行事如常、丑剋許事了

 云々、

 

 「書き下し文」

 十五日、辛巳、天晴る、午の終剋花山院中納言〈持忠、放生会上卿、〉八幡より使者を送りて曰く、昨日の焼亡太だ驚き存ず、殊に近々の間心苦しく存ずるの処、別儀無しと云々、抑も放生会にて神人昨日強訴致すにより召し籠められ了んぬ、件の神人の子、今朝宿院南門の前に於いて自害し了んぬ、是れ神幸の御路なり、件の穢により延引すべきかの由、社家評定し、則ち入道内相府に注進し了んぬ、其の左右に随ふべしと云々、卅か日延引か、将た今日一日延引か、一定せずと云々、此くのごときの儀、往例上卿以下先例を存じ進止すべきなり、而れども近代更に子細を知らず、惘然として社家の左右を相待つと云々、凡そ近日世上不安なり、昨日火事、今日又大会延引す、恐れ無きに非ず、若し昨日の火事の穢、図らずして八幡に及ぶの故か之由、沙汰有りと云々、後に聞く、自害の神人、未だ死に終えざるの已前に社頭を出ださしむ、仍て酉の剋神幸有り、上卿花山院中納言、〈持忠、初度、〉参議四条宰相、〈隆盛、〉弁右少経直等行事常のごとし、丑の剋ばかり事了はると云々、

 

 「解釈」

 十五日、辛巳、晴れ。午の終剋、花山院中納言持忠(放生会の上卿)が石清水八幡宮から使者を送って言うには、「昨日の京都の大火災にはとても驚きました。とりわけ場所が近いので、気の毒に思っておりましたが、支障はないという。さて昨日、放生会で神人が強訴したことにより、その者を監禁なさった。その神人の子が今朝、宿院南門の前で自殺した。これは神幸の経路である。この穢によって、放生会を延期するべきかどうかを、社家は相談し、すぐに入道内相府足利義持に報告した。社家の決定の通りにせよとご返答があった。三十日延期か、あるいは今日一日だけ延期かが決まらなかったそうだ。このような件は、従来であれば、上卿以下が先例を承知し、行動するべきである。しかし、近頃ではまったく細かい事情を知らず、ぼんやりと社家の決定を待っているという。そもそも最近は世の中が不安である。昨日は大火事で、今日もまた放生会が延期となった。恐れがないわけではない。もしかすると、昨日の火事の穢が、思いがけず石清水八幡宮に影響したからか、という噂があったそうだ。後で聞いた。自害した神人は、事切れる前に社殿の近辺より運び出させた。そこで酉の剋に神幸が行なわれた。上卿は花山院中納言持忠(初めて)、参議四条宰相隆盛、弁右少勧修寺経直らによって、行事はいつも通りに行なわれた。丑の剋ばかり行事は終わったという。

 

 「注釈」

花山院持忠」─1405〜67。応永32・1・30権中納言(『公卿辞典』)。

 

「四条隆盛」─1397〜1466。応永32・1・30参議(『公卿辞典』)。

 

「勧修寺経直」

 ─?〜1449。文安6(1449)3・10参議、元前左少弁(『公卿辞典』)。

 

 

*またしても、石清水八幡宮で自殺事件が起きました。この史料によると、事の発端は8月14日に起きた強訴でした。放生会の開催を妨害することで訴えを認めさせようとする、当時としてはよくある訴訟手段なのですが、この訴えを起こした神人が捕縛・監禁されました。その翌朝、捕らえられた神人の子どもが宿院南門前で自殺したのです。原因・目的などの動機については、残念ながら何も読み取れません。父親が捕縛されてしまっては、放生会を妨害して訴えを認めさせることはできないので、子どもが代わりに切腹し、神幸の経路を穢すことで、訴えを認めさせようとしたのではないか、と推測するのが限界です。ひとまず、自殺事例の追加だけしておきます。

 

 

【関連史料1】

  応永三十二年(1425)八月十五日条

          (『満済准后日記』上、続群書類従・補遺一、P318)

 

 十五日。晴。

  (中略)

  自八幡前社務田中融清法印方注進到来。今暁卯刻八幡宮四足門前ニテ神人一人

  自害了。言語道断事也、仍神事于今不行之。先規未如此事不在之。仍只今不及

  計申入。忩注進云々。奉行飯尾加賀守方ヘモ同注進云々。以奉行加賀守則披露

  処、任御鬮今日神事可果遂申由、雖非社務別而融清法印可致奉行旨被仰出云々。

  使者則退出了。 御所様今日自清和院御出。御所へ還御云々。 自八幡田中法印

  融清方注進到来。如被仰下於神前取御鬮処。可成申神行御鬮候間。今日十五日

  酉刻。既神行無為且珍重々々。自害神人於山下死去云々。〔山上〕四足門前神人

  自害ノ在所土地ヲ。三尺計堀避テ清浄土ヲ以テ如元令平。其上ニ浄薦等敷之。

  奉成神行云々。御鬮厳重。珍重々々。 恒例不動護摩始行。〈於法身院。〉承仕

  常運。支具未下行之。

 十六日。晴。辰初刻自融清法印方注進。去夜丑刻神事悉終還幸。(後略)

 

 「書き下し文」

  八幡前社務田中融清法印方より注進到来す、今暁卯の刻八幡宮四足門にて神人一人自害し了んぬ、言語道断の事なり、仍て神事今に之行かず、先規未だ此くのごとき事之在らず、仍て只今計らひ申し入るるに及ばず、忩ぎ注進すと云々、奉行飯尾加賀方へも同じく注進すと云々、奉行加賀守を以て則ち披露する処、御鬮に任せ今日神事果たし遂げ申すべきの由、社務に非ずと雖も別して融清法印奉行致すべき旨仰せ出ださると云々、使者則ち退出し了んぬ、 御所様今日清和院より御出で、御所へ還御すと云々、 八幡田中法印融清方より注進到来す、仰せ下さるるがごとく神前に於いて御鬮を取る処、神行を成し申すべく御鬮に候ふ間、今日十五日酉の刻、既に神行無為且つ珍重珍重、自害の神人山下に於いて死去すと云々、〔山上〕四足門前神人自害の在所の土地を三尺ばかり掘り避けて清浄の土を以て元のごとく平にせしむ、其の上に浄き薦等之を敷き、神行を成し奉ると云々、御鬮厳重なり。珍重珍重。 恒例の不動護摩を始め行ふ、〈法身院に於いて、〉承仕常運、支具未だ之を下行せず、

 十六日、晴る、辰の初刻融清法印方より注進す、去夜丑の刻神事悉く終り還幸す。

 

 「解釈」

  石清水八幡宮前社務田中融清法印方からの報告が到来した。今日の早朝、卯の刻八幡宮の四足門で神人が一人自殺した。とんでもないことである。そのため、放生会の神事はいまだに執行されていない。先例には、まだこのようなことはなかった。したがって、今のところ、適切な処置をするまでには至っておらず、急いで報告したという。八幡奉行の飯尾加賀守為行方へも同じく報告したそうだ。奉行の飯尾為行をもってすぐに御所様足利義持に披露したところ、御鬮のとおりに、今日神事を遂行し申すべきであり、社務ではないが特別に前社務の田中融清法印が執行するべきであるとご命令になったという。使者はすぐに退出した。 御所様足利義持は今日清和院からお出かけになり、御所へお帰りになったとそうだ。 八幡田中融清法印方から報告が到来した。ご命令のとおりに神前で鬮を引いたところ、神幸を遂行せよという鬮でしたので、今日十五日酉の刻にすでに神幸が無事に遂行され、めでたいことである。自殺した神人は山下で死んだという。山上の四足門の門前で神人が自殺した場所の土地を三尺ほど掘って取り除いて、清浄な土を使って元のように平らにさせた。その上に清浄な薦などを敷いて、神幸を遂行し申し上げたそうだ。御鬮の結果は尊び重んじなければならない。めでたいことである。 法身院で恒例の不動護摩を始めた。承仕の常連が護摩支具をまだ下行していない。

 十六日、晴れ。辰の初刻融清法印方から報告があった。昨夜丑の刻、神事すべて終わり、神輿は還幸した。

 

 「注釈」

「清和院」

 ─現上京区一観音町。町の西北にある。真言宗智山派、一本寺と号し、本尊木造地蔵菩薩立像は重要文化財

 創立・開基については不明であるが、「山城名勝志」は寺伝として、

  始曰仏心院〈見徳治二年三」月十九日綸旨〉、後依勅号清和院、染殿第今清和院也〈北限正親町南限土御門町」東限京極 西限富小路〉、本尊延命地蔵菩一演僧正作、清和天皇御長奉摸尊容也〈御長六」尺二分〉、帝恭敬し給ふ所の仏舎利二粒を左右の御眼のひとみに入給ひ、腹心には宸筆法華経一部を納らる

と記し、現京都御苑内にあった清和院(→染殿院跡)を継承したもので、初め仏心院と称し、一演僧正作の清和天皇を模した延命地蔵を安置したとする。ちなみに「薩戒記」応永三十二年(1425)二月二十四日条に「参詣清和院地蔵堂」とあるのは当院をさすか。

 また「山城名勝志」所引の清和院縁起には「感応寺伽藍旧地鴨河西岸下鴨南也、寺退転、正観音弘法大師作御長五尺五寸、壱演僧正持尊也、今安置清和院」と記され、感応寺の聖観音を当院に安置すると伝える(→河﨑観音堂跡)。

 万治四年(1661)の禁裏炎上で類焼し現在地に移った(京師巡覧集)。京都御役所向大概覚書によれば朱印寺領は四十一石である。

 当院の観音像は河崎観音と呼ばれ、洛陽三十三観音巡拝の最終番(京羽二重)、洛陽七ヶ所観音の一つと言われた(山城名勝志)。

 

法身院」

 ─醍醐寺参謀院門跡の在京中の居所。将軍邸宅の東隣にある(藤井雅子「三宝院門跡と門徒」『日本女子大学紀要』文学部、65号、2015年、53頁)。

 

 

【関連史料2】

  応永三十二年(1425)八月十五日条

          (『図書寮叢刊 看聞日記』3─153)

 

 十五日、晴、

   (中略)

  抑放生会卯剋神輿奉出之処、於楼門外神人一人切腹云々、依之神輿奉押、神幸

  延引歟否京都へ注進申、其間数剋御左右待申、申剋御使馳左右帰、自害人不死

  可有神幸云々、神人未死之間、則神幸、日暮時分遷殿渡御、上卿花山院

  中納言(持忠)、参議四條宰相隆盛、弁経直(勧修寺)〈自去春有勅勘、然而

  有御」免出仕云々、父卿(経興)同前御免、〉次将長資(田向)朝臣也、神幸

  以前有空騒動、善法寺より社務可寄之由申、武者馳集隈雑、雖然属無為云々、併

  天魔所為歟、神人腹切事希代不思儀、天下怪異勿論歟、及深更前宰相以下面々

  下向、神幸無為之由語之、八幡所作三ケ日之間、一巻三礼観音経百巻・心経百巻

  法楽今日結願了、

   (後略)

 

 「書き下し文」

  抑も放生会卯の剋に神輿を出だし奉るの処、楼門の外に於いて神人一人切腹すと云々、之により神輿を押し奉り、神幸延引や否や京都へ注進し申す、其の間数剋御左右待ち申し、申の剋に御左右帰る、自害人死なずんば神幸有るべしと云々、神人未だ死なざるの間、則ち神幸す、日暮れ時分に遷殿に渡御す、上卿花山院中納言、参議四条宰相隆盛、弁経直〈去んぬる春より勅勘有り、然れども御免有り出仕すと云々、父卿同前御免、〉次将長資朝臣なり、神幸以前に空騒動有り、善法寺より社務へ寄すべきの由申す、武者馳せ集まり猥雑なり、然りと雖も無為に属すと云々、併しながら天魔の所為か、神人腹切りの事希代の不思儀なり、天下の怪異勿論か、深更に及び前宰相以下面々下向す、神幸無為の由之を語る、八幡の所作三ケ日の間、一巻三礼観音経百巻・心経百巻の法楽今日結願し了んぬ、

 

 「解釈」

  さて、石清水八幡宮放生会で、卯の刻に神輿を出し申し上げたところ、楼門の外で神人一人が切腹したそうだ。これによって神輿を押し止め申し上げ、神幸を延引するかしないかを京都へ注進し申し上げた。その間、数時間、京都へ遣わした側近を待ち申し上げ、申の刻に側近は帰ってきた。自害人が死なないのなら、神幸を行なうべきであるという。神人はまだ死んでいないので、すぐに神幸を行なった。日暮れどきには遷殿にお移りになった。上卿花山院中納言持忠、参議四条宰相隆盛、蔵人右小弁勧修寺経直〈この前の春から勅勘を被っていた。しかし、お許しがあって出仕しているという。父経豊卿も同じくお許しがあった。〉次将は、田向長資である。神幸以前に空騒ぎがあった。善法寺宋清方から、社務西竹保清へ軍勢が押し寄せるはずだと申し上げた。武者が走り集まり乱雑な状態になった。しかし、何事もなかったという。すべて天魔の仕業か。神人が腹を切ったことは、世にも珍しく思いも寄らないことである。このうえなく不思議であることは言うまでもないだろう。深夜になって前宰相田向経良ら面々が下向した。神幸は無事に終わったと語った。八幡放生会の儀式は三日間で、一巻を読誦するごとに三礼し、観音経百巻・般若心経百巻の奉納を今日終えた。

 

 「注釈」

「長資」

 ─田向長資。田向経良子。権中納言。康正2年出家(横井清「『看聞日記』の人びと」『室町時代の一皇族の生涯』講談社学術文庫、2002年、414頁)。

 

「経良」

 ─田向経良。同じ資陰子、長資・あや父。三位・三品。応永28年7月20日任参議。新宰相・宰相・源宰相。永享4年改め経兼、同8年出家。伏見御領奉行職(前掲同書、412頁)。