周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─20 〜石清水神人の強訴と自殺未遂〜

【史料1】

  正長二年(1429)三月十五日・二十二日・三十日条

        (『満済准后日記』下─37・39・43頁)

 

 十五日。天晴。(中略)

  今日午刻。石清水八幡宮中御前外殿大床ノ上ニテ。神人〈仕丁云々。〉二人

  切腹了。雖然於社中不終命。則出築垣之外云々。今度自害閉籠ノ嗷訴。対社務

  宋清法印事也。非対公方訴訟也。宋清法印沙汰之次第。旁以不可説也。自害

  神人出門外事。自南楼出四脚云々。神行御路也。以外非儀之由。自田中融清法印

 〔等イ〕

  ・方注進申也。此事御慶賀之時分之間。不及披露之由。自管領内々示申也。

  (後略)

 

             石清水

 廿二日。早旦参室町殿処。八幡宮去十五日於社頭神人自害事。以外御仰天。仍社頭

  可為造替歟事。次外殿神体早々可被渡内殿歟事。次自害人自楼門出四脚了。両門

  既神行御路也。可被造替歟事。此等三ケ條前社務融清法印申入旨内々申入処。此

  條々又此外何事ニテモ可宜事等可仰談管領云々。仍召遊佐。條條申遣管領了。

 

 晦日。晴。(中略)

  於八幡宮神殿〈中御前。〉大床。去十五日仕丁二人自害〔事〕ニ付テ。可被造替

  否事。以両奉行飯尾肥前守。松田対馬守被尋仰子細條々在之。自管領同遊佐河内守

  相副来條々一。

 

 

 「書き下し文」

 十五日、天晴る、(中略)

  今日午刻、石清水八幡宮中御前外殿大床の上にて、神人〈仕丁と云々〉、二人切腹し了んぬ、然りと雖も社中に於いて命を終えず、則ち築垣の外に出だすと云々。今度自害閉籠の嗷訴、社務宋清法印に対する事なり、公方に対する訴訟に非ざるなり。宋清法印の沙汰の次第、かたがた以て不可説なり、自害の神人門外に出だす事、南楼より四脚に出だすと云々、神行の御路なり。以ての外非儀の由、田中融清法印方より注進し申すなり、此の事御慶賀の時分の間、披露に及ばざるの由、管領より内々に示し申すなり、(後略)

 

 二十二日、早旦室町殿に参る処、石清水八幡宮去んぬる十五日社頭に於いて神人自害する事、以ての外御仰天す、仍て社頭造替を為すべき事、次いで外殿の神体早々に内殿に渡さるべきかの事、次いで自害人楼門より四脚に出だし了んぬ、両門既に神行の御路なり、造替せらるべきかの事、此れら三ケ條前社務融清法印申し入るる旨を内々に申し入るるの処、此の條々また此の外何事にても宜しかるべき事等を管領に仰せ談ずべしと云々。仍て遊佐を召し、條條を管領に申し遣し了んぬ。

 

 晦日、晴る、(中略)

  八幡宮神殿〈中御前〉の大床に於いて、去んぬる十五日仕丁二人自害の事に付けて、造替せられるべきや否やの事。両奉行飯尾肥前守・松田対馬守を以て子細條々を尋ね仰せらるること之在り、管領より同じく遊佐河内守條々一つを相副へ来たる、

 

 

 「解釈」

 十五日、晴れ。(中略)今日午の刻に、石清水八幡宮中御前外殿の大床の上で、仕丁座の神人二人が切腹した。しかし社中で息絶えなかった。すぐに築垣の外に出したそうだ。この度の自害閉籠の強訴は、社務善法寺宋清法印に対するものである。公方足利義教様に対する訴訟ではないのである。宋清法印の処置の一部始終は、いずれも道理に外れたものである。自害した神人を門外に出す処置であるが、南楼門から四脚門を通って出したという。これは神輿渡御の道である。道理に外れたとんでもない行いだと、田中融清法印方から注進し申しあげたのである。このことは、足利義政様が将軍に就任しためでたい時分であるので、義政様には報告するまでもないと、管領畠山満家から内々に指示し申し上げたのである。(後略)

 

 二十二日の早朝、室町殿に参上したところ、去る十五日、石清水八幡宮の社前で神人が自害したことを、公方足利義教様はお聞きになって、とんでもないことだとひどく驚きなさった。そこで、社殿の造替をしなければならないこと、次に外殿の御神体を早々に内殿に移すべきであろうこと、次に自害人を南楼門から四脚門を通って出したのだが、まぎれもなく二つの門は神輿渡御の道であるから、造り直すべきだろうか、ということ。これら三か条を前社務田中融清法印が申し入れてきたことを、内々に義教様に申し上げたところ、これらの件やその他すべてのことも、適切に処置するべきよう、管領に相談せよとおっしゃった。そこで遊佐河内守を呼び寄せ、これらの件を管領畠山満家に伝え申し上げた。

 

 三十日、晴れ。(中略)

  石清水八幡宮神殿の中御前の大床で、去る八月十五日に仕丁座の神人二人が自害したことについて、社殿を造り直すべきか否かのこと。公方足利義教様は、八幡奉行の飯尾肥前守為種と松田対馬守貞清をもって、事情をお尋ねになることがあった。管領畠山満家からも同じように、遊佐河内守が両奉行に尋ねるべき要件を一つもってやって来た。

 

 「注釈」

「仕丁」

 ─神事諸道具の配置や境内清掃などの雑事を勤める「仕丁座」の神人(竹中友里代「近世石清水八幡宮における吉田神道の受容と社務家」『京都府立大学学術報告』人文、68、2016年12月、346頁https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6086&item_no=1&page_id=13&block_id=17)。

 

 

【史料2】

  正長二年(1429)四月二日条

        (『図書寮叢刊 看聞日記』3─174頁)

 

        (豊原)

 卯月二日、晴、郷秋参語世事、去月十三日八幡於社壇神人二人腹切了、社頭触穢

  之間、可被造替候歟否、社家被相尋、以先例社家注進、仍腹切所社壇之柱・

  板敷・御簾等許被新造、於御殿不被造替、神事無為云々、

 

 「書き下し文」

 卯月二日、晴る、郷秋参り世事を語る、去月十三日八幡社壇に於いて神人二人腹を切り了んぬ、社頭触穢の間、造替せらるべく候ふや否や、社家に相尋ねらる、先例を以て社家注進す、仍て腹切る所の社壇の柱・板敷・御簾等ばかり新造せらる、御殿に於いては造替せられず、神事無為と云々、

 

 「解釈」

 四月二日、晴れ。豊原郷秋がやって来て世間話をした。去月十三日、石清水八幡宮の社殿で神人二人が切腹した。社殿の近辺が触穢になったので、造り替えられるべきかどうか、社家に尋ねられた。社家は先例をもって報告した。そこで、切腹した場所の社殿の柱・板敷・御簾などだけが新造された。社殿については造り直されなかった。神事は何事もなく行われたという。

 

 

 「注釈」

*前回の記事から4年後、またしても石清水八幡宮で自殺事件が起きました。今回の事件は足利義教の将軍就任と同日に起きたのですが、【史料1】に明記されているように、将軍義教に対する訴えではなく、社務善法寺宋清に対する訴えを起因とした切腹だったようです。残念ながら具体的な原因や目的については、これ以上のことはわかりません。

 ところで、前回の記事と少し違うのは、今回の切腹は未遂に終わっていると考えられるところです。上に紹介した史料だけでなく、関連する記事を集めてみましたが(同年四月九日・十日・十三日・二十日・二十二日・二十三日条(『満済准后日記』下─44〜49頁)、仕丁座神人2人が亡くなったという情報は見つけられませんでした。自殺者が生きているか死んでいるか。また、死んだとしたらどこで死んだのか。このような情報は穢の認定に関わる重要な問題で、その後の対処にも影響を及ぼすため、これまでに紹介してきた石清水関係の自殺記事にはきちんと説明されていました(「自殺の中世史」2─9・10/3─2・3・12・18・19)。こうした情報がない以上、今回の自殺は未遂事件であったと言えそうです。以前にも指摘しましたが、「自害」「切腹」という言葉だけでは、「既遂」か「未遂」かは判断できないようです。