「仏通寺住持記」 その2
カ ヨ リ テ ノ ニ ステニ
吾山自従二応永乙丑一臻二延享之初一既已三百有余歳矣、
リ ニ ルモノ ニ チ リ ヲ ニ テ ノ テ ニ
当二輪次一登二住簿一者乃得二百五十有余人一、固以仁明勇之機随レ分而
ルモノカ シテ ヲ ニス
行者歟、永正十八年、真庵淳和和尚述二住持記一篇一而著二明
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一百有余年前之事一、然後随二厥規則一年々記録焉、其后五十年
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元亀元、長派金龍月秋周印禅師、依二科条参差 満事実矛盾
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強而不一レ著、続二遺範一而篇二一巻一焉、劫後三十年慶長五、
マサノリ ル ス ヲ (敝)ナリ モ
福島正則公頗減二俸禄一、故吾山一髪千鈞之衰蔽也、昔日十派
ヘ ノ ヘニ 二 シテ ノ ニ
不レ堪二遥路費一、漸々皆属二于肯長永両正之五派一、
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次第闋二転輪位次一焉、復々天寧向上終闋二輪次一焉、
「書き下し文」
吾が山応永乙丑より延享の初めに臻りてすでに三百有余年。輪次に当たり住簿に登るものは乃ち百五十有余人を得たり、固に以て仁・明・勇の機分に随ひて行はるものか、永正十八年、真庵淳和和尚住持記一篇を述して一百有余年前の事を著明にす、然して後厥の規則に随ひて年々記録す、其の後五十年元亀元、長派の金龍の月秋周印禅師、科条も参差として満ち、事実も矛盾して強ひて著しからざるに依て、遺範を続けて一巻を篇す、劫後三十年慶長五、福島正則公頗る俸禄を減ず、故に吾が山一髪千鈞の衰敝なり、昔十派も遥路の費へに堪へず、漸々に皆肯長永両正の五派に属して、次第に転輪の位次を闋む、復々天寧・向上も終に輪次を闋む、
「解釈」
吾が御許山仏通寺は、応永十六年(1409)から延享(1744〜1748)の初めに至って、すでに三百有余年になる。輪番制である住持職の順番に当たって、名簿に名を連ねた者は、すでに百五十人を超えた。本当に仁・明・勇の心の働きは、それぞれの分に従って現れるのだろう。永正十八年(1521)、真庵淳和和尚が住持記一編を編集し、百年以上も前の出来事を著述し明らかにした。その後、真庵淳和の規則に従って毎年記録していった。それから五十年後の元亀元年(1570)に、長松派(ヵ)の金龍の月秋周印禅師は、法律の条目も矛盾したまま満ち溢れ、事実も矛盾したまま押し付けられ、正しいことがはっきりしないので、先人の残した手本に続けて一巻を編集した。それから三十年後の慶長五年、福島正則公はひどく俸禄を減らした。したがって、当山も危機といえるほど衰微してしまったのである。昔は、十派も仏通寺にはるばるやって来るための旅費の支出に持ち堪えられず、だんだんと皆が肯心院・長松院・永徳院・両足院・正法院の五派に所属して、次第に住持と番衆の輪番制を止めた。また天寧寺・向上寺も、とうとう輪番制を止めた。
*わからないところについては、強引に書き下し、解釈しています。
つづく