周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

仏通寺住持記 その4

 「仏通寺住持記」 その4

 

    仏通十六派

       カツラノツ

 聖記派 阿州勝瑞津聖記寺、開山留心和尚

       トンダ

 祥雲派 坊州富田祥雲寺、開山覚隠和尚

 正覚派 丹後州正覚庵、開山諾渓和尚

 大慈派 備之後州吉舎大慈寺、開山元哉和尚

 慈雲派 丹之後州常喜山宗雲寺、開山千畝和尚

 建国派 勢州山田鼓山建国寺、開山中和周徳禅師 〈直弟」也〉

 円福派 甲州石森山円福寺、開山一笑和尚

 大通派 当国吉田大通院、開山春渓俊育禅師直弟也、

                               

                     大通院今在坊州山口

       カ(肥前佐賀華蔵寺)

 華蔵派 何処不知、開山景延庵主 直弟也

 密伝派 直弟密伝顕公禅師、寺不(略土州新田広厳寺)

 権管派 備之後州賀茂松尾山慈徳庵、権管寧禅師也〈直弟〉

      

 得月派 何処不知(略丹後右谷得月山荘厳寺 開山的当和尚)

           

 法雲派 備之後州仁賀法雲庵、泰然真康禅師開山也

 霊源派 当国甲立霊源庵、開山霊谷祖傑禅師

 

 

 英昌派 不知(略駿州府中英昌寺 開山明三和尚)

          カツラ

     「勝瑞津トハ勝浦ノコトナリ、昔日、義経平家追

      討之時、義経此浦ニ着玉フ、処名如何ト問玉フ

         カツラ

      時、里人勝浦ト答、故ニ義経喜テ、軍ノ勝瑞也

               

      トノ玉フ、依テ後人粧文字勝瑞津ト云歟」

 

 「書き下し文」

  (前略)

 勝瑞の津とは勝浦のことなり、昔日、義経平家追討の時、義経此の浦に着き玉ふ、処の名如何と問ひ玉ふ時、里人勝浦と答ふ、故に義経喜びて、軍の勝瑞なりと宣ふ、依て後人文字を粧ひて勝瑞の津と云ふか、

 

 「解釈」

  (前略)

 勝瑞の津とは勝浦のことである。むかし、源義経が平家を追討したとき、義経がこの浦にご到着になった。場所の名前は何かとお尋ねになったとき、里人が勝浦と答えた。だから義経は喜んで、戦勝の吉兆であるとおっしゃった。そこで、後世の人は文字を変えて、勝瑞の津と呼んだのだろう。

 

 「注釈」

「聖記寺」

 ─阿波国守護所勝瑞(現徳島県板野郡藍住町勝瑞字正喜地)にあった曹洞宗仏通寺派の寺院。開山は丹波国天寧寺第二世住持の留心安久。以下、福本清司「勝瑞津と聖記寺の創建」(石井伸夫・仁木宏編『守護所・戦国城下町の構造と社会 ─阿波国勝瑞』思文閣出版、2017年)のまとめを引用しておきます。

 ①秋月から守護所が移転されて間もない時期と考えられる十五世紀第一四半世紀頃の勝瑞に、安芸国仏通寺の末寺として聖記寺が建立されたこと。

 ②その聖記寺の開山留心安久は阿波国出身で、将軍義持が深く帰依した丹波天寧寺の高僧愚中周及の高弟であったことから、守護細川氏によって開山に招かれたと考えられること。

 ③したがって、聖記寺は守護細川氏が新守護所勝瑞整備の一環として建立した「守護創建寺院」であったと考えられること。

 ④聖記寺建立場所は、当時「勝瑞津」と呼ばれていることから、「津」機能を備えた場所であったこと。

 ⑤勝瑞津は、吉野川水運の要衝として早くから発展し、すでに「市場」集落も形成していた港津「三ツ合」の機能の一部として成立したと推定されること。

 ⑥勝瑞津に創建された聖記寺は、守護所の中心的施設とは若干離れた地点である現在の字「正喜地」に建立された可能性が高いが、これは壮大な寺院建築を新守護所および津のランドマークとする意図に基づくと推定されること。

 

「祥雲寺」

 ─山口県新南陽市大字富田にある曹洞宗瑞竜山祥雲庵のことか(「富田村」『山口県の地名』平凡社)。

 

「正覚庵」─未詳。京都府か。

 

大慈寺

 ─広島県三次市吉舎町吉舎白根。小字白根の山中にあり、山号は広沢山、臨済宗仏通寺派、本尊釈迦如来。応永二十八年(1421)南天山城第四代城主和智氏実の創建で、開山は仏通寺(現三原市)の愚中の高弟宗綱。仏殿は永享十一年(1439)氏実の弟第五代時実が建立したが、尼子氏の兵火にかかり、永禄十二年(1569)に和智元郷が再建した(芸藩通志)といい、その棟札が残る。近世に入り衰微したが、宝永三年(1706)甲奴・世羅・三𧮾の三郡を勧化してわずかに修理し、文化─文政(1804─30)の頃霊岳が本堂・庫裏を再造した(双三郡誌)。

 寺蔵の紙本墨書大般若経二十五帖(県指定重要文化財)は、奥書によると播磨国揖保郡の住人桑原貞助の発願により、同国書写山円教寺(現兵庫県姫路市)の僧良範らが保延四年(1138)書写したもので、追筆奥書によると、明応二年(1493)守近善秀が吉舎村八幡宮へ施入したとある。ほかに応永三十一年寄進の絹本著色絵像観音三十三身や、永享十一年の「宗綱恵統遺偈」、年未詳であるが、「宗綱語録」などが残る。境内には和智氏実の墓がある(『広島県の地名』平凡社)。

 

「宗雲寺」

 ─現京都府京丹後市久美浜町。旧久美浜村の西南部、通称新町の宮谷にある。常喜山と号し、臨済宗南禅寺派、本尊釈迦如来

 寺伝によると宗雲寺はもと小字多茂ノ木にあった天台宗の常喜庵とよぶ小宇で、寺門衰退したため、海士村字谷に隠棲していた千畝周竹を請じた。千畝は永享四年(1432)宮谷の現在地に宮谷山常喜寺を興し、これ以後禅宗となった。千畝は近衛家の出自であったので、同家が山林を寄付し堂宇の建立をした。将軍足利義政も荘園を寄進したので寺運隆盛となり、安芸の仏通寺(現広島県三原市)・丹波の天寧寺(現福知山市)とともに愚中派の三本寺と称し、独立本山として輪番交住すること九世に及んだという。中世末の丹後国御檀家帳に「くみの宮谷(中略)、常喜寺〈大寺也、丹後国」僧衆の本寺也〉とあり、その繁栄の様子がしのばれる。

 天文十年(1541)兵火のため荒廃したが、天正年中(1573─92)松井佐渡守康之が久美浜に城を構えると、叔父の南禅寺二六六世玄圃霊三を請じて常喜寺を再興し、天正十五年父山城守正之の墓を山城国綴喜郡松井(現田辺町)より当山に移して改葬した。正之の法名前城州大守清月宗雲大禅定門にちなんで常喜山宗雲寺と改称し、南禅寺に属した。こうして多くの末寺をもち、寺運は再び興隆に向かった(宗雲寺文書、熊野郡誌、久美浜町誌)。

 ちなみに、玄圃の書写した「幻雲稿」天正十二年九月五日付奥書に「右幻雲四六集、以月谷予師春芳手跡之本、於丹後州熊野郡久美庄常喜山宗雲寺写之畢矣」と記されている(『京都府の地名』平凡社)。

 

「建国寺」─三重県伊勢市宇治浦田。行基の草創と伝え、禅宗である。応永年間に将軍義持が 武運長久の祈りとして内宮に一切経を納めたのを、内宮からこの寺に納め、神領中から寺領を給し、ついで将軍義教は経蔵を建立したという事情から有力な寺であった。戦国期にこの寺が衰廃しかけたのを,神宮庁宣を発して寺僧の勧進の達成を計ったことがある。宝永年間に至って内宮神官薗田家との間に争を生じ、宇治郷年寄の預りとされ、もって維新に及んで廃寺となった(萩原龍夫「伊勢神宮と仏教」『明治大学人文科学研究所紀要』 7号、1969・2、4頁、https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/9845/1/jinbunkagakukiyo_7_2-1.pdf)。

 

 三重県伊勢市宇治浦田にあった寺院。明治初年に廃寺となった。建国寺の淵源は、南北朝時代の祭主大中臣忠直が創建した大中臣氏の氏寺にある。その後、応永十三年(1406)に、禅僧であったと考えられる徳侍者が、一禰宜荒木田経博によって建国寺に招聘され、禅宗寺院として復興を遂げた。応永三十三年(1426)、足利義持によって一切経が奉納され、内宮専門法楽所としての機能を帯びるようになり、内宮建国寺が成立する。義教は内宮建国寺を幕府公認の祈願寺とし、天下泰平・千秋万歳のための神明法楽を、毎日勤行するよう命じた。内宮建国寺は、一切経のみならず、寺領も、寺僧も、そして伽藍までもが、一禰宜の主催する内宮庁の強い管理下に置かれていた。ところが、長享三年(1489)の焼失によって、神宮祠官の一氏寺に戻ったものと思われる(多田實道「内宮建国寺について」『伊勢神宮と仏教』弘文堂、2019年)。

 なお、上述の徳侍者は、愚中周及の直弟「中和周徳禅師」を指すのかもしれません。

 

円福寺

 ─山梨県大月市富浜町鳥沢に所在する臨済宗建長寺派の寺院のことか。円福寺は鳥沢のうち上鳥沢にある臨済宗建長寺派の寺院で、甲斐守護武田信重を開基とし、信重の母は小山田弥次郎の娘と言われており(鎌倉大草紙)、当地在住の小山田氏が確認できることは注目されよう(「小西郷」『山梨県の地名』平凡社)。

 

「大通院」─未詳。広島県か。

 

「華蔵寺」─未詳。佐賀県か。

 

「広厳寺」─未詳。高知県か。

 

「慈徳寺」

 ─広島県世羅郡世羅町重永。重永西部にある山の南面中腹に位置し、臨済宗仏通寺派。初め松尾山、のち金剛山と号した。本尊地蔵菩薩

 寺伝によると応永七年(1400)三次郡旗返城(跡地は現三次市)の城主松尾長門守光勝の娘で小早川春平室と考えられる松岩寿禅尼の創立。仏通寺(現三原市)の開山愚中周及の直弟子権管寧古衲を開基とする。仏通寺十六派の一つ権管派は当寺を拠点とし、本山仏通寺の運営にも参画した。元禄年中(1688─1704)に焼失したため詳細は不明であるが、「芸藩通志」には天文年中(1531─55)松岩尼の末裔松尾長門守三勝が再興し、三勝の四男僧一雲が師友雲を推して中興開山としたと記す。九世長淋の代に毛利家祈願所となり、寺領十四貫余りを給せられたといい、天正十九年(1591)頃の毛利氏八箇国御配置絵図(山口県文書館蔵)に慈徳院十九石一斗八升九合と記す(『広島県の地名』平凡社)。

 

「荘厳寺」

 ─京都府舞鶴市字桑飼上の曹洞宗荘厳寺か(「桑飼上村」『京都府の地名』平凡社)。

 

「法雲庵」

 ─広島県三次市三良坂町仁賀。田利村の北東に位置し、上下川の支流本村川下流域にある南北に細長い村。文和三年(1354)八月、室町幕府は岩松頼宥に祇園社領小童保(現甲奴町)への「二加四郎左衛門尉并光清左衛門尉等押妨」の停止を命じており(八坂神社文書)、また明徳二年(1391)にも同領への「石田一族并広沢・二加・光清以下之輩押妨」の停止を細川頼之に命じている(建内文書)。二加(仁賀)およびそれに隣接する光清など在地名を称する武士は、広沢和智氏支配下の者で、十四世紀にはこの地方がすでに和智氏の支配にあったことが知られる。(中略)

 佐田神社伊邪那岐命他十四神を祀り、寛正四年(1463)の勧請(同社由緒調査書)といい、旧村社。曹洞宗仏日山法雲寺は甲奴郡稲草村(現総領町)の龍興寺八世椿雲の開基(芸藩通志)といい、真言宗より曹洞宗へ転じた(国郡志下調書出帳)ともいう。字小塩野(こじょうの)にある県指定天然記念物のシラカシ群は、根回り5・83メートルのものを主木に七本の叢生をなす(「仁賀村」『広島県の地名』平凡社)。

 

「霊源庵」─未詳。広島県安芸高田市甲立町にかつてあった寺院か。

 

「英昌寺」─未詳。静岡県静岡市にかつてあった寺院か。

 

  つづく