周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史38 ─日本の古代18(狂気と自殺未遂)─

  康治元年(1142)九月二六日条『台記』1―74頁

        (『増補 史料大成』第23巻)

 

 廿六日乙卯、辰刻始興、侍男共申云、重能〈近習」人也〉有狂気、欲自殺

  不得、胸腹頸等少切、其中胸瘡深、疑侍等所為、使公達諸大夫問

  重能、申云、更非他人所為、自所之、放種々狂言云々、所々、

  偏物気所為也、言語道断、不可説云々、召医灸之、件重能、日来雖

  所労、相扶伺候、但更無狂気

 

 「書き下し文」

 二十六日乙卯、辰の刻に始興す、侍男ども申して云はく、重能〈近習人なり〉狂気有り、自殺せんと欲するも得ず、胸・腹・頸等を少し切る、其の中胸の瘡深し、侍らの所為を疑ひ、公達・諸大夫をして重能に問はしむ、申して云はく、更に他人の所為に非ず、自ら之を為す所と、種々狂言を放つと云々、所々、偏に物の気の所為なり、言語道断、不可説と云々、医を召し之に灸す、件の重能、日来所労有りと雖も、相扶け伺候す、但し更に狂気無し、

 

 「解釈」

 二十六日乙卯、辰の刻に事件は発生した。侍の男どもが申して言うには、「近習の重能が発狂した。自殺しようとしたができず、胸・腹・頸などを少々切った。その中でも胸の傷は深かった」と。私は侍たちの仕業ではないかと疑い、公達や諸大夫に命じて重能を尋問させた。「重能が申していうには、『けっして他人の仕業ではありません。自分自身でこのようなことをしたのです』とさまざまな常軌を逸した発言をした」と、公達や諸大夫らは言う。「もろもろの言動は、もっぱら物の気の仕業である。言葉では言えないほどとんでもないことである」と彼らは言う。医師を呼び寄せ、重能にお灸を据えた。この重能は、日ごろから患っていたが、同僚の助けを得ながらお仕えしていた。まったくもって狂気ではない。

 

 「解題」

 『台記』は保元の乱で著名な左大臣藤原頼長の日記である。頼長みずからはこれを単に『暦記』または『日次記』と称していた。しかしそれでは他の日記類と紛らわしいので、後人が彼の官職ないし居所に因んで『宇治左府記』、『治相記』、あるいは『宇槐記』、『槐記』、『台記』などと呼んだが、最近では専ら『台記』の名が行われている。槐や台の字は、大臣にあたる唐名の三槐、三台に由来するものである。

 頼長は、関白・藤原忠実の次子で、母は土佐守藤原盛実の娘であった。保安元年(1120)に生まれ、幼名を綾君といった。大治五年(1130)に元服し、翌天承元年(1131)には早くも従三位に昇叙された。その後の昇進は目ざましく、長承元年には権中納言に進み、翌年には従二位に叙され、長承三年(1134)には正二位権大納言兼皇后宮大夫、保延元年(1135)には右大将に、同二年には内大臣に進み、久安五年(1149)には、三十歳の若さで従一位を授けられ、右大臣に任じられた。これは一には忠実が長子のただみち(母は右大臣源顕房の娘)と意志の疎通を来たし、頼長を鍾愛したことによるが、他方では頼長が聡明かつ才気に富み、当時の碩学たる藤原通憲源師頼、藤原成任、僧恵暁等について熱心に学を修め、学識また並々でなかったことに負うているのである。

 久安六年(1150)、父の意向によって頼長は氏長者となり、仁平元年(1151)には内覧の宣旨を賜わり、異母兄の兄関白忠通と鋭く対立するに至った。すなわち、久安六年には養女の多子を納れて近衛天皇の皇后となし、政権を完全に掌握しようと図った。しかしその頃から当時の蔭の実力者たる美福門院の信任を失い、ひいては近衛天皇に疎んじられ始め、政権獲得に焦燥を覚えるようになった。

 久寿二年(1155)七月、近衛天皇が崩ずると、鳥羽法皇は美福門院の意向を重んじて雅仁親王天皇に立てた。これは、皇子、重仁親王の即位を期待しておられた崇徳上皇の失望を招き、こうして崇徳上皇、頼長の一派と、美福門院、後白河天皇、忠通の一派との対立は先鋭化し、鳥羽法皇の崩後、直ちに保元の乱が勃発した。その結果は、頼長が三十七歳で敗死し、崇徳上皇は讃岐に移されるという悲劇に終わった。

 頼長の性格、学殖、治績などについては語るべきことが甚だ多いが、幸いにそれらは、橋本義彦著『藤原頼長』(人物叢書、昭和三十九年刊)に要約されている。

 頼長の日記『台記』は、彼が強烈な個性と深い学殖の持主であったため、すこぶる生彩に富んでいるし、表現また精確であり、十二世紀前半の歴史を研究する上では最も重要な史料である。但し、主観的な記述や解釈も少なからず入り混じっているから、この日記だけに基づいて当時の歴史を研究したり、頼長像を描くことは、いささか危険である。

 現在知られる限りでは、彼は保延二年(1136)、十七歳の時から日記を書き始め、久寿二年(1155)まで執筆を続けた。その性質から言って、『台記』は早くから宮廷人の間で尊重されたけれども、どういう訳か後世に至ってそれは散逸し、一般には江戸時代の不完全な流布本が読まれるような状態に陥った(後略)。

 

 

 「注釈」

 「狂」(「狂気」「狂乱」「物狂」など)という言葉と「自殺」がセットで現れる記事については、これまでもいくつか検討してきましたが(「自殺の中世史2─3(鎌倉時代)、3─5、10、13(以上、室町時代)」)、少々違和感の残る史料を新たに見つけたので、紹介してみようと思います。

 今回の史料で注目したいのは、公達や諸大夫の報告部分です。彼らは自殺未遂事件を起こした重能を尋問したのですが、重能の「けっして他人の仕業ではありません。自分自身でこのようなことをしたのです」という返答を、「種々狂言」(=さまざまな常軌を逸した発言)と評価しているのです。当然、これ以外にも発言はあったのでしょうが、自殺を認めた供述も含めて狂言とみなしていることに違いはありません。

 自殺未遂者が自身の事件を説明するに当たって、「けっして他人の仕業ではありません。自分自身でこのようなことをしたのです」と発言したことを、現代人であれば正気を失った不自然な発言だと思わないでしょう。むしろ、自殺未遂であるにもかかわらず、他者に暴行されたと偽ったならば、そのような発言にこそ、精神の錯乱を疑ってしまうのではないでしょうか。ところが、公達・諸大夫は、自分で自分の命を絶とうとしたという発言自体を、「狂言」と評価しているのです(*注)。

 では、なぜそのような評価になるのでしょうか。それは、自殺未遂事件の情報を聞いた時点で、重能を「狂人」(=常軌を逸した人・正気を失った人)とみなしていたからだと考えられます。正気のまま自殺する人間は原則存在しないと考えられるので、当然といえば当然なのですが、ただ「自殺者」を「狂人」とみなすようなバイアスにかかっているからこそ、自分で自分の命を絶とうとしたという、現代人からすれば至極真っ当な発言に対しても、「狂言」と評価してしまったのではないでしょうか。「狂気」の原因を「物の気の仕業」とする点も、古代・中世の典型的な思考パターンですから、このような報告を聞いていると、そもそも自殺の社会的な原因を追究しようとする意図を持ち合わせていないのではないかとさえ思えてきます。おそらく、公達・諸大夫は尋問から何も聞き出せなかったがゆえに、あるいはそもそも聞き出すつもりもなかったがゆえに、「物の気のせいで発狂し自殺した」というテンプレート通りの答えを藤原頼長に報告したと考えられます。

 今回の記事を読んでみると、事件に不信感を抱く人物は、頼長以外にはいませんでした。だからこそ、自殺に対する当時の意識がはっきりと浮かび上がってきたように思います。自殺とは狂気そのものであり、狂気は物の気によって引き起こされる。原因未詳の自殺について、その説明を求められた際に、大多数の納得を得やすい典型的な解答例がこれだったのではないでしょうか。

 

(*注)重能の自殺未遂事件の真相が、侍らによる暴行事件だった可能性は捨てきれません。報告者である侍たちが事実を隠蔽しているのかもしれませんし、尋問者である公達・諸大夫が、実は侍たちと共謀して、頼長に偽りの報告をした可能性も考えられます。ですが、公達や諸大夫が、重能の自殺未遂や狂言の原因を「物の気」に求めているところをみると、彼らは他者に暴行された可能性を考慮に入れていないように思われます。かりに、他者による暴行を隠蔽する意図があったとしても、それを隠すために「物の気原因説」を主張したならば、これこそが、当該期に最も受け入れられやすい合理的な原因であったことを証明してしまうでしょう。重能は何らかの理由で真実を語れなかったのかもしれませんが、実際に侍たちに暴行されたかどうかという事実は、私の考えに大きな変更を迫るとは思えないので、横に置くことにします。