周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その13

 「仏通寺住持記」 その13

 

 二月十七日改

 (1441)

*嘉吉辛酉 覚隠住 〈于時八旬又一、今僧堂上棟三月五日

           大工氏守、施主信元〉

 称仏通祈願  千畝住丹金  大通三十三回

                    (記)「并下馬札下ル」

 護国禅寺          十二月廿一日為祈願寺

    有東昇院住持記

(記)「六月廿四日普広院殿生害云々」

   (頭注)

   「安芸国仏通寺事、為御祈願所可被致精誠

    之由所被仰下也、仍執達如件

     嘉吉元年十二月廿一日 右京大夫 判

               住持

    細川右京大夫事           」

 

 右両寺住持、先年以衆評定、太半隕没恰如残星、以故此職毎

 以為患矣、故重設規式以題直弟若干名字、向後湏此臘次、択

 器用以可住持者也、

  但除三十三回両寺出頭者、蓋以老病辞故也、

     嘉吉元年八月廿五日

                 字一咲禅慶 〈圓福寺」甲州人〉

                 字元哉符契 〈丹後州」慈雲寺〉

             〈字千畝」京城人〉周竹 〈初称筠侍者」後改竹〉

                   真知

 

 (記)

 「  当寺祖堂立牌分直弟 次第不知

  覚隠知禅師    諾渓唯禅師

  宗綱統禅師    厳仲中端禅師

  験之公禅師    摂念玄貴禅師

  春渓俊育禅師 当国吉田大通院

  元哉契禅師

  中和周徳禅師 勢州山田鼓山建国寺

  霊谷祖傑禅師 当国甲立霊源庵

  泰然真康禅師 備後州 仁賀 法雲庵

  心源和尚 〈当寺前住、帰丹山旧隠」見于宗綱録〉

    孫弟子借住衆 次第不同

  雲庵本従禅師 留心嗣 阿州勝瑞津聖記寺二世

  海翁全機禅師 宗綱嗣 吉舎善逝寺

  応山康善禅師 覚隠嗣 防州富田永源庵

  蘭翁世春禅師 諾渓嗣 備中州徳本庵

  明堂永賢禅師 千畝嗣 持地庵開基

  覚夫永本禅師 千畝嗣 丹后州江月庵

  梅渓為霖禅師 蔵中嗣 芥禅二世

 

 「書き下し文」

 二月十七日改む、

 嘉吉辛酉、覚隠住す、時に八旬又一、今の僧堂上棟三月五日、大工氏守、施主信元、

 仏通祈願護国禅寺と称す、千畝丹金に住す、大通三十三回、

 十二月二十一日祈願寺と為り、并びに下馬札下る、東昇院住持記に有り、

(記)「六月廿四日普広院殿生害と云々、」

   (頭注)

   「安芸国仏通寺事、御祈願所として精誠致さるべきの由仰せ下さるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

  (中略)

 

 右両寺の住持先年衆評を以て定むる所、大半隕没の恰も残星のごとし、故を以て此の職欠くるごとに衆以て患ひと為す、故に重ねて規式を設けて以て直弟若干(そくばく)の名字を題して、向後須らく此の臘次に依るべし、其の器用を択び、以て住持を請ずべき者なり、

  但し三十三回を除きて両寺に於いて出頭せずんば、蓋し老病を以て辞めんがための故なり、

  (後略)

 

 「解釈」

 二月十七日改元

 嘉吉元年(1441)辛酉、覚隠が住持を勤める。時に八十一歳。今の僧堂の上棟が三月五日に行なわれた。大工氏守、施主信元。

 仏通寺祈願護国寺と名乗る。千畝周竹は丹波国紫金山天寧寺の住持を勤める。大通禅師(愚中周及)の三十三回忌。十二月二十一日祈願寺となり、また下馬札を下された。

(記)「六月二十四日普広院殿足利義教が殺されたという。」

   「安芸国仏通寺のこと。御祈願所として誠実に祈祷を致しなさるべきである、とご命令になるところである。よって、以上の内容を下達します。

 

  (中略)

 

 右、両寺(天寧寺・仏通寺)の住持を、先年の評定衆の評議によって決定したところ、住持候補者たちの大半が死没してしまい、まるで夜明けの空に残る星のように、候補者たちも残りわずかとなってしまった。こうした事情によって、住持不在になるたびに僧衆は思い悩んでしまう。だから、もう一度住持に関する規則を設け、幾人かの直弟らの名前を書き、今後は必ずその僧の臈次によって選ぶべきである。そして、その人の器量を選び、それによって住持を招請するべきものである。

 ただし、愚中周及の三十三回忌を除いて両寺に出頭しないならば、老病によって辞退しようとする理由であると思おう。

  (後略)

 

 「注釈」

「徳本庵」─未詳。

 

「江月庵」─未詳。

 

「善逝寺」

 ─ぜんぜいじ。広島県三次市吉舎町吉舎。臨済宗仏通寺派、山号は正覚山、本尊は釈迦如来。和智氏本拠の南天山城跡と桜谷の狭い谷を隔てた西側の山中にあり、南天山初代城主和智資実の創建と伝える。

 本尊木造釈迦如来像(像高43センチ・膝張35センチ、寄木造、県指定重要文化財)の胎内前面の墨書銘に「応安二天配七月八日 檀那藤原師実とあり、背面に「就 当寺本尊釈迦之像損失 為再興長老上洛 修理大仏師在所高辻大宮北路 高祖定朝法眼末葉法眼院芸 于時宝徳三年辛未二月日 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養 筆者院賢」と記され、南天山第二代城主和智師実が応安二年(1369)に寄進し、宝徳三年(1451)京都で修理したことが知られる(『広島県の地名』平凡社)。

 

「持地庵」─広島県三原市久井町土取。

 

*引用された「真知外三名連署規式写」は『仏通寺文書』16号を参照。

 

 

 つづく