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仏通寺住持記 その14

 「仏通寺住持記」 その14

 

 (1442)

 二 壬戌

*三 癸亥 厳仲住  〈文安四年輪番評定之所有前住、故記于此

       (頭注)

       「上元畢」

                       (ママ)

 文安甲子 二月五日改元、三月四日含暉仏殿達磨大権安置、

*中元始  作桑門本清 十二月廿六日為祈願寺畠山沙弥

      覚隠住 〈肯心移今屋敷、昔在鎮守左辺云云、」彼在客殿棟簿〉

     (頭注)

     「安芸国仏通寺事、為御祈願寺可被致精誠之由所被仰下也、仍執達如件、

       文安元年十二月廿六日 沙弥 判

                 住持

      畠山沙弥徳本事          」

 二 乙丑

 三 丙寅 千畝住 〈秋追 覚隠和尚示寂三月十九日」歳八十六〉

      天寧的当住   納所定善   含暉宗兄

      向上誠兄          維那慈延

 

 「書き下し文」

 二壬戌、

 三癸亥、厳仲住す、文安四年輪番評定の所に前住と有り、故に此に記す、

       「上元畢る」

 文安甲子、二月五日改元、三月四日含暉の仏殿に達磨大師を安置す、作は桑門本清、十二月二十六日祈願寺と為る、畠山沙弥、

      覚隠住す、肯心今の屋敷に移る、昔鎮守の左辺に在りと云々、彼客殿の棟簿に在り、

*中元始る

     (頭注)(向上寺ヵ)

     「安芸国仏通寺事、御祈願寺として精誠致さるべきの由仰せ下さるる所なり、仍て執達件のごとし、

       文安元年十二月廿六日 沙弥 判

                 住持

      畠山沙弥徳本事          」

 二乙丑、

 三丙寅、千畝住す、秋追、覚隠和尚示寂三月十九日、歳八十六、

      天寧的当住、納所定善、含暉宗兄、向上誠兄、維那慈延、

 

 「解釈」

 嘉吉二年(1442)壬戌、

 

 三年癸亥。厳仲が住持を勤める。文安四年輪番評定のところに前住と書いてあった。だから、ここに記した。

  「上元の行事が終わった。」

 文安元年(1444)甲子、二月五日改元。三月四日含暉院の仏殿に達磨大師を安置した。作は桑門本清。十二月二十六日祈願寺となる。畠山持国

  覚隠が住持を勤める。肯心院が今の屋敷に移った。昔、鎮守の左側にあったという。覚隠の名前は客殿の帳簿に書いてある。

*中元の行事が始まる。

  安芸国向上寺のこと。将軍家御祈願寺として、誠実に祈祷を致しなさるべきである、とご命令になるところである。よって、以上の内容を下達します。

       文安元年十二月二十六日 沙弥 判

                 住持

      畠山沙弥徳本(持国)のこと。

 二年乙丑。

 三年丙寅。千畝が住持を勤める。秋追のころ。覚隠和尚が三月十九日にお亡くなりなった。歳八十六。

  天寧寺住持は的当住、仏通寺納所は定善、含暉院院主は宗兄、向上寺住持は誠兄、維那は慈延、

 

 「注釈」

「秋追」─未詳。秋が深まったころ、という意味か。

 

*頭注の「仏通寺」は「向上寺」の誤記か。『仏通寺文書』18号参照。

 

 

 つづく