周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

自殺の中世史3─21 〜神罰による発狂、そして自殺未遂へ〜

  永享二年(1430)一月二十五日条

       (『満済准后日記』下─127頁)

 

 廿五日。晴。於室町殿恒例禅僧長老御召請時点心在之。未初歟畠山風流驚目了。

  (中略)細川上総入道〈備中」守護。〉風流之間於私宿所自害云々。凡旧冬

  以来心神狂乱。仍正月一日以来不及出仕キ。雖而少減之間。昨日〈廿四」日。〉

  初出仕申入無為退出云々。今日又更発歟。不便々々。但無殊事云々。吉備津宮

  神罰云々。(後略)

 

 「書き下し文」

 二十五日、晴る、室町殿に於いて恒例禅僧の長老御召請の時点心之在り、未の初めか畠山の風流に驚目し了んぬ、(中略)

  細川上総入道〈備中守護〉風流の間、私の宿所に於いて自害すと云々、凡そ旧冬以来心神狂乱す、仍て正月一日以来出仕に及ばざりき、而りと雖も少減するの間、昨日〈二十四日〉初めて出仕し申し入れ無為に退出すと云々、今日又更発するか、不便々々、但し殊なる事無しと云々、吉備津宮の神罰と云々、

 

 「解釈」

 二十五日、晴れ。三条坊門殿で例年のように禅僧の長老をご招待したとき、点心が振る舞われた。未の初刻ごろか、畠山満家の準備した風流には目を引いた。(中略)細川上総入道頼重(備中守護)は風流が行なわれている間、私宅で自殺したという。そもそも昨年の冬以来、細川頼重は正気を失って取り乱していた。そのため、元旦以来出仕していなかった。そうはいうものの、錯乱状態がいくらか改善してきたので、昨日(二十四日)、初めて出仕し年始のお祝いを申し上げ、何事もなく退出したそうだ。今日また狂気が再発したのだろうか。気の毒なことである。ただし、無事だったという。吉備津宮の神罰だという。

 

 「注釈」

「細川上総入道」─細川頼重。頼重の事績については、以下2つの文献のとおり。

  『総社市史』(通史編、1998年、290〜292頁)

 頼重は満之(細川頼春の子・頼之の末弟)の子で、応永十二年(1405)十二月ごろ父の跡をうけて備中守護となった。同十四年八月に京都の東寺が備中国新見庄(現新見市)領家方の年貢未進について申し立てた「東寺申状案」(『岡山県史』家わけ史料1031)によると、当時頼重が知行していたとみられる備中巨瀬庄には「守護方たかはしの御所」があった。「たかはし」は現在の高梁市中心部で、この御所は守護所とみられる。(中略)

 備中守護になった頼重は吉備津宮の社務を兼ねており、応永三十二年(1425)十二月に現在の本殿・拝殿が完成したときの「吉備津宮正殿御遷宮次第」には「社務細川治部少輔兼守護、社務代庄甲斐入道々充・石川豊前入道々寿両代官同兼守護代」とみえている。社務は吉備津宮の社領の治安の維持や年貢・諸役の徴収等にあたっていたが、実質的には守護代の庄道充と石川道寿が社務代としてその任にあたっていたものである。(中略)

 頼重は永享二年(1430)正月心神狂乱して自殺をはかったが、一命をとりとめ、家督を子息氏久に譲って隠退した。頼重の心神狂乱について、当時京都では吉備津宮の神罰とうわさされた。しかしその理由は明らかでない。

 

  『新修倉敷市史』

   (第2巻 古代・中世、山陽新聞社、1999年、455・465頁)

 細川満之は応永十二年(1405)十二月十五日に死没した(『教言卿記』同日条)。その後、満之の子である頼重が守護職を受け継いだと考えられるが、その確実な徴証は、応永十七年(1410)十一月にならなければ見えない(『南禅寺文書』)。しかし、満之の没する約二ヶ月前の応永十二年十月に、備中国内のかつて細川頼之が知行していた所領、讃岐国の所領、伊予国新居郡と同国内の所領などが将軍義満から細川頼重に安堵されており、あるいは備中守護職もこの時期に父満之から相続したのかもしれない。頼重は応永二十五年(1418)にも、その官途兵部少輔(史料には兵部大輔と記される)として備中守護の徴証が見えており(『看聞日記』同年十月十六日条)、その任務が確実である。しかし、備中守護の徴証として、「治部少輔」なる人物が現れる(『南禅寺文書』、写真154)。治部少輔は頼重の子の氏久が名乗っているので、頼重が備中守護職を氏久に譲ったか、あるいは別の理由で守護職を子息に代行させていたのではないかと考えたが、その花押から氏久のものではないことが明白である。確実に頼重の花押と分かる文書に遭遇していないので、確定的なこととしてはいえないが、先の治部少輔の花押は頼重の可能性が強い。とすれば、頼重は兵部少輔、治部少輔、上総介、上総入道と官途を変えていったと考えられる。

 頼重は、永享元年(1429)冬から精神的錯乱状態が高じてか、翌年正月二十五日に自邸において自害を試みたが、一命を取り留めた(『満済准后日記』同日条)。吉備津宮の神罰によるとも記されている。その翌日には、子の氏久に対して、備中国内の元細川頼之知行分闕所、吉備津宮社務代や備中国内の所領、讃岐・伊予国の所領、伊予新居郡などが父頼重の譲りに従って、将軍義教から安堵されている(『長州細川文書』)。この時点で、頼重から氏久に備中守護家の家督が譲与されたものと考えられる。なお、『細川系図』(続群書類従)によれば、頼重は嘉吉二年(1442)三月十七日に死没しているという。

 

「吉備津宮」

 ─現岡山市吉備津。吉備の中山の西麓にある。吉備国の総鎮守。備中国の一宮。祭神は大吉備津彦命(「日本書紀」で吉備津彦命)を主神とし、異母弟の若日子建吉備津日子命とその子の吉備武彦命ら一族の神々を合祀する。(中略)

 仁寿二年、封戸二十戸を朝廷より与えられた(文徳実録)。そののち神領は荘園化をたどり、平安末から鎌倉期にかけて、当社とその神領神祇官を本所に仰いでいる。建久三年(1192)八月二十七日の任尊書状や建武三年(1336)十一月十二日の院宣案(ともに仁和寺文書)によると、吉備津宮と神領は、神祇伯源顕重が本所であったが、鎌倉時代初め、顕重はこれを仁和寺大聖院の用途に充てていた。これ以後、仁和寺は当社の領家職を保持して室町時代を推移している。元弘二年(1332)二月十二日の吉備津宮政所年貢送状によると、前年分として仁和寺に対し米100石・檀紙230帖・国紙220帖・簾22間・被官用途1貫文を納めている。文明八年(1476)九月当社奉行職(荘官)に補任された仁和寺理証院(理性院)は、松田氏らの有力武士と結び、備中守護細川勝久仁和寺領吉備津宮の神主職の地を争い、勝久の兵と在地で武闘に及んでいる(雅久宿禰記)。当社の神領をめぐる両家と守護の争いであった。

 当社文書によると、室町期の当社には社務職と社務代職があり、前者は備中守護が、後者は備中守護代が領家の仁和寺から補任され、神領は守護請となっていた推定できる。応永三十年の年貢請負額は500貫文であった(同年四月二十八日「庄永充・石河満経連署請文」田中教忠氏所蔵文書)室町期の神領について天文七年(1538)四月十二日石川家久書状に、「御社領三ヶ郷」とみえる。神社が所在する板倉郷(賀陽郡)、それに隣接する庭瀬郷(同上)と撫河(なつかわ)郷(都宇郡)の三郷が、室町期の神領であったと思われる。(中略)

 当社の神職には、中・近世を通じて祠官系、社僧系、社務系の三種が存在した。社務系は神領支配に関与した守護・守護代・地頭系の武士で、領家(仁和寺)に対して、守護請または地頭請による年貢・公事を納め、領家から吉備津宮社務職などに部人されていた。別当寺以下の社僧系は後述する。神社に連綿として常に奉仕し、神事を執行した人が祠官系(神官系)の人で、江戸時代にはこれを社家と総称した。(中略)

 これら当社の神官のうち、最も早く確実な文献にみえるのは賀陽氏である。(中略)このように少なくとも平安時代から、賀陽氏は当社の上級神官として奉仕していたのである。賀陽氏は古代吉備氏の一族で、「国造本紀」にみえる賀陽国造の後裔との所伝をもち、寛平の頃、本宗は足守郷に住んだが、すでにその頃一族のものが吉備津宮に奉仕し、平安末期には神官としての賀陽氏は、当社付近に移住したものが多かったと推察できる。

 この神官の賀陽氏の家に、鎌倉初期に臨済禅を宋から伝えた栄西が、永治元年(1141)に生まれている。(中略)

 賀陽氏一族も戦国時代には次第に衰運の道を歩んだようで、神主職を世襲した宗家の賀陽家は、賀陽高治を最後に、天正二年嗣子がなく絶家。神主職に次ぐ重要な大禰宜職を世襲した賀陽家も嗣子がなく、これより先の弘治二年(1556)同じく絶家。この頃、他の賀陽諸家も多く衰滅し、近世初頭のシャケとして残った賀陽家は、祝・上番・中番・下番を世襲する四家だけになっていた。このうち祝の賀陽家は「祝詞の賀陽家」と呼ばれ、四家のなかで筆頭の地位を占めている。

 賀陽氏のほかの当社の古くからの社家に、藤井氏・堀家(堀毛)氏・河本氏などがある。(中略)藤井氏も賀陽氏と同じく、少なくとも平安時代から当社に奉仕した神官であることが確かめられる。こののち藤井氏の氏人も次第に繁衍したようで、中世には御饌司(みにえのつかさ)、大饌司(おおにえのつかさ)、本宮司・政所・御供所々司などの職を世襲して、近世初頭には藤井を称する社家は、社家全体の過半数に達して三十余家に及んでいる。これら藤井諸家はともに藤井宿禰を称したが、祖神については藤井諸家のなかに、大吉備津彦命が吉備を平定したとき勲功のあった地主神楽楽森彦命とする説と、藤井氏は大中臣氏から出たとして天児屋根命を祖神とする説が存在した。

 堀家氏は系譜によると、大吉備津彦命の吉備平定に楽楽森彦命と功労のあったとされる地主神留玉(留霊)臣命を氏祖とする。堀家氏も連綿として当社に奉仕し、中世には小吉上(しょうきちじょう)・上横箭(かみのよこや)・下横箭などの当社神官職は、この留玉臣命の神系を嗣ぐ堀家一族が世襲するところであった。(後略)(『岡山県の地名』平凡社)。

 

 

*今回の自殺未遂者は備中守護細川頼重です。自殺未遂の原因は「心神狂乱」。つまり、頼重は精神の錯乱状態に陥っていたようなのです。ただ、錯乱の原因は吉備津宮の神罰だと言われています。大吉備津彦命にどのような非礼を働いて罰を蒙ったのかはわかりませんが、当時の人々は、「神罰→精神錯乱→自殺未遂」という因果連鎖でこの事件を理解していたようです。

 実はこの思考パターン、平安時代末期にはすでに現れていました。「自殺の中世史38─日本の古代18─」の事例(康治元年・1142年)によると、「物の気→狂気→自殺未遂」というロジックで、関係者たちに事件が理解されていました。上述のように、今回の事件も同じような論理構造になっています。原因のはっきりしない精神錯乱や自殺の生起は、300年ほど経過しても、やはり物の気や神仏のような超自然的存在のせいにされているようです。