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いつまで経っても修行中

仏通寺住持記 その22

 「仏通寺住持記」 その22

 

 (1482)

 十四 壬寅 建国派

       徳叟碩禅師〈中和嗣」百八歳〉 〈侍真」肯派〉通満 納所 修勤

       〈向上」霊源派〉周源           維那 永朝

 十五 癸卯 慈雲派

       蔵中守寶禅師〈元哉嗣」有牌〉 侍真 周永 納所 周真

       向上(ママ)        維那 妙貞

 十六 甲辰 祥雲派

       雲中三住   侍真 祥忍  納所 周寅

       〈向上」再住〉徳雲 観白 仙蔵主 維那 篤永

       八月十三日真田越前守没、移于三奉行、同名石見守、

       同名与三右衛門、同名右京進是也、

 十七 乙巳 英昌派 〈十月廿八日長松炎上、含暉雪隠同〉

                      (記)「主」

       祖峯周元禅師〈嗣千畝」有牌〉 侍真 機蔵司 納所 元種

       向上 寿峰慈延            維那 禅英

            八月十五日巳刻、鎮守将

 十八 丙午 永徳派          (大)

             職者移于真田太和守四月歟、

             保家十一年

       来源再住海翁住 侍真 聖継 納所 聖普

       向上 義海智詮     〈維那」長派〉永朝

 

 「書き下し文」

 十四壬寅、建国派、徳叟碩禅師、中和を嗣ぐ、百八歳、侍真肯派通満、納所修勤、

      向上霊源派周源、維那永朝、

 十五癸卯、慈雲派、蔵中守宝禅師、元哉を嗣ぐ、牌有り、侍真周永、納所周真、

      向上(ママ・記載なし)、維那妙貞、

 十六甲辰、祥雲派雲中三住、侍真祥忍、納所周寅、

      向上再住、徳雲、観白仙蔵主、維那篤永、

      八月十三日真田越前守没す、三奉行に移る、同名石見守、同名与三右衛門、同名右京進是れなり、

 十七乙巳、英昌派、十月二十八日長松炎上す、含暉雪隠同、

      祖峯周元禅師、千畝を嗣ぐ、牌有り、侍真機蔵主、納所元種、

      向上寿峰慈延、維那禅英、

 十八丙午、永徳派、八月十五日巳刻、鎮守将に焼けんとす、

      職は真田太和守に移る、四月か、家を保つこと十一年、

      来源再住、海翁の住に準ず、侍真聖継、納所聖普、

      向上義海智詮、維那長派永朝、

 

 「解釈」

 十四年壬寅(1482)、建国派が番衆を勤める。中和周徳を継いだ徳叟碩禅師が住持を勤める。百八歳。侍真は肯心派の通満。納所は修勤。向上寺住持は霊源派の周源が勤める。維那は永朝。

 十五年癸卯、慈雲派が番衆を勤める。元哉符契を継いだ蔵中守宝禅師が住持を勤める。位牌がある。侍真は周永。納所は周真。向上寺住持(僧名の記載なし)。維那は妙貞。

 十六年甲辰、祥雲派が番衆を勤める。雲中祥沢が三度目の住持を勤める。侍真は祥忍。納所は周寅。向上寺住持は、徳雲通満が二度目を勤める。観白(方丈)は仙蔵主。維那は篤永。

      八月十三日真田越前守が亡くなった。政所職は三人の奉行に移った。真田石見守、真田与三右衛門、真田右京進である。

 十七年乙巳、十月二十八日長松院が火事になった。含暉院の便所も同じく炎上した。

      英昌派が番衆を勤める。千畝周竹を継いだ祖峯周元禅師が住持を務める。位牌がある。侍真は機蔵主。納所は元種。向上寺住持は寿峰慈延が勤める。維那は禅英。

 十八年丙午、永徳派が番衆を勤める。八月十五日巳刻、鎮守社が焼け落ちそうになった。

      政所職は真田大和守に移った。四月のことか。十一年間、家を保った。

      来源智本が二度目の住持を勤める。海翁全機の例に準じた。侍真は聖継。納所は聖普。

      向上寺住持は義海智詮が勤める。維那は長松派の永朝。

 

 つづく