「仏通寺住持記」 その31
大永(1522)
二 壬午 永徳派 外護檀越小早河又太郎平朝臣興平
(記)「檀寮」 義江本信禅師吉山嗣 〈侍真」正覚派〉善習 納所 栄淳
旦用寮再興四
月廿八始ル 向上 宝洲智玉 〈観白代」肯派〉全桑 維那 永忠
奉行田坂弥四
郎、十二月一 (記)「萱」
日移 七月晦日僧堂再興供養、改レ葺為二板葺一
奉行真田備中守
三 癸未 両足派
面之壁再興 玄甫心玉禅師叔源嗣 〈侍真」長派〉梵守 〈納所」再〉善習
奉行土屋備前 向上 文勢 観白 善才 〈維那」肯派〉周林
守
四 甲申 大慈派 三月十二日大鐘鋳之、周永願主
大内当国責 慶年瑞永禅師香林嗣 〈侍真」光岩〉妙可 納所 瑞賀
入 維那
向上 鉄叟正悟 〈観白」光岩〉全育 扶岩曇樹
政所真田備中守、十二月一日定橋之修造在之、
「書き下し文」
大永二壬午、永徳派、外護檀越小早河又太郎平朝臣興平、
旦用寮(記「檀寮」)再興四月二十八日に始まる、奉行田坂弥四郎、十二月一日に移る、
義江本信禅師、吉山を嗣ぐ、侍真正覚派善習、納所栄淳、向上宝洲智玉、観白代肯派〉全桑、維那永忠、
七月晦日僧堂再興供養す、葺(記「萱」)を改め板葺と為す、奉行真田備中守
三癸未、両足派、
面の壁再興す、奉行土屋備前守、
玄甫心玉禅師、叔源を嗣ぐ、侍真長派梵守、納所再び善習、向上文勢、観白善才、維那肯派周林、
四甲申、大慈派、三月十二日大鐘之を鋳る、周永願主、
大内当国に責め入る、
慶年瑞永禅師、香林を嗣ぐ、侍真光岩妙可、納所瑞賀、
向上鉄叟正悟、観白光岩全育、維那扶岩曇樹、
政所真田備中守、十二月一日定橋の修造之在り、
「解釈」
大永二年壬午(1522)、永徳派が番衆を勤める。外護檀越は小早河又太郎平朝臣興平。
旦用寮(檀寮)の再建が四月二十八日に始まった。奉行は田坂弥四郎。十二月一日に引っ越した。
吉山を継いだ義江本信禅師が住持を勤める。侍真は正覚派の善習。納所は栄淳。向上寺住持は宝洲智玉が勤める。観白(方丈)代は肯心派の全桑。維那は永忠。
七月晦日に僧堂を再興して供養した。萱葺きを改めて板葺きとした。奉行は真田備中守敬賀。
三年癸未、両足派が番衆を勤める。表の壁を再建した。奉行は土屋備前守元相。
叔源永本を継いだ玄甫心玉禅師が住持を勤める。侍真は長松派の梵守。納所は再び善習が勤める。向上寺住持は文勢が勤める。観白は善才。維那は肯心派の周林。
四年甲申、大慈派が番衆を勤める。三月十二日大鐘を鋳造した。願主は周永。
香林智縁を継いだ慶年瑞永禅師が住持を勤める。侍真は光岩妙可。納所は瑞賀。向上寺住持は鉄叟正悟が勤める。観白(方丈)は光岩全育。維那は扶岩曇樹。政所真田備中守敬賀。十二月一日定橋の修造をした。
「注釈」
「旦用寮・檀寮」─未詳。旦那・檀那が利用する宿坊のようなものか。
つづく