周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

白井著書

白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新聞社、2020年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第4講 新自由主義が変えた人間の「魂・感性・センス」─「包摂」とは何か

P62

「形式的包摂」と「実質的包摂」

 

 マルクスは「包摂」という概念をこんなふうに説明しています。

 

  「相対的剰余価値の生産は、特殊資本主義的生産様式を前提とし、この生産様式は、その方法、手段、条件そのものとともに、最初は資本(≒資本家)のもとへの労働の形式的包摂の基礎の上に、自然発生的に発生して、次第に育成される。資本(≒資本家)のもとへの労働の形式的包摂に代わって、実質的包摂が現われる。」(③、11〜12頁)

 

P65

 先ほど、「『剰余価値』を生産することこそが、資本主義の肝」だと言いました。その「特殊資本主義的生産様式」が次第にさまざまな生産過程の産業に広がってゆき、社会において主要なあり方になっていく。

 先に例として挙げた農閑期の副業(資本家が農家に藁を買い取らせて、藁細工を作らせ、それを買い取る)のような、本業があってその片手間に商品経済に向けて生産するといった産業は、資本に対して形式的にしか従属していない。それが「ただ形式的にのみ資本に従属していた諸産業」です。ところが資本主義的生産様式が広がっていくと、そのままでは済みません。

 手仕事で作っていた製品は、そのための大規模な工場を造れば大きくコストダウンが図れるようになってくる。こうしてその商品の生産費が下がってくると、農民が片手間にやっていたような、形式的にしか資本に包摂されていない産業は価格競争力がなくなって、没落してゆきます。

 このように、剰余価値の生産には、生産性を不断に高め続けなければならないという命題が内在しています。生産性を上げるには、生産のやり方を変革していかねばなりません。変化していけばいくほど、資本による包摂の度合も高まっていきます。生産工程が細分化され、労働者一人ひとりは決まりきった作業をやらされるようになります。これは肉体の動きが完全に包摂されるということです。

 

P66

新自由主義と終わりなき「包摂」

 

 生産性を高まることで得られる剰余価値を「相対的剰余価値」と呼ぶのですが、なぜ、相対的剰余価値の追求には終わりがないのか、という点については、次講以降のテーマとします。ここで触れたいのは、たぶん今「包摂」は、生産の過程、労働の過程を呑み込むだけでなく、人間の魂、全存在の包摂へと向かっているということです。

 フランスの哲学者ベルナール・スティングレールは著書『象徴の貧困』において、テクノロジーの進歩による「個」の喪失へ警鐘を鳴らしました。肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、と。

 剰余価値の生産方法が変革されるほど、包摂の度合は高まり、魂の包摂も広がっていきます。そのような社会を私たちは生きているのです。

 資本制社会に対するマルクスの根本的な洞察を、現代にどう生かすことができるのか。これを明らかにすることが本書の狙いの一つです。

 人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、とりあえずは「新自由主義」(ネオリベラリズムもしくはネオリベ)である、と言えるでしょう。では、新自由首都は何であるかを『資本論』の視点から見てみたいと思います。

 一般的には「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といった事柄をキーワードとする政治経済の政策であり、資本の具体的対応としては「選択と集中」「アウトソーシング」といった利潤の追求が喧伝されますが、要するにこれらは剰余価値の追求手段です。「『歴史の終わり』以降の世界とは、新自由主義的なグローバリゼーションの世界である」とも言われます。

 

P70

新自由主義が変えた人間の魂・感性・センス

 

 新自由主義はさまざまなものを変えました。「あらゆるところに競争原理を導入しろ」と国営事業の民営化を進め、小さな政府を実現し、大企業もどんどんスリム化して、人を減らし、本来の業務だと思われていたものすらも、外注に出すようになった。そしてその外注先を買い叩いてコストを下げ、利益を増やしてきた。

 だが、新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。

 ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役にたつスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。

 

 →前近代社会はどうか?

 

P71

 資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

 正論を言うなら、「それって、なんだかおかしくないか? 目を覚ませ」という話になります。しかしながら、そう呼びかけたくらいで目が覚めるくらいなら、こんなに新自由主義化は進めなかったはずなのです。こんな異様なことになっている状況においても、それに対する大規模で組織的な抵抗がきわめて起こりにくい、そういう社会になっています。それは人々の魂が資本主義化してしまったからではないでしょうか。新自由主義ネオリベラリズムが世界中でこれだけ勝ち続けているのは、その結果ではないのでしょうか。