周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

松田著書

 松田修『刺青・性・死』(講談社学術文庫、2016年)

 

P249

 同様巻二十九「陶長房滅亡之事」では、主君である陶長房は、自害をして衆に代わろうという意志をもっている。ところが、その長房の気持をまったく解しない家臣たちは、推して自害をすすめて、助かろうとしている。

 「陶力家人共。二人ノ首ヲ取テ杉ニ渡シ。一命ヲ乞ケレハ、カヽル不覚人。助ケ置タリトテモ後ノ禍共不成」と、助けられたという。

 「不覚人」とはこの場合、当然最大限の罵言であろうが、逆にみれば、「不覚人」こそ、私のいう悪党たちへの最大の讃辞であった。かれらは積極的に不覚人たることによって、徹底的に奪う権利を行使し、加虐者としての家人と、被虐者としての主君という相互関係を確立したのである。いってみれば、太々しい溢れ者たちが、犠牲の伝統を、おしつぶしてしまったのである。ここから、弑虐への距離はきわめて近い。

 

P254

 落城危急のさいという条件をはずしても、「主君のために犠牲となる家臣」という公理にたいして、「家臣のために犠牲となる主君」という逆公理がある。この事実の指摘は、私にとってもかなりまぶしく、かなり重い。それにほんの精神史のひとこまを、転倒させることではないだろうか。

 

P259

 かくして、一人による犠牲死の発想と、不奉公をこそいのちとする溢れ者たちの存在とは、表裏一体の関係にあることは、ほぼ明らかになったと思う。

 溢れ者たちの溢れ者性は、「一人による犠牲死」的発想を、たやすくうけいれただろう。いや、この溢れ者性こそが、「一人による犠牲死」的発想の母胎であった。そしてこの溢れ者とは、「家臣」という多数者の、より典型的な別名なのである。

 家臣たちは、己れの溢れ者性、むしろ家臣性において、主君の犠牲死を公然と要求する。なぜかならばかれらもまた、主君にたいして生命を提供しているからである。

 多数の生につり合うためには、一人の犠牲死はこの上なく聖化・美化・荘厳化されねばならないだろう。

 「万卒ノ一将ノ為ニ命ヲ抛ツ事ハ、是比末蒙ル所ノ報恩ノ為ナレバ。誰カ恨ミ誰カ辞センヤ」というのは、前述の、別所吉親の論理であったが、かれは、この天正の時点ではたしかに少数者であり、孤絶し、疎外された存在であった。

 一将と万卒はつねに天秤にかけられ、万卒の方が重いと思わねばならない。これが一将側のたてまえであった。

 両者をつなぐこのポトラッチ的精神は、日本精神史の暗部の、眩惑的な、異様な突起であった。

 

P265

 このような犠牲死の伝統、逆公理こそが公理であった時代はたそがれて、やがて幕藩体制という新時代をむかえたとき、「一人による犠牲死」は、体制の側から思想的淘汰を受けるに至った。

 たとえば前述の坂崎直盛の死であるが、『藩翰譜』には、「遠藤某、主の首斬て奉る」とある。当然遠藤某は、この行為に対する褒賞を、最小限にしても己れの助命を期待していたであろう。しかし幕府は「其不忠を悪まれ之を被誅」たという。

 新たなる体制下においては、一将は万卒よりも重く、公理が絶対化し、もはや逆公理の存在は許されない。遠藤の期待と誅伐の間の激しいくいちがいは、過渡期の悲劇ともいうべきであろうか。

 もちろん、慶長八年の伯耆国中村忠一による横田一門誅罰事件において見られるように、「一人による犠牲死」の発想は、その後もかなり根強く生き残っていた。これらの事例は精査すれば、まだまだあげることができるだろう。それが、屈曲して、磔茂左衛門さては国定村忠治などの事件に明らかなように、矮小化しつつも、日本の民衆の原基的深部に、潜流し伝統していったことは記憶すべきであろう。たしかに間歇的とはいえ、その伝統は、今日にも及んでいること、私の非常にわがままなメモからでも、信じてよいと思う。その一二の美しい例をあげておこう。