周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

J.S.ブルーナー著書 その1

 J.S.ブルーナー『ストーリーの心理学』(ミネルヴァ書房、2007年)

 

第1章 ストーリーの効用

P10

 ここで私が言いたいすべては、ナラティヴ(虚構のナラティヴも含む)は現実世界の中の物に形を与え、往々にしてそれらに現実という資格を授けることになるという点である。

 

 →これは結局、言語哲学の考え方と同じ。言葉が世界をつくる。

 

P13

 ナラティヴが何であり、どう働くのかを念入りに調べたいという二つの動機があるようである。一つは、ナラティヴをコントロールすること、つまり、ナラティヴの影響を緩和することである。法においては、原告と被告のストーリーを認められる限界内にとどめる手続きが伝統によって案出されたり、法律学者が一連の先例とみなされる情報を構成する主張同士の類縁性を探したりするように(彼らが「誘引的ニューサンス」についてのストーリーに限界を設けた時のように)。また、精神医学において、患者が回復するためには当を得た形のストーリーを話すための援助が必要であるように。ナラティヴを研究するもう一つの動機は、それを理解することによって、現実についての思い込みを洗練し、日常生活の自明な陳述を「仮定法的」に捉えられるようにすることである。その実行者は文学的である─見かけは批評家であったり創作者の形をとったり、遠く別なPeter Brookでさえも。

 

*ニューサンスは迷惑のことか?

 

P21

 では、ストーリーとは何か。ストーリーは、自分自身の心をもつ自由な行動主体としての登場人物を必要としていることは誰もが認めるであろう。それについて少し考えるならば、これらの登場人物は、世界、ストーリー世界の、通常の状態を認識できるような予期をもっていることを誰もが認めるであろう。それらの期待は幾分謎めいているかもしれぬとしても。そしてまた、もう少し考えると、ストーリーは物事の予期していた状態の何らかの破綻─Aristotleのいう激変のような─から始まるということに誰もが同意する。何かがうまくいかない、そうでなければ、語ることは何もない。ストーリーは破綻とその結果にうまく対処し、その折り合いをつけるための努力にかかわっている。そして最後に一つの結末、ある種の解決がある。

 人がストーリーについて語る時、さらなる成素が後から付け足して提供されることが多い。ナレーター、つまり語り手が存在しなくてはならないし、聞き手か読み手、つまり語りの受け手が存在しなくてはならない。それがどのような違いを生むのかを強調するならば、典型的な答えは、ストーリーというものは、そのナレーターが世界についてもつ観点や、捉え方、知識、さらに、確かめるのは難しいが、ナレーターの誠実さとか、客観性とか、高潔さまでも表現しているということになる。「だけど、もしも浜辺に打ち上げられた一つのボトルの中に一つのストーリーを見つけたなら」と14歳の子どもが私に言った。「どこにもナレーターはいない」と。そして少しして、「ちょっと待って、それはおかしい。誰がナレーターだったのかをとらえなくてはならないとなると、もっとむずかしい。」

 

 →ストーリー・ナラティブは、想像や予想とは異なること・違うことが起きたときに必要となる。ナレーターが記主、聞き手・読み手が研究者になるか。

 

P32

 結局ストーリーは、世界についてのモデル─我々皆が生まれつき知っている直観的なそれとは別のモデル─を提供する。過去の法的な判例は、現在の法的問題がそれをモデルとするような先例となるようにいうとされている。古代の神秘的なストーリーは、Werner JaegerとJean―Pierre Vernantがその論文の中で褒め称えているように、それらが美徳と悪徳のモデルとなるように意図されている。ストーリーを話すことは、世界をストーリーそのものとして見るのではなく、ストーリーの中に具現化されているものとして見ることへの誘いかけの問題である。やがて、共通のストーリーを共有することが、解釈を共にする共同体、文化的結束の促進だけではなく、法律の本体、法大全発展のための偉大な契機をも創造するのである。

 

 

第2章 法的なナラティヴと文学的なナラティヴ

 

 

第3章 物語による自己創造

P86

 このように自己を語ることは、どのような機能にかなっているのだろうか。

 この問いに対する20世紀における標準的答えは、我々の自己の大部分は無意識であり、ひそかに作られ、自己を隠蔽したり歪曲したりするあらゆる手段によって、それは我々の意識的探索から巧妙に防衛されているということである。我々はこれらの防衛を回避する道を見つける必要があった─それには、精神分析家の助けを借り、彼との相互作用によって、我々は過去を再演し、自分自身の発見に対する抵抗を克服する必要があった。

 

P87

 我々はむしろ、自分が出くわす状況の要請に応じて、自分の自己を絶えず構成し、再構成し続けているのであって、それは自分の過去の記憶、未来への希望と不安に導かれてそうしているのである。自分自身について自分自身に語るということは、自分が誰であり、何であるのか、何が起こったのか、自分は何故そうするのか、自分は何をしているのかについてのストーリーを作り上げることと同じなのである。

 

P88

 自己の構成の一つのナラティヴ的技巧であり、フィクション以上に記憶によって制約されるが、それはやがて我々が出会うかもしれぬ出来事という不安な制約もかかえている。自己構成は、変則的ではあるが、内と外の両方からなされる。その内面とは、よくデカルト流に言われるが、記憶、感情、観念、信念、主観性である。このように内面生の部分は、たしかにほとんど生得的であり、種に固有的である。時間と場所を超えた連続性についての我々の強い感覚や、我々自身に対する姿勢についての感覚のように。しかし自己構成の多くは外からうちに入ってくる─他者による明らかな評価や、幼少の時から意識しないまでも自分が浸っている文化から拾い上げる無数の期待に基づいている。

 加えて、自己構成と言おうナラティヴ的行為は、自己性(self-hood)はどうあるべきか、どうでありうるか─もちろん、どうあってはならないか─についての言葉にされない、暗黙の文化的モデルによって導かれるのが普通である。たとえ最も精力的な文化人類学者たちが、今文化の力を評価してはいても、我々は文化の奴隷ではない。むしろ、単純で儀式的な文化の中でさえ、自己性についての可能で多義的なモデルが多く存在している。しかしどの文化も、自己性についての予見と見地、むしろ言うならば自分自身を自分自身に、また他者に語るためのプロットの要約や、解き方のようなものを備えている。

 しかしこれらの自己構成の指針は、硬直した命令ではない。それらは操作の余地を豊富に残している。結局自己の構成とは、我々の独自性を打ち立てるための主要な手段であり、自分が自分自身について示す説明と、他者が他者自身について我々に示す説明とを比較することによって、我々は自分自身と他者の区別を明瞭なものにしていることは、少し考えればよくわかることである。

 

P89

 とはいえ、自分自身について他者に語ることは簡単な問題ではない。そのことは彼等が、我々はどのようにあるべきだ─つまり、一般的に自己はどのようであるべきだ─と考えていると我々が考えていることによって左右される。我々が、自分自身について自分自身に語るべき時になっても、我々の推測は終わらない。我々が自分に向ける自己構成のナラティヴは、幼い時から他者が我々にかくあれかしと期待していると自分が考えているところを、表現するようになる。そのことに十分気づかないまま、我々は、自分自身について自分自身に語る行為を発達させているのである。つまり、自分自身についてどのように率直になるかとか、他の人をどうやって傷つけないようにするかについてである。自己ナラティヴ(少なくとも書かれた自伝)は、適切な公的自己ナラティヴ構成を支配する暗黙の自伝上の約束に合致していると、自伝の周到な研究者が提言している。我々は、自分自身について自分自身に語る時でさえ、その約束の一つに従っている。この過程において、たとえそれが自分自身に向けて立っていても、自己性は公的なものとなるのである。

 したがって、自己は他者でもあると結論を下すのに、ポストモダンな飛躍はほとんど必要としないのである。

 

P94

 我々がストーリーを通して自分自身を描くのが自然なのはなぜだろうか、たしかにきわめて自然すぎて、自己性そのものが我々自身の作るストーリーの産物のようにみえるのは何故だろうか。心理学の研究書はそれに対して何か答えているのだろうか。優れた心理学者、Ulric Neisserは、この分野における先導的学者たちの論文を含む専門的な本の中に、その文献の大部分を集めた。私は自分の心の中にある問い─何故ナラティヴなのか─をこれらの本全般に戻って見直し、そこで見出した自己についての項目を、12の「短文型」に凝縮してみたい。

 1.事故とは目的論的で動作主的であり、欲求と意図と抱負で満ち、果てしなく目標を追い求める。

 2.その結果、自己は障碍に敏感である。それが現実であろうと、想像上のものであろうと。つまり、ことの成否に敏感であり、不確かな結果を扱うことに不安を感じる。

 3.判断された成功や失敗には、要求や野心を部分的に変化させたり、準拠集団を代えることで対応する。

 4.自己は、その過去を現在及び、期待される未来に適合させるために選択的想起に頼っている。

 5.自己は、自己自身を判断するより所となる文化的基準をもたらす「準拠集団」や「意味ある他者」を志向する。

 6.自己は、所有欲と拡張性に富み、信念、価値観、忠誠心、さらには物さえも自己自身の同一性の視点から採択していく。

 7.しかし、自己はその連続性を失うことなく、これらの価値観や所有物を、環境からの要請に応じて捨てることができるらしい。

 8.自己はその内容と活動を著しく変換させるにもかかわらず、時間や環境を超えて経験に基づく連続性をもつ。

 9.自己は世界の中で自分がどこに、誰といるのかに敏感である。

 10.自己は自己自身を説明しなければならず、時には言葉によって定式化する責任があり、言葉が見つからぬ時には不安になる。

 11.自己は気分屋で、感情的で、不安定で、状況に敏感である。

 12.自己は高度に発達した心理的手順を通して、不一致や矛盾を避けることで、一貫性を求め、守っている。

 特に驚くことでもないが、それらはたとえ最も小さな細部であっても直観的に捉えていることに反するものではない。しかし、それを良いストーリーで語ったり書いたりするのにはどうすればよいか、その覚書として書き換えるならば、自己は一層興味深いものとなる。次のように:

 1.ストーリーはプロットを必要とする。

 2.プロットは目標への障碍を必要とする。

 3.障碍は人を考え直させる。

 4.ストーリーに関連がある過去だけを語れ。

 5.あなたが登場させる人物に支持者や縁者を与えよ。

 6.その登場人物を成長させよ。

 7.しかし、登場人物の同一性は保持させよ。

 8.そしてまた、登場人物の連続性を明らかにさせ続けよ。

 10.必要ならば登場人物に自分自身を説明させよ。

 11.登場人物に雰囲気をもたせよ。

 12.登場人物が意味をなさずにいるときには悩め─彼らをも悩ましめよ。

 

P112

 自己を作るためのナラティヴの技巧について、結論としてここで何を言うべきであろうか。

 Sigumund Freudは、あまり読まれていないが興味深い一冊の中で、我々一人ひとりはそのまま一つの小説や劇の登場人物の配役のようであると述べている。彼が書いているのだが、小説家や劇作家は、登場人物に心的な役割を分担させ、彼等相互の関係を紙面や舞台上で演じさせることによって芸術作品を構成する。これらの登場人物の声はいかなる自伝のページでも聞かれる。我々の重複し合った内なる声を登場人物と呼ぶのはおそらく一つの文学的誇張であるかもしれない。しかし、そこではそれらの声が交わし合わされ、しばしば混じり合うのが聞こえる。広く自己の作るナラティヴは、それら全ての声を代弁しようとするが、どんなストーリーもそれはできないことはすでに知られている。あなたは誰に、どんな目的のために、それを語っているのか。さらに、我々はあまりにもハムレットに似て、それを完全に調和した全体にすることはできない─我々は熟知した世界と可能性の世界の間にあまりにも引き裂かれている。

 しかしこのことが我々を思いとどまらせるようには思えない。我々は進んでナラティヴを通し、自分自身を構成し続ける。何故ナラティヴがこれほど緊要であり、何故自己定義のためにこれを我々は必要とするのであろうか。ナラティヴの才能とは、それが事物の予想される状態からの逸脱を言語を用いて描き出すための自然な方法を果たすことであり、それは人間が文化の中に生きることを描き出すのである。我々は誰一人として、その人間文化の繁栄と存続についての申し分なき進化のストーリーを知らない。しかし我々は知っている。人間の交流を意味づける方法として、ナラティヴが不可避であることを。

 自己性を創造し、さらに再創造するのはナラティヴを通してであること、そして自己は我々の語りの所産であって、それが主観性の奥に掘り当てられる何らかの本質といったものではないことを私は論じてきた。もし自分自身についてのストーリーを作る能力が私に欠けていたならば、自己性のようなものは存在しないことになるだろうという証拠が今や存在する。この証拠を示そう。

 失ナラティヴ症と呼ぶような神経学的な疾病は、ストーリーを話したり理解する能力の重篤な損傷であるが、コルサコフ症候群やアルツハイマー病のような神経病理と関係づけられている。それは過去の記憶の損傷以上のものであり、自己についての感覚の高度の崩壊であり、それはOliver Sacksの作品がわかりやすく示しているとおりである。特にコルサコフ症候群は、記憶だけでなく感情がひどく損傷され、自己性は実際上消失している。Sacksは、彼の深刻なコルサコフ症候群の患者の一人を「えぐられ、魂が抜けた」と描写している。

 この事例の典型的な症状の一つは、他者の心を読むこと、他者が何を考え、何を感じ、何を見ているのかについてさえも話す能力をほとんど完全に失っていることである。自伝の鋭い批評家であるPaul John Eakinは、この作品のコメントとして、自己性はその根底において関係的であり、先に述べたように自己は他者でもあるというさらに進んだ証拠としてこの事実をとらえている。

 そこで生ずる見解は、失ナラティヴ症は自己性にとっては致命的であるということである。Eakinは、Kay Young とJeffrey Saverの未刊行論文の結論を次のように引用している。「ナラティヴを構成する能力を失った人は、自分の自己を失ってしまっている」と。自己性の構築は語る能力なしでは進行できないようである。

 我々がナラティヴの能力をいったん備えると、自己性を生み出すことができ、その自己性が自分を他者につなぎ、また想像される未来の可能性に向けて自分自身を形成するに当たり、それに役立つ自分の過去を選択的に探り当てることを可能にするのである。我々は自分たちが生きている文化から、自己を作り、さらに作り直す自己語りのナラティヴを手に入れる。自分の自己性を達成するには脳の機能にいかに多く頼っていても、我々は実質的には最初から自分たちをはぐくむ文化の表現としてあるのである。そして文化自体が一つの弁証法であり、それは今ある自己とありうる自己についての選択可能なナラティヴ群に満ちている。我々自身を創造するために我々が語るストーリーは、その弁証法を反映している。

 

 

第4章 では、なぜナラティヴなのか

P119

 ストーリーは、ストーリーに何が期待されるかと同様、世界とはいかなるものか、世界に何が期待されうるかを人々が知っているのは当然であるとみなしている。結局、生は芸術に参加するのではなく、芸術を模倣するようになる。生は「普通の人々が普通の場所で普通の理由で普通のことをする」ことである。この普通の状態に見かけ上の破壊をもたらすには、ナラティヴの豊かなダイナミクスが必要となる。それにどう対処し、どう受容し、事態を慣れた軌道にどう戻すのか、といったダイナミクスである。

 ナラティヴは、深い意味で民俗芸術であり、人々がどのようであり、その世界がどうであるかについての共通の信念を扱っている。ナラティヴは危険であること、あるいは危険になると思われることを専門に扱う。ストーリー作りは、人のもつ驚きや奇妙さと折り合いをつけるための手段であり、そうした状態についての我々の不十分な理解に対処するための手段である。ストーリーは、予期せぬことについて驚きや奇異感をより小さくする。つまり、ストーリーは予期せぬことを文化になじませ、それに普通の状態としての輝きを与えるのである。「妙だ、このストーリーは。しかし訳はわかるな、そう思わないか」と我々はしばしば言うが、それはMary Shelleyの“Frankenstein”(『フランケンシュタイン』)を読んだときでさえそうである。

 

 →自殺は精神的病理ではなくて、文化であり、教育によって刷り込まれた模倣と考えるべきではないか。

 

P120

 普通の状態の破壊が、いったんナラティヴの中になじまされると、文化の刻印をほどこされる。それは、Good Housekeepingシールではなく、「ああ、またいつもの話」という形が取られる。通常の破壊も、それがいったんあるジャンルにあてはめられたり、古くからあるものとして権威づけられると、恩知らずな子どもや、不誠実な配偶者や、盗みをする召し使いといった、判断にあたって解釈可能な違反、あるいは不運、あるいは加湿として正当性が示されるようになる。それらは標準的な予期せぬこととなり、我々には何も新しいことはないと信じて自分自身を慰めることとなる。破壊は我々の知る破壊となり、カトリックでの大罪と小罪のリストとなり、イギリス人王座裁判所(the King’s Bench)からの令状となり、またありふれたタブーとなる。

 しかし、先述したように、文化は断片の寄せ集めではなく、また在庫のストーリーからなるものでもない。文化の活力は弁証法にあり、そこでは見解同士を戦わせ、ナラティヴ同士を衝き合わせて折り合わせてゆく必要がある。我々は多くのストーリーを聞き、それらが相互に矛盾しあっているときでさえ、それらを手持ちのものであるとみなす。

 

P123

 人類の文化は、それがいかなる文化であっても、本質的には二つのことからなっている。つまり共同生活における問題の解決と、今一つはそれほど表面化していないが、その文化の境界内で生活する人々に対する脅しや挑戦をもたらす。もしある文化が生き残ることができるとすれば、文化は共同生活に内在する利害関係の対立を扱うことを必要とする。交換システム(Levi-Straussの古い表現を用いれば)は一つの方法である。つまりあなたの扱う品物やあなたの示す配慮などに対する私の応対である。また「真剣な劇」(Clifford Geertzの示唆に富む表現を借りるなら)という別の方法もある。それは、Geetzがいきいきと記録した有名なジャワの闘鶏のように、悪意の対立を入念な儀式の中で解決して、置き換えてことをはかる方法である。ほかの障碍に対して我々は法的システムを考案し、おそらくだれにでも裁判の機会を与えている。

 いかなる人類の文化も、その共同生活に内在する予見できるものと、予見できないものとの不均衡を扱う手段なしにはやっていけない。文化は他に何をなそうと、それは相容れない利害関係と欲求に取りこんでゆく手段を考案しなければならない。文化のナラティヴは、民話、時代遅れの物語、進化する文学、ゴシップといったものでさえも資源として、文化が生み出す不平等を慣習化し、それによって文化の不均衡と不一致を内に存在させてゆくのである。

 

 →文化の定義。

 

P127

  いかにして現世のドラマや物語るいとなみが生まれ出たのであろうか。

 古代考古学がヒントを与えてくれる。およそ100万年まえに我々の祖先のヒト科の脳の大きさに急激な増加が起こったことは知られている。Merlin Donaldは、神経学者であり、有史前のヒト科に関するすぐれた研究者であるが、彼はその増大はヒト科の知能における改善だけではなく、特にヒトの「模倣のセンス」の出現にもつながったことを示唆する。それは我々の祖先が、現在あるいは過去の出来事を再演したり、まねたりできる知能の形態である。Donaldは、模倣(あるいは模擬mimesis)が、文化の様式を伝える際、筆舌に尽くしがたい貢献を与えていることを示している。猿は猿をまねると言う寓話にもかかわらず、ホモサピエンスが動物界の中で唯一まね好きで模倣的であることを付け加えたい。

 

 →勉強をまねるのが得意か、運動をまねるのが得意か、芸術をまねるのが得意かなど、人にはそれぞれ得意分野があるのではないか。人類には、まねが得意という共通点が存在するが、どのまねが得意かは人それぞれ多様ということになるのだろう。

 

P128

 言語の最も強力で普遍的な素性特徴の一つは、指示の遠隔性である。つまり話し手も聞きても今そこにいない、ものを指示するための言語的表現の力である。これによって言語は単なる指示、つまり「直示(ostension)」を超える。第二の素性特徴もまた普遍的なことであるが、指示の恣意性である。それは純粋なミメーシスのもつ拘束性から我々を解き放つ効果をもつ。記号は具象的絵画がそうであるように、その被指示物と似ている必要はないからである。短い一音節の「鯨(whale)」という語は巨大な生物を表し、かさばった多音節の「微生物(microorganism)」は微細な生物のことを表している。遠隔性と同様に、我々は恣意性も当然のこととする。これらは人間の言語における最も重要な特徴の二つである。これらに加えて、Emmyのモノローグに関して1章で言及した言語のもう一つの普遍的特徴を加えるべきであろう。それはいわゆる格文法─行動主体、行動、行動の受け手、行動手段、状況、行動の方向と進行を区別する構文論である。それぞれの言語は異なった方法でそれを行なっている。接頭語や接尾語によったり、文中の位置によったりさまざまである。しかし言語はすべてそれを行ない、区別している。

 遠隔性、恣意性、格文法の三つが一つになり、我々は眼前にないものについて語り、その大きさや形を動作によって再現するのではなく、人間の進行中の行動の流れを記録することが可能な装備を授けられている。儀式の俳優兼司祭は、新しい植え付けがうまくいくように言葉によって祈ることができ、そして同様に、年代記作者は近隣の部族間の争いを列挙でき、父は息子に範とすべき先祖のことについて語ることができる。これらのストーリーは、いかなる場所、暖炉のそばでも、年を経ても、一度に一人に対してでも多数に対してでも、また自分自身に対してでも語ることが可能である。ナラティヴのための道具がまさにそこにある。そしてストーリーテリングが子どもたちにかなり初期においてみられるのならば、それはもの言うヒト科においてもかなり初期に出現したのではないかと思いをめぐらさずにいられようか。もし小さな子どもが遠隔性と恣意性とそしてある種の原始的格文法を捉えるや嫌なという程すぐに、ストーリーを理解するとすれば、個体発生が系統発生を繰り返すことから考えて、初期ホモサピエンスにもそれが当てはまるのではなかろうか。

 

 →自殺学では模倣をさほど重視していないが、むしろ模倣・内化とその手段としての語りこそが、自殺の要因なのかもしれない。

 

P131

 偉大なロシアの心理学者Lev Voygotskyによって知りえたフレームをそれに当てはめよう。我々がすでに確立されている話し方や、語り方の方法を、いかにまね、さらに自己のものとするのかその性質を明らかにするにあたって、彼は「内化(internalization)」という表現を用いている。彼は、そのすぐれた弟子Alexander Luriaとともに、カザフの素朴な農民における内化の驚くべき例を提示している。ロシア革命の初期に、カザフの農民が初めて機械化された集産農業に接した時の例である。何が雲を動かすのかというような自然観念が変化しただけではなく、自分自身についての観念、つまり自分が誰であり、自分の力でなしうる範囲の中に何をもち、何をもたないかのような観念も変化したのである。彼らにとって社会的世界が変化し、そして彼ら自身が変化したのであった。

 

P139

 我々がナラティヴと絶縁し、互いの事実をむき出しにした時、何が起こるかということについての二つの警告的な話で本書を閉じよう。ともに精子に関係する話であり、ともに医療実践にかかわるものとなる。一つは病院で行なわれている日常的な手続きについてであり、もう一つは交通事故や現代生活の危険による犠牲者のための専門的治療やリハビリテーションについてである。

 ニューヨークのコロンビア大学医学校の内科医と外科医の著名な養成所では、新たにメディカル・ナラティヴ・プログラム(Program in Narrative Medicine)、を作っている。それは、ナラティヴ倫理と呼ばれるようになってきたものと関係している。これが設けられたのは、部分的にせよ全体的にせよ、患者の訴えに対する医者の無知に起因する被害(時に死さえ)があることについての自覚がましてきたことに応じようとする試みである。医者が患者の病状を見失っているのではない。というのは、医者は心電図、血圧、体温、特別な検査結果といった患者のカルテを正確に追っていた。しかし、このプログラムに参加した内科医の一人の言うことを簡単にまとめると、医者は患者が自分たちに話すこと、患者のストーリーに全く耳を貸さなかったということになる。医者の考えでは、自分たちは「事実に固着する」医者であったのである。

 結果的に、幾人かの患者は希望を失い、生きるための戦いを放棄してしまった。事実、─そしてそれがたしかに当を得た表現であるが、患者のストーリーは、担当の内科医に対してその治療がうまくいっていないことを警告するはずのヒントをまさに含んでいる場合が多いのである。ある公表されたケースでは、そこでのストーリーは始まっていた抑うつ症的衰弱が処方された投薬効果を定家させていたかもしれないことを、担当医に警告していたのかもしれない。その医師のことばを引くと、「生は、カルテに記録されない」。もし患者が治療処置や医薬からのすばやく大きな効果を期待しているのに何も手に入らないとすれば、下り坂の滑走が精神面のみならずに生物学的な面にも起こるのである。

 ナラティヴの医学とは何か。私は尋ねた。あなたの責任は、患者が言わずにはいられないことに耳を傾け、それについて何をなすべきかを理解することである。結局、誰が彼の生を所有しているのか。あなたなのか、彼なのか。私がここで引用している医師、Rita Charonが、尊敬されている内科医であるばかりでなく、Henry Jamesについての学位論文によって文学博士ももっているのは、このことと無関係ではない。さらに言えば、このプログラムは、内科医と外科医のナラティヴに対する無能力のために起こる死をすでに減少させ始めているのである。

 

 

解題

P145

 一般にものごとの「理解」や「説明」という時、人々はそのことを、一つの「論理的因果則的関係」に位置づけて捉えることを言い、今日科学が進む程、その考え方は強化されてきている。学校教育において子どもが求められるものも、この論理的因果則にしたがった「情報」処理に依拠する思考と知識であり、それこそがものの心理や本質に到達する唯一の方法と信じられている(「カテゴリー的思考」ともよばれる)。

 Brunerは、人間の理解の様式としては、上の論理的因果的カテゴリー的思考とともに、それとは対照的な今一つの様式があることを強調する。それはものごとをナラティヴ的にストーリーの中に置いて「解釈」しようとする思考であり、それを「ナラティヴ的思考」とよぶ。

 Brunerによると、人間は理解(メタ化)の様式としてこれら二つの思考様式をもつとする。両者は発生的に別種のものであり、いずれか一方を他方に還元できるものではないが、両者は相互に補足しあい相互に強化しあって人間の知性や思考を支えあって来たのであり、さらに今後の新しい文化の形成にはその相互のより統合的な展開こそが不可欠と言う。そして先に述べたように、現代の教育では科学の名のもとに前者のカテゴリー的思考のみが重視され、後者のナラティヴ的思考様式の教育は等閑視されていることをBrunerは繰り返し憂えている。

 

P147

 ちなみに、思考の様式についての訳者の経験を加えるなら、知能検査の項目で、「魚・川・海」の三語を用いて一つの文を作る問題において、正答としては「魚ハ川ヤ海ニイマス」が予想されるが、案外多く出てくるのは「魚ガ川カラ海ヘオヨイデイキマシタ」や「川ノ魚ヨリ、海ノ魚ノ方ガ好キデス」形式の答えである。前者がカテゴリー的思考のはしりとするなら、後者は一つのナラティヴ的思考のはしりといえなくもない。

 

 →ナラティヴ的思考とは、論理的・因果的・カテゴリー的思考よりも、ありのままの事実や経験談を語るような思考と呼んだらよいか。ナラティヴにまったく論理性や因果律、カテゴリー的思考がないわけではないが、そういうものがまったく見られない語りもあるだろう。