周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

山野井文書17

   一七 来島通康假名書出(折紙)

 

   假名

         四郎

    永禄元年(1558)

      八月六日           通康(花押)

         (千ヵ)

        能美⬜︎壽丸殿

          (景秀)

 

 *書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

来島通康」─伊予河野氏の家臣で、来島水軍を率いた武将。

 

「仮名書出」

 ─「仮名(けみょう)」は、武士が実名の他につけた名前(『日本国語大辞典』)で、主君に当たる人物がその名を授けた文書のことと考えられます。

 

来島通康が能美千壽丸に四郎という名乗りを授けたのだと考えられます。

山野井文書16

   一六 大内氏奉行人連署奉書

 

 (景頼)

 父世次一跡事、今日(割書)「弘治貳十ノ廿一」任御判旨続之、弥

 可奉公之忠義之由、依 仰執達如件、

 

    (1556)            (小原隆言)

    弘治貳年十月廿一日        安芸守(花押)

                    内藤隆世)

                     弾正忠(花押)

        (景秀)

       能美万菊殿

 

 「書き下し文」

 父世次一跡の事、今日(割書)「弘治貳十ノ廿一」御判の旨に任せ之を相続せしむ、

 弥奉公の忠義を抽でらるべきの由、仰せに依り執達件のごとし、

 

 「解釈」

 父世次の跡目のこと。今日弘治二年十月二十一日の安堵状の内容のとおりに、跡目を相続させる。ますます奉公の忠節を人一倍あらわすべきであるとの仰せである。

 

 「注釈」

「世次」─八代能美景頼。

「弘治貳十ノ廿一御判」─15号文書。大内義長安堵状。

「能美万菊」─九代能美景秀。

山野井文書15

   一五 大内義長安堵状

 

          (義長)

          (花押)

 (景頼)              大内義隆

 父世次一跡事、任天文十四年五月六日龍福寺殿裁許同廿二年二月廿二日證判等之

     (景秀)

 旨、能美満菊相続不相違之状如件、

    (1556)

    弘治貳年十月廿一日

 

 「書き下し文」

 父世次一跡の事、天文十四年(一五四五)五月六日龍福寺殿裁許同廿二年(一五五

 三)二月廿二日證判等の旨に任せ、能美満菊相続相違有るべからざるの状件のごと

 し、

 

 「解釈」

 父世次の跡目のこと。天文十四年五月六日龍福寺殿大内義隆の裁許、同二十二年二月二十二日の證判等の内容のとおりに、能美満菊景秀の相続に間違いのあるはずもない。

 

 「注釈」

「世次」─八代能美景頼。

「龍福寺殿裁許」─未詳。大内氏奉行人奉書か。残存していません。

「同廿二年二月廿二日證判等」─未詳。陶晴賢の安堵状か。残存していません。

「能美満菊」─九代能美景秀。

山野井文書14

   一四 陶晴賢安堵状

 

 対縫殿允賢俊割分地之事、令易之房次々男万菊丸譲与之旨、

 令領掌訖者、早任先例知行可肝要之状如件、

    (1553)           陶晴賢

    天文廿二年三月廿日      尾張前司(花押)

 

 「書き下し文」

 縫殿允賢俊に対し割分地の事、之を改易せしめ房次次男万菊丸に対し譲与せらるるの

 旨、領掌せしめ訖んぬ、てへれば早く先例に任せ知行肝要たるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 縫殿允賢俊に対して分割した土地のこと。これを没収し房次の次男万菊丸に対して譲与されたことを了承した。というわけで、早く先例のとおり知行することが大切である。

 

 「注釈」

「縫殿允賢俊」─能美氏の一族か。陶晴賢から「賢」の一字をもらったのでしょうか。

「房次」─未詳。

次男万菊丸」─15号文書の説明注より、九代能美景秀か。

山野井文書13

   一三 陶晴賢加冠状

 

      加冠       賢次

    (1553)

    天文廿二年三月七日        晴賢(花押)

           (景頼)

         能美四郎殿

 

 「注釈」

「加冠状」─武士が元服して実名を名乗る場合、将軍、大名などから名乗りの一字を与

      えられる際の文書(『日本国語大辞典』)。

 

 *書き下し文、解釈は省略。

 *能美四郎景頼が、陶晴賢から「賢」の字をもらって、「賢次」と名乗ったものと考

  えられます。