周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

千葉文書(完)

千葉文書9(完)

九 毛利輝元書状(折紙) 爲二御音信一ねり酒両樽并蚫一折被二送越一候、懇志之段祝着候、則令二賞翫一候 恐入候、いつれも可レ申候、謹言、 (輝元) 正月廿九日 (花押) 神保源右衛門尉殿 「書き下し文」 御音信としてねり酒両樽并に蚫一折を送り越され候…

千葉文書8

八 小早川隆景書状(折紙) 追而鶴一羽差上せ候、一段新敷候、獵味之薬食別而祝着候、 (神保源右衛門尉) (包久景相) 神源右肝煎候由、神妙候、弥其心懸干要候、猶従二包次兵所一可レ申候、謹言、 十二月十六日 隆景(花押) 高又兵 神源右 「書き下し文…

千葉文書7

七 小早川隆景條々 ケ条 (鵜飼元辰) 一先度蔵田太郎衛門尉差上せ候、我々下向海上にて行違、伏見⬜︎候てう新ニ令二 対談一候而下向候、即可レ被レ下候處、彼是用段等一度ニ可二申下一と、 (神保弥三郎) 一日々々遅々候處、其後神弥兵上着、打続其表之趣追…

千葉文書6

六 豊臣秀吉朱印状 (継飛脚) つきひきやく壹人、大坂まて夜中ニよらす可二相届一候、然者御定のことく、 壹里ニ四文つゝ可レ遣レ之候也、 (1593) 文禄貳年六月廿九日 ◯ (秀吉朱印) ふか江 「書き下し文」 次飛脚一人、大坂まで夜中によらず相届くべく…

千葉文書5

五 小早川氏奉行人連署書状 神保五郎方愁訴之儀、當時無二御闕所等も一候へ共、㝡前御約束之由候、又旁以 御申之条、十貫文之地御打渡被レ遣候、此由可レ被二仰聞一候、恐惶謹言、 九月廿二日 春忠(花押) 景道(花押) (捻封ウハ書) 「 磯兼左近大夫 井…

千葉文書4

四 小早川氏奉行人連署書状 (端裏捻封ウハ書) (景道) 「 磯兼左近大夫 井上又右衛門尉 神保五郎殿 まいる 春忠」 (賀茂郡) 貴所御愁訴之儀、遂二披露一候、於二黒瀬表一先五貫文可レ被レ成二御扶助一候、在所 之儀可レ被レ任二御賦一候、恐々謹言、 二…

千葉文書3

三 小早川隆景感状寫 (安藝) (晴賢) 去朔日當國佐西郡厳島陶陣山斬崩時、敵一人討二捕之一、粉骨之至尤神妙也、 仍感状如レ件、 (1555) 天文廿四年十月廿一日 隆景〈御書判〉 神保五郎殿 「書き下し文」 去んぬる朔日当国佐西郡厳島陶の陣の山を斬り崩…

千葉文書2

二 神保房胤合戦手負注文 (證判) (大内義隆) 「一見候了、(花押)」 神保彦三郎房胤謹言上 欲下早賜二 御證判一、備中後代龜鑑上軍忠状事 (賀茂郡) 右去年天文五十一月七日以来、於二藝州平賀蔵人大夫興貞要害頭崎詰口一、郎徒 僕従被レ疵人数備レ左…

千葉文書1

解題 千葉氏は同氏の系図によると上総介忠常の後胤で代々下野国真壁に住んでいた。忠恒から十七代の胤季の子経胤の時に信州伊那へ移り、その地名から神保を称するようになったという。 永正のころ、信胤は安芸国へ移り、大内氏に、ついで毛利氏に属し、直接…