周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

養老著書

 養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社、2023年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第1章 ものがわかるということ

P18

 「同じ」という能力は交換を生み、お金を生み、相手の立場を考えるという能力を生み出します。

 

P20

 この他者の心を理解するという働きを「心の理論」と呼びます。発達心理学では「心を読む」と表現しますが、私は「交換する」と考えます。必ずしも心を読む必要はなく、「相手の立場だったら」と自分が考えればいいのです。

 この、自分と相手を交換するというはたらきも人間だけのものです。

 

P21

 心の理論が示すように、人間の脳は、できるだけ多くの人に共通の了解事項を広げていくように発展してきました。人間の脳は、個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質をもっています。だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性をもちます。論理に反することを、脳はなかなか受け付けないのです。

 私たちは生まれたときから、言葉に囲まれて育ちます。生まれたときには、すでに言葉がある。だから言葉を覚えていくということは、周りにある言葉に脳を適応させていくことにほかなりませせん。

 言葉は自分の外側にあるものです。私が死んでも言葉がなくなるわけではありません。脳は演算装置だとすると、言葉は外部メモリ、つまり記憶装置です。そこには文字によって膨大な記憶が蓄えられています。

 言葉だけではありません。言葉よりもう少し広い概念が「記号」です。絵画や映像、音楽は言葉ではありませんが、人に何かを伝える記号です。

 記号の特徴は、不変性を持っていることです。だから違うものを「同じ」にできる。「黄色」という言葉は私が死のうが残り続けます。

 でも、現実は変わり続けています。こんなことは昔の人はよく知っていました。「諸行無常」も「万物は流転する」も、変わり続ける現実を言い表した言葉です。

 しかしいまや、記号が幅を利かせる世界になりました。記号が支配する社会のことを「情報社会」と言います。記号や情報は動きや変化を止めるのが特注の得意です。

 現実は千変万化して、私たち自身も同じ状態を二度と繰り返さない存在なのに、情報が優先する社会では、不変である記号のほうがリアリティをもち、絶えず変化していく私たちのほうがリアリティを失っていくという現象が起こります。

 そのことを指して私が創った言葉が「脳化社会」という言葉です。

 

P24

 テレビだろうが動画だろうが、映された時点で変わらないものになる。それを見ている人間は、本当は変わり続けています。でも、「自分が変わっていくという実感」をなかなかもつことができない。それは、私たちを取り囲む事物が、情報や記号で埋め尽くされているからです。

 困ったことに、情報や記号は一見動いているように見えて、実際は動いていない。だから余計に、人間は自分の変化を感じ取りにくくなるのです。

 

P38

 (がんを)宣告され、それを納得した瞬間から、自分が変わります。世界がそれまでとは違って見えます。でも世界が変わったのではなく、見ている自分が変わったんです。つまり、知るとは、自分が変わることなのです。

 自分が変わるとはどういうことでしょうか。それ以前の自分が部分的に死んで、生まれ変わっていることです。

 

P47

 都会には人間の作ったものしかありません。人間の作ったものには設計図があります。子どもは違います。うちの子がなんだか変だと言っても、設計図がもともとないので、どこがおかしいのか、はっきりとわかるものではありません。

 その意味で、子どもは不合理な存在です。都会には不合理な存在を相手にしたくない人が大勢います。子どもをもう産みたくない。子どもを持ってもしょうがない。それが少子化です。

 

 

第2章 「自分がわかる」のウソ

P60

 日常言語の世界は、人間同士が意思を伝え合ったり、必要なことを教え合ったりするために発達してきました。だから相手がヒトではないとき、つまりものを相手にするのは苦手なんですよ。中世までの西欧社会は、自然は聖書に書かれたような世界だと理解されていたのです。だから大地が中心で、太陽が動くという天動説だったわけです。聖書は文字で書かれていますから、日常言語の世界ですね。

 

P63

 言語がそうであるように、こういったシンボルの体系は、特定のヒト集団に共有されます。それが共同体です。

 共同体は、言語、婚礼や埋葬その他の社会的儀礼、通貨などを共有します。それが、シンボルとシンボルの体系を共有するということです。こういった集団でシンボル体系を共有することを「共通了解」と呼ぶことにしましょう。

 さて、このシンボル体系には、一定の論理が備わるようになります。「人は死ぬ。太郎はヒトである。よって太郎は死ぬ」という三段論法は、言語に備わっている論理です。こうした論理を使うと、「論理的に」他人を説得することができます。論理や数学は、いやが応でも結論を認めざるを得ません。これを「強制了解」と呼びましょう。

 論理を用いた強制了解は、さらに進んで、証拠を集めるという形をとるようになります。観察や実験でこうなっているんだから正しい。これが自然科学です。証拠によって明らかにすることを「実証」と言います。大勢の人が、自然科学を絶対的な真理のように思うのは、「実証的強制了解」の力が働いているからです。

 こうして見ると、文明はまず言語などのシンボルによる共通了解に始まり、それから論理・哲学・数学による強制了解、さらに自然科学による実証的強制了解へと進んできたと言えるでしょう。

 

P68

 しかし、ロックは、自己は身体を含まないと考えます。ロックだけではありません。西洋文明では、かなり前から「自分は身体ではない、身体は自分ではない」と思ってきました。

 なぜでしょうか。西洋はキリスト教世界で、キリスト教では霊魂不滅だからです。霊魂は身体ではなく、身体は霊魂ではない。身体は霊魂の仮の住まいなのです。

 霊魂が不滅でないと、神様は最後の審判ができません。神様も困るはずです。それなら「永遠に変わらないものとしての魂」がなければなりません。だから「変わらない私」「自己同一性」が暗黙の前提とされているわけです。

 こうした思考の枠組み、キリスト教だけではなく、イスラム教、ユダヤ教にも共通しています。現代人が宗教なんて本音では信じていないとしても、こうした文化的な伝統は簡単には変えられません。西洋の「近代的自我」というのは、中世以来の「不滅の霊魂」を近代的・理性的に言い換えられたものでしょう。

 

P74

 私は情報化社会という言葉を、違った意味で使います。人間自体が情報になったのです。情報化したのは人間です。前章でも情報は「変わらない」と書きました。「同じ私」とは、変わらない私です。変わらない私とは、情報としての私です。

 

P75

 人間が変わらなくなった社会で、一番苦労するのは子どもです。なぜか。子どもは一番速やかに変化する人たちだからです。育つ、つまり変わっていくこと自体が、言ってみれば、子どもの目的みたいなものです。

 ところが情報化社会になると、情報はカチンカチンに固まって止まっていて、子どもまでも固めてしまう。その延長で、個性を伸ばせとか、自分を探せとか言われてしまう。そんな自分なんてあるわけありません。だって探している当の自分がどんどん変わっていくんですから。

 

P76

 じゃあ、個性って何なのか。個性を伸ばす教育とはどういうことでしょう。

 誰だって、あなたを他人と間違えません。そそっかしい人なら別ですが。どうして間違えないかというと、顔が違う、立ち居振る舞いが違う、つまり身体が違うからです。(中略)

 だから個性とは、実は身体そのものです。でも普通は、個性とは心だと思われています。ここに大きな誤解があります。

 

P78

 心とは共通性そのものです。こう言うと、多くの人がポカンとします。心は自分だけのものだと思っているからです。

 でも、心に共通性がなかったら、「共通了解」は成り立ちません。私とあなたでは、日本語が共通しています。共通しているから、「お昼を食べよう」と私が話せば、あなたがそれを理解します。話して通じなかったら、話す意味がありません。通じるということは、考えが「共通する」ということです。

 ということは、心は共通性をもたないと、まったく意味がないことになります。感情だって同じです。自分の悲しみを伝えても通じなかったら、とても寂しくなります。自分が悲しいときに、友だちも悲しがってくれる。自分がうれしいときに、友だちもうれしがってくれる。これが「共感」です。感情も共通性を求めるのです。

 私の個性は私だけの考え、私だけの感情、私だけの思いにある。ここに大きな誤解があります。心に個性はありません。他人に理解できないことを理解し、感じられないことを感じている人がいたら、それは病気です。

 

P79

 じゃあ、個性とは何か。個性とは身体です。身体は個性だっていうのは、大谷翔平選手を見れば、すぐわかる。大谷選手の身体を真似することはできませんから。(中略)

 脳はどうか言えば、脳自体は身体ですから、個性があります。ところがその脳のはたらき、特に心と呼ばれるはたらき、要するに意識のはたらきは、共通でなければどうにもなりません。だから意識や心は「同じ」なんです。(中略)

 他人に通じない考えを自分がもっていても意味がない。どうしてこんな当たり前の常識が通らないのか。心に個性があるなんて思っているから、若い人が大変な労力を使うわけです。自分は人とは違う、個性がある、そういうことを証明しようとする。空回りするに決まっています。

 

P83

 日本の古典芸能を習ったら、本当の個性がどういうものか、よくわかります。なぜなら、師匠のする通りにしろと言われるからです。茶道も剣道も同じです。謡を習うなら、師匠と同じように、何年も「うなる」。同じようにしろという教育をすると、封建的だとか言われましたから、こういう教育はずいぶん廃れてしまいました。

 でも、十年、二十年、師匠と同じようにやって、どうしても同じようにはなれないとわかる。それが師匠の個性であり、本人の個性です。そこに至ったとき、初めて弟子と師匠の個性、違いがわかる。そこまでやらなきゃ、個性なんてわかりません。他人が真似してできるかもしれないことなんて、個性とは言えませんから。

 

  マニュアル人間が生まれた背景

P88

バカの壁』(新潮新書)にも書いたことですが、こういう奇妙奇天烈な要求の結果、「マニュアル人間」が大量に生まれました。というより、「求められる個性」を発揮しろという矛盾に対応しようとしたら、マニュアル人間になるのが最適なのです。

 マニュアル人間は、組織の求める個性がインチキであることをよくわかっています。だから、「私は、個性を主張するつもりはありません。マニュアルさえ示してくれれば、その通りになんでもやります」と、自分の汎用性をアピールします。

 しかし、このように言う人は、自分に個性がないとは思っていない。本当の自分はあると思っている。「本当の私はあなたたちにはわかりません。だから、あなたがマニュアルを示してくれれば、それに従います」。こういう態度ですから、マニュアル人間と自分探しをする人は、別人種ではありません。組織では本当の自分が発揮できない。だから、組織の中ではマニュアル人間として振る舞い、別のところで自分を探そうとするわけです。

 

P96

 「やらなきゃいけないこと」が否定的に感じられるとしたら、それも個性尊重のまやかしです。やらなきゃいけないことをやっても、個性は伸びない。そう思うから、自分の好きなことをやりたがる。でも、「型」なんてやらなきゃいけないことの連続です。

 やらなきゃいけないことをやり続けると、型が身につく。何かが身についたら、自分は変わります。身体が個性なんですから、当たり前です。

 仏教の修行もそうです。比叡山の「千日回峰行」というのがあります。(中略)

 走り回ったあげくの果てに、本人が変わります。修行の後にできあがる唯一の作品が、大阿闍梨本人なのです。修行を無益だと思う人は、そこを忘れています。芸術家なら作品ができるし、大工なら家が建ち、農民なら米がとれる。しかしお坊さんはそのどれでもありません。それなら何をするのかと言えば、「自分を創る」のです。(中略)

 千日回峰行をする前と後で、本人がどこかしら変わる。それだけのことですが、人生とは「それだけのこと」に満ちています。私は三十年、解剖をやりましたが、それも「それだけのこと」です。

 「それだけのこと」を続けていくと、自分は変わる。そうやって変わる自分を創っていく。自分とは「創る」ものであって、「探す」ものではありません。それが大した作品にならなくたって、仕方ない。そもそも誰が「大した作品」かどうかを判断するんでしょうか。そんなこと、神様にしかわかるはずがありません。

 それがわかったら、個性とか、本当の自分とか、自分に合った仕事とか、つまらないことは考えないほうがいい。どんな作品になるかはわからなくても、ともかくできそうな自分を「創ってみる」しかありません。そのために大切なことは、身体の世界や感覚の世界、つまり具体的な世界を身をもって知ることである。そこで怠けると、後が続きません。

 

P98

 時々、知らない世界を見ることが、未知との遭遇だと思っている人を見かけます。コロナ前には、外国に「自分探し」に行く人もいました。日本が既知で、外国が未知なのではありません。「自分は同じ」と思っているから、日本にいるとなんでも同じに見えてしまう。それで「退屈だ」とこぼすのです。

 でも、自分は同じだと思っている人が外国に出かけても、大した未知との遭遇はできません。そのくらいなら、何も考えずに出かけていったほうがいい。知らない環境に入れば、自分が変わらざるを得ませんから。

 「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見ます。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさにいうなら、世界全体が違ってきます。だから「面白い」のです。つまり「未知との遭遇」とは、新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではありません。新しい自分との遭遇は、自分探しではありません。そこを誤解すると、見知らぬ場所で、確固とした自分を見つけようと無理をすることになります。

 自分を創りたかったら、自分で自分を変えればいい。それは別に外国じゃなくたってできることです。どこにいたって、新しい自分と出会って楽しむことができる。

 なぜ「私は私、同じ私」でなきゃならないのか。そんな「私」なんか、どこかに捨ててしまったほうが楽ちんです。

 

 

第3章 世間や他人とどうつき合うか

P126

 私は講演でよく、こう話しかけます。「皆さん一人ひとりが見ている『養老孟司』には、一つとして同じものはありません」。座っている場所も違えば、見ている人の背の高さも違うのだから、当然です。ところがそのように「違う」ことを忘れてしまっている人が多い。感覚が鈍るとはそういうことです。

 

P128

 SNSには身体がありません。純粋脳化社会です。身体がないので、言葉、概念だけでコミュニケーションをする。概念の力は「同じ」をつくることです。違いは認めない。SNSはそのものじゃないですか。

 一方で、身体や感覚がないのだから、言葉のありがたみがわからない。だから粗末な言葉、乱暴な言葉を出すことにも躊躇がありません。目の前に相手がいたら言えないことも、平気で言えるのがSNSでしょう。

 

P131

 都会には人の作ったものしか置いてないので、何か不愉快なことが起これば他人のせいになりやすい。SNSはなおさらです。不愉快なことがあったら、他人の言葉のせいになる。

 石につまずいて転んでも自然のことだから仕方がないとあきらめたら楽なのに、あきらめなくなりました。あきらめなくなったから、いつまでも執着する。感覚が働かないので、つかず離れずという距離感をつかむことができないのです。

 

P135

 人間は、人の世界と物の世界を行き来することでバランスを保ってきました。「対物の世界」を遠ざければ、「対人の世界」ばかりに目が向くのは当然です。それでは煮詰まって、感覚が干上がってしまいます。

 虫と付き合ってしばらくすると、今度は人の顔も見たくなってくる。一週間虫を眺めていたら、さすがに人が恋しくなってきました。返事がくるのがありがたい。そのくらいのバランスでいいんです。

 

P137

 対人の世界でも対物の世界でも、多様な場所に身を置けば、何事も自分の思い通りにならないことがわかります。世の中には思い通りにならないことがあることを知る。それが寛容の始まりです。

 自分も変わっているし、相手も変わっている。変だと思ったら、それは自分が変なのか、相手が変なのか、どちらかです。だけどいまの人たちは「相手が変だ」と言うほうが多い気がします。自分は変わらないと思っているからです。

 それを「不寛容」と言います。「何かおかしい。変なのは俺じゃない、こいつだ」となって、相手を排除しようとする。不寛容の極みです。もしかしたら、変なのは自分かもしれない。それを忘れて、自分のモノサシを固定化した瞬間、人は不寛容になります。

 

 

第4章 常識やデータを疑ってみる

P140

 数年前、銀行に行って手続きをしようとしたら、本人確認の書類提出を求められることがありました。私は運転免許を持っていないし、病院に来たわけじゃないから健康保険証も持っていませんでした。(中略)ここにいるのは間違いなく養老孟司なのに、なぜ養老孟司と認識されないのか。いったい「本人」って何でしょうか。

 それから数年して答えが出ました。本人は、いまや「ノイズ」です。本人の情報さえあればいいんです。本人確認の書類をロボットが持ってきたらどうするのか。たぶん、それでもいいんでしょう。生身の顔色や機嫌、声、匂いなど、すべてが感覚所与、つまりノイズなのです。

 

P141

 会社で同じ部屋で働いているのに、上司や同僚にメールを送り付けるのも、ノイズを排除したいからです。人間もコンピュータに近づいてしまっているから、ノイズが入っていると処理しきれない。だから生身の人間とつき合うのが苦手になっていく。結婚しない人が増えているのも当たり前で、結婚はノイズと障害を共にするようなものです。少子化も同じ理由です。子どもはノイズそのものですから。これが現代の脳化社会、情報化社会の実情です。

 

 →この際のノイズは、嫌悪の感情や理解度確認の手間などを指すか。

 

P142

 ウソは三つの段階で生まれると考えています。第一段階は記号化する段階です。典型的なのは捏造です。意図的にウソをつくる。現代では写真や映像も簡単に加工できますから、記号化する段階でウソをつくりやすくなっています。

 第二段階は、記号化した情報を発信・受信する段階です。新聞であれ、テレビのニュースであれ、そこで扱える分量には制約があります。だからそこで発信する情報の取捨選択が行なわれる。これはふだんの会話でも同じです。私たちは、自分の身に起こったことをすべて話すことなんてできません。何かを話す際には、どの情報を話すかを判断しているわけです。

 (日中戦争時)中国での戦闘ばかりを報じた新聞もこの第二段階にあたります。限りある紙面を中国での戦闘記事で埋め尽くすことで、これ以上に重要な事件はないというメッセージを発信している。こうやって情報を流すか流さないかということ自体に込められるメッセージを「メタメッセージ」と言います。メタメッセージもまた、何かを強調しすぎたり隠したりするために、ウソが生まれやすくなります。

 情報を受信する段階では、受け取る人の脳のバイアスがウソを生み出します。たとえばトランプ支持で固まっている人は、自分の好きな情報しか受け取りません。トランプに不利になるような情報は「ウソ」だと判断する・現実であろうがなかろうが、本人の受け取り方しだいでいくらでもウソは生まれます。

 

 →情報を好意的に伝えるか、悪意をもって伝えるかもメタメッセージ。

 

P150

 第三段階は、無意識のレベルで生まれるウソです。意識は記号化できないものを無視します。記号化できるものだけを現実や事実と認定するのですから、具体的な状況が抜け落ちてしまいます。だから、言葉や数字にすること自体でウソが生まれやすい。

 

P151

 そもそも意識は、外の世界を把握するためのものなので、自分の身体の内側のことや内面については何もわかりません。そのくせ、意識は自分が一番偉いと思っている。自分の身体や内面については見て見ぬふりをするのだから、ウソが生まれやすくなるのは当然です。

 こんなふうに考えると、誰だって本当のことばかりでなく、ウソを言っていることになります。だからニュースはすべてフェイクだと思っているくらいが安全です。それで初めて自分の頭で考えることになるのですから。

 トランプのようにフェイクが大好きで、フェイクをどんどん利用しようとする人がいたとしても、受け取るほうが騙されなければいいんです。政治家からすると、そうした頭が冷えている人たちが一番扱いにくい。フェイクを発信する人の意識を削ごうなど、そちらに目線を向けていると同じ土俵に立たされてしまいます。周りがそれを情報として受け入れなければ、広がることはありません。関係ないよと、そっぽを向いておくのが一番いいんです。問題はあなたにあるでしょう、ということです。

 

P157・後ろから3行目

「〜と考えもいいでしょう」は「〜と考えてもいいでしょう」の誤植。

 

P168

 AIが人間に似てくるという人は、人間は融通が利く生き物だということを忘れています。機会は融通が利きませんから、人間が機械に似てきている。融通を利かせながら、融通が利かなくなっているのが現代人です

 

 

第5章 自然の中で育つ、自然と共鳴する

 

P174

 都市化する以前、人間は自然と共存していました。自然と共存するとはどういうことか。自然と聞いて人々がまっさきに思い浮かべるのは、屋久島の原生林や白神山地のようなイメージかもしれません。人間とできるだけ関わりのないところ、人間の手が入ってないところというイメージです。

 しかし、本当に人間と関わりがないのなら、そんなものあってもなくても同じではないか。人間と関わりがなければ、自然と人間は断絶することになります。でも、日本人の自然に対する感覚はそれと違う。日本人の根っこには「自然と折り合いをつけるもの」という感覚がある。これは自然を相手として認めているということでもあります。

 

P188

 動物が全部絶対音感であるということは、人間の赤ん坊も絶対音感をもっています。でも多くの人は、それを失ってしまう。耳の中で同じ場所が振動しているのに、それを無視するようになってしまう。これが相対音感です。

 なぜそうなのか。言葉が関係しています。お母さんが高い声で「太郎」と言って、お父さんが低い声で「太郎」と言っても、同じ自分のことだとわからないと言葉が使えません。人間は言葉を扱う便宜上、できるだけ音の高さを無視して、同じ音、言葉だというふうに聞くようになったんです。そのためには絶対音感をなくしたほうが有利になる。音楽家絶対音感をもち続けている人が多いのは、小さいときから楽器訓練をして、動物的な耳の感覚を保ち続けているからでしょう。

 

P194

 「手入れ」は相手を認め、相手のルールをこちらの脳の中に取り込んでしまうことです。相手を自分の脳で理解できる範囲内のものとして捉え、脳のルールで相手を完全に動かせると考えるのがコントロールです。

 しかし自然を相手にするときは、そんなことができるはずがありません。虫を追いかけているのも、虫がどこにいて何をしているのか、自分の脳がすべて把握できるわけではないからです。相手を自分の脳を超えたものとして認め、できるだけ相手のルールを素人する。これが自然とつき合うときの、一番もっともなやり方です。

 

P206

 私は、五感で受け取ったものを絵や詩に表現し、情報化できる人がたくさんいる社会が健康だと思うのです。

 この「情報化」は、情報処理とは違います。情報処理は、すでに情報になっているものをどう速く処理するのかということです。たとえば、大学入試のセンター試験(現・大学入学共通テスト)は、情報処理が速い人が有利です。

 社会が近代化するにつれ、情報処理のスピードが求められる一方で、丁寧に情報化する作業を切り捨てるようになっていきました。だから私は、山に行け、田舎に行けというのです。