2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧
解題 この神社は天平元年(729)宇佐より八幡を勧請したのにはじまるという。また鎮座地は神功皇后西征の時に船をつないだ長井浦であるとの伝説もある。隆景時代に小早川氏から厚い保護を加えられていたが、現在も三原の大氏宮で、東野、山中両村と東町の…
『徒然草』第百十五段 (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、182頁) 宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねけれ…
『徒然草』第九十三段 (『日本古典文学全集27』小学館、1971年、166頁) 「牛を売る者あり。買ふ人、明日その値をやりて、牛を取らんと言ふ。夜の間に、牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。 これを聞きて、か…
解題 この寺はもと新庄(竹原市)にあった。正嘉二年(1258)沼田小早川茂平の二男政景が竹原小早川氏を起こして以来、同氏の菩提所となり、初代政景から十二代興影までを葬った。 往昔は天台宗であったが、天文十八年(1549)、洞雲寺(佐伯郡廿日…
寛正三年(1462)五月二日条 (『経覚私要鈔』5─288頁) 二日、丙申、天曇、 (中略) (成身院) 一随身院経誉僧都来、語申云、相国寺内より障子ノ勢ホトノ物光テ西ヲ指飛、此条 (×入) 可申入欤如何哉之由、面々談合之処、不申入者不可然之由面々…
三 小早川隆景自筆書状 寔ニ夕部は参申承候、本望候、御煩ニいよゝゝよく候て、しかるへく候、 此かけかう唯今調合候間、進之候、委細者外記可申候、かしく、 九月三日 隆景(花押) (捻封ウハ書) 「 御返事 申給候キ」 「書き下し文」 寔に夕部は参り申し…
「宗行の郎等虎を射る事」『宇治拾遺物語』巻第十二・第十九話 (『日本古典文学全集』二八、小学館) 今は昔、壱岐守宗行が郎等を、はかなき事によりて、主の殺さんとしければ、小舟に乗りて逃げて、新羅国へ渡りて、隠れて居たりける程に、新羅の金海とい…
解題 天正五年(1577)、小早川隆景は実父母である毛利元就夫妻の年忌にあたり、沼田新高山城の南麓に雲門山匡真寺を建てたのが、当寺のおこりである。隆景は三原移城に際して現在地へ当寺を移させた。 福島氏が入部するや養山和尚が住職を仰せ付けられ…